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「それは頼もしい!式王子とは一体何者なのじゃ」
問われて三郎は、式王子に纏わる伝説を語り始めた。
式王子とは天竺の王女、用友姫《ようゆうひめ》が天竺、唐、日本の王と交わって出来た皇子で、出生時に黒金の兜を被り、紅の舌に頭には角が生え、全身に曼陀羅模様という異形の子であった。
皇子をどうすべきかと金巻童子を天から降ろし召して相談したところ、三万三千年式の王と成すべしと、天竺のナンタ池に大木を倒し石を詰めて皇子を沈めてしまった。
やがて池の側に生えた三千本の松の木を依代として式王子が現れ、太夫の求めに応じて魔を調伏する最強の式神になったと云うのだ。
「神は神でも異形……とは……」
「物部村では森羅万象に神が宿るという考えがあるそうで、妖怪としか思えぬ形の御幣もあるのでございます。式王子は荒ぶる神にて、普段はナンタの池に沈められ、力を求められた時にのみ松の木を依代として現れる神なのでございます。使い方次第で善にも悪にもなる非常に危険な神と六助は申しておりました」
「ふうむ……その式王子を巧く使える術者がおれば果心を倒せるという事か」
「はい。ただ正体が掴めぬのが現状でございますから、それが分からねば倒しようが無いというか……六助の考えでは非常に霊力の強い呪術師が、とてつもない邪神の怒りを掻き立て、それを使役しているような印象であると」
「但し果心は蛇体である。つまり──」
「はい!そこなのでございます。自身が式神と化しているように見えまする。荒れ狂う伝説の式王子のような。六助は八面王《やつらおう》のようだとも言っておりました」
口ごもる乱法師の言葉を三郎が引き継いだ。
「八面王?顔が八つもあるのか? 」
神であれ化け物であれ、恐ろしげな容体のものばかりが登場してうんざりしてくる。
「はい、八岐大蛇《やまたのおろち》のような蛇神で、物部村では山の神の中で最強だとか。ですが邪神であるので祭りの前の祈祷で唱える祭文においては家から出て言って欲しいと訴えるそうでございます」
「果心もそのような邪神なのであろうか? 」
先程より随分落ち着いてきていた。
「邪というのは人から見て、という事なのでしょう。神も怒る事があり、神からすれば身勝手と映る事もあるのでしょう。果心が神の眷属などと思いたくありませぬ。今の段階では、その可能性もあるというだけでございます」
「うむ、ただ何とのう心が少し軽くなった。六助は力のある呪術師に心当たりは無いのであろうか? 」
「土佐の物部村から出て来て、呪術師どころか友や知り合いさえ僅かにいるぐらいとか。方々に当たって探してみようと思っておりまする」
乱法師は溜息を吐き、腰に差した丹頂鶴と牡丹が描かれた金地の扇で首元に風を送った。
安堵と疲労を同時に感じたのだ。
「吉田兼和殿の元に屏風が既に持ち込まれておる。屏風の祓い次第で、こちらの件も依頼出来ればしたいところじゃ。それはそうと女子を嫌がっている事は話したのか? 」
女装した夜、果心の訪れが無かったのは確かなのだから、何らかの効力があるという望みは捨てきれ無かった。
「はぁ、それについてなのですが、狐狸妖怪の類いが古より忌み嫌う、ある物に関連しているのではないかと……」
「ある物とは何じゃ!はっきり申せ! 」
奥歯に物が挟まったような言い方に苛立つ。
「はっはあ……も、桃の実いぃーーでございます」
何故か三郎の声は猿楽でも演じているように裏返った。
「桃の実?そんな物が効くのか!して、女子とどんな関係があるのじゃ」
