森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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 ただ一言、名を呼べば良いだけ。
 そうは思っても、閨の相手に容姿の美しさを求めるのは無論だが、さりとてそれだけでは物足りないと感じてしまう難しさもあった。

 今、最も閨に呼びたいのは乱法師で間違い無いが、相手をさせるにはまだ早いと己自身で戒めているのだから、これ程駄目な相手もいなかった。

 世の様々な物を手中にしたいと願い、それが叶えば今度は簡単に得難い物が欲しくなる。
 彼自身の欲望を止められる者は此の世で今や己しかいない。
 その戒に逆らいたくなる己との戦いで、益々欲望が昂ってしまうのだから困ったものだ。
 
 中々寝付け無いのは蒸し暑いせいだと強引に思い直し、不寝番の小姓に扇がせようと身を起こした時、胸にずきりと痛みが走った。
 胸を押さえて一瞬うずくまる。

 痛みは直ぐに治まったが、冷たい水が呑みたくなり小姓を呼んだ。

「角蔵!水が飲みたい」

 今宵の不寝番、側近菅屋長頼の息子の角蔵に命じた。

「はっ!ただ今お持ち致しまする」

「うっう」

 角蔵が腰を上げた途端、突然信長が頭を抱えて苦し気な呻き声を洩らした。

「如何なされました!上様!上様! 」

───

 パカッ パカッ パカッ

 夜の静寂に響く馬蹄の音。
 今宵の都はやけに騒々しい。

「ええ?あっちで化け物って」

「沢山の鬼が出たってさあ。ともかく皆、戸を閉めて震え上がってるってよ!」

「本当なのかい? 」

「ともかく朝までじーっと家の中で大人しくしといた方がええ」

 そんな都人達の交わす声が、必死に馬を駆る吉田兼和の耳に入ってくる。
 兼和が向かっているのは、信長でも御所でも京の治安を守る京都所司代の元でも無い。

 都への入り口の一つ、粟田口である。
 吉田神社からは直線距離で一里にも満たない。
 馬ならば四半刻も掛からない距離だった。

 安土城を築き始めた信長の威光と京都所司代に任じられた村井貞勝の力で、夜更けでも安土から都までの道は、この時代にしては治安が良かった。

 兼和は粟田口近くに建つ薄汚い小屋の前で馬の手綱を引いて止めた。

 ドンドンドン

 急いで馬から飛び降り小屋の戸を叩く。
 布に包んだ屏風を忘れずにしっかり背負って来たところは流石である。
 どんなに動じていても生き残る事に関しては何処までも貪欲な男なのだ。

 戸は訪れを待っていたかのように直ぐに開いた。

「兼和様!入っとーせ」

 キキィッキッキッキー

 出迎えたのは数匹の猿と、猿曳の六助だった。

「六助え、大変な事になってしもうたんや。何とかしてくれえ」

 身も世もなく六助に泣き付いた。

「不穏な空気は感じちょりましたが、一体何が?話しとーせ」

 兼和は背負った布を床に下ろすと屏風を直ちに開いた。
 願い虚しく、屏風は今も白紙の儘だった。

 それにしても、殿上人たる身分の兼和が訪ねるには相応しくない、みすぼらしく獣臭い小屋である。
 しかし今は却ってそれが有り難い。
 何故なら、失禁した後衣服を着替えずに駆け付けた為、夜風で多少は乾いたとはいえ、未だ湿り気を股間に感じていたからだ。

 兼和は事の経緯を話し始めた。
 
「儂は信長公の家臣、明智日向守と懇意にしておる故、祈祷を依頼されたんや。邪気を感じるから祈祷して欲しいて。それがそれが、邪気どころかほんまの……」

 そもそも兼和が何故六助を知っているかというと、六助が都に出て来て真っ先に訪ねた先が吉田神社だった。
 それは土佐の物部村の信仰、いざなぎ流が吉田神道から派生し、その形式を色濃く受け継いでいたからである。

 いざなぎ流の祭文、法文、御幣等には神道、或いは陰陽道、密教等の影響が見られるが、それは遡れば、色々な宗教の良いとこ取りをした吉田神道を祖としているからなのだろう。

 破門されて村に居づらくなった六助は、頼る者とてない都で、己の信仰の元に辿り着いた。
 兼和にとっては、始めは山奥から出て来た薄汚い下賎の者に過ぎなかったのだが、六助の話しを聞くうちに、いざなぎ流として形を変え伝わる吉田神道の流れの末に興味を持ったのだ。

