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信長は食い入るようにじっと見詰めた。
屏風から今にも鬼や亡者が飛び出してきそうな凄まじい迫力。
手を伸ばし、そっと血糊に指で触れてみる。
血が付いていない事を確認すると唸った。
「ぅむ、これは凄い!この絵が真の物ではないと申すのか?幻術とは思えぬが──真の罪人や鬼を屏風に閉じ込め、永遠の責め苦を見せられているようでは無いか。これは心疚しい者達が見れば、たちどころに改心しそうであるな。ははは!乱、そなたも触れて見よ! 」
信長はすっかり興奮し、後ろに控えていた乱法師に声を掛けた。
目で促す信長を乱法師が見詰め返す。
一瞬の事だったが、果心居士にはそれで充分だった。
『何じゃと何じゃとーーまだ清らかな生童と思うていたものを!既に信長に抱かれたというのか。く、ぬうーー美しい顔をして父親程も年の離れた男の精を身体に受けたというのか──ぐうぅ許せぬ──許せぬ! 』
果心居士の怒りの思念は己の内だけで燃え滾り、幸い乱法師には届かなかった。
だが軽く屏風に触れた瞬間、「あっっ!! 」と慌てて手を引っ込める。
触れた箇所は地獄絵図の紅蓮の炎。
指先を見ると火傷したように赤くなっていた。
「どうした! 」
「描かれた炎に触れましたら指の先に真の熱を感じ、このように…...」
眉を潜めながら指を差し出す。
信長は彼の手首を掴み、火傷の跡を見て感嘆した。
「これは!確かに火傷しておる。乱、良く冷やしておけ! 」
そう言いながら、顔を伏せている果心居士に目を向けた。
「儂は妖や呪いは信じぬ。だが、この絵は見事という他無い。乱が指に火傷を負ったのも、異常なまでの絵の生々しさも何か仕掛けでもあるのであろう。この絵が欲しい!儂に譲る気は無いか? 」
果心の上辺は至って平静に見えたが、心の内は嫉妬で燃え滾っていた。
非常に利己的で誇り高く、色素の薄い外見は酷薄で冷酷に見えるが実は激情に駆られやすい質であった。
劣等感が極めて強く、その裏返しで人の心を操り、恐れられる事を求めて止まない。
欲しい物を手に入れる為には手段は選ばず、邪魔者は容赦無く排除し、狙った物が手に入るまで徹底的に追いかける執念深さがあった。
目の前に立っているのは、今やこの国の最高権力者といえる男だ。
そういう意味では己の術を認めさせ、向こうから求めてきたのだから大いに自尊心を満足させる結果だった。
だが、それでは終わらず、今度は屏風を手に入れる為に、こちらの条件をどこまで呑むだろうかという嫌らしい算段が芽生えてきた。
信長を己の前に膝ま付かせたら、さぞかし心地好いだろう。
心の歪みが甚だしいが故に、何が欲しいかでは無く、何を欲すれば相手が困るかと知恵を絞った。
ある意味、果心には欲しい物が無かったとも言える。
幻術を持ってすれば金銭はいとも容易く手に入り、地位や名誉にも興味は無い。
強いて言うなら、恵まれた者達が苦しむ様を見るのが望みだった。
しかし乱法師の顔を思い浮かべると心が掻き乱れた。
彼こそが果心の心より望む物であったが、それを素直に認めるには自尊心が高過ぎた。
『信長の手が付いた汚らわしい小姓など──所詮お古ではないか。愚かしい…...だが所望したら、果たして信長はどんな顔をするのだろうか。試しに所望してみるか? 』
そのように考えてみたが、大勢が集う広間で己の劣情と執着を露にすれば恥をかくのは自分であり、その望みが聞き入れられたところで一晩閨に送り込んでくるくらいが精々と思い至ると屈辱で身体が震えた。
たった一晩、天下人の御物を借りるだけで満足だろうと軽視される己と、乱法師の身も心も毎晩自由に出来る信長との立場の違い。
『乱法師はこの場では望まぬ。下げ渡されるのでは無く奪い取ってやる! 』
「御所望であれば御譲りするのは吝《やぶさ》かではございませぬが、値が付けられる類いのつまらぬ絵で無い事はお分かり頂けるかと存じまする。それに、この絵を用いて辻説法を行うと人々が集まり、それを生業ともして参りました。故に…...ただでは御譲り出来ませぬ」