「はっあ。今、何刻で ございましょうか?そろそろお戻りにならずとも宜しいのですか?色々慌ただしゅうございますから。それについては……また今度、と……」
頬が紅潮し額に汗が浮かんでいた。
「おお、そうじゃな。勤めに戻らねば。随分役に立つ話しが聞けて良かったと、明日にでも六助に礼を伝えて欲しい」
三郎の態度を特に妙だと思わず、素直に腰を上げた。
───
ホーホーホー
梟の鳴き声が哀しげに響く、暗い榊の森。
参道には赤い立派な鳥居が立ち、進むと枝分かれした道の先に社の屋根が見える。
所謂摂社末社が多数建てられた広大な敷地を持つ、権威ある由緒正しい神社なのであろう。
表参道を登って行くと本宮のある境内に辿り着く。
参道の右手に掘られた龍沢池の周囲を右方向に回るように進むと、また道が続いている。
その道の左右に生い茂る森の木々の間に見えてくるのは、摂社末社の屋根である。
突き当たりを左に曲がり階段を登ると、邪馬台国の女王卑弥呼の神殿もかくやという茅葺き屋根の社が、闇の中にぼうっと浮かび上がっていた。
入母屋造りの八角形の本殿と六角形の房が、ぴたりと寄り添う不思議な形をしている。
吉田神社の末社、斎場所大元宮。
虚無太元尊神《そらなきおおもとみことかみ》を祀る為の社として、吉田神道の祖、吉田兼倶により創建された。
虚無太元尊神《そらなきおおもとみことかみ》は森羅万象、宇宙の根元神と唱え、始まりの神から生じた八百万の神々も同時に祀られているとされる。
それ故に大元宮こそが神道の中心であり、此処を詣でれば日本中の神を拝んだ事に等しく、伊勢神宮よりも格上であると宣伝したのだ。
その八百万の神々が住まう霊験あらたかな宮の前に護摩壇が設けられ、燃え盛る炎が闇夜を照らしていた。
地獄絵図の屏風を前に広げ、護摩壇に座しているのは神主の吉田兼和である。
見ての通り、加持祈祷をこれから行おうというところだ。
南の方角を向き黒の衣を纏い、炎が吹き上がる護摩炉は三角形、本尊は不動明王。
本宮ではなく此処に護摩壇を設けたのは、吉田神道の教義を最も象徴しているのが斎場所大元宮だからである。
「八百万の神々が我に御力をお貸し下さる」
加持祈祷とは元来密教の分野だ。
吉田神道とは、仏教、道教、儒教の思想に陰陽道の教理、儀礼、更に密教からは加持祈祷を取り入れた、非常に節操の無い宗教なので細かい事は余り気にしない。
何しろ龍沢池という名前ですら、興福寺五重塔が映る名高い猿沢池を真似て付けられたのだから。
兼和が行おうとしている祈祷は不動護摩供《ふどうごまく》と言い、不動明王に供物を捧げ、その加護を得るという秘法である。
所謂怨霊調伏というのは兼和は正直苦手であった。
不動明王を本尊とした加持祈祷は最も一般的で無難な為、邪気はこの祈祷で十分祓われる筈と考えていた。
実は怨霊調伏に適した生霊死霊除金縛法という、その名の通りの秘法があるのだが、失敗したら災いは自分に降り掛かると云われている為尻込みしたに過ぎない。
専ら彼が病人祈祷や先勝祈願を請け負っているのは、効果の程が曖昧で誤魔化しが効くからという小狡い考えからだった。
宗教界でも熾烈な争いが繰り広げられており、血生臭い闘争に発展する事さえあるのだから、天下人信長に恩を売る機会を逃す手は無い。
「ノーマクサンマンダーバサラダン センダンマカローシャダヤ ソハタヤ ウンタラターカンマン」
非常に打算的な兼和だが、不動剣印という印を結び、真言を唱えながら壇に並べた供物を次々に火に投じる姿は中々様になっていた。
神に捧げる物は房華、塗香、蘇油、乳木、飯、五穀、切華、丸香に散香。
