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憎き仇の松永とは今や織田信長を主君と仰ぐ味方同士。
嘗ての敵同士が同じ主に従う。
それもまた、乱世──
長い間松永久秀に一歩も二歩も遅れを取ってきたが、大和守護となった今は逆に先に進んでいる。
平蜘蛛は信長が喉から手が出る程欲している天下の名物。
松永久秀は信長の勢いに逸早く目を付け、九十九茄子という名物茶器と足利将軍家伝来の名刀、不動国行を献上し臣従を誓った。
こうなっては、後から信長にすり寄っても時既に遅し。
退けられ苦汁を呑む羽目に陥った。
表向きは味方同士であっても心に深く張った憎しみの根が、相手が一歩でも先んじようとした途端、忽ち心の臓を鷲掴む。
松永が焦燥感を抱いているのは明らかだ。
いよいよ平蜘蛛を献上して機嫌を取り結び、勢力を盛り返そうと目論んでいるのではないのか。
「果心よ!信長公を御主君と仰ぎ、そなたの術を天下平定の為に役立ててみないか? 」
風変わりな人や物も役に立つと思えば受け入れる懐の深さが信長にはある。
果心居士は始め、否とも応とも付かぬ無表情だったが、やがて壊れ、ニタリと笑いながら傲岸とも取れる言葉を吐いた。
「かの御方が真に天下の主の器たるかを見定めて参りましょう。もし真にその器なれば、私の力を是非に」
「何という大言を吐く奴じゃ! 」
果心の力は、その人柄同様両刃の剣である。
何者にも染まらず、誰かに仕える事を望んでいるようには見えない。
故に端から従う気が無いのであるから、裏切ら無いとも言える。
大口を叩くに相応しく、幻術や妖術は配下の忍びの能力を遥かに上回る。
真に人かと恐ろしく感じる事もしばしばあった。
果心にとって己の能力を人に認めさせ世に出るというのは、権力者を操り世の中を攪乱する事を意味するのではないか。
順慶が最も恐れる果心の能力は呪術だ。
この忌まわしい能力を知ったが故に城から追い出せなかったというのもある。
幻術や妖術が如何に優れていようとも、直接的に人を害せる呪術に比べれば所詮子供騙し。
いっそ手っ取り早く松永久秀を呪い殺す事が出来たら。
しかし果心は松永の事を憎からず思っているようで、極めて我が儘な本人が怨む相手でなくば、呪殺の効果は期待出来そうにないし松永を怨むように仕向ける為の妙案も浮かばない。
一先ず稀有な幻術使いを、己の口利きで謁見させるのも一興と考えた。
───
「あ、はぁ」
白い肌が桜色に火照り汗が滲み伝い落ちる。
檜作りの湯殿には、痴態を暈す湯気が立ち込めていた。
「もう殿、私は……」
時間を掛けた方が良いのだとばかりに愛撫を加える男の手は哀願を無視し、焦らすように追い込んでいく。
男の髪にはかなり白い物が混じり、六十は当に越えているであろうと思われた。
しかし身体は武人である事を示すように良く締まり、肌の弛みや皺は然程目に付かない。
「あまり御無理をなさいますと」
老いた男の手にそっと白い手を重ねたのは、まだ十八、九歳と覚しき若衆であった。
端麗な容姿が男の愛撫で艶めき、声音や震える項からも色香が漂う。
「三郎、案ずるな。今日も灸は据えた。曲直瀬道三が先日儂を診て、まだまだ長生きされるでしょうと申しておった。そなたを抱けぬ程、衰えてはおらぬ」
「ですが殿、私は、もう...…」
「これぐらいで根を上げてはならぬ。男子は精を放たず溜めておける方が良いと申す。性が無尽蔵でないのが男子の弱味じゃ」
若者の激しさとてないが、年老いた男ならではの巧みな技で青年の肉体を支配していく。
男の名は松永弾正久秀、大和国にある信貴山城の主である。
七十歳という、極めて老齢でありながら、あらゆる点において未だ現役だった。
彼の少年時代に関する詳しい記述はあまり残されていないが、語るべき事が実に多過ぎる重厚な人生を送ってきた事だけは間違いない。
老齢故に健康に気を使う事甚だしいというよりも、若き頃から心掛けてきたからこそ、この年になっても身体が頑強でいられるのだろう。