果心は色の薄い定まらぬ瞳で信長をじっと見詰め返した。
「ふっははは!貴様の申す事は道理である。ただで貰おうなどとは思っておらぬ。この屏風と引き換えにしても良いと思う物を申してみよ! 」
「私の望みは織田家への仕官にございまする」
信長だけでなく、大広間に居並ぶ家臣達は一瞬狐につままれたような顔になった。
妖しい幻術を見せられた後だけに、望んだ物が大方の予想を裏切り至極平凡であったからだ。
「何じゃ!仕官か。ふむ、人を驚かせ目を眩まし、人心を撹乱する能力に秀でておる故、戦でも使い途はありそうじゃな。良いだろう!碌高は五百石でどうじゃ? 」
五百石を現代の年収に換算するのは難しい。
石高を単純に金に置き換えれば三千七百五十万円くらいにはなるのだから、画に払う対価としたら妥当であろう。
ただ碌高として考えれば、税や軍役も課せられ家臣の給料も捻出しなければならない為、決して裕福とは言えない。
とはいえ、素性の知れぬ、他家での実績がある訳でも無い者を召し抱えるのに五百石は中々の厚遇である。
大金をこの場で手にして終わるのか、天下に最も近い信長の家臣となり更なる出世を目指すのか。
それぞれ長所短所はあるものの、仕官を望むからには五百石で召し抱えられる事は決して悪い話しでは無いだろうと誰もが思った。
信長の家臣になれば、金銭では購えぬ大きな利を得られるのだから。
「うふふ、ふうっふっふふあーはっはっはっははあーーくくくく」
果心は腹を抱えて笑い出した。
指を冷し戻って来た乱法師も他の者達も、無礼としか言い様の無い振る舞いに唖然とした。
信長は眉を僅かにしかめ、静かな低い声音で尋ねた。
「五百石では不服と申すか」
家臣一同に緊張が走る。
信長の表情と声色の微妙な変化にすら神経を尖らせる彼等は激昂前の危険な兆候と捉えた。
皆が声を殺し身体を固くして成り行きを見守る。
「天下を狙う上様の御言葉とは思えませぬ。この屏風の価値が僅か五百石とお思いですか?五百石どころか五百貫(五千万)以上の値打ちがございましょう。明、天竺、南蛮の国々を探し回ったとて、このような品は他にございませぬ」
不敵な笑みを浮かべて果心は言い放った。
「ふん、ならば如何程なら譲ると申すか」
媚びへつらいに、やや膿んできている昨今、挑戦的な態度を楽しむように鼻で笑う。
「一万石!せめて一万石は頂かねば割に合いませぬ」
「何じゃと?無礼にも程がある。ただの卑しい得体の知れぬ幻術師が世迷事を申しおって!一万石は言い過ぎじゃ! 」
それまで黙って聞いていた家臣達の間から、口々に批難の声が上がる。
果心を連れて来た筒井順慶は、大それた望みに顔から一気に血の気が引いた。
「果心、控えよ...…」
大和守護としての立場を揺るがしかねない無礼な態度を諌めようと順慶が制止を試みた。
「うっははは!待て!順慶──良い!面白い!一万石じゃと?随分吹っ掛けてきよったな」
可笑しげに笑い出したのは、今度は信長の方だった。
「貴様の申す事にも一理ある。故に考えた。やはり貴様が絵と引き換えに仕官を望むのであれば五百石。だが、絵だけならば五百貫払うと申したらどっちを取る? 」
乱法師は実に妙案と感心した。
絵の対価としてだけなら五百貫支払ってやるが、家臣として召し抱えるならば精々五百石。
「さてもさても、上様は分かっておられぬ。絵は絵、私は私と簡単に切り離せるものではございませぬ。生々しさは私の力によるものにて、絵のみをお手元に置かれても忽ち鮮やかさを失い、この世の価値に見合ったつまらぬ絵に成り下がるだけ」
果心居士の言う事は実は嘘であった。
鮮やかな絵こそが真であり、幻術で白紙に見せていただけだ。
つまり果心の手を離れた途端に絵が色褪せるとしたら、それこそが幻術なのだ。
それに絵には種が仕込まれている為、単純に果心の手から離れただけでは効力を失う事は無い。
その種というのが実に禍々しい物であった。