金剛盤に載せられた金剛杵と金剛鈴、五鈷杵、三鈷杵、独鈷杵は加持祈祷に欠かせない法具だ。
金剛鈴を鳴らせば神仏と一体となり、金剛杵は手にしただけで力を与えてくれる。
一心不乱に法具を振り鳴らし、供物を投げ入れる度にぱちぱちと、うねる炎に照らされる大元宮と共にあれば、胡散臭い神主でも神秘的に見えてしまう。
ちらりと屏風に目を遣るが、何の変化も見えず安堵する。
「案外簡単に済みそうやないか。大袈裟な! 」
そう呟きながら最後の仕上げに取り掛かった。
丸香、散香、切り華を五穀と共に混ぜ合わせた物を混沌供という。
三角炉に混沌供を捧げ、蘇油を大と小の杓で1度ずつ、次に房華を投入すると火の粉が闇に舞った。
不動護摩の終わりの鐘が静寂の中に涼やかに響く。
夏虫達は今宵はやけに大人しい。
「ふう、やれ終わったか。明日も行うつもりやったが、その必要も無さそうや。いや、待て!いっそ近習二人の前で加持祈祷をして見せたら如何にも仰々しおして、儂の力に恐れ入るに違いあらへん。上様のお耳にも入って益々吉田神社の繁栄間違い無しや!うっふっふっ」
がたっと音がした。
見ると立て広げていた屏風が絵の面を下にして倒れている。
邪気を祓えたは良いが、肝心の屏風絵に傷でも付けたらあの信長の事、己の首が飛んでしまうと青褪め、慌てて屏風に手を掛けた。
「ん?ひっ!」
青い手が兼和の手首を掴んでいた。
兼和の手よりも遥かに大きく、長い鉤爪にごつごつと節くれだった指、そして何よりも恐ろしいのは、腕から先だけが、ぬうっと屏風から突き出ていた事だ。
「かっかあーーひゃ──あっああーーあひぃィィ」
怨霊調伏を依頼された神主にしては情けないが、咄嗟に独鈷剣を構えたのは流石である。
別名プルパ。
魔障を祓う力を持つ霊剣と伝わる。
結界をも張る強力な法具の筈なのだが。
兼和の手首を掴んだ異形の腕には全く効かず、屏風から伸びたもう片方の腕がプルパを豆のように弾き飛ばした。
「うっあぁ……」
くるくると弧を描き、プルパは無情にも遠く離れた地面に突き刺さった。
如何に強力な武器でも使う者に力無くば意味が無いらしい。
唯一の武器を失い成す術無く、がたがた震え涙ぐみ鼻水が垂れる。
異形の腕は既に手首から離れているというのに、その場から逃げ出す事も出来ない。
長い爪の生えた毛むくじゃらの脚、肩、角が屏風から突き出し、地獄絵図その儘の悪鬼がとうとう全身を現した。
巨大な青鬼、しかもそれだけでは無く、描かれた魑魅魍魎、亡者までもが次々と屏風から抜け出てきたのだから堪らない。
失神こそしなかったものの股の辺りが生暖かく、どうやら失禁してしまったようだ。
血と臓物に髪の毛や皮膚までがこびり付いた金棒を手にした凶悪な青鬼、赤鬼に、百足、蛇、蝙蝠、蛙、狐、一体何を模した物か分からぬ不気味な魑魅魍魎共。
がりがりに痩せこけ、肋骨が浮き出た薄い身体の餓鬼。
怨みがましい目付きに灰色の肌の亡者達。
尿臭を放ちながら腰を抜かす兼和には目もくれず、ぎょろぎょろと目玉と首を動かしながら側をぞろぞろ通り過ぎて行く。
呆然自失としている間に化け物共は消え、護摩壇の炉に燻る火と石灯籠の灯りのみの静かな境内に、やがて夏虫達の声が戻り、梟が鳴いた。
ホーホーホー
本人にとっては長く感じた僅かな刻が過ぎ、梟の声で我に返り真っ先に気にしたのは屏風であった。
「がっ!何やこりゃあ。消えておる……綺麗さっぱり……たったっ大変じゃあーー」
飛び付いて手に取って見ると、地獄絵図は消えていた。
まさかのまっさらの真っ白だった。
当に手に負えない事態が起きてしまったのだ。
