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こうした行為も初夜の後、何度か繰り返され、打ち解けた隙に、いつも思うが儘にされてしまうのだ。
とはいえ、それ以上の行為に及ぶつもりがない事は伝わってくるので、怖いという感情は湧いてこない。
安土に来てから凡そ二月程。
金山にいた頃から信長の恐ろしい噂を耳にしながら、彼自身が恐怖を感じたのは初夜の一度きりだった。
───
その日は、酷く暑かった。
十日以上前に梅雨は明け、晴天は有り難くもあるが、本格的な夏日がずっと続いていた。
「筒井順慶殿がお見えになられました」
安土城が完成するまでの仮住まいの御殿の一室で戦況、政に関する各地からの報告を受けながら、書面に目を通し自筆で署名をしている最中だった。
控えの間に詰めている小姓の内の一人が来訪を告げる。
「いよいよ噂の幻術が拝めるのか。面白い!仙、皆を大広間に集めよ。奥の女達にも見せてやろうではないか。菊は順慶だけ連れて、表の部屋で待たせておけ。儂は先ずそちらに行って、政の話しを済ませてから参る」
「承知致しました」
仙と呼ばれたのは、側近の万見仙千代重元。
菊と呼ばれたのは、既に字《あざな》は久太郎と改めているが、小姓時代からの癖で、信長がつい幼名で呼んでしまう秀才、堀久太郎秀政の事である。
乱法師は他の小姓達と共に控えの間で雑用に従事していたが、果心居士の来訪を聞き、胸踊らせながら大広間へと急いだ。
──
筒井順慶は謁見の間として使用されている部屋で、信長が現れるのを待っていた。
今、己と信長との関係はすこぶる良好で、心配の種は一粒もないように思えた。
実は一昨年信長の養女と祝言を上げており、大和守護を任された事に加え並々ならぬ重用と厚遇を得ている。
しかし大和一国を手にする迄には、紆余曲折あった。
言うまでもなく、仇敵松永久秀のせいである。
順慶は彼の事ならば恋慕う相手のように誰よりも良く知っていた。
敵国よりも松永の周辺に放っている間者の数の方が多いくらいだ。
それ故、数日前に松永が安土を訪れた事は当然耳にしている。
まさか平蜘蛛を献上したのでは──
常に松永が一歩も二歩も先んじ、散々苦しめられて来たが今は優位に立っている。
己の立場を脅かす武将が松永だけではないと分かっていながら『奴だけには絶対に負けたくない。』と心底思うのも無理からぬ程の因縁があった。
折角手に入れた優位を覆す可能性を秘めた名物茶器『平蜘蛛』。
信長が一国にも替え難い程欲している茶器を献上すると申し出れば、それと引き換えに順慶よりも強い立場を要求する事も可能であろう。
信長と松永の間に密約が交わされたのではないかと気を揉み、間者に探らせてみたものの内容まで突き止める事は出来なかった。
性の指南書と性具と精力剤だと知ったら、さぞかし拍子抜けするだろう。
思考が一段落着いたところで、堀秀政が襖を開けて入って来た。
「上様は直ぐに参られます。暫しお待ち下され」
少しの間、堀秀政と大和の情勢や他愛ない世間話しをしているうちに、信長の入室が告げられ平伏する。
「順慶、多聞山城の破却は進んでおるようじゃな」
前置きは抜きに要件から話し始めるところは相変わらずだ。
「はっ!大和国中の人夫共を集め、高櫓もほぼ破却致しました」
「うむ、石や木材等、使える物は筒井城の修築にでも使うが良い」
「忝のう存じまする。狩野永徳の襖絵や金細工に柱など、焼却するには惜しい物も多数ございますが、如何なさいますか? 」
「安土城や二条の邸に移築するつもりじゃ」
今年に入り、信長は大和の多聞山城の破却を命じた。
多聞山城は松永久秀が築いた居城であり、大和支配の拠点となっていた。
非常に先鋭的且つ独創的であり、安土城の先駆けともなったと云われる程、当時の人々を驚かせた。
ポルトガル宣教師ルイス・フロイスは記す。
その城は白く明るく輝いていた、と。
壁を作る際、石灰に砂を混ぜないで、城造りの為に用意された白い紙を贅沢に使用した為である、と。
瓦は全て黒で指二本分の厚さがあり、一度葺けば四、五百年保つ程の耐久性と評価した。
それ以前の城は、居館を土塁で囲んだ程度であったのだから人々が驚いたのは無理も無い。
狩野永徳の金の障壁画、柱は真鍮製で金に塗られ華やかな彫刻が施され、城内の庭園には池や川が流れ、橋も架けられ四季折々楽しめる草花樹木が植えられていた。
諸国から大名や公家が見物に訪れたと云う。
此処まで書くと、確かに安土城を彷彿とさせる造りである。
しかし少し異なるのは、この城の名前の由来となったとも伝わる多聞櫓の存在であろうか。
