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此処で今、自分に起こっている怪異について話してしまいたいと思った。
呪われた存在は信長をも標的にしようとしている。
「そういえば、屏風は……」
「ふふ、祓いをする事を承知したが処分する気は無い。儂を害する事は天下をひっくり返す事じゃ。たかが呪いで狙う相手を殺せるならば、武田や毛利に贈ってやりたいくらいじゃな」
相変わらず揺らぐ事の無い自信に満ち溢れている。
「御体は大丈夫なのでございますか?例えば妙な物を見たり不気味な声を聞いたりなされないのですか? 」
意を決して訊ねてみた。
「何も変わった事は無い。それよりも、そなたは儂の身を案じてくれておるのか? 」
「上様のお強さは存じ上げておりますが、呪いが効くかどうかでは無く、呪う者がいるという事の方が一大事にて。私は屏風から悪しき気配を感じるのでございます」
邪気を一番浴びて影響が無いという事があるのだろうか。
強力な何かが信長を守護しているのだろうか。
それにしても乱法師が心配事を口にすればする程、危機感に駆られるどころか、信長は愛しさが込み上げてくるばかりだ。
眉を寄せ心配そうに見上げる顔は儚げでいじらしい。
「仮に悪しき者が屏風に宿っていようとも恐れる事は無い。儂には呪いが効かないのであろう。怖がらずとも良い。そなたは儂の側におれば安心じゃ」
信長を守らねばと脅威を訴えていた筈なのに、逆に己の方が縋っているようになってしまっているではないか。
「私は怖くはありませぬ。何よりも恐ろしいのは上様に危険が及ぶ事にございます。私の事はどうでも良いのです。どうか上様を呪う者にお気を付け下さい。あっ……」
信長の顔が近付いてきたと思った瞬間、また抱き締められた。
最早、二人っきりになれば甘い雰囲気になってしまうのを止めようが無く、極めて美形の彼が忠義の言葉を並べ立てると熱烈な愛の告白のようになってしまうのは困ったものであった。
怪異に気付いて貰う事は諦める他無かったが、今、褥に押し倒されるのだけは何とか避けたかった。
頭の片隅に初夜の出来事や男色本で得た様々な知識が浮かんでくると身体がかっと熱くなり、信長の胸に手を強く押し当て身を捩る。
拒む素振りと捉え、信長は啄んでいた彼の身を離した。
自分の言いたい事が通じず、伝わらないもどかしさで乱法師は泣きたくなった。
「儂はもう休む故、隣の部屋に下がって良い」
信長は心なしか残念そうであった。
『今日は乗り気ではない』と単純に捉えたようだ。
彼は何も悪い事はしていないのに、此度も果心について警告出来なかった事で、己の未熟さを責めずにはいられなかった。
隣の部屋に下がり一人になると、思い詰めた表情で寝所の襖を見詰めた。
安土城が出来上がるまでの仮の住まいとは思えぬ程、柱や欄間には昇り龍に棚引く雲、鳳凰、松、梅の花が、それはそれは立体的に彫られ見事な造形の美を成している。
仮の御殿でこれ程絢爛豪華なのだから、諸国の匠を呼び集めて建築中の安土城の素晴らしさは如何ばかりか。
燭台の火がじじっと音を立てたので、腰を浮かせて油が切れていないかと覗き込む。
柱や欄間の彫刻も見事であるが、寝所を隔てる襖絵は狩野永徳によるものだ。
これまた猛々しい虎が中央で睨みを利かせている雄壮な構図である。
虎の傍らに立つ松の幹が、太く単純で力強く、荒々しいまでの筆致で描かれている為、襖絵全体が迫力と躍動感に溢れている。
猛虎と松の木の存在感で目立たないが、枝に絡み付く一匹の蛇の姿も描かれていた。
一瞬、その蛇が動いたように見えた。
否、襖に映った影が動いただけであったのか。
静かに端坐する乱法師の影が長く伸びた。
細長い影は欄間の彫刻を越え天井にまで伸びて行く。
燭台の炎がまた揺れた。