よろよろと立ち上がり、縺れる足で転げるように走った。
屏風絵から化け物達が抜け出てきたのだ。
常人ならば怯えるのは当然の事。
しかし走り出した兼和の心を支配していたのは呆れる事に『どないしょお。どないしょお……絵ぇ消えてしもうたぁ。上様に怒られてしまう』という現の恐怖であった。
───
「酔った酔った。これから、どこ行くよ」
「お!旨い酒の後は女に決まってるやろ。四条辺りの小店にええのがおる。それにしても今宵は風がえらい吹くねえ」
「全くや。さっきからびゅうびゅう前から───あっなっ、何や、ぎぎゃーー」
酒に微酔い、夜の都通りをそぞろ歩きする京の町民達の目にとんでもない光景が飛び込んできた。
鬼、鬼、餓鬼、化け物、亡者の群れがわさわさと走るように飛ぶように、こちらに向かって来るではないか。
二人の男達は抱き合い震え、呆けた儘その場にへたり込んだ。
悪夢としか思えぬが酷く生々しい肉感を持つ化け物の群れは、二人が空気か何かのように避けもせず擦り抜けて行く。
いや、二人が空気なのではなく化け物の方が実体が無いだけなのか。
「ありゃ、何じゃ、見たか? 」
「夢やろ。うん……酒に酔って何か変なもん見えただけや」
こうした会話がひょっとして、今宵は都の至るところで交わされていたのかも知れない。
それにしても恐ろしい化け物達は屏風から抜け出して何処に向かおうというのか。
何者かに操られているのか、無辜の民には目もくれないのが、せめてもの救いであった。
───
懐から布の包みを取り出す。
六助から貰った『十二のひなご』という御幣だ。
ホーホーホー
やけに梟の鳴き声がするが、意外と森が多い都では珍しくないのかもしれないと思った。
彼は二条の新邸の中央に位置する御殿の表座敷で、信長の護衛として数十名の小姓達と共にあった。
二条邸は二条通りでは無く、烏丸通りと押小路通りが交差した辺りに建っていたのだと云う。
元は関白二条晴良の邸であったから、そう名付けられたに過ぎない。
公家風の寝殿造りの趣きを残しながら改築され、武家の書院造りとしての機能性も持ち合わせている。
表座敷は信長の寝所の手前に位置する部屋だ。
虫の多い時期なので蚊帳が吊られ、世話役としての不寝番は決まっている為、この部屋の小姓達は雑魚寝をしながら交代での警護となる。
刀や槍が近くに備え付けられ、怪しい者が入り込めば何時でも戦える態勢だ。
他の小姓達の世間話には加わらず、乱法師は蚊帳の中で一人そっと御幣を撫でてみた。
和紙の手触り、切り抜いて作られた目と口を持つひなごの顔は幼子に似て愛らしく、玩具のような温もりを感じた。
手を繋いだ三人の子供。
ふと故郷の金山で暮らす二人の年子の弟、坊丸と力丸の顔が浮かんだ。
兄弟は他に五つ年の離れた末弟の仙千代。
上には姉が三人、金山城主の長可、討ち死にした長兄の可隆がいた。
その中でも年子の三人、乱法師と坊丸と力丸は同じ時期に学び遊び、遠慮無く喧嘩もしてきた。
本当に何をするにも一緒だったから、安土で全く異なる経験を積み、自分だけが容姿も心の有り様もすっかり変わってしまったのではないかという内側の距離に対して不安になった。
思い出に浸りながら御幣を布に包み直し懐にしまおうとしたその時、外が少し騒がしいと感じた。
───
信長は珍しく目が冴えていた。
褥の上で、ごろりと寝返りを打つ。
鍛え上げた身体は疲労に対しては若者のように素直で、日頃は寝付き良く、目覚めもすこぶる良い。
『誰かに伽を──』
娯楽の少ない時代の夜の事。
寝付けぬ時には分かりやすく酒か女となるのだ。
望めば美女でも美童でも即座に目の前に並ぶだろう。