多聞櫓とは長屋形の櫓で、数多の穴が穿たれ鉄砲で攻撃出来るようになっていた。
そういう点では如何に優美華麗であっても、戦いに備えた乱世の城と言えただろう。
順慶が真っ先に破却した高櫓は四層で、それまでなかった『天守』の先駆けであったとも云わる。
安土城にも影響を及ぼしたであろう類を見ない斬新華麗、大和という日の本の中心で興福寺や東大寺を眼下に望み、当時の松永久秀の権勢を思えば、この国の王たる者に相応しい城との自負さえあったかもしれない。
その城が何故破却され、筒井順慶との優位が逆転し、大和の支配者としての立場を追われる羽目になったのか。
後世にまで悪名が伝わる松永は、生涯二度信長に叛いた。
野心家と思われがちな彼だが叛きたくて叛いた訳ではなく、止むに止まれぬ事情があった。
名物茶器、九十九髪茄子を献上し信長の武力を背景に筒井順慶と三好三人衆を蹴散らし、事実上支配権を手に入れた以上、大和を長く空ける訳にはいかなかった。
しかし臣従してからは、織田家の都合で各地の戦に駆り出される事になってしまった。
大和を空けた途端に筒井順慶が隙を狙い攻めてくる。
これでは意味が無いと不満を募らせていたところ、信長を倒そうとする大きな力が動いた。
武田信玄、石山本願寺、浅井長政、朝倉義景、足利義昭等による信長包囲網である。
松永久秀は、敵対していた三好三人衆とさえ手を結び信長包囲網に加わった。
当に生き残る為には形振り構わず強い者に与しただけだが、予想だにしていなかったのが甲斐の武田信玄の死であり、それにより優勢だった包囲網が瓦解してしまう。
故に多聞山城を明け渡す事を条件に降伏し、再び信長の陣に舞い戻った。
その間、筒井順慶が着実に信長に近付き、大和の守護という立場を手に入れる流れとなったのだ。
それだけに、多聞山城の破却を命じられた時、順慶は溜飲が下がる思いだった。
「紀伊の雑賀孫一等がとうとう誓詞を書いて上様に臣従を誓ったそうでございますね」
「ふふ、大人しいのも一時の事であろうが、石山本願寺の周りに付け城を築かせる時くらいは稼げるであろう。じわじわと追い詰めてくれるわ──それはそうと猫と鶏は集まったか」
「はっ……はい!大和中から掻き集めましてございまする」
猫と鶏を集めよと信長から命じられた時、親しい付き合いの興福寺の多門院英俊と密かな囁きを交わしたものだ。
順慶は英俊程、無駄な殺生を厭わない。
それは僧の姿をしていても魂の大半は武将の色に染まっているからだ。
ただ、鷹の餌にすると知り、あまり良い気分はしなかった。
紛れもない僧侶の英俊は出来る限り猫と鶏を隠し、順慶も見て見ぬ振りをしてやった。
故に大和国中から集めたと言うのは嘘だった。
「うむ、ではまとめて安土に運べ」
順慶の杞憂をよそに、あまり細かい数は気にしていないのか満足そうに頷く。
「それはそうと、先日弾正(松永)が安土に参ってのう。貴様が連れて参った果心という男の話しをしておった」
鷹の餌の件では安堵したものの、いきなり松永の名が出た為、膝の上に置いた手で墨染めの衣を強く握り締める。
「弾正殿は何か面白い話しをしておりましたか?果心は確かに、信貴山城にもたまに足を運んでおるらしいですな。はは、自由な男でございます故」
心の動揺を隠し、努めてゆったりと振る舞う。
「存外小心な男よ。亡き妻の亡霊を見せられて恐ろしかったと申しておった。ふふ、流石にこの儂の肝を冷やすのは無理であろうが、少しは驚かせて貰いたいものじゃ。」
「ははは、上様のような豪気な御方の肝を冷やすなど──果心の幻術さえ効かぬやもしれませぬが、目を驚かせる術は無尽でございます故、少なくとも楽しんで頂けるかと存じまする。それにしても他に面白い話しは特になかったのでございますか?わざわざ安土まで出向いて。話し……ではなく、何か珍しき物を献上したのでは? 」
どうしても気になり探りを入れる。
「珍しき物ではあったが平蜘蛛ではない」
信長は言わんとする事を即座に見抜き、あっさり否定した。
その返答にほっとしたが、不利な立場に立たされた老獪な松永が、何も手を打たぬとは考え難かった。
「上様が望まれる品が某の手にあれば直ぐにでも献上致しましょうものを。上様の御心を焦らすような真似をしてまで、此度一体何を献上されたのか興味が湧きまする」
「く、ふふ、弾正らしいと言えば弾正らしいが。曲直瀬道三に書かせた交合の上手いやり方の指南書と、舶来の性具や張り形がいくつか。後は男の一物を強くする薬じゃ。ははは!」
やはり信長は明け透けだった。
順慶が目を丸くする。
「献上された品は……それだけでございますか?そんな──」