影は鎌首を擡げた大蛇の形を成し、頭と覚しき部分に紅い二つの点が浮かび上がり、禍禍しい光りを放っていた。
──
天正五年の旧暦、閏七月。
僅かな綿雲ばかりの青空が広がり、今日も一日中うだるような暑さになりそうだった。
不寝番を終え森邸に戻ると、水を浴び朝食を済ませ文机に向かう。
一眠りする前に金山にいる家族に文を書こうと決めたが、筆に墨を含ませ、いざ認めようとすると何を書いて良いか分からない。
母の妙向尼からは一人立ちしたばかりの息子を案じる愛情細やかな文が頻繁に届く。
健康に関しては勿論、精神面の事まで酷く案じている様子が文面から伝わってくる。
故郷を巣立ったばかりの思春期の少年にとって母の温もりは未だ懐かしいものでありながら、幼子のように素直にその胸に飛び込む事は最早許されない。
正直に今の状況を考えれば、書く事は山程あった。
だが、どこの世界に遠く離れて暮らす母に、蛇の化け物に狙われているなどと知らせる愚息がいるだろうか。
頭を悩ませた結果、『とても元気に過ごしていて上様は慈悲深く、皆に優しくして貰い、安土での暮らしにも慣れて毎日が楽しい』と大嘘を書いた。
「ふう──」
書き終えるとごろんと仰向けで寝転び天井を眺める。
「そういえば思った通り昨夜は化け物の影も形も無かった。全く手も足も出ないという訳か。ああ、蛇じゃからのう」
我ながら上手いな、と笑えてくる。
「上様の御側におれば何者も恐れずに過ごせそうじゃ。数々の戦で勝利されてきたのは、神仏の強い御加護もあるのじゃろう」
そう考えると、むやみに心配する必要は無いやもしれぬと少し安堵した。
信心深くない癖に凄い強運の持ち主なのだろう。
「どのような神仏が上様を御守りしているのであろう?化け物が苦手とするのは女臭さだけなのだろうか?弱点が見つかれば恐るるに足りないのじゃが」
『儂の側におれば安心じゃ』
昨夜の信長の言葉が甦った。
白い寝衣姿で褥に横たわり、衾を捲り上げ誘う姿を思い浮かべただけで、顔が火照ってくる。
妄想は更にその先に進んだ。
一切の衣を脱ぎ捨て肌を重ね絡み合う。
信長自身を受け入れ、精が内に放たれる。
抱く側の男性心理には未だ疎かったが、果心が激怒しそうな事だけは理解出来た。
敬愛する主君相手に、彼にしては相当生々しい夢想に耽ってしまった事を恥じた。
こんな風に心身が変化した事を、絶対に母にだけは知られたくなかった。
──
「腕香の男については誰も住み処も名前さえ知らないって。たまに辻に現れては幻術を見せて去ってくだけだって言ってたよ。後をつけた奴もいたらしいけど、文字通り煙に巻かれたってさ。」
武藤三郎は果心の正体を突き止めるべく、腕香の男の正体を伴家の忍びに依頼して探らせていたのだ。
射干の口から結果を聞いて肩を落とした。
「腕香の男よりも果心の正体探った方が手っ取り早いんじゃないかい?同一人物の可能性があるなら余計にさ」
「元は興福寺の僧侶であったが破門されたと聞いておる。路頭に迷ったのを哀れに思い筒井順慶殿が目を掛けておられたと噂では……」
射干は呆れたように首を振った。
「噂が真実とは限らないよ。っていうか、そもそも人ですら無いかもだろう?荒木って奴に斬られた恨みで霊魂か妖怪に変化したって見方も出来るだろうけど。元が人間なのに蛇の妖怪になるっていうのも変だしさあ。果心なんて坊主がそもそも興福寺にいたのかってとこから洗い直した方がいい気がするけど……あっいててって……」
「どうした? 」
「あっ、ちょっと廁! 」
「顔色が悪いようじゃが悪い物でも食べたのか」
「ああ、もう!男には分かんない話しだよ。また潜っちまうから果心の件は太郎左様(伴家の棟梁)に言っておくよ! 」
そう言うや廁の方に凄い勢いで走って行ってしまった。
腹の調子が悪いのは食べ過ぎに違い無いと勝手に納得し、射干の言った事を、もう一度反芻してみる。
元から人では無い。
そう考える程に全身が粟立つ。