問われて三郎は、式王子に纏わる伝説を語り始めた。
式王子とは天竺の王女、用友姫《ようゆうひめ》が天竺、唐、日本の王と交わって出来た皇子で、出生時に黒金の兜を被り、紅の舌に頭には角が生え、全身に曼陀羅模様という異形の子であった。
皇子をどうすべきかと金巻童子を天から降ろし召して相談したところ、三万三千年式の王と成すべしと、天竺のナンタ池に大木を倒し石を詰めて皇子を沈めてしまった。
やがて池の側に生えた三千本の松の木を依代として式王子が現れ、太夫の求めに応じて魔を調伏する最強の式神になったと云うのだ。
「神は神でも異形……とは……」
「物部村では森羅万象に神が宿るという考えがあるそうで、妖怪としか思えぬ形の御幣もあるのでございます。式王子は荒ぶる神にて、普段はナンタの池に沈められ、力を求められた時にのみ松の木を依代として現れる神なのでございます。使い方次第で善にも悪にもなる非常に危険な神と六助は申しておりました」
「ふうむ……その式王子を巧く使える術者がおれば果心を倒せるという事か」
「はい。ただ正体が掴めぬのが現状でございますから、それが分からねば倒しようが無いというか……六助の考えでは非常に霊力の強い呪術師が、とてつもない邪神の怒りを掻き立て、それを使役しているような印象であると」
「但し果心は蛇体である。つまり──」
「はい!そこなのでございます。自身が式神と化しているように見えまする。荒れ狂う伝説の式王子のような。六助は八面王《やつらおう》のようだとも言っておりました」
口ごもる乱法師の言葉を三郎が引き継いだ。
「八面王?顔が八つもあるのか? 」
神であれ化け物であれ、恐ろしげな容体のものばかりが登場してうんざりしてくる。
「はい、八岐大蛇《やまたのおろち》のような蛇神で、物部村では山の神の中で最強だとか。ですが邪神であるので祭りの前の祈祷で唱える祭文においては家から出て言って欲しいと訴えるそうでございます」
「果心もそのような邪神なのであろうか? 」
先程より随分落ち着いてきていた。
「邪というのは人から見て、という事なのでしょう。神も怒る事があり、神からすれば身勝手と映る事もあるのでしょう。果心が神の眷属などと思いたくありませぬ。今の段階では、その可能性もあるというだけでございます」
「うむ、ただ何とのう心が少し軽くなった。六助は力のある呪術師に心当たりは無いのであろうか? 」
「土佐の物部村から出て来て、呪術師どころか友や知り合いさえ僅かにいるぐらいとか。方々に当たって探してみようと思っておりまする」
乱法師は溜息を吐き、腰に差した丹頂鶴と牡丹が描かれた金地の扇で首元に風を送った。
安堵と疲労を同時に感じたのだ。
「吉田兼和殿の元に屏風が既に持ち込まれておる。屏風の祓い次第で、こちらの件も依頼出来ればしたいところじゃ。それはそうと女子を嫌がっている事は話したのか? 」
女装した夜、果心の訪れが無かったのは確かなのだから、何らかの効力があるという望みは捨てきれ無かった。
「はぁ、それについてなのですが、狐狸妖怪の類いが古より忌み嫌う、ある物に関連しているのではないかと……」
「ある物とは何じゃ!はっきり申せ! 」
奥歯に物が挟まったような言い方に苛立つ。
「はっはあ……も、桃の実いぃーーでございます」
何故か三郎の声は猿楽でも演じているように裏返った。
「桃の実?そんな物が効くのか!して、女子とどんな関係があるのじゃ」
「はっあ。今、何刻で ございましょうか?そろそろお戻りにならずとも宜しいのですか?色々慌ただしゅうございますから。それについては……また今度、と……」