『淫らな』と続けたかったが、信長がそうした道具を用いるのを好むのであれば、愚弄する事になってしまうと慌てて言葉を呑み込む。
「あやつ、松虫を飼っておるらしい」
「──は? 」
唐突過ぎて意味が分からず間の抜けた顔で聞き返す。
「その松虫がもう三年も生きていると自慢気に語っておった」
「松虫、でございますか」
どうしても話しが見えてこない。
「つまり松虫でさえ飼い方次第で長く生きるのだから、人ならば尚更身を慎めば長生き出来ると言ってきよった」
「はあ……」
益々意味が分からず適当に相槌を打つ。
「それ故、交合のやり方が特に養生には重要とかで曲直瀬道三の指南を受けているらしい」
「なるほど!それで合点が行きました。弾正殿が六十を越えても御元気なのは、そうした工夫によるものと言う訳ですな」
漸く全てが頭の中で繋がると、『そこまでして長生きしたいか年寄りめ!まだまだ生きそうじゃな。ええい、腹が立つ!』と、腸が煮えくり返った。
「上様、大広間に奥方様、御側室様方、若君、姫君、皆様お揃いでございます。果心居士殿をお連れしても良うございますか? 」
乱法師が襖の外から声を掛けた。
「乱!入って参れ」
声だけで直ぐに彼と分かり命じる。
乱法師は品良く美しい挙措で襖を開けて入り平伏した。
「近う」
流石に順慶がいる前で膝の上に来いと言う意味ではなかろうと側に進む。
順慶は乱法師を見て、次に信長に目を移した。
信長が乱法師に送る眼差しで瞬時に察した。
「森乱法師じゃ。宇左山で討ち死にした三左衛門可成の倅じゃ」
「森乱法師と申しまする。以後お見知り置き下さいませ」
礼儀正しく頭を下げた彼を見て順慶はつい下世話な考えを巡らせてしまう。
『既に閨で愛でられておるようじゃな。上様の御顔ときたら全く。可愛くて仕方ない御様子。ふぅむ、まだ初々しく固苦しい。蕾は恐らくまだ開かれていないのであろうな』
僧侶の姿をして興福寺に深い縁がある家柄だけの事はあり、稚児や若衆は割合と好む方である。
美童を見ると、つい品定めをしてしまうのだ。
経験で培われた眼力は、ある意味真実を言い当てていたが一点のみは外れていた。
「準備が出来たらしい。そろそろ噂の果心居士とやらの術を見に参るとするか」
──
大広間には、普段は表には顔を出さない、正室のお濃の方と側室達や姫君、幼い若君等も勢揃いして真に華やかな眺めであった。
真夏に相応しく、涼しげな単に腰に巻いた重ねの小袖は生絹や紗の目にも鮮やかな紅、薄桃、藤色、若草色に辻が花染め、刷り箔、刺繍、鹿の子絞りで花や鳥、様々な模様を象った豪華な装いでずらりと居並ぶ。
信長が順慶、乱法師等小姓を後ろに従え上段に座した。
大広間にいる全ての者達が平伏すると、中央に既に控えていた果心居士に命じた。
「面を上げよ!その方が果心居士か」
「は……此度は御前にて拙い術を御披露つかまつる運びと相成り恐悦至極に存じまする」
果心居士は意外な事に、いつもの驕慢さはどこへやら、至って神妙に頭を下げた。
皆の視線が一斉に果心に集中した。
それは、あまりにも彼の風体を異様と感じたからである。
日本各地に少しずつ南蛮寺が建てられ、切支丹に改宗する者達は貴賤老若男女を問わず増えており、南蛮人の顔立ちにも随分見馴れてきている。
しかし果心居士の見た目はそれにも属さず、ましてや倭人の特徴とはかけ離れてい過ぎた。
瞳は白濁して色が薄く、まるで盲かと思う程焦点が定まらず、口元に笑みを浮かべる様は正直薄気味悪い。
頭を下げていても全てを見透かしているような傲慢さが漂ってくる。
全身の色が薄く、蛇の腹か水死体を思わせる緑がかった蒼白さで髪とて同様である。
決して人に好感を与える容姿ではないのに、幻術の匠という評判を彼の異相が却って高め、期待を煽る道具とはなっていた。
「上様は天下を狙うに相応しい御方。器が大きくていらっしゃる。並大抵の事では驚かれぬと存じますので本日は格別な術をお見せ致しましょう」
高く掠れる不気味な声、全体的に蒼白く生気の無い陰鬱な容姿。
乱法師は果心居士の姿を見た途端に既視感を覚えた。
果心居士こそ、まさしく都にいた腕香の男であったのだが、どのような術か乱法師の記憶はぼやけ、何処かで見たようなという程度にしか認識出来なかった。
大広間に集う多くの人々と同じく好奇の目で注視したが、焦点の定まらぬ白濁した瞳が熱心に見詰め返しているように思え、ぞっと肌が粟立つ。
『そこにおられた……また御会い出来た。私の想いが通じた。離れた場所にいても繋がっているのです。あの時……蛇の血を通して蛇の念を通して固く結ばれた。探さずとも必ず出会い、貴方と私の運命は交わる。強い強い運命の糸が数多に縺れ絡まっている。何人にも解けない強い糸で……』