得体の知れぬ者に対峙した時、人は原初的恐怖に支配される。
人では無い者が人の皮を被り、長らく有力大名の城の奥深くに入り込んでいたというのか。
我が主だけの問題では済まず、天下を揺るがす一大事に発展する恐れすらあるのではないか。
「そんな奴に魅入られてしまった乱法師様は……」
陰陽師や祈祷師に依頼する他無いが、効いているのかどうか判断しづらい為、大金ばかり取られて終わりという事もあり得る。
今のところ思い当たる歴とした祈祷師は吉田兼和くらいだが、病ではなく狐狸妖怪の類いにまで能力を発揮したという実績に乏しいのが何とも心許なかった。
「急がねばなるまい。思ったよりも敵は厄介じゃ」
───
射干は着物の裾を絡げると、下腹部に締めた下帯のような白い布を外しに懸かった。
股の間に手を入れ、女陰の中に指を突っ込み何かを引っ張り出す。
丸められた和紙か布か。
いずれにせよ血で真っ赤に染まっていた。
「うっんん」
乱法師が使用する、庶民には贅沢な廁に然り気無く入ってしまった。
射干は綺麗好きなのだ。
部屋には樋箱《ひばこ》という漆塗りの所謂便器が置かれ、香まで焚かれているので実に快適だ。
砂が敷かれた箱の中に血が滴り落ちる。
体内に溜めておいた経血を出すと、腹痛と腰痛が少し和らいだ。
股間を紙で拭い、さっき引っ張り出した布を女陰に再び詰め込み白い布を締め直す。
間者として働く射干は並の女とは比べ物にならない程、筋力が発達している。
それは活動量が激しい事も意味しているので、月の障りの時には工夫が必要だった。
優れた生理用品など無かった時代、紙や布を宛がい下帯のようなもので上から押さえる方法が一般的だったが、射干の場合は更に女陰に詰め物をして防いでいた。
紙や布が高価だった為、その吸収力に頼るのでは無く、栓をする事で太股や股間の筋肉に力を入れ、経血が垂れるのを防ぐといった方が正しいかもしれない。
「明後日くらいまでの辛抱だ」
毎月の事でうんざりするが、血が滴るのを気にしなければならないのは始まってから精々二日目か三日目くらいまで。
摂津に赴くのは明後日からだから、大分血の量も減っているだろう。
「そういえば前にどっかで見たような。どこでだっけ? 」
廁から出て手水を使っている時に、ふと記憶に上ったのは、世にも妖しく美しい男の姿であった。
───
「覚悟はいいかい?」
「大袈裟な……さっさと致せ」
燭台に火が灯された薄暗い一室に、男女二人が向き合い端座している。
「少し厚めの方が良いのでは? 」
「どうせなら、なるたけ美しうして差し上げるのじゃ」
正確に言うなら、部屋の中には他に男が二人いた。
「注文が煩いんだよ!いつも通りやれば、この射干様みたいに美しくなるに決まってるって。その気になれば婆あだって醜女だって、何にだって化けちまうんだから!いっそ婆あか醜女の方が果心は嫌がるんじゃないのかい? 」
射干の意見に三郎は賛同仕掛けたが否と首を振る。
「一理あるが、年寄りや醜女では化け物が女と見るかどうか」
「何処からどう見ても女に見えるようにするという事は、つまり美女に化けるという事になる」
伊集院藤兵衛も三郎に味方する。
「化粧すんのは若なんだから望みがあれば言ってごらんよ。どんな風に化粧して欲しい?可愛い感じかい?それとも色っぽい感じ?それとも──」
「何でも良い!さっさと致せ! 」
射干はそれを聞いて笑いを噛み殺した。
女にとって化粧とは楽しいものだ。
水に溶いた白粉を薄く乱法師の肌に伸ばしていく。
十代の肌は妬ましい程にきめ細かく透き通り、白粉で塗り隠してしまうのは勿体ないくらいだ。
繊細で少女のような顔立ちの乱法師であれば、眉を少し描いて紅を差すくらいで充分美しくなるだろう。
だが果心の厭う『女臭さ』に白粉の匂いも含まれている可能性がある為、薄く塗った白粉に濃淡を付け、更に重ねていく。
紅が混ざった上流の姫君達が使用する高価な白粉である。