頬が紅潮し額に汗が浮かんでいた。
「おお、そうじゃな。勤めに戻らねば。随分役に立つ話しが聞けて良かったと、明日にでも六助に礼を伝えて欲しい」
三郎の態度を特に妙だと思わず、素直に腰を上げた。
───
ホーホーホー
梟の鳴き声が哀しげに響く、暗い榊の森。
参道には赤い立派な鳥居が立ち、進むと枝分かれした道の先に社の屋根が見える。
所謂摂社末社が多数建てられた広大な敷地を持つ、権威ある由緒正しい神社なのであろう。
表参道を登って行くと本宮のある境内に辿り着く。
参道の右手に掘られた龍沢池の周囲を右方向に回るように進むと、また道が続いている。
その道の左右に生い茂る森の木々の間に見えてくるのは、摂社末社の屋根である。
突き当たりを左に曲がり階段を登ると、邪馬台国の女王卑弥呼の神殿もかくやという茅葺き屋根の社が、闇の中にぼうっと浮かび上がっていた。
入母屋造りの八角形の本殿と六角形の房が、ぴたりと寄り添う不思議な形をしている。
吉田神社の末社、斎場所大元宮。
虚無太元尊神《そらなきおおもとみことかみ》を祀る為の社として、吉田神道の祖、吉田兼倶により創建された。
虚無太元尊神《そらなきおおもとみことかみ》は森羅万象、宇宙の根元神と唱え、始まりの神から生じた八百万の神々も同時に祀られているとされる。
それ故に大元宮こそが神道の中心であり、此処を詣でれば日本中の神を拝んだ事に等しく、伊勢神宮よりも格上であると宣伝したのだ。
その八百万の神々が住まう霊験あらたかな宮の前に護摩壇が設けられ、燃え盛る炎が闇夜を照らしていた。
地獄絵図の屏風を前に広げ、護摩壇に座しているのは神主の吉田兼和である。
見ての通り、加持祈祷をこれから行おうというところだ。
南の方角を向き黒の衣を纏い、炎が吹き上がる護摩炉は三角形、本尊は不動明王。
本宮ではなく此処に護摩壇を設けたのは、吉田神道の教義を最も象徴しているのが斎場所大元宮だからである。
「八百万の神々が我に御力をお貸し下さる」
加持祈祷とは元来密教の分野だ。
吉田神道とは、仏教、道教、儒教の思想に陰陽道の教理、儀礼、更に密教からは加持祈祷を取り入れた、非常に節操の無い宗教なので細かい事は余り気にしない。
何しろ龍沢池という名前ですら、興福寺五重塔が映る名高い猿沢池を真似て付けられたのだから。
兼和が行おうとしている祈祷は不動護摩供《ふどうごまく》と言い、不動明王に供物を捧げ、その加護を得るという秘法である。
所謂怨霊調伏というのは兼和は正直苦手であった。
不動明王を本尊とした加持祈祷は最も一般的で無難な為、邪気はこの祈祷で十分祓われる筈と考えていた。
実は怨霊調伏に適した生霊死霊除金縛法という、その名の通りの秘法があるのだが、失敗したら災いは自分に降り掛かると云われている為尻込みしたに過ぎない。
専ら彼が病人祈祷や先勝祈願を請け負っているのは、効果の程が曖昧で誤魔化しが効くからという小狡い考えからだった。
宗教界でも熾烈な争いが繰り広げられており、血生臭い闘争に発展する事さえあるのだから、天下人信長に恩を売る機会を逃す手は無い。
「ノーマクサンマンダーバサラダン センダンマカローシャダヤ ソハタヤ ウンタラターカンマン」
非常に打算的な兼和だが、不動剣印という印を結び、真言を唱えながら壇に並べた供物を次々に火に投じる姿は中々様になっていた。
神に捧げる物は房華、塗香、蘇油、乳木、飯、五穀、切華、丸香に散香。
金剛盤に載せられた金剛杵と金剛鈴、五鈷杵、三鈷杵、独鈷杵は加持祈祷に欠かせない法具だ。
金剛鈴を鳴らせば神仏と一体となり、金剛杵は手にしただけで力を与えてくれる。