乱法師の頭の中で陰気な声が鬱々と響いた。
はっと周りを見回すが、他の者達にも声が聞こえている様子はない。
『何故、自分にだけ?』と思うと同時に、脳裏に再び紅に光る虹彩が浮かんだ。
本能的に消し去ろうと頭を振る。
何かを思い出そうとすると靄が掛かり阻まれ、無理矢理植え付けられた記憶に支配されているような不快な気分だった。
その声が果心居士から己のみに発せられている事は分かったが、何を言っているのか全く理解出来なかった。
「先ず、お美しい奥方様方、姫君様方が折角大勢おられるのですから、女性が喜ばれる幻術をお見せしたいと存じますので紙と筆をご用意頂きたい」
「良かろう」
信長が小姓達に軽く目で合図すると、忽ち文机に硯と筆と紙が用意される。
果心居士は筆を墨に浸し、紙にさらさらと何かを描いた。
終わると筆を置き、その場に立ち上がると紙を裏返し描いた絵を一同に見せる。
それは花鳥風月の絵であった。
明るい月夜に照らされ、花びらを散らす桜の樹の枝に止まる美しい鳥。
見事な筆致に感嘆の溜め息が洩れる。
「ふうむ。絵師にも勝る腕前じゃのう。確かに驚いた。だが──」
信長が最後まで言い終える前に、果心居士は紙の後ろから息をふうっと吹き掛けた。
すると目映い金粉が舞い、一瞬辺りは暗くなったが、冴え冴えとした明るい満月が昇ると金粉が桃色の花びらに変じ、大広間に集まった人々の上にはらはらと散り落ちた。
辺りを見回せば枝に止まる小鳥の軽やかな囀り、美しい舞姫や若衆達が歌舞音曲を披露し、美酒に美味い肴までが並ぶ春の宵の宴の景色に変わっていた。
突然の変化に始めは戸惑っていた者達も、この世の美と娯楽に忽ち目を奪われ、夢か現かと心の隅では思いながらも抗えず溺れてしまう。
女性等は満開の桜、現の世には存在しない瑠璃色や虹色、金色の鮮やかな鳥達の鳴き声に陶然と目を細める。
男達はといえば、美酒や美しい舞姫、若衆が舞い音楽を奏でる姿に見惚れ鼻の下を伸ばし、策略であれば忽ち首を掻き切られていたであろう。
乱法師も先程の不気味な声の事は忘れ、すっかり目を奪われていた。
『お気に召されたようですね。貴方の麗しさには叶いませぬが、これはほんの小手調べ。お望みならば、いくらでも面白きものを御覧に入れましょう』
しかし頭の中に、再び絡み付くようなねっとりとした声が響き、吐き気と目眩に襲われた。
『いらぬ何も、もう良い……止めよ』
陰気な声を弾き出そうと必死に抗う。
途端に果心居士がたじろぐ様子が伝わってきた。
同時に乱法師が口に出して言えなかったその儘を、信長が大声で命じた。
「もう良い!止めよ!果心」
信長の一声で美しい幻想的な風景は直ちに掻き消え、元の大広間に戻った。
目を擦る者、まだ夢から覚めやらぬように呆けている者、きょろきょろと辺りを見回す者、頬をつねる者、幻の酒に酔い、しどけない姿になっていた者は慌てて居ずまいを正す。
大広間の中央には果心居士が変わらぬ様子で平伏していた。
「上様にはお気に召して頂けなかったようでございますね」
静かに口を開き顔を上げる。
「いや、見事な幻術であった。しかし好みではない。儂の目には花や鳥や月が時折紙に見えた。他の者達には、そうではなかったようじゃがのう」
「流石は上様。やはり只ならぬ御方。強い御心をお持ちなのでしょう。先程の幻術は薄っぺらで上辺だけの儚い幻。物事の深奥まで見透す上様には紙切れにしか見えぬのも道理。ご安心下さいませ。次は到底幻術とは思えぬような生々しい術を御覧にいれましょう」
そう言うと、持参してきた屏風を大広間に運び込むように依頼した。
中央に立てられた屏風が小姓達により左右に開かれる。
大きさは凡そ幅三尺、高さは二尺程で四曲の何の変鉄も無い屏風だった。
いや、何の変鉄も無いどころか、ただの真っ白、白紙にしか見えなかった。
ところが目を凝らすうちに、徐々に何かが浮かび上がり、やがて恐ろしい地獄絵図が現れたのだ。
信長は身を乗り出した。
「ふうむ。これは──」
花鳥風月の美しい幻とは異なり、巧みな筆ではあっても屏風の上で動いている訳では無い。
白紙の上に突如出現したのは摩訶不思議だが、動かなければ只の絵と変わらない。
信長は興味深げに立ち上がり屏風に近付いた。
乱法師達小姓も後に従う。
所謂地獄を描いたものだが、ともかく生々しい。
鬼が地獄に落ちた亡者達を有りとあらゆる方法で責め苛んでいるのだが、苦しむ表情や形相の凄まじさが絵とは思えぬ程真に迫っているのである。
釜茹でにされて爛れ剥けた皮、舌を引っぱられ苦悶する亡者、切り刻まれる手足、生きながら焼かれ絶叫する姿、血の池も亡者達から流れ出る血も全てが真の血で描かれ、未だ乾ききっておらぬように濡れて見えた。