ほんのり薄紅に色付く仕様で、咲きかけの桃の蕾を思わせる可憐さに、三郎の胸は不覚にもときめいた。
優美な顔立ちの中に、僅かにあった凛々しさが塗り潰されていく。
女に化ける、という事が目的である為、寝衣も薄い桃色で腰の紐は高い位置で結んでいる。
瞼を閉じてされるが儘の乱法師の長い睫毛が時折羞じらうように震え、これから初夜を迎える姫君と見紛うばかりで、三郎は興奮を抑える為に拳を握り締めずにはいられなかった。
元々色白である故に、白粉を塗っただけで変化が然程ある筈も無いのだが、女性らしく見えてくるのは不思議な事だ。
途中で瞼を開けた乱法師から鏡を隠し、もう一度目を瞑るよう促すと、墨で優しい弧を描きながら眉を形作っていく。
眉の描き形一つで、ぐっと顔の印象が変わる為、上手く描ける女程化粧上手と言われるのだ。
紅を差してもいないのに格段に女性らしさが増していく。
最後は紅の出番である。
「目尻にも紅を差すものなのか? 」
唇に載せるのかと思いきや目尻に差したので三郎が少し驚く。
「こうすると目元に色気が出る。女っぷりも上がるってもんさ! 」
射干は満足気に頷きながら、最後の仕上げに取り掛かった。
筆に再び紅を取り、たっぷりと唇に載せる。
懐紙を唇の間に挟ませ、余分な色を取る様はかなり妖艶で、伊集院藤兵衛ですら目の遣り場に困る程であった。
嫁入り前の深窓の姫君の花の顔《かんばせ》など中々拝む機会は無いのだ。
その代わりとなるのが、顔を隠さずに出歩く美少年達の優姿なのかも知れない。
円らな瞳を開けた乱法師は、男達が夢に思い描く美姫そのものであっただけでなく、桃色の寝衣、というおまけつきであった。
薄桃色の寝衣姿の姫など、その夫か侍女くらいしか拝める筈は無いのだから、全くもって悩ましい光景である。
「どうじゃ?女子に見えるか? 」
「ああ、どっからどう見てもね。ねえ!そっちの二人もそう思うだろう? 」
髪を櫛でとかしてやりながら他の二人に話しを振る。
「うっ…はっ……女性にしか見えませぬ」
「胸と尻が乏しいから布でも入れとくかい? 」
「そこまでするのか?何とのう嫌じゃ。藤兵衛や三郎はどうした方が良いと思うか? 」
「その、乱法師様のお気が進まなければ、その儘でも充分かと」
「そうでござる!何も身体付きまで、そこまで、いや──そこまでせずとも充分でござる。」
戸惑いの色を浮かべる黒曜の瞳は燭台の灯りを反射し綺羅綺羅と艶めき、可憐さの中に色気まで加わり、女体の膨らみまで持たせて完璧な女装姿を見たいと邪な願望を呑み込む二人であった。
疚しい気持ちを慌てて誤魔化す二人の意見で、その儘でいく事になった。
枕元から長い紐を次の間まで引く。
次の間側の先には鈴を付け、枕元側には輪っかを作り、何か異変があれば乱法師が引いて教えられるようにした。
先夜のように緊縛されてしまえば紐を引く事すら叶わないが、次の間に控えた者が時折襖を開けて中の様子を窺う手筈になっている。
女装をしたくらいで果心を退ける事が出来るのか。
三郎、藤兵衛、射干が交代で見張る事になった。
「では、皆宜しく頼む」
そう言い褥に臥したものの、目が冴えてしまい中々寝付けなかった。
「明日は上様御上洛。襲ってくるとしたら今宵の筈じゃ。もし来なければ──」
何時までも化け物の影に怯えたくない。
皆に迷惑を掛けているのではと申し訳ない気持ちで一杯だった。
若い身体は正直である。
昼間は疲れ知らずで動き回っていても、いざ床に入るといつの間にか瞼を閉じて寝息を立てていた。
くくく……何という美しさじゃ……あのように麗しく装って儂の訪れを待っているとは……化粧などしない方が素の美しさが際立ち好みだが、これはこれで可愛いらしい……今すぐ、そなたを掻き抱き、身体中を舐め回したい……
ああ……あの生臭い女さえ側におらねば……
じゃが、あと数日の辛抱じゃ……待っていよ……信長を必ず殺してやる……