最初の人指し指の心地好さに、締まる筋を根気良く解すコツを心得ているのも当に年の功だ。
些か準備が入念に過ぎるのは、ある書物による。
強き者も絶対に勝てぬのは病。
日頃から健康的な食事、運動を心掛け、ありきたりな健康法は疾うにやり尽くしていた為、天下の名医曲直瀬道三に助言を求めた。
そこで曲直瀬道三は『黄素妙論《こうそみょうろん》』という男女の健康的な性交の心得を記した医術書を彼の為に記したのだ。
その書には、第一に女性にその気が無いのに行為に及んではならないとある。
女性の情欲の高まり具合に応じた男根の突き方まで指示があり興味深い。
若者の性の指南書としても活用出来そうだが、健康的な性生活に拘りを見せる松永は、出来る限り医術書にある通りに実践していた。
そんな彼故に、男色も嗜むこの時代の武将らしく、男同士の健康的な性交法についても書いて欲しいと詰め寄った。
曲直瀬道三は大らかに受け止め、健康に重きを置かずに潤滑に交わる為の手順書として書いてやった。
故に今、湯殿でそれを実践している真っ最中という訳だ。
指南書の名は『断袖論《だんしゅう
ろん》』
男女の性交の指南書の名が黄素妙論であるのは、『素女妙論』という中国の古の書物によるらしい。
素女とは性愛と養生を司る仙女とされ、黄帝に房術を伝授したと伝わる。
では松永の求めに応じて書いた男色の指南書が何故『断袖論』なのかと言うと、これ又中国の逸話から取っている。
中国王朝、前漢の哀帝には董賢という寵童がいた。
ある日仲良く二人でうたた寝をしていた時、家臣に呼ばれ哀帝が目を覚ますと、自分の長い袖を枕に董賢がすやすやと寝てしまっていた。
そこで起こすに忍びず、刀で袖を切って部屋から出たという逸話がある。
松永久秀は乱世の梟雄として、誇張され後世にまで悪名が語り継がれている。
彼の為したとされる悪行の数々は殆どが誤解であり、その大半が後世の者達による作り話である可能性は否定出来ない。
黄素妙論に書かれている通り実践していたのであれば、愛妻家であったという人間らしい姿も垣間見えてくるのだ。
とはいえ清廉潔白な聖人君子とは流石にならず、老獪な曲者で知恵者ではあったのだろう。
三好家が関わる全ての悪事が松永が仕組んだ事のように伝わるのは、それ程の権力を有していた証拠であろう。
並み居る名門を押し退け三好長慶を支えた、或いは影で操ったとも取れる辣腕振りは、悪にせよ正義にせよ一流の武将であった事を物語っている。
よってあらゆる事に手を抜かず拘り抜き、真剣に取り組む遊び心の無さが今、この湯殿でも大いに発揮されていた。
「ああう……おお」
「良し!そろそろ頃合いじゃ」
相手の呼吸を読み、身心共に一体化する事が健康的な性交の心得と説いた曲直瀬道三は流石である。
相手の気持ちを無視して己一人が昂り果てても虚しいだけだ。
直ぐに達っせずにいられるのは、曲直瀬道三の指導に基づく訓練の賜物だ。
精を溜めておければ一晩に何回も致す事が出来る。
そうした事を人々は、精力絶倫と呼ぶのかも知れない。
松永は見事に呼吸を合わせ、同時に果てた。
「大丈夫か?心地好かったか? 」
床に崩れ落ち肩で荒い息をする三郎を案じ、優しく声を掛ける。
「はい……極楽にいるかのような心地好さでございました」
三郎はうっとりと松永を見つめると、その胸に凭れ掛かった。
さも可愛いくて堪らないという風に髪を撫でてやりながら松永は考えた。
『断袖論も今度安土に参る時に献上してみよう。興じられるに違いない。面白い性具や媚薬も添えれば尚の事じゃ』
黄素妙論は、以前信長に既に写しを贈ってあった。
───
湯殿から上がった後は自室で気に入りの若衆、弓削三郎《ゆげさぶろう》に肩を揉ませながら灸を据え、一見寛いでいるかに見えた。
しかしその顔を見れば眉間に皺が寄り唇を噛み締め、激しい情交の後にしては全く楽しげではなかった。
「平蜘蛛を持って参れ! 」
控えていた小姓がびくっと跳ねる。
「何故、平蜘蛛を?まさか安土に? 」
弓削三郎は思わず手を止めた。
問いには答えず松永は尚も思案を続けた。
秘蔵の茶器平蜘蛛を、とうとう信長に献上すべき時か迷っていたからだ。
松永久秀が信長に臣従を誓ったのは永禄十一年(1568年)。
長年忠実に仕えた主、三好長慶が亡くなり同じ家中を牛耳る三好三人衆と対立するようになったのは、将軍足利義輝が殺害された後からであった。
足利義輝の殺害の主犯は、故三好長慶の甥の若き当主義継と三好三人衆、松永久秀の息子久通も名を連ねたが、松永は反対だった。
如何に邪魔だからと、秘密裏に毒殺を試みるならばいざ知らず、白昼の都の二条城を囲み将軍を討ち取るなど、あまりに無法な振る舞いと口論になった。
群雄割拠する強者達に『将軍を弑したならず者』を討伐するという大義名分を与えてしまいかねない。
しかし将軍の替えなど立てようと思えばいくらでもいた。
殺害された義輝の弟で興福寺一乗院門跡であった覚慶こと義昭、義輝義昭兄弟の従兄弟に当たる義栄等。
覚慶こと義昭は兄の義輝が殺害された後、三好三人衆により幽閉されていたが幕臣等の手により救い出され、近江の矢島村で上洛の機会を狙っていたようだ。
それに対して三好三人衆は従兄弟の義栄を担ぎ上げた。
義輝を堂々と殺害しておきながら、尚もその従兄弟を擁立する三好三人衆の行動は全く身も蓋もない。
敵の敵と組む。
糸のように縺れた勢力争いも、その仕組みを解けば分かり易い。
松永と対立する三好三人衆と手を組む筒井順慶。
それに対抗して、足利義昭を警護するという名目を得て上洛を果たした信長に、松永は接近し成功した。
信長上洛の情報は伊賀に隣接する柳生谷からもたらされた。
軍事の中で最も大きな役割を占めるのは、鉄砲等の武器や兵の数よりも情報収集力である。
諜報活動で遅れを取れば、気付いた時には喉元に刃が当てられている。
松永は、三好三人衆と筒井順慶に抗すべく信長の軍事力を頼んだ。
柳生石舟斎宗厳《やぎゅうせきしゅうさいむねよし》。
徳川幕府の剣術指南役として名高い柳生一族の名は、この男から始まったと言えるだろう。
まだ、この頃は柳生の谷に邸を構え、力有る者達に蹂躙され従う事を余儀なくされていた。
筒井順慶の父、順昭に小柳生城を落とされ降伏した経緯から、松永が大和侵攻を始めた頃には筒井氏を見限り寝返った。
配下には伊賀者が多く、婚姻関係も結ばれていた為、権力の動きに関する情報を逸早く手に入れる事が出来たのだ。
柳生が松永に付いたのは、柳生宗厳の弟の柳生重厳(松吟庵)とは、茶の湯友達として非常に昵懇にしていたからというのもある。
敵地に潜入する忍びが敵方に取り込まれ逆利用されるのが反間だが、それ以外の四種類の忍び(内間、郷間、生間、死間)の内どれでも反間に成り得ると考えれば、全く寝ても覚めても人を信用するのが難しい時代である。
故に親しい柳生一族からもたらされた信長に関する情報は貴重だった。
信頼出来る筋からの情報を得て、九十九髪茄子の茶入れと足利幕府伝来の名刀不動国行を信長に献上し、筒井順慶を出し抜く事が出来たのだ。
同時に将軍足利義昭の幕臣となる事も許され、大和一国切り取り次第の御墨付きを得た松永と順慶の立場はここでまたもや逆転した。
信長は順慶の臣従を許さず、松永に積極的に軍勢を送り大和の支配を助けた。
結果、筒井氏の配下だった大和の国衆の多くが、松永側に次々と落ちていった。
だが、それも今や──
己の失策で再び順慶に逆転された今の現状を何とか覆す方法はないものか。
更なる臣従か──
思考を巡らすうちに、松永久秀は親指の爪を噛み切り指先から血が僅かに流れた。
または謀叛しか手はないのか──
嘗ての敵同士が同じ主に従う。
それもまた、乱世──
長い間松永久秀に一歩も二歩も遅れを取ってきたが、大和守護となった今は逆に先に進んでいる。
平蜘蛛は信長が喉から手が出る程欲している天下の名物。
松永久秀は信長の勢いに逸早く目を付け、九十九茄子という名物茶器と足利将軍家伝来の名刀、不動国行を献上し臣従を誓った。
こうなっては、後から信長にすり寄っても時既に遅し。
退けられ苦汁を呑む羽目に陥った。
表向きは味方同士であっても心に深く張った憎しみの根が、相手が一歩でも先んじようとした途端、忽ち心の臓を鷲掴む。
松永が焦燥感を抱いているのは明らかだ。
いよいよ平蜘蛛を献上して機嫌を取り結び、勢力を盛り返そうと目論んでいるのではないのか。
「果心よ!信長公を御主君と仰ぎ、そなたの術を天下平定の為に役立ててみないか? 」
風変わりな人や物も役に立つと思えば受け入れる懐の深さが信長にはある。
果心居士は始め、否とも応とも付かぬ無表情だったが、やがて壊れ、ニタリと笑いながら傲岸とも取れる言葉を吐いた。
「かの御方が真に天下の主の器たるかを見定めて参りましょう。もし真にその器なれば、私の力を是非に」
「何という大言を吐く奴じゃ! 」
果心の力は、その人柄同様両刃の剣である。
何者にも染まらず、誰かに仕える事を望んでいるようには見えない。
故に端から従う気が無いのであるから、裏切ら無いとも言える。
大口を叩くに相応しく、幻術や妖術は配下の忍びの能力を遥かに上回る。
真に人かと恐ろしく感じる事もしばしばあった。
果心にとって己の能力を人に認めさせ世に出るというのは、権力者を操り世の中を攪乱する事を意味するのではないか。
順慶が最も恐れる果心の能力は呪術だ。
この忌まわしい能力を知ったが故に城から追い出せなかったというのもある。
幻術や妖術が如何に優れていようとも、直接的に人を害せる呪術に比べれば所詮子供騙し。
いっそ手っ取り早く松永久秀を呪い殺す事が出来たら。
しかし果心は松永の事を憎からず思っているようで、極めて我が儘な本人が怨む相手でなくば、呪殺の効果は期待出来そうにないし松永を怨むように仕向ける為の妙案も浮かばない。
一先ず稀有な幻術使いを、己の口利きで謁見させるのも一興と考えた。
───
「あ、はぁ」
白い肌が桜色に火照り汗が滲み伝い落ちる。
檜作りの湯殿には、痴態を暈す湯気が立ち込めていた。
「もう殿、私は……」
時間を掛けた方が良いのだとばかりに愛撫を加える男の手は哀願を無視し、焦らすように追い込んでいく。
男の髪にはかなり白い物が混じり、六十は当に越えているであろうと思われた。
しかし身体は武人である事を示すように良く締まり、肌の弛みや皺は然程目に付かない。
「あまり御無理をなさいますと」
老いた男の手にそっと白い手を重ねたのは、まだ十八、九歳と覚しき若衆であった。
端麗な容姿が男の愛撫で艶めき、声音や震える項からも色香が漂う。
「三郎、案ずるな。今日も灸は据えた。曲直瀬道三が先日儂を診て、まだまだ長生きされるでしょうと申しておった。そなたを抱けぬ程、衰えてはおらぬ」
「ですが殿、私は、もう...…」
「これぐらいで根を上げてはならぬ。男子は精を放たず溜めておける方が良いと申す。性が無尽蔵でないのが男子の弱味じゃ」
若者の激しさとてないが、年老いた男ならではの巧みな技で青年の肉体を支配していく。
男の名は松永弾正久秀、大和国にある信貴山城の主である。
七十歳という、極めて老齢でありながら、あらゆる点において未だ現役だった。
彼の少年時代に関する詳しい記述はあまり残されていないが、語るべき事が実に多過ぎる重厚な人生を送ってきた事だけは間違いない。
老齢故に健康に気を使う事甚だしいというよりも、若き頃から心掛けてきたからこそ、この年になっても身体が頑強でいられるのだろう。
最初の人指し指の心地好さに、締まる筋を根気良く解すコツを心得ているのも当に年の功だ。
些か準備が入念に過ぎるのは、ある書物による。
強き者も絶対に勝てぬのは病。
日頃から健康的な食事、運動を心掛け、ありきたりな健康法は疾うにやり尽くしていた為、天下の名医曲直瀬道三に助言を求めた。
そこで曲直瀬道三は『黄素妙論《こうそみょうろん》』という男女の健康的な性交の心得を記した医術書を彼の為に記したのだ。
その書には、第一に女性にその気が無いのに行為に及んではならないとある。
女性の情欲の高まり具合に応じた男根の突き方まで指示があり興味深い。
若者の性の指南書としても活用出来そうだが、健康的な性生活に拘りを見せる松永は、出来る限り医術書にある通りに実践していた。
そんな彼故に、男色も嗜むこの時代の武将らしく、男同士の健康的な性交法についても書いて欲しいと詰め寄った。
曲直瀬道三は大らかに受け止め、健康に重きを置かずに潤滑に交わる為の手順書として書いてやった。
故に今、湯殿でそれを実践している真っ最中という訳だ。
指南書の名は『断袖論《だんしゅう
ろん》』
男女の性交の指南書の名が黄素妙論であるのは、『素女妙論』という中国の古の書物によるらしい。
素女とは性愛と養生を司る仙女とされ、黄帝に房術を伝授したと伝わる。
では松永の求めに応じて書いた男色の指南書が何故『断袖論』なのかと言うと、これ又中国の逸話から取っている。
中国王朝、前漢の哀帝には董賢という寵童がいた。
ある日仲良く二人でうたた寝をしていた時、家臣に呼ばれ哀帝が目を覚ますと、自分の長い袖を枕に董賢がすやすやと寝てしまっていた。
そこで起こすに忍びず、刀で袖を切って部屋から出たという逸話がある。
松永久秀は乱世の梟雄として、誇張され後世にまで悪名が語り継がれている。
彼の為したとされる悪行の数々は殆どが誤解であり、その大半が後世の者達による作り話である可能性は否定出来ない。
黄素妙論に書かれている通り実践していたのであれば、愛妻家であったという人間らしい姿も垣間見えてくるのだ。
とはいえ清廉潔白な聖人君子とは流石にならず、老獪な曲者で知恵者ではあったのだろう。
三好家が関わる全ての悪事が松永が仕組んだ事のように伝わるのは、それ程の権力を有していた証拠であろう。
並み居る名門を押し退け三好長慶を支えた、或いは影で操ったとも取れる辣腕振りは、悪にせよ正義にせよ一流の武将であった事を物語っている。
よってあらゆる事に手を抜かず拘り抜き、真剣に取り組む遊び心の無さが今、この湯殿でも大いに発揮されていた。
「ああう……おお」
「良し!そろそろ頃合いじゃ」
相手の呼吸を読み、身心共に一体化する事が健康的な性交の心得と説いた曲直瀬道三は流石である。
相手の気持ちを無視して己一人が昂り果てても虚しいだけだ。
直ぐに達っせずにいられるのは、曲直瀬道三の指導に基づく訓練の賜物だ。
精を溜めておければ一晩に何回も致す事が出来る。
そうした事を人々は、精力絶倫と呼ぶのかも知れない。
松永は見事に呼吸を合わせ、同時に果てた。
「大丈夫か?心地好かったか? 」
床に崩れ落ち肩で荒い息をする三郎を案じ、優しく声を掛ける。
「はい……極楽にいるかのような心地好さでございました」
三郎はうっとりと松永を見つめると、その胸に凭れ掛かった。
さも可愛いくて堪らないという風に髪を撫でてやりながら松永は考えた。
『断袖論も今度安土に参る時に献上してみよう。興じられるに違いない。面白い性具や媚薬も添えれば尚の事じゃ』
黄素妙論は、以前信長に既に写しを贈ってあった。
───
湯殿から上がった後は自室で気に入りの若衆、弓削三郎《ゆげさぶろう》に肩を揉ませながら灸を据え、一見寛いでいるかに見えた。
しかしその顔を見れば眉間に皺が寄り唇を噛み締め、激しい情交の後にしては全く楽しげではなかった。
「平蜘蛛を持って参れ! 」
控えていた小姓がびくっと跳ねる。
「何故、平蜘蛛を?まさか安土に? 」
弓削三郎は思わず手を止めた。
問いには答えず松永は尚も思案を続けた。
秘蔵の茶器平蜘蛛を、とうとう信長に献上すべき時か迷っていたからだ。
松永久秀が信長に臣従を誓ったのは永禄十一年(1568年)。
長年忠実に仕えた主、三好長慶が亡くなり同じ家中を牛耳る三好三人衆と対立するようになったのは、将軍足利義輝が殺害された後からであった。
足利義輝の殺害の主犯は、故三好長慶の甥の若き当主義継と三好三人衆、松永久秀の息子久通も名を連ねたが、松永は反対だった。
如何に邪魔だからと、秘密裏に毒