 聞けばいざなぎ流は、他の宗教の上辺だけを模倣して大成した吉田神道とは異なり、呪術的な要素が強く邪気を祓う事に重きを置いているように思えた。

 かの有名な陰陽師安倍晴明の時代には政敵を呪う事は珍しくも無かったが、戦国時代ともなれば朝廷内よりも武将同士で密かに怨敵調伏を行う方が多かったのだろう。

 兼和のように敵を倒す祈祷では無く先勝祈願と言い方を変えれば、かなり意図も狙いも柔らかくなり、その効果に対する期待値は曖昧で、士気を高める形ばかりのものと、依頼する側も何処かで割り切っているようなところもあったのかもしれない。
 だからこそ、此度のような真の怪異が都で起こっても、退散させ得るだけの呪術師が、おいそれとそこら中にいる訳が無かった。

 故に世俗とは切り離された土佐の山奥で受け継がれた神秘の術、いざなぎ流を継承する者と見込んで六助の元に駆け込んだのである。

「屏風から化け物が出て来て都の民を脅かしちゅーと? 」

「そうや、何とかしてくれ!屏風に戻すか化け物共を一人残らず退治するか。ともかく偉いこっちゃ。儂にはどうしてええんか。もう……」

 情けない己の姿を顧みている余裕など無い。 

「この屏風は呪具の役割を果たしちゅーようや。元の持ち主、果心やったか。その男が呪術を使い、怨みを塗り込めた物でございましょう」

 動じる兼和に対して六助は冷静だった。

「なっ!では上様を呪う為に最初から?偉いこっちゃ!早速果心を引っ捕らえ、待てよ……果心はもう死んでるんやぞ! 」

 兼和は顔面蒼白である。

「いや、先ず端から上様を呪おうとした訳じゃないろう。ただ呪具として使える事も考えながら生き物の血や臓物と共に塗り込んだ事は間違いねえ。魂が籠った絵は、幻術と呪術双方の力で生々しゅう目に映るのは当たり前でございます。ただの幻ではのう、呪力で屏風に籠った魂が動いちょったと申せば分かり易いろうか。」

 キキッキウキッッ

 小猿の藤吉郎が己には関係無いと言わんばかりに無邪気に六助の腕にじゃれついてくる。

「くっ!ともかく、何よりも大事なのは抜け出た化け物共を何とかする事や!早うしいひんと!何処行く気や?あ奴等、儂にも町民にも目もくれんで一体何処へ? 」

「多分……上様の所だと思います」

「なっ何やて?ひーーあんな化け物が上様の所にわんさかって──偉いこっちゃあ!何とかせえ。頼む!何とかしてくれえ」


 最早兼和は動転し過ぎて口から泡を吹いて失神寸前であった。
 それでも彼の場合、化け物の事で慌てているのか信長の怒りを恐れているのか良く分からなかった。

「めえったなあ。所詮は半端もんで、無理やよ。赦されん。太夫(いざなぎ流の祭儀や祈祷を執り行う神主)でもないのに……」

 六助は甘えてじゃれ付く藤吉郎を抱き、頭を撫で餌を食べさせてやる。
 朴訥な顔に穏やかな声音で申し訳無さそうに断る様子は、少し贅沢な品を贈られて困っている程度の場面にしか見えなかった。

 ダンッッ  

 キキイーギキイーギャッギキ

「此処は物部村ではあらへんのや!天下を揺るがす一大事やぞ!出来るのんはお前しかいーひんのや。破門なんぞ儂の力で取り消したる。日の本中の神主決めるのんは儂や!御前の主、いや、今の師匠は誰や?儂やろ?命令や!今すぐ何とかせえーー」