とはいえ、それ以上の行為に及ぶつもりがない事は伝わってくるので、怖いという感情は湧いてこない。
安土に来てから凡そ二月程。
金山にいた頃から信長の恐ろしい噂を耳にしながら、彼自身が恐怖を感じたのは初夜の一度きりだった。
───
その日は、酷く暑かった。
十日以上前に梅雨は明け、晴天は有り難くもあるが、本格的な夏日がずっと続いていた。
「筒井順慶殿がお見えになられました」
安土城が完成するまでの仮住まいの御殿の一室で戦況、政に関する各地からの報告を受けながら、書面に目を通し自筆で署名をしている最中だった。
控えの間に詰めている小姓の内の一人が来訪を告げる。
「いよいよ噂の幻術が拝めるのか。面白い!仙、皆を大広間に集めよ。奥の女達にも見せてやろうではないか。菊は順慶だけ連れて、表の部屋で待たせておけ。儂は先ずそちらに行って、政の話しを済ませてから参る」
「承知致しました」
仙と呼ばれたのは、側近の万見仙千代重元。
菊と呼ばれたのは、既に字《あざな》は久太郎と改めているが、小姓時代からの癖で、信長がつい幼名で呼んでしまう秀才、堀久太郎秀政の事である。
乱法師は他の小姓達と共に控えの間で雑用に従事していたが、果心居士の来訪を聞き、胸踊らせながら大広間へと急いだ。
──
筒井順慶は謁見の間として使用されている部屋で、信長が現れるのを待っていた。
今、己と信長との関係はすこぶる良好で、心配の種は一粒もないように思えた。
実は一昨年信長の養女と祝言を上げており、大和守護を任された事に加え並々ならぬ重用と厚遇を得ている。
しかし大和一国を手にする迄には、紆余曲折あった。
言うまでもなく、仇敵松永久秀のせいである。
順慶は彼の事ならば恋慕う相手のように誰よりも良く知っていた。
敵国よりも松永の周辺に放っている間者の数の方が多いくらいだ。
それ故、数日前に松永が安土を訪れた事は当然耳にしている。
まさか平蜘蛛を献上したのでは──
常に松永が一歩も二歩も先んじ、散々苦しめられて来たが今は優位に立っている。
己の立場を脅かす武将が松永だけではないと分かっていながら『奴だけには絶対に負けたくない。』と心底思うのも無理からぬ程の因縁があった。
折角手に入れた優位を覆す可能性を秘めた名物茶器『平蜘蛛』。
信長が一国にも替え難い程欲している茶器を献上すると申し出れば、それと引き換えに順慶よりも強い立場を要求する事も可能であろう。
信長と松永の間に密約が交わされたのではないかと気を揉み、間者に探らせてみたものの内容まで突き止める事は出来なかった。
性の指南書と性具と精力剤だと知ったら、さぞかし拍子抜けするだろう。
思考が一段落着いたところで、堀秀政が襖を開けて入って来た。
「上様は直ぐに参られます。暫しお待ち下され」
少しの間、堀秀政と大和の情勢や他愛ない世間話しをしているうちに、信長の入室が告げられ平伏する。
「順慶、多聞山城の破却は進んでおるようじゃな」
前置きは抜きに要件から話し始めるところは相変わらずだ。
「はっ!大和国中の人夫共を集め、高櫓もほぼ破却致しました」
「うむ、石や木材等、使える物は筒井城の修築にでも使うが良い」
「忝のう存じまする。狩野永徳の襖絵や金細工に柱など、焼却するには惜しい物も多数ございますが、如何なさいますか? 」
「安土城や二条の邸に移築するつもりじゃ」
今年に入り、信長は大和の多聞山城の破却を命じた。
多聞山城は松永久秀が築いた居城であり、大和支配の拠点となっていた。
非常に先鋭的且つ独創的であり、安土城の先駆けともなったと云われる程、当時の人々を驚かせた。
ポルトガル宣教師ルイス・フロイスは記す。
その城は白く明るく輝いていた、と。
壁を作る際、石灰に砂を混ぜないで、城造りの為に用意された白い紙を贅沢に使用した為である、と。
瓦は全て黒で指二本分の厚さがあり、一度葺けば四、五百年保つ程の耐久性と評価した。
それ以前の城は、居館を土塁で囲んだ程度であったのだから人々が驚いたのは無理も無い。
狩野永徳の金の障壁画、柱は真鍮製で金に塗られ華やかな彫刻が施され、城内の庭園には池や川が流れ、橋も架けられ四季折々楽しめる草花樹木が植えられていた。
諸国から大名や公家が見物に訪れたと云う。
此処まで書くと、確かに安土城を彷彿とさせる造りである。
しかし少し異なるのは、この城の名前の由来となったとも伝わる多聞櫓の存在であろうか。
多聞櫓とは長屋形の櫓で、数多の穴が穿たれ鉄砲で攻撃出来るようになっていた。
そういう点では如何に優美華麗であっても、戦いに備えた乱世の城と言えただろう。