呪われた存在は信長をも標的にしようとしている。
「そういえば、屏風は……」
「ふふ、祓いをする事を承知したが処分する気は無い。儂を害する事は天下をひっくり返す事じゃ。たかが呪いで狙う相手を殺せるならば、武田や毛利に贈ってやりたいくらいじゃな」
相変わらず揺らぐ事の無い自信に満ち溢れている。
「御体は大丈夫なのでございますか?例えば妙な物を見たり不気味な声を聞いたりなされないのですか? 」
意を決して訊ねてみた。
「何も変わった事は無い。それよりも、そなたは儂の身を案じてくれておるのか? 」
「上様のお強さは存じ上げておりますが、呪いが効くかどうかでは無く、呪う者がいるという事の方が一大事にて。私は屏風から悪しき気配を感じるのでございます」
邪気を一番浴びて影響が無いという事があるのだろうか。
強力な何かが信長を守護しているのだろうか。
それにしても乱法師が心配事を口にすればする程、危機感に駆られるどころか、信長は愛しさが込み上げてくるばかりだ。
眉を寄せ心配そうに見上げる顔は儚げでいじらしい。
「仮に悪しき者が屏風に宿っていようとも恐れる事は無い。儂には呪いが効かないのであろう。怖がらずとも良い。そなたは儂の側におれば安心じゃ」
信長を守らねばと脅威を訴えていた筈なのに、逆に己の方が縋っているようになってしまっているではないか。
「私は怖くはありませぬ。何よりも恐ろしいのは上様に危険が及ぶ事にございます。私の事はどうでも良いのです。どうか上様を呪う者にお気を付け下さい。あっ……」
信長の顔が近付いてきたと思った瞬間、また抱き締められた。
最早、二人っきりになれば甘い雰囲気になってしまうのを止めようが無く、極めて美形の彼が忠義の言葉を並べ立てると熱烈な愛の告白のようになってしまうのは困ったものであった。
怪異に気付いて貰う事は諦める他無かったが、今、褥に押し倒されるのだけは何とか避けたかった。
頭の片隅に初夜の出来事や男色本で得た様々な知識が浮かんでくると身体がかっと熱くなり、信長の胸に手を強く押し当て身を捩る。
拒む素振りと捉え、信長は啄んでいた彼の身を離した。
自分の言いたい事が通じず、伝わらないもどかしさで乱法師は泣きたくなった。
「儂はもう休む故、隣の部屋に下がって良い」
信長は心なしか残念そうであった。
『今日は乗り気ではない』と単純に捉えたようだ。
彼は何も悪い事はしていないのに、此度も果心について警告出来なかった事で、己の未熟さを責めずにはいられなかった。
隣の部屋に下がり一人になると、思い詰めた表情で寝所の襖を見詰めた。
安土城が出来上がるまでの仮の住まいとは思えぬ程、柱や欄間には昇り龍に棚引く雲、鳳凰、松、梅の花が、それはそれは立体的に彫られ見事な造形の美を成している。
仮の御殿でこれ程絢爛豪華なのだから、諸国の匠を呼び集めて建築中の安土城の素晴らしさは如何ばかりか。
燭台の火がじじっと音を立てたので、腰を浮かせて油が切れていないかと覗き込む。
柱や欄間の彫刻も見事であるが、寝所を隔てる襖絵は狩野永徳によるものだ。
これまた猛々しい虎が中央で睨みを利かせている雄壮な構図である。
虎の傍らに立つ松の幹が、太く単純で力強く、荒々しいまでの筆致で描かれている為、襖絵全体が迫力と躍動感に溢れている。
猛虎と松の木の存在感で目立たないが、枝に絡み付く一匹の蛇の姿も描かれていた。
一瞬、その蛇が動いたように見えた。
否、襖に映った影が動いただけであったのか。
静かに端坐する乱法師の影が長く伸びた。
細長い影は欄間の彫刻を越え天井にまで伸びて行く。
燭台の炎がまた揺れた。
影は鎌首を擡げた大蛇の形を成し、頭と覚しき部分に紅い二つの点が浮かび上がり、禍禍しい光りを放っていた。
──
天正五年の旧暦、閏七月。
僅かな綿雲ばかりの青空が広がり、今日も一日中うだるような暑さになりそうだった。