一心不乱に法具を振り鳴らし、供物を投げ入れる度にぱちぱちと、うねる炎に照らされる大元宮と共にあれば、胡散臭い神主でも神秘的に見えてしまう。
ちらりと屏風に目を遣るが、何の変化も見えず安堵する。
「案外簡単に済みそうやないか。大袈裟な! 」
そう呟きながら最後の仕上げに取り掛かった。
丸香、散香、切り華を五穀と共に混ぜ合わせた物を混沌供という。
三角炉に混沌供を捧げ、蘇油を大と小の杓で1度ずつ、次に房華を投入すると火の粉が闇に舞った。
不動護摩の終わりの鐘が静寂の中に涼やかに響く。
夏虫達は今宵はやけに大人しい。
「ふう、やれ終わったか。明日も行うつもりやったが、その必要も無さそうや。いや、待て!いっそ近習二人の前で加持祈祷をして見せたら如何にも仰々しおして、儂の力に恐れ入るに違いあらへん。上様のお耳にも入って益々吉田神社の繁栄間違い無しや!うっふっふっ」
がたっと音がした。
見ると立て広げていた屏風が絵の面を下にして倒れている。
邪気を祓えたは良いが、肝心の屏風絵に傷でも付けたらあの信長の事、己の首が飛んでしまうと青褪め、慌てて屏風に手を掛けた。
「ん?ひっ!」
青い手が兼和の手首を掴んでいた。
兼和の手よりも遥かに大きく、長い鉤爪にごつごつと節くれだった指、そして何よりも恐ろしいのは、腕から先だけが、ぬうっと屏風から突き出ていた事だ。
「かっかあーーひゃ──あっああーーあひぃィィ」
怨霊調伏を依頼された神主にしては情けないが、咄嗟に独鈷剣を構えたのは流石である。
別名プルパ。
魔障を祓う力を持つ霊剣と伝わる。
結界をも張る強力な法具の筈なのだが。
兼和の手首を掴んだ異形の腕には全く効かず、屏風から伸びたもう片方の腕がプルパを豆のように弾き飛ばした。
「うっあぁ……」
くるくると弧を描き、プルパは無情にも遠く離れた地面に突き刺さった。
如何に強力な武器でも使う者に力無くば意味が無いらしい。
唯一の武器を失い成す術無く、がたがた震え涙ぐみ鼻水が垂れる。
異形の腕は既に手首から離れているというのに、その場から逃げ出す事も出来ない。
長い爪の生えた毛むくじゃらの脚、肩、角が屏風から突き出し、地獄絵図その儘の悪鬼がとうとう全身を現した。
巨大な青鬼、しかもそれだけでは無く、描かれた魑魅魍魎、亡者までもが次々と屏風から抜け出てきたのだから堪らない。
失神こそしなかったものの股の辺りが生暖かく、どうやら失禁してしまったようだ。
血と臓物に髪の毛や皮膚までがこびり付いた金棒を手にした凶悪な青鬼、赤鬼に、百足、蛇、蝙蝠、蛙、狐、一体何を模した物か分からぬ不気味な魑魅魍魎共。
がりがりに痩せこけ、肋骨が浮き出た薄い身体の餓鬼。
怨みがましい目付きに灰色の肌の亡者達。
尿臭を放ちながら腰を抜かす兼和には目もくれず、ぎょろぎょろと目玉と首を動かしながら側をぞろぞろ通り過ぎて行く。
呆然自失としている間に化け物共は消え、護摩壇の炉に燻る火と石灯籠の灯りのみの静かな境内に、やがて夏虫達の声が戻り、梟が鳴いた。
ホーホーホー
本人にとっては長く感じた僅かな刻が過ぎ、梟の声で我に返り真っ先に気にしたのは屏風であった。
「がっ!何やこりゃあ。消えておる……綺麗さっぱり……たったっ大変じゃあーー」
飛び付いて手に取って見ると、地獄絵図は消えていた。
まさかのまっさらの真っ白だった。
当に手に負えない事態が起きてしまったのだ。
よろよろと立ち上がり、縺れる足で転げるように走った。
屏風絵から化け物達が抜け出てきたのだ。
常人ならば怯えるのは当然の事。