順慶が真っ先に破却した高櫓は四層で、それまでなかった『天守』の先駆けであったとも云わる。
安土城にも影響を及ぼしたであろう類を見ない斬新華麗、大和という日の本の中心で興福寺や東大寺を眼下に望み、当時の松永久秀の権勢を思えば、この国の王たる者に相応しい城との自負さえあったかもしれない。
その城が何故破却され、筒井順慶との優位が逆転し、大和の支配者としての立場を追われる羽目になったのか。
後世にまで悪名が伝わる松永は、生涯二度信長に叛いた。
野心家と思われがちな彼だが叛きたくて叛いた訳ではなく、止むに止まれぬ事情があった。
名物茶器、九十九髪茄子を献上し信長の武力を背景に筒井順慶と三好三人衆を蹴散らし、事実上支配権を手に入れた以上、大和を長く空ける訳にはいかなかった。
しかし臣従してからは、織田家の都合で各地の戦に駆り出される事になってしまった。
大和を空けた途端に筒井順慶が隙を狙い攻めてくる。
これでは意味が無いと不満を募らせていたところ、信長を倒そうとする大きな力が動いた。
武田信玄、石山本願寺、浅井長政、朝倉義景、足利義昭等による信長包囲網である。
松永久秀は、敵対していた三好三人衆とさえ手を結び信長包囲網に加わった。
当に生き残る為には形振り構わず強い者に与しただけだが、予想だにしていなかったのが甲斐の武田信玄の死であり、それにより優勢だった包囲網が瓦解してしまう。
故に多聞山城を明け渡す事を条件に降伏し、再び信長の陣に舞い戻った。
その間、筒井順慶が着実に信長に近付き、大和の守護という立場を手に入れる流れとなったのだ。
それだけに、多聞山城の破却を命じられた時、順慶は溜飲が下がる思いだった。
「紀伊の雑賀孫一等がとうとう誓詞を書いて上様に臣従を誓ったそうでございますね」
「ふふ、大人しいのも一時の事であろうが、石山本願寺の周りに付け城を築かせる時くらいは稼げるであろう。じわじわと追い詰めてくれるわ──それはそうと猫と鶏は集まったか」
「はっ……はい!大和中から掻き集めましてございまする」
猫と鶏を集めよと信長から命じられた時、親しい付き合いの興福寺の多門院英俊と密かな囁きを交わしたものだ。
順慶は英俊程、無駄な殺生を厭わない。
それは僧の姿をしていても魂の大半は武将の色に染まっているからだ。
ただ、鷹の餌にすると知り、あまり良い気分はしなかった。
紛れもない僧侶の英俊は出来る限り猫と鶏を隠し、順慶も見て見ぬ振りをしてやった。
故に大和国中から集めたと言うのは嘘だった。
「うむ、ではまとめて安土に運べ」
順慶の杞憂をよそに、あまり細かい数は気にしていないのか満足そうに頷く。
「それはそうと、先日弾正(松永)が安土に参ってのう。貴様が連れて参った果心という男の話しをしておった」
鷹の餌の件では安堵したものの、いきなり松永の名が出た為、膝の上に置いた手で墨染めの衣を強く握り締める。
「弾正殿は何か面白い話しをしておりましたか?果心は確かに、信貴山城にもたまに足を運んでおるらしいですな。はは、自由な男でございます故」
心の動揺を隠し、努めてゆったりと振る舞う。
「存外小心な男よ。亡き妻の亡霊を見せられて恐ろしかったと申しておった。ふふ、流石にこの儂の肝を冷やすのは無理であろうが、少しは驚かせて貰いたいものじゃ。」
「ははは、上様のような豪気な御方の肝を冷やすなど──果心の幻術さえ効かぬやもしれませぬが、目を驚かせる術は無尽でございます故、少なくとも楽しんで頂けるかと存じまする。それにしても他に面白い話しは特になかったのでございますか?わざわざ安土まで出向いて。話し……ではなく、何か珍しき物を献上したのでは? 」
どうしても気になり探りを入れる。
「珍しき物ではあったが平蜘蛛ではない」
信長は言わんとする事を即座に見抜き、あっさり否定した。
その返答にほっとしたが、不利な立場に立たされた老獪な松永が、何も手を打たぬとは考え難かった。
「上様が望まれる品が某の手にあれば直ぐにでも献上致しましょうものを。上様の御心を焦らすような真似をしてまで、此度一体何を献上されたのか興味が湧きまする」
「く、ふふ、弾正らしいと言えば弾正らしいが。曲直瀬道三に書かせた交合の上手いやり方の指南書と、舶来の性具や張り形がいくつか。後は男の一物を強くする薬じゃ。ははは!」
やはり信長は明け透けだった。
順慶が目を丸くする。
「献上された品は……それだけでございますか?そんな──」
『淫らな』と続けたかったが、信長がそうした道具を用いるのを好むのであれば、愚弄する事になってしまうと慌てて言葉を呑み込む。
「あやつ、松虫を飼っておるらしい」
「──は? 」