不寝番を終え森邸に戻ると、水を浴び朝食を済ませ文机に向かう。
一眠りする前に金山にいる家族に文を書こうと決めたが、筆に墨を含ませ、いざ認めようとすると何を書いて良いか分からない。
母の妙向尼からは一人立ちしたばかりの息子を案じる愛情細やかな文が頻繁に届く。
健康に関しては勿論、精神面の事まで酷く案じている様子が文面から伝わってくる。
故郷を巣立ったばかりの思春期の少年にとって母の温もりは未だ懐かしいものでありながら、幼子のように素直にその胸に飛び込む事は最早許されない。
正直に今の状況を考えれば、書く事は山程あった。
だが、どこの世界に遠く離れて暮らす母に、蛇の化け物に狙われているなどと知らせる愚息がいるだろうか。
頭を悩ませた結果、『とても元気に過ごしていて上様は慈悲深く、皆に優しくして貰い、安土での暮らしにも慣れて毎日が楽しい』と大嘘を書いた。
「ふう──」
書き終えるとごろんと仰向けで寝転び天井を眺める。
「そういえば思った通り昨夜は化け物の影も形も無かった。全く手も足も出ないという訳か。ああ、蛇じゃからのう」
我ながら上手いな、と笑えてくる。
「上様の御側におれば何者も恐れずに過ごせそうじゃ。数々の戦で勝利されてきたのは、神仏の強い御加護もあるのじゃろう」
そう考えると、むやみに心配する必要は無いやもしれぬと少し安堵した。
信心深くない癖に凄い強運の持ち主なのだろう。
「どのような神仏が上様を御守りしているのであろう?化け物が苦手とするのは女臭さだけなのだろうか?弱点が見つかれば恐るるに足りないのじゃが」
『儂の側におれば安心じゃ』
昨夜の信長の言葉が甦った。
白い寝衣姿で褥に横たわり、衾を捲り上げ誘う姿を思い浮かべただけで、顔が火照ってくる。
妄想は更にその先に進んだ。
一切の衣を脱ぎ捨て肌を重ね絡み合う。
信長自身を受け入れ、精が内に放たれる。
抱く側の男性心理には未だ疎かったが、果心が激怒しそうな事だけは理解出来た。
敬愛する主君相手に、彼にしては相当生々しい夢想に耽ってしまった事を恥じた。
こんな風に心身が変化した事を、絶対に母にだけは知られたくなかった。
──
「腕香の男については誰も住み処も名前さえ知らないって。たまに辻に現れては幻術を見せて去ってくだけだって言ってたよ。後をつけた奴もいたらしいけど、文字通り煙に巻かれたってさ。」
武藤三郎は果心の正体を突き止めるべく、腕香の男の正体を伴家の忍びに依頼して探らせていたのだ。
射干の口から結果を聞いて肩を落とした。
「腕香の男よりも果心の正体探った方が手っ取り早いんじゃないかい?同一人物の可能性があるなら余計にさ」
「元は興福寺の僧侶であったが破門されたと聞いておる。路頭に迷ったのを哀れに思い筒井順慶殿が目を掛けておられたと噂では……」
射干は呆れたように首を振った。
「噂が真実とは限らないよ。っていうか、そもそも人ですら無いかもだろう?荒木って奴に斬られた恨みで霊魂か妖怪に変化したって見方も出来るだろうけど。元が人間なのに蛇の妖怪になるっていうのも変だしさあ。果心なんて坊主がそもそも興福寺にいたのかってとこから洗い直した方がいい気がするけど……あっいててって……」
「どうした? 」
「あっ、ちょっと廁! 」
「顔色が悪いようじゃが悪い物でも食べたのか」
「ああ、もう!男には分かんない話しだよ。また潜っちまうから果心の件は太郎左様(伴家の棟梁)に言っておくよ! 」
そう言うや廁の方に凄い勢いで走って行ってしまった。
腹の調子が悪いのは食べ過ぎに違い無いと勝手に納得し、射干の言った事を、もう一度反芻してみる。
元から人では無い。
そう考える程に全身が粟立つ。
得体の知れぬ者に対峙した時、人は原初的恐怖に支配される。
人では無い者が人の皮を被り、長らく有力大名の城の奥深くに入り込んでいたというのか。