 六助の態度に苛立ち立ち上がって床を荒々しく踏み鳴らし、珍しく大きな声を上げた。

 驚いた藤吉郎は六助の腕をすり抜け、小屋を支える柱を器用によじ上り、高い所から二人のやり取りを見守る事にしたようだ。

 手に余る仕事を引き受けた挙げ句失敗し、その尻拭いを下の者に押し付けているだけ。
 分かり易く言えばそんな場面なのだが、兼和は確かに六助の主だった。

 吉田神道がいざなぎ流にとっての本家本元だからでは無い。 
 六助は吉田神社で下男として雇われているのだ。

 猿曳の芸は人気で常に盛況だが、嘗て物部村で太夫という神職を一度でも志した身故に、神社で働かないかと持ち掛けられ、有り難く仕えさせて貰う事にした。

 そういう意味では恩人でもあった。
 その恩人が目に涙を浮かべ、卑しい自分に頭を下げんばかりに懇願している。

「六助、お前は半人前どころか一人前以上やろう。そやから破門されたんやろ?物部村にいる太夫の中で、お前程力のある者は他におらん筈や」

 いざなぎ流では師に弟子入りし、『許し』という儀礼を経て一人立ちする。
 多くは口伝であり、一人の師に学ぶのが原則である。

 だが六助は禁を破った。
 それがばれて破門されたのだ。

 師から正式な許しを得てはいないが、知識と技術だけならある。
 兼和が今の自分の師であり主、そのような道理以上に純朴な彼の心を動かしたのは、困っている恩人を見捨てられないという優しさだった。

「分かった。ともかく化け物共をその儘にしちょく訳にはいかんき」

「おお!承知してくれるか?して、どう戦う?出来る事があれば手伝おう」

「今は無理や。全然準備が出来てねえし正体も分からん相手でございますき。ただ化け物達は見た目は恐ろし気でも、獣の霊を式神のように使うちゅーだけや思う。そいつらだけなら倒すか、この屏風の中に戻し閉じ込め祓う、というやり方で何とかなるんじゃねえかと」

 六助の言葉は頼もしかった。

「良し!では、何から始めればええんや? 」

「まず米だな。この屏風に絵を戻したいんやろう?全部をこの中に戻せるか分かんねえし、戻した所で屏風は残しちょかねえ方がええき、上様が納得するか分かんねえけど。屏風を『みてぐら』に見立てちゃるしかねえ」

 御手楽《みてぐら》とは祭壇と神に捧げる供物の総称だが、いざなぎ流の場合は邪な物を集めて封印する為の道具を意味する。

 六助と兼和は二人で祭壇作りの準備を慌ただしく始めた。

 丸い桶に一斗二升の米を入れ、そこに大荒神、山神、水神、すそ、四足、六道、天下正、真ん中に高田王子という呪詛を封印する為の御幣を立てる。

 これらの御幣は獣の霊、邪心、疫病神、死霊を表す御幣である。

 更に鎮めの呪具である『関の小刀』の刃を上に向けて、そこに差す。
 御手楽《みてぐら》は藁で作った円形の輪に御幣を立て、花べらという紙の中に米を投げ入れて邪な物が集まるよう祈るのだが、真ん中に屏風も置いた。
 それと注連縄を自分達の周囲に張り巡らし、乱法師にも渡した十二のひなごを東西南北に掛けて結界とする。

 神道で使う大幣《おおぬさ》のような物を手に持ち二人は御手楽と法の枕の前に座した。

「猿神を主に式として打ちます。儂は猿曳なんてやっちゅーき、猿とは相性がええんや。その前に『穢らい消し』しねえと」

 六助はそう言うと呪文のようなものを唱え始めた。

「婆日羅咤《ばさらだ》やぁ──これ、天竺天の小鍛冶べざい天神様が七日の干の物たちで延させ賜うた関の小刀行い下ろいて如何なるえげ浄、不下浄悪事、穢らい不浄は天地四方へ切りや祓わせたまえばァ──あびらおんけいおんそばかぁ」

 いざなぎ流には表式と裏式、それに応じた祭文と法文とがある。
 表の祭儀で唱えられる祭文と、式を打つ裏の呪詛返しや、相手を攻撃する式法で唱えられる法文である。
 表と裏では内容は異なるが、式法は祭儀の前の取り分け儀式にも似ている。
 取り分けとは祭りの前にあらゆる穢れを取り除く祈祷のようなものである。
 穢らい消しとは、太夫自身を浄め守る為の唱文なのだ。

 唱文の後は、結界を張る十二のひなごへ祈りを捧げる。

「十や二人の小みこが降り遊ぶゥ注連より内は神のまどころ御ござどころ 注連より外になるなればァ寄りのだんぬしだんだんぬしィ、防ぎたまえや小みこ達、防がせたまえや小みこ達ィ」