唐突過ぎて意味が分からず間の抜けた顔で聞き返す。
「その松虫がもう三年も生きていると自慢気に語っておった」
「松虫、でございますか」
どうしても話しが見えてこない。
「つまり松虫でさえ飼い方次第で長く生きるのだから、人ならば尚更身を慎めば長生き出来ると言ってきよった」
「はあ……」
益々意味が分からず適当に相槌を打つ。
「それ故、交合のやり方が特に養生には重要とかで曲直瀬道三の指南を受けているらしい」
「なるほど!それで合点が行きました。弾正殿が六十を越えても御元気なのは、そうした工夫によるものと言う訳ですな」
漸く全てが頭の中で繋がると、『そこまでして長生きしたいか年寄りめ!まだまだ生きそうじゃな。ええい、腹が立つ!』と、腸が煮えくり返った。
「上様、大広間に奥方様、御側室様方、若君、姫君、皆様お揃いでございます。果心居士殿をお連れしても良うございますか? 」
乱法師が襖の外から声を掛けた。
「乱!入って参れ」
声だけで直ぐに彼と分かり命じる。
乱法師は品良く美しい挙措で襖を開けて入り平伏した。
「近う」
流石に順慶がいる前で膝の上に来いと言う意味ではなかろうと側に進む。
順慶は乱法師を見て、次に信長に目を移した。
信長が乱法師に送る眼差しで瞬時に察した。
「森乱法師じゃ。宇左山で討ち死にした三左衛門可成の倅じゃ」
「森乱法師と申しまする。以後お見知り置き下さいませ」
礼儀正しく頭を下げた彼を見て順慶はつい下世話な考えを巡らせてしまう。
『既に閨で愛でられておるようじゃな。上様の御顔ときたら全く。可愛くて仕方ない御様子。ふぅむ、まだ初々しく固苦しい。蕾は恐らくまだ開かれていないのであろうな』
僧侶の姿をして興福寺に深い縁がある家柄だけの事はあり、稚児や若衆は割合と好む方である。
美童を見ると、つい品定めをしてしまうのだ。
経験で培われた眼力は、ある意味真実を言い当てていたが一点のみは外れていた。
「準備が出来たらしい。そろそろ噂の果心居士とやらの術を見に参るとするか」
──
大広間には、普段は表には顔を出さない、正室のお濃の方と側室達や姫君、幼い若君等も勢揃いして真に華やかな眺めであった。
真夏に相応しく、涼しげな単に腰に巻いた重ねの小袖は生絹や紗の目にも鮮やかな紅、薄桃、藤色、若草色に辻が花染め、刷り箔、刺繍、鹿の子絞りで花や鳥、様々な模様を象った豪華な装いでずらりと居並ぶ。
信長が順慶、乱法師等小姓を後ろに従え上段に座した。
大広間にいる全ての者達が平伏すると、中央に既に控えていた果心居士に命じた。
「面を上げよ!その方が果心居士か」
「は……此度は御前にて拙い術を御披露つかまつる運びと相成り恐悦至極に存じまする」
果心居士は意外な事に、いつもの驕慢さはどこへやら、至って神妙に頭を下げた。
皆の視線が一斉に果心に集中した。
それは、あまりにも彼の風体を異様と感じたからである。
日本各地に少しずつ南蛮寺が建てられ、切支丹に改宗する者達は貴賤老若男女を問わず増えており、南蛮人の顔立ちにも随分見馴れてきている。
しかし果心居士の見た目はそれにも属さず、ましてや倭人の特徴とはかけ離れてい過ぎた。
瞳は白濁して色が薄く、まるで盲かと思う程焦点が定まらず、口元に笑みを浮かべる様は正直薄気味悪い。
頭を下げていても全てを見透かしているような傲慢さが漂ってくる。
全身の色が薄く、蛇の腹か水死体を思わせる緑がかった蒼白さで髪とて同様である。
決して人に好感を与える容姿ではないのに、幻術の匠という評判を彼の異相が却って高め、期待を煽る道具とはなっていた。
「上様は天下を狙うに相応しい御方。器が大きくていらっしゃる。並大抵の事では驚かれぬと存じますので本日は格別な術をお見せ致しましょう」
高く掠れる不気味な声、全体的に蒼白く生気の無い陰鬱な容姿。
乱法師は果心居士の姿を見た途端に既視感を覚えた。
果心居士こそ、まさしく都にいた腕香の男であったのだが、どのような術か乱法師の記憶はぼやけ、何処かで見たようなという程度にしか認識出来なかった。
大広間に集う多くの人々と同じく好奇の目で注視したが、焦点の定まらぬ白濁した瞳が熱心に見詰め返しているように思え、ぞっと肌が粟立つ。
『そこにおられた……また御会い出来た。私の想いが通じた。離れた場所にいても繋がっているのです。あの時……蛇の血を通して蛇の念を通して固く結ばれた。探さずとも必ず出会い、貴方と私の運命は交わる。強い強い運命の糸が数多に縺れ絡まっている。何人にも解けない強い糸で……』
乱法師の頭の中で陰気な声が鬱々と響いた。
はっと周りを見回すが、他の者達にも声が聞こえている様子はない。