我が主だけの問題では済まず、天下を揺るがす一大事に発展する恐れすらあるのではないか。
「そんな奴に魅入られてしまった乱法師様は……」
陰陽師や祈祷師に依頼する他無いが、効いているのかどうか判断しづらい為、大金ばかり取られて終わりという事もあり得る。
今のところ思い当たる歴とした祈祷師は吉田兼和くらいだが、病ではなく狐狸妖怪の類いにまで能力を発揮したという実績に乏しいのが何とも心許なかった。
「急がねばなるまい。思ったよりも敵は厄介じゃ」
───
射干は着物の裾を絡げると、下腹部に締めた下帯のような白い布を外しに懸かった。
股の間に手を入れ、女陰の中に指を突っ込み何かを引っ張り出す。
丸められた和紙か布か。
いずれにせよ血で真っ赤に染まっていた。
「うっんん」
乱法師が使用する、庶民には贅沢な廁に然り気無く入ってしまった。
射干は綺麗好きなのだ。
部屋には樋箱《ひばこ》という漆塗りの所謂便器が置かれ、香まで焚かれているので実に快適だ。
砂が敷かれた箱の中に血が滴り落ちる。
体内に溜めておいた経血を出すと、腹痛と腰痛が少し和らいだ。
股間を紙で拭い、さっき引っ張り出した布を女陰に再び詰め込み白い布を締め直す。
間者として働く射干は並の女とは比べ物にならない程、筋力が発達している。
それは活動量が激しい事も意味しているので、月の障りの時には工夫が必要だった。
優れた生理用品など無かった時代、紙や布を宛がい下帯のようなもので上から押さえる方法が一般的だったが、射干の場合は更に女陰に詰め物をして防いでいた。
紙や布が高価だった為、その吸収力に頼るのでは無く、栓をする事で太股や股間の筋肉に力を入れ、経血が垂れるのを防ぐといった方が正しいかもしれない。
「明後日くらいまでの辛抱だ」
毎月の事でうんざりするが、血が滴るのを気にしなければならないのは始まってから精々二日目か三日目くらいまで。
摂津に赴くのは明後日からだから、大分血の量も減っているだろう。
「そういえば前にどっかで見たような。どこでだっけ? 」
廁から出て手水を使っている時に、ふと記憶に上ったのは、世にも妖しく美しい男の姿であった。
───
「覚悟はいいかい?」
「大袈裟な……さっさと致せ」
燭台に火が灯された薄暗い一室に、男女二人が向き合い端座している。
「少し厚めの方が良いのでは? 」
「どうせなら、なるたけ美しうして差し上げるのじゃ」
正確に言うなら、部屋の中には他に男が二人いた。
「注文が煩いんだよ!いつも通りやれば、この射干様みたいに美しくなるに決まってるって。その気になれば婆あだって醜女だって、何にだって化けちまうんだから!いっそ婆あか醜女の方が果心は嫌がるんじゃないのかい? 」
射干の意見に三郎は賛同仕掛けたが否と首を振る。
「一理あるが、年寄りや醜女では化け物が女と見るかどうか」
「何処からどう見ても女に見えるようにするという事は、つまり美女に化けるという事になる」
伊集院藤兵衛も三郎に味方する。
「化粧すんのは若なんだから望みがあれば言ってごらんよ。どんな風に化粧して欲しい?可愛い感じかい?それとも色っぽい感じ?それとも──」
「何でも良い!さっさと致せ! 」
射干はそれを聞いて笑いを噛み殺した。
女にとって化粧とは楽しいものだ。
水に溶いた白粉を薄く乱法師の肌に伸ばしていく。
十代の肌は妬ましい程にきめ細かく透き通り、白粉で塗り隠してしまうのは勿体ないくらいだ。
繊細で少女のような顔立ちの乱法師であれば、眉を少し描いて紅を差すくらいで充分美しくなるだろう。
だが果心の厭う『女臭さ』に白粉の匂いも含まれている可能性がある為、薄く塗った白粉に濃淡を付け、更に重ねていく。
紅が混ざった上流の姫君達が使用する高価な白粉である。
ほんのり薄紅に色付く仕様で、咲きかけの桃の蕾を思わせる可憐さに、三郎の胸は不覚にもときめいた。