しかし走り出した兼和の心を支配していたのは呆れる事に『どないしょお。どないしょお……絵ぇ消えてしもうたぁ。上様に怒られてしまう』という現の恐怖であった。
───
「酔った酔った。これから、どこ行くよ」
「お!旨い酒の後は女に決まってるやろ。四条辺りの小店にええのがおる。それにしても今宵は風がえらい吹くねえ」
「全くや。さっきからびゅうびゅう前から───あっなっ、何や、ぎぎゃーー」
酒に微酔い、夜の都通りをそぞろ歩きする京の町民達の目にとんでもない光景が飛び込んできた。
鬼、鬼、餓鬼、化け物、亡者の群れがわさわさと走るように飛ぶように、こちらに向かって来るではないか。
二人の男達は抱き合い震え、呆けた儘その場にへたり込んだ。
悪夢としか思えぬが酷く生々しい肉感を持つ化け物の群れは、二人が空気か何かのように避けもせず擦り抜けて行く。
いや、二人が空気なのではなく化け物の方が実体が無いだけなのか。
「ありゃ、何じゃ、見たか? 」
「夢やろ。うん……酒に酔って何か変なもん見えただけや」
こうした会話がひょっとして、今宵は都の至るところで交わされていたのかも知れない。
それにしても恐ろしい化け物達は屏風から抜け出して何処に向かおうというのか。
何者かに操られているのか、無辜の民には目もくれないのが、せめてもの救いであった。
───
懐から布の包みを取り出す。
六助から貰った『十二のひなご』という御幣だ。
ホーホーホー
やけに梟の鳴き声がするが、意外と森が多い都では珍しくないのかもしれないと思った。
彼は二条の新邸の中央に位置する御殿の表座敷で、信長の護衛として数十名の小姓達と共にあった。
二条邸は二条通りでは無く、烏丸通りと押小路通りが交差した辺りに建っていたのだと云う。
元は関白二条晴良の邸であったから、そう名付けられたに過ぎない。
公家風の寝殿造りの趣きを残しながら改築され、武家の書院造りとしての機能性も持ち合わせている。
表座敷は信長の寝所の手前に位置する部屋だ。
虫の多い時期なので蚊帳が吊られ、世話役としての不寝番は決まっている為、この部屋の小姓達は雑魚寝をしながら交代での警護となる。
刀や槍が近くに備え付けられ、怪しい者が入り込めば何時でも戦える態勢だ。
他の小姓達の世間話には加わらず、乱法師は蚊帳の中で一人そっと御幣を撫でてみた。
和紙の手触り、切り抜いて作られた目と口を持つひなごの顔は幼子に似て愛らしく、玩具のような温もりを感じた。
手を繋いだ三人の子供。
ふと故郷の金山で暮らす二人の年子の弟、坊丸と力丸の顔が浮かんだ。
兄弟は他に五つ年の離れた末弟の仙千代。
上には姉が三人、金山城主の長可、討ち死にした長兄の可隆がいた。
その中でも年子の三人、乱法師と坊丸と力丸は同じ時期に学び遊び、遠慮無く喧嘩もしてきた。
本当に何をするにも一緒だったから、安土で全く異なる経験を積み、自分だけが容姿も心の有り様もすっかり変わってしまったのではないかという内側の距離に対して不安になった。
思い出に浸りながら御幣を布に包み直し懐にしまおうとしたその時、外が少し騒がしいと感じた。
───
信長は珍しく目が冴えていた。
褥の上で、ごろりと寝返りを打つ。
鍛え上げた身体は疲労に対しては若者のように素直で、日頃は寝付き良く、目覚めもすこぶる良い。
『誰かに伽を──』
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寝付けぬ時には分かりやすく酒か女となるのだ。
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