『何故、自分にだけ?』と思うと同時に、脳裏に再び紅に光る虹彩が浮かんだ。
本能的に消し去ろうと頭を振る。
何かを思い出そうとすると靄が掛かり阻まれ、無理矢理植え付けられた記憶に支配されているような不快な気分だった。
その声が果心居士から己のみに発せられている事は分かったが、何を言っているのか全く理解出来なかった。
「先ず、お美しい奥方様方、姫君様方が折角大勢おられるのですから、女性が喜ばれる幻術をお見せしたいと存じますので紙と筆をご用意頂きたい」
「良かろう」
信長が小姓達に軽く目で合図すると、忽ち文机に硯と筆と紙が用意される。
果心居士は筆を墨に浸し、紙にさらさらと何かを描いた。
終わると筆を置き、その場に立ち上がると紙を裏返し描いた絵を一同に見せる。
それは花鳥風月の絵であった。
明るい月夜に照らされ、花びらを散らす桜の樹の枝に止まる美しい鳥。
見事な筆致に感嘆の溜め息が洩れる。
「ふうむ。絵師にも勝る腕前じゃのう。確かに驚いた。だが──」
信長が最後まで言い終える前に、果心居士は紙の後ろから息をふうっと吹き掛けた。
すると目映い金粉が舞い、一瞬辺りは暗くなったが、冴え冴えとした明るい満月が昇ると金粉が桃色の花びらに変じ、大広間に集まった人々の上にはらはらと散り落ちた。
辺りを見回せば枝に止まる小鳥の軽やかな囀り、美しい舞姫や若衆達が歌舞音曲を披露し、美酒に美味い肴までが並ぶ春の宵の宴の景色に変わっていた。
突然の変化に始めは戸惑っていた者達も、この世の美と娯楽に忽ち目を奪われ、夢か現かと心の隅では思いながらも抗えず溺れてしまう。
女性等は満開の桜、現の世には存在しない瑠璃色や虹色、金色の鮮やかな鳥達の鳴き声に陶然と目を細める。
男達はといえば、美酒や美しい舞姫、若衆が舞い音楽を奏でる姿に見惚れ鼻の下を伸ばし、策略であれば忽ち首を掻き切られていたであろう。
乱法師も先程の不気味な声の事は忘れ、すっかり目を奪われていた。
『お気に召されたようですね。貴方の麗しさには叶いませぬが、これはほんの小手調べ。お望みならば、いくらでも面白きものを御覧に入れましょう』
しかし頭の中に、再び絡み付くようなねっとりとした声が響き、吐き気と目眩に襲われた。
『いらぬ何も、もう良い……止めよ』
陰気な声を弾き出そうと必死に抗う。
途端に果心居士がたじろぐ様子が伝わってきた。
同時に乱法師が口に出して言えなかったその儘を、信長が大声で命じた。
「もう良い!止めよ!果心」
信長の一声で美しい幻想的な風景は直ちに掻き消え、元の大広間に戻った。
目を擦る者、まだ夢から覚めやらぬように呆けている者、きょろきょろと辺りを見回す者、頬をつねる者、幻の酒に酔い、しどけない姿になっていた者は慌てて居ずまいを正す。
大広間の中央には果心居士が変わらぬ様子で平伏していた。
「上様にはお気に召して頂けなかったようでございますね」
静かに口を開き顔を上げる。
「いや、見事な幻術であった。しかし好みではない。儂の目には花や鳥や月が時折紙に見えた。他の者達には、そうではなかったようじゃがのう」
「流石は上様。やはり只ならぬ御方。強い御心をお持ちなのでしょう。先程の幻術は薄っぺらで上辺だけの儚い幻。物事の深奥まで見透す上様には紙切れにしか見えぬのも道理。ご安心下さいませ。次は到底幻術とは思えぬような生々しい術を御覧にいれましょう」
そう言うと、持参してきた屏風を大広間に運び込むように依頼した。
中央に立てられた屏風が小姓達により左右に開かれる。
大きさは凡そ幅三尺、高さは二尺程で四曲の何の変鉄も無い屏風だった。
いや、何の変鉄も無いどころか、ただの真っ白、白紙にしか見えなかった。
ところが目を凝らすうちに、徐々に何かが浮かび上がり、やがて恐ろしい地獄絵図が現れたのだ。
信長は身を乗り出した。
「ふうむ。これは──」
花鳥風月の美しい幻とは異なり、巧みな筆ではあっても屏風の上で動いている訳では無い。
白紙の上に突如出現したのは摩訶不思議だが、動かなければ只の絵と変わらない。
信長は興味深げに立ち上がり屏風に近付いた。
乱法師達小姓も後に従う。
所謂地獄を描いたものだが、ともかく生々しい。
鬼が地獄に落ちた亡者達を有りとあらゆる方法で責め苛んでいるのだが、苦しむ表情や形相の凄まじさが絵とは思えぬ程真に迫っているのである。
釜茹でにされて爛れ剥けた皮、舌を引っぱられ苦悶する亡者、切り刻まれる手足、生きながら焼かれ絶叫する姿、血の池も亡者達から流れ出る血も全てが真の血で描かれ、未だ乾ききっておらぬように濡れて見えた。
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