 自身と周囲の防御を固めたら、いよいよ式を打ち、果心の式神と化した鬼、魑魅魍魎達を攻撃し、屏風に戻す番である。

「藤吉郎!此処に来い! 」

 柱を上り天井の梁の上で木の実を食べていた藤吉郎がするすると下りてくる。

「この猿を一体どうすんのや? 」

 兼和が心配そうに訊ねたのは、生きた猿を式神として放つ、或いは最悪生贄にでもするつもりかと考えたからだ。

「山の神さわら式で山の神と御眷族をお呼びして、けみだし式で御力をお借りし相手の式神を滅すか鎮めて屏風に呼び戻す。藤吉郎も山のものやき、こいつが側におった方が山神様達も御力貸してくれるろう思うただけでございます」
 
 六助が言う『けみだし敷』とは山の神を召喚する法で、召喚した山の神を『さわら敷』によって使役し呪う相手を滅っするのである。

「東方三万三億三百三十三億 天の山に三万三億三百三十三社の山の神白髭大明神───八方八剣まな敷の大神七つのまないたをしたてどごんつるぎィけみだし敷の大神様を一時半時に行招じ参らするゥおり入り用向なされ御たび候へェ」

 小屋が大きく軋み、風で御幣が靡く。
 
 兼和には何も見えなかったが、大きな力の存在を感じ身体に電流が走ったような衝撃を覚えた。
 様々な形の御幣を依代に、それこそ三万三億三百三十三億もの山の神達が降り給うたのだろうか。
 御幣で象られる山の神達は異形で、人の目から見れば妖怪に等しい。

 妖怪と邪神は真に見分けがつきにくい。
 いや、そもそも同じ者なのかもしれない。

 六助の目には異形の山の神達の姿が映っているのだろうか。
 召喚し終えたとみるや、次はさわら敷の法文を声高に唱える。

「東東方山の神大大神の宮社の内さわらの敷───開けたまなこはふさかせん あげた足は下ろさせん 踏んだ爪は抜かせんぞゥ即滅そばかぁ」

 髪や着物が風ではためき乱れる。
 小屋中をぐるぐる渦巻いていた風が、一気に上に向かって吹き上がったように見えた。

──

「早く医師を呼べ!」

 小姓達が呻く信長を支え甲斐甲斐しく汗を拭う。
 信長の額には細かい汗の粒が吹き出し、頭痛と胸の痛みのせいか顔色が悪い。

 常に頑健で病むという事が似つかわしくない主の突然の急変に、側近達の顔にも不安の色が滲んでいた。

 乱法師は信長の身を案じながらも命じられ、数名の小姓や馬廻り衆と共に警護の侍達の詰所に向かっていた。
 表玄関に近付くにつれ、悲鳴のような声まで聞こえ、思わず腰の太刀に手をかける。

「一体何者じゃ! 」

 共に行動していた馬廻り衆の団平八が誰何するが、それに対する応えは悲鳴とざわめきだけである。
 その場にいた十名程の小姓や馬廻り衆は、とうとう全員太刀を抜いた。

『槍を持ってくれば良かった! 』

 只事では無い。
 邸内の警護の者は百名以上はおり、中間衆も含めれば数は揃っている。
 信長の命を狙う輩ならば、表玄関から入って討ち果たそうとするなど無謀過ぎる。

 下級武士達の喧嘩としか思わなかったのだ。
 何が起きているのか。
 一同緊迫した面持ちで、燭台の灯りで照らしながら声のする方に移動する。
 数名の者が持つ燭台の揺れる炎のみでは一度に照らす範囲は限られ、室内は常に暗闇の方が多い。

 異臭がした。

「うげげぇげぇへぇぎゅぅっう」

 人の叫びなのか得体の知れぬ獣の呻き声なのか。

 生臭い匂いに鼻を摘みたくなった。
 乱法師も良く知る匂い。
 
 死臭だ──

 正確に言うなら血や臓物、尿や糞便、汗。
 戦意を削ぐ悍《おぞ》ましい気配。

 そこに煙、焦げ臭い臭いが混じり、乱法師ははっと身を固くした。
 その匂いが何かが分かると同時に項の毛がぞわりと立った。
 手にしていた燭台の炎が掻き消えたのだ。

 それも一瞬で全てである。

「うっああ」

「落ち着け!動じるでない!上様の元へ馳せ戻り、邸から一刻も早く御逃げになられるよう伝えるのじゃ!」

 ただならぬ殺気と闇に動じる年少の小姓を、戦慣れした年嵩の馬廻り衆が叱咤する。
 その場から、ばたばたと走り去る数名の足音が聞こえた。

 真っ暗闇とは言え、表座敷から此処まで真っ直ぐの廊下を歩いて来ただけなのだから無事に戻れる筈だ。 
 動じる余り闇の中で太刀を振り回されては堪らないし、敵の人数も正体も把握出来ぬ現状、信長には早めに退いて貰った方が良い。