優美な顔立ちの中に、僅かにあった凛々しさが塗り潰されていく。
女に化ける、という事が目的である為、寝衣も薄い桃色で腰の紐は高い位置で結んでいる。
瞼を閉じてされるが儘の乱法師の長い睫毛が時折羞じらうように震え、これから初夜を迎える姫君と見紛うばかりで、三郎は興奮を抑える為に拳を握り締めずにはいられなかった。
元々色白である故に、白粉を塗っただけで変化が然程ある筈も無いのだが、女性らしく見えてくるのは不思議な事だ。
途中で瞼を開けた乱法師から鏡を隠し、もう一度目を瞑るよう促すと、墨で優しい弧を描きながら眉を形作っていく。
眉の描き形一つで、ぐっと顔の印象が変わる為、上手く描ける女程化粧上手と言われるのだ。
紅を差してもいないのに格段に女性らしさが増していく。
最後は紅の出番である。
「目尻にも紅を差すものなのか? 」
唇に載せるのかと思いきや目尻に差したので三郎が少し驚く。
「こうすると目元に色気が出る。女っぷりも上がるってもんさ! 」
射干は満足気に頷きながら、最後の仕上げに取り掛かった。
筆に再び紅を取り、たっぷりと唇に載せる。
懐紙を唇の間に挟ませ、余分な色を取る様はかなり妖艶で、伊集院藤兵衛ですら目の遣り場に困る程であった。
嫁入り前の深窓の姫君の花の顔《かんばせ》など中々拝む機会は無いのだ。
その代わりとなるのが、顔を隠さずに出歩く美少年達の優姿なのかも知れない。
円らな瞳を開けた乱法師は、男達が夢に思い描く美姫そのものであっただけでなく、桃色の寝衣、というおまけつきであった。
薄桃色の寝衣姿の姫など、その夫か侍女くらいしか拝める筈は無いのだから、全くもって悩ましい光景である。
「どうじゃ?女子に見えるか? 」
「ああ、どっからどう見てもね。ねえ!そっちの二人もそう思うだろう? 」
髪を櫛でとかしてやりながら他の二人に話しを振る。
「うっ…はっ……女性にしか見えませぬ」
「胸と尻が乏しいから布でも入れとくかい? 」
「そこまでするのか?何とのう嫌じゃ。藤兵衛や三郎はどうした方が良いと思うか? 」
「その、乱法師様のお気が進まなければ、その儘でも充分かと」
「そうでござる!何も身体付きまで、そこまで、いや──そこまでせずとも充分でござる。」
戸惑いの色を浮かべる黒曜の瞳は燭台の灯りを反射し綺羅綺羅と艶めき、可憐さの中に色気まで加わり、女体の膨らみまで持たせて完璧な女装姿を見たいと邪な願望を呑み込む二人であった。
疚しい気持ちを慌てて誤魔化す二人の意見で、その儘でいく事になった。
枕元から長い紐を次の間まで引く。
次の間側の先には鈴を付け、枕元側には輪っかを作り、何か異変があれば乱法師が引いて教えられるようにした。
先夜のように緊縛されてしまえば紐を引く事すら叶わないが、次の間に控えた者が時折襖を開けて中の様子を窺う手筈になっている。
女装をしたくらいで果心を退ける事が出来るのか。
三郎、藤兵衛、射干が交代で見張る事になった。
「では、皆宜しく頼む」
そう言い褥に臥したものの、目が冴えてしまい中々寝付けなかった。
「明日は上様御上洛。襲ってくるとしたら今宵の筈じゃ。もし来なければ──」
何時までも化け物の影に怯えたくない。
皆に迷惑を掛けているのではと申し訳ない気持ちで一杯だった。
若い身体は正直である。
昼間は疲れ知らずで動き回っていても、いざ床に入るといつの間にか瞼を閉じて寝息を立てていた。
くくく……何という美しさじゃ……あのように麗しく装って儂の訪れを待っているとは……化粧などしない方が素の美しさが際立ち好みだが、これはこれで可愛いらしい……今すぐ、そなたを掻き抱き、身体中を舐め回したい……
ああ……あの生臭い女さえ側におらねば……
じゃが、あと数日の辛抱じゃ……待っていよ……信長を必ず殺してやる……
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