怨みを残し死んで逝った者達の血や臓物や髪の毛、呪詛に効果的な百足や蜘蛛といった毒虫、他には蜥蜴、蛇、犬、猫、狐等を殺し、骨まで煮込んだ特製絵の具で描かれていたのだ。
それだけの怨念が籠っているのだから、乱法師が地獄の炎に触れた瞬間、熱いと感じたのは無理からぬ事。
故に屏風と果心の間に物理的距離があろうとも強固に繋がっており、当に所有する者を呪い殺す呪具と成り得る恐ろしい代物だった。
「では色褪せても構わぬと申したら五百貫で譲るか?ふむ、それと屏風が離れたら鮮やかさが失われるのか確かめたい。一晩試したいと申したら受けるか?真であれば、五百石で召し抱えた上に五百貫も支払おうではないか。」
果心は今、二つの理由により屈辱を感じていた。
己の方が優位に立ち交渉していた筈なのに、あっという間に主導権を握られてしまった事に対して。
もう一つは信長の興味が己よりも屏風に向いているという事に対してである。
まるで果心など、おまけであるかのように──
『ぐぐう信長め、儂を軽んじおって。そんなに屏風を手に入れたくば好きなだけ側に置いて飽くまで眺めるが良いわ。その屏風を通して貴様を操り、乱法師も手に入れてくれようぞ。くくふ……』
「承知致しました。屏風は一晩預けましょう。存分に御覧頂き私の申す事を信じて下さいましたら御約束を御守り頂きたいと存じまする」
心の内で湧き起こった妄念を面に出さず無表情で返答した。
───
安土城下に用意された宿所で一晩過ごす事となった果心は、信長からの使者を迎えていた。
荒木忠左衛門という二十代の馬廻り衆である。
客人扱いとなってしまった果心の一日限りの世話役として付けられたのだ。
その実は、妙な術を使う者との認識から信長の命を受けた監視役でもあった。
「そちは元興福寺の僧であったらしいが何故破門されたのじゃ? 」
荒木の口調は高圧的だった。
「人は己の知識を越えた力を認めぬ事が多うございますので、私の幻術を下法と罵り私を追い出したのでございます」
「ふん、確かに見事であった。しかし所詮は子供騙しではないのか?真の金を生み出す事は叶わず、故に乏食のように大金や碌をせびったのであろう」
彼には馬廻りとしての誇りと、たかが少し幻術に長けているくらいで五百石で召し抱えられるなど胸糞悪いという思いがあった。
「これは人聞きの悪い。正当な対価を上様に申し出ているだけ。寧ろ少ないくらい……」
「大言壮語も良い加減に致せ!そちにも屏風にも真の価値は無く、術が無ければ絵の鮮やかさが失われるのであれば、本来はつまらぬ絵という事ではないか!上様はあのように申されたが、そちのような薄汚い坊主崩れに五百貫の大金を支払われる筈がなかろう。身の程を弁えよ! 」
信長への献上品で列を成し長い時間並ぶ者達が後を絶たない現状、側近衆の気持ちも大きくなろうと言うものだった。
「くっふふ……そのつまらない絵を欲しがり五百貫支払うと申されたのは上様ではございませぬか。天下人が一度口にした事を違えるならば、金惜しさに貧乏坊主から絵を奪い取ったと吹聴致しまする。さすれば恥をかかれるのは上様。大人しく使いっ走りの貴方様は様子を見ておられれば宜しいのです」
「こっの!使いっ走りじゃと?愚弄しおって!身に過ぎた欲をかくと地獄を見るぞ! 」
毒舌だが図星であり、誇りを傷付けられ荒木の内で憎悪の念が膨れ上がった。
「ふふふ…...地獄など私の庭のようなもの。脅せば、ただで屏風を献上するとでもお思いか?ただで献上させて己の手柄にしようという浅ましい算段か?それとも上様に命じられたのでございますか?そうであれば私の見込み違い!上様の天下も長くは続きますまい」
最早荒木の怒りは頂点に達し、思わず右手に置いていた太刀に手を掛けた程だった。
しかし、まだ辛うじて冷静な思考が彼を制御していた。
但し、殺した場合どう言い訳すべきかを考え躊躇しただけに過ぎない。
そんな危険な心理状態を更に煽るように果心は嘲笑った。
「ほう、私を斬りますか?その刀こそナマクラ!いえ、貴方御自身がナマクラでは?ぎらぎらとした目をして……如何にして上様に己の存在を認めて貰うか、お仲間から一歩抜きん出るかとそればかり。一体どっちが浅ましいやら……」
「ぐっっ!!無礼者が!そちが申した通り上様は、あのような薄気味悪い者を家中に迎えるなど笑止千万と申されていたぞ──それ故、儂に密命を含めて遣わしたのじゃ!聞かねば無礼討ちとて始末せよとな!汝のような奴は真の地獄に落ちよ!ぬうおおゥーー」
「ぎィィやあーーあぐっうゥゥ! 」
荒木が大きく太刀を降り下ろすと血飛沫がざっと散った。
最初の太刀で肩口から斜めに切り下げられた果心は絶命寸前だったが、怨みがましく白濁した目で荒木を睨み、弱々しく手を伸ばして来たのを胸を深く抉り止めを刺す。
「ふぐぁう……の...なが...め...」
断末魔の叫びが口から血泡と共に溢れた。
激しい息遣いで肩を上下させながら、荒木は果心の絶命する姿を見下ろした。
額には汗の粒が吹き出ており、顔全体に浴びた脂混じりの返り血が凄まじい。
暫く血の滴る太刀を右手に捧げ持った儘、仁王立ちで骸を見詰めていた。
少し落ち着いてくると身体の力が抜け、どっとその場にへたり込んだ。
時と共に熱が冷めると、何故このような行為に及んだのかと混乱してきた。
斬る前は、あれ程己が正しいと心に強く思ったのに、自身の言い分が今は弱いものに感じられた。
斬った事まで果心の思う壷で、操られていたのではないかと突然恐怖に苛まれる。
「じゃが、儂を操り何の利がある?確かに死んでおる……どう見ても、この血は本物」
顔に飛び散った血を手拭いで拭き取ると染みが出来た。
現実である事は疑いようが無く、相手が誰であれ殺めてしまった以上は報告の義務があり、理由が必要だった。
信長が約束を始めから反故にするつもりだったというのは真っ赤な嘘なのだから。
懐紙で刀の血と脂を拭おうとした時、果心の最期の言葉が脳裏に響いた。
『の...なが...め...』
死体が話す訳も無く幻聴とは思いはしたが、疚しさからか怖気をふるう。
『信長め! 』
確かにそう聞こえた。
「死人に何が出来ようか──」
そう言い捨てると死体に背を向け宿所を後にした。
屏風から今にも鬼や亡者が飛び出してきそうな凄まじい迫力。
手を伸ばし、そっと血糊に指で触れてみる。
血が付いていない事を確認すると唸った。
「ぅむ、これは凄い!この絵が真の物ではないと申すのか?幻術とは思えぬが──真の罪人や鬼を屏風に閉じ込め、永遠の責め苦を見せられているようでは無いか。これは心疚しい者達が見れば、たちどころに改心しそうであるな。ははは!乱、そなたも触れて見よ! 」
信長はすっかり興奮し、後ろに控えていた乱法師に声を掛けた。
目で促す信長を乱法師が見詰め返す。
一瞬の事だったが、果心居士にはそれで充分だった。
『何じゃと何じゃとーーまだ清らかな生童と思うていたものを!既に信長に抱かれたというのか。く、ぬうーー美しい顔をして父親程も年の離れた男の精を身体に受けたというのか──ぐうぅ許せぬ──許せぬ! 』
果心居士の怒りの思念は己の内だけで燃え滾り、幸い乱法師には届かなかった。
だが軽く屏風に触れた瞬間、「あっっ!! 」と慌てて手を引っ込める。
触れた箇所は地獄絵図の紅蓮の炎。
指先を見ると火傷したように赤くなっていた。
「どうした! 」
「描かれた炎に触れましたら指の先に真の熱を感じ、このように…...」
眉を潜めながら指を差し出す。
信長は彼の手首を掴み、火傷の跡を見て感嘆した。
「これは!確かに火傷しておる。乱、良く冷やしておけ! 」
そう言いながら、顔を伏せている果心居士に目を向けた。
「儂は妖や呪いは信じぬ。だが、この絵は見事という他無い。乱が指に火傷を負ったのも、異常なまでの絵の生々しさも何か仕掛けでもあるのであろう。この絵が欲しい!儂に譲る気は無いか? 」
果心の上辺は至って平静に見えたが、心の内は嫉妬で燃え滾っていた。
非常に利己的で誇り高く、色素の薄い外見は酷薄で冷酷に見えるが実は激情に駆られやすい質であった。
劣等感が極めて強く、その裏返しで人の心を操り、恐れられる事を求めて止まない。
欲しい物を手に入れる為には手段は選ばず、邪魔者は容赦無く排除し、狙った物が手に入るまで徹底的に追いかける執念深さがあった。
目の前に立っているのは、今やこの国の最高権力者といえる男だ。
そういう意味では己の術を認めさせ、向こうから求めてきたのだから大いに自尊心を満足させる結果だった。
だが、それでは終わらず、今度は屏風を手に入れる為に、こちらの条件をどこまで呑むだろうかという嫌らしい算段が芽生えてきた。
信長を己の前に膝ま付かせたら、さぞかし心地好いだろう。
心の歪みが甚だしいが故に、何が欲しいかでは無く、何を欲すれば相手が困るかと知恵を絞った。
ある意味、果心には欲しい物が無かったとも言える。
幻術を持ってすれば金銭はいとも容易く手に入り、地位や名誉にも興味は無い。
強いて言うなら、恵まれた者達が苦しむ様を見るのが望みだった。
しかし乱法師の顔を思い浮かべると心が掻き乱れた。
彼こそが果心の心より望む物であったが、それを素直に認めるには自尊心が高過ぎた。
『信長の手が付いた汚らわしい小姓など──所詮お古ではないか。愚かしい…...だが所望したら、果たして信長はどんな顔をするのだろうか。試しに所望してみるか? 』
そのように考えてみたが、大勢が集う広間で己の劣情と執着を露にすれば恥をかくのは自分であり、その望みが聞き入れられたところで一晩閨に送り込んでくるくらいが精々と思い至ると屈辱で身体が震えた。
たった一晩、天下人の御物を借りるだけで満足だろうと軽視される己と、乱法師の身も心も毎晩自由に出来る信長との立場の違い。
『乱法師はこの場では望まぬ。下げ渡されるのでは無く奪い取ってやる! 』
「御所望であれば御譲りするのは吝《やぶさ》かではございませぬが、値が付けられる類いのつまらぬ絵で無い事はお分かり頂けるかと存じまする。それに、この絵を用いて辻説法を行うと人々が集まり、それを生業ともして参りました。故に…...ただでは御譲り出来ませぬ」
果心は色の薄い定まらぬ瞳で信長をじっと見詰め返した。
「ふっははは!貴様の申す事は道理である。ただで貰おうなどとは思っておらぬ。この屏風と引き換えにしても良いと思う物を申してみよ! 」
「私の望みは織田家への仕官にございまする」
信長だけでなく、大広間に居並ぶ家臣達は一瞬狐につままれたような顔になった。
妖しい幻術を見せられた後だけに、望んだ物が大方の予想を裏切り至極平凡であったからだ。
「何じゃ!仕官か。ふむ、人を驚かせ目を眩まし、人心を撹乱する能力に秀でておる故、戦でも使い途はありそうじゃな。良いだろう!碌高は五百石でどうじゃ? 」
五百石を現代の年収に換算するのは難しい。
石高を単純に金に置き換えれば三千七百五十万円くらいにはなるのだから、画に払う対価としたら妥当であろう。
ただ碌高として考えれば、税や軍役も課せられ家臣の給料も捻出しなければならない為、決して裕福とは言えない。
とはいえ、素性の知れぬ、他家での実績がある訳でも無い者を召し抱えるのに五百石は中々の厚遇である。
大金をこの場で手にして終わるのか、天下に最も近い信長の家臣となり更なる出世を目指すのか。
それぞれ長所短所はあるものの、仕官を望むからには五百石で召し抱えられる事は決して悪い話しでは無いだろうと誰もが思った。
信長の家臣になれば、金銭では購えぬ大きな利を得られるのだから。
「うふふ、ふうっふっふふあーはっはっはっははあーーくくくく」
果心は腹を抱えて笑い出した。
指を冷し戻って来た乱法師も他の者達も、無礼としか言い様の無い振る舞いに唖然とした。
信長は眉を僅かにしかめ、静かな低い声音で尋ねた。
「五百石では不服と申すか」
家臣一同に緊張が走る。
信長の表情と声色の微妙な変化にすら神経を尖らせる彼等は激昂前の危険な兆候と捉えた。
皆が声を殺し身体を固くして成り行きを見守る。
「天下を狙う上様の御言葉とは思えませぬ。この屏風の価値が僅か五百石とお思いですか?五百石どころか五百貫(五千万)以上の値打ちがございましょう。明、天竺、南蛮の国々を探し回ったとて、このような品は他にございませぬ」
不敵な笑みを浮かべて果心は言い放った。
「ふん、ならば如何程なら譲ると申すか」
媚びへつらいに、やや膿んできている昨今、挑戦的な態度を楽しむように鼻で笑う。
「一万石!せめて一万石は頂かねば割に合いませぬ」
「何じゃと?無礼にも程がある。ただの卑しい得体の知れぬ幻術師が世迷事を申しおって!一万石は言い過ぎじゃ! 」
それまで黙って聞いていた家臣達の間から、口々に批難の声が上がる。
果心を連れて来た筒井順慶は、大それた望みに顔から一気に血の気が引いた。
「果心、控えよ...…」
大和守護としての立場を揺るがしかねない無礼な態度を諌めようと順慶が制止を試みた。
「うっははは!待て!順慶──良い!面白い!一万石じゃと?随分吹っ掛けてきよったな」
可笑しげに笑い出したのは、今度は信長の方だった。
「貴様の申す事にも一理ある。故に考えた。やはり貴様が絵と引き換えに仕官を望むのであれば五百石。だが、絵だけならば五百貫払うと申したらどっちを取る? 」
乱法師は実に妙案と感心した。
絵の対価としてだけなら五百貫支払ってやるが、家臣として召し抱えるならば精々五百石。
「さてもさても、上様は分かっておられぬ。絵は絵、私は私と簡単に切り離せるものではございませぬ。生々しさは私の力によるものにて、絵のみをお手元に置かれても忽ち鮮やかさを失い、この世の価値に見合ったつまらぬ絵に成り下がるだけ」
果心居士の言う事は実は嘘であった。
鮮やかな絵こそが真であり、幻術で白紙に見せていただけだ。
つまり果心の手を離れた途端に絵が色褪せるとしたら、それこそが幻術なのだ。
それに絵には種が仕込まれている為、単純に果心の手から離れただけでは効力を失う事は無い。
その種というのが実に禍々しい物であった。
怨みを残し死んで逝った者達の血や臓物や髪の毛、呪詛に効果的な百足や蜘蛛といった毒虫、他には蜥蜴、蛇、犬、猫、狐等を殺し、骨まで煮込んだ特製絵の具で描かれていたのだ。
それだけの怨念が籠っているのだから、乱法師が地獄の炎に触れた瞬間、熱いと感じたのは無理からぬ事。
故に屏風と果心の間に物理的距離があろうとも強固に繋がっており、当に所有する者を呪い殺す呪具と成り得る恐ろしい代物だった。
「では色褪せても構わぬと申したら五百貫で譲るか?ふむ、それと屏風が離れたら鮮やかさが失われるのか確かめたい。一晩試したいと申したら受けるか?真であれば、五百石で召し抱えた上に五百貫も支払おうではないか。」
果心は今、二つの理由により屈辱を感じていた。
己の方が優位に立ち交渉していた筈なのに、あっという間に主導権を握られてしまった事に対して。
もう一つは信長の興味が己よりも屏風に向いているという事に対してである。
まるで果心など、おまけであるかのように──
『ぐぐう信長め、儂を軽んじおって。そんなに屏風を手に入れたくば好きなだけ側に置いて飽くまで眺めるが良いわ。その屏風を通して貴様を操り、乱法師も手に入れてくれようぞ。くくふ……』
「承知致しました。屏風は一晩預けましょう。存分に御覧頂き私の申す事を信じて下さいましたら御約束を御守り頂きたいと存じまする」
心の内で湧き起こった妄念を面に出さず無表情で返答した。
───
安土城下に用意された宿所で一晩過ごす事となった果心は、信長からの使者を迎えていた。
荒木忠左衛門という二十代の馬廻り衆である。
客人扱いとなってしまった果心の一日限りの世話役として付けられたのだ。
その実は、妙な術を使う者との認識から信長の命を受けた監視役でもあった。
「そちは元興福寺の僧であったらしいが何故破門されたのじゃ? 」
荒木の口調は高圧的だった。
「人は己の知識を越えた力を認めぬ事が多うございますので、私の幻術を下法と罵り私を追い出したのでございます」
「ふん、確かに見事であった。しかし所詮は子供騙しではないのか?真の金を生み出す事は叶わず、故に乏食のように大金や碌をせびったのであろう」
彼には馬廻りとしての誇りと、たかが少し幻術に長けているくらいで五百石で召し抱えられるなど胸糞悪いという思いがあった。
「これは人聞きの悪い。正当な対価を上様に申し出ているだけ。寧ろ少ないくらい……」
「大言壮語も良い加減に致せ!そちにも屏風にも真の価値は無く、術が無ければ絵の鮮やかさが失われるのであれば、本来はつまらぬ絵という事ではないか!上様はあのように申されたが、そちのような薄汚い坊主崩れに五百貫の大金を支払われる筈がなかろう。身の程を弁えよ! 」
信長への献上品で列を成し長い時間並ぶ者達が後を絶たない現状、側近衆の気持ちも大きくなろうと言うものだった。
「くっふふ……そのつまらない絵を欲しがり五百貫支払うと申されたのは上様ではございませぬか。天下人が一度口にした事を違えるならば、金惜しさに貧乏坊主から絵を奪い取ったと吹聴致しまする。さすれば恥をかかれるのは上様。大人しく使いっ走りの貴方様は様子を見ておられれば宜しいのです」
「こっの!使いっ走りじゃと?愚弄しおって!身に過ぎた欲をかくと地獄を見るぞ! 」
毒舌だが図星であり、誇りを傷付けられ荒木の内で憎悪の念が膨れ上がった。
「ふふふ…...地獄など私の庭のようなもの。脅せば、ただで屏風を献上するとでもお思いか?ただで献上させて己の手柄にしようという浅ましい算段か?それとも上様に命じられたのでございますか?そうであれば私の見込み違い!上様の天下も長くは続きますまい」
最早荒木の怒りは頂点に達し、思わず右手に置いていた太刀に手を掛けた程だった。
しかし、まだ辛うじて冷静な思考が彼を制御していた。
但し、殺した場合どう言い訳すべきかを考え躊躇しただけに過ぎない。
そんな危険な心理状態を更に煽るように果心は嘲笑った。
「ほう、私を斬りますか?その刀こそナマクラ!いえ、貴方御自身がナマクラでは?ぎらぎらとした目をして……如何にして上様に己の存在を認めて貰うか、お仲間から一歩抜きん出るかとそればかり。一体どっちが浅ましいやら……」
「ぐっっ!!無礼者が!そちが申した通り上様は、あのような薄気味悪い者を家中に迎えるなど笑止千万と申されていたぞ──それ故、儂に密命を含めて遣わしたのじゃ!聞かねば無礼討ちとて始末せよとな!汝のような奴は真の地獄に落ちよ!ぬうおおゥーー」
「ぎィィやあーーあぐっうゥゥ! 」
荒木が大きく太刀を降り下ろすと血飛沫がざっと散った。
最初の太刀で肩口から斜めに切り下げられた果心は絶命寸前だったが、怨みがましく白濁した目で荒木を睨み、弱々しく手を伸ばして来たのを胸を深く抉り止めを刺す。
「ふぐぁう……の...なが...め...」
断末魔の叫びが口から血泡と共に溢れた。
激しい息遣いで肩を上下させながら、荒木は果心の絶命する姿を見下ろした。
額には汗の粒が吹き出ており、顔全体に浴びた脂混じりの返り血が凄まじい。
暫く血の滴る太刀を右手に捧げ持った儘、仁王立ちで骸を見詰めていた。
少し落ち着いてくると身体の力が抜け、どっとその場にへたり込んだ。
時と共に熱が冷めると、何故このような行為に及んだのかと混乱してきた。
斬る前は、あれ程己が正しいと心に強く思ったのに、自身の言い分が今は弱いものに感じられた。
斬った事まで果心の思う壷で、操られていたのではないかと突然恐怖に苛まれる。
「じゃが、儂を操り何の利がある?確かに死んでおる……どう見ても、この血は本物」
顔に飛び散った血を手拭いで拭き取ると染みが出来た。
現実である事は疑いようが無く、相手が誰であれ殺めてしまった以上は報告の義務があり、理由が必要だった。
信長が約束を始めから反故にするつもりだったというのは真っ赤な嘘なのだから。
懐紙で刀の血と脂を拭おうとした時、果心の最期の言葉が脳裏に響いた。
『の...なが...め...』
死体が話す訳も無く幻聴とは思いはしたが、疚しさからか怖気をふるう。
『信長め! 』
確かにそう聞こえた。
「死人に何が出来ようか──」
そう言い捨てると死体に背を向け宿所を後にした。
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