「残った者は名を名乗れ! 」

「又一郎」「虎松じゃ! 」「甚助」「平八」「又九郎」「新八」「乱法師! 」

「乱!そちは上様の元へ行け! 」

 点呼に答えると、年少の彼を足手まといと判断したのか、即座に退却を促す。

 勝ち気な乱法師が反論しようと口を開きかけた時、耳をつんざく絶叫に一同闇に目を凝らす。
 見回りの侍達の松明さえ消えた暗い屋外。
 雲の切れ間から覗いた月が、信じ難い光景を照らし出した。

 まるで古の物語絵巻を見ているようだった。
 筋骨隆々と身の丈八尺くらいはあろうかという青鬼が、巨大な金棒を中間と覚しき男に何度も振り下ろしていた。
 男が弱々しく手を伸ばし何とか防ごうとするが、容赦の無い攻撃は止む事無く続き、やがて絶命したのが見て取れた。

 脳漿や臓物、血飛沫が散る凄惨な光景が、闇夜のおかげではっきり見えないのが幸いだった。

「ゥぐ……」

 こんな場面に遭遇して平気な者がいたとしたら、肝が座っているどころでは無く肝自体が無いのだろう。
 さしもの信長親衛隊の強者共も、血の気が引いて顔色が紙のように白くなった。

 とはいえ、無論闇で見えなかったのだが──

「これは──」

「くっっ……どうする」

 方々から悲鳴が聞こえてくるのは、恐らく逃げ回っているからだろう。
 仮に勇敢に立ち向かっていたとしても、先程のような一方的な虐殺の地獄絵図が繰り返されるだけだ。

「上様の御容態も心配じゃ。一刻も早く退いた方が良い!大勢に囲まれている様子は今のところ無い、化け物がいるのは表玄関だけじゃ! 」

 如何に優れた武術の心得があっても通用する相手とは思えなかった。

「うむ……無理に立ち向かっても犬死にするだけ。一先ず退却しよう!」

 この選択は色々な意味で実は正しかった。
 
 もともとは人や獣の霊が、果心の幻術と呪いによって具現化しているだけの事。
 式神となった時点で、意思を操られる傀儡と化していた。
 こちらから何も仕掛けなければ戸や窓のように擦り抜けて行く。

 退いた方が良いのは乱法師にも分かっていた。
 だが刀を抜いた途端恐怖よりも、源頼朝と祖を同じくする清和源氏としての古い武門の血が勝った。
 
「太刀を一度抜いて敵に背を向けるのか!!一太刀も浴びせず逃げるなんぞ──ぅっごおぅっめんじゃああーー」

 乱法師は雄叫びを上げると、野生の本能赴く儘に青鬼目掛けて突っ込んで行った。

「無茶だ!乱!止めよーー」

 無謀だった。
 余りにも無謀過ぎた。
 人の制止に耳を貸さない血の気の多さはやはり長可譲りなのかと、その場にいた誰もが呆気に取られた。

 八尺以上はあろうかという巨大な鬼。
 だが恐れる事は無い。

 乱法師の身丈は5尺二寸(156cm)程しか無いが、鬼のぎょろりと光る黄色い目玉は全く別の方向を向いていたのだから。

『確かに頭は悪そうじゃな。というよりも意思を持たぬかのようじゃ。動作も鈍そうだし。あの太い腕に捕まったら一貫の終わりじゃが、足を狙うか下から突き上げれば傷を負わせる事は出来よう』

 確かに理屈ではそうなのだが、酒天童子のような大鬼が突然現れたら、敢えて向かって行く気に普通はならないものだ。
 良く考えれば人では無いのだから、太刀で皮膚を貫けるかさえ定かではない。
 乱法師は単純明快で、あまり理詰めで考えない為、そんな細かい事は取り敢えず気にせず、身体が勝手に動いてしまうのが長所でもあった。

 槍や薙刀ならば間合いが長く、体格差や力の差も補ってくれるが、太刀では近付かなければ致命傷は負わせられないだろう。
 かすり傷程度を負わせて却って逆上させたら、重い金棒の強烈な一打であの世行きだ。

 と、そんな事を考え終わる前に鬼の足元にいた。
 太刀で素早く巨大な脛《すね》に斬り付ける。

 






























 

 





 


 

 



 







 






 

 
 





 
 
 



 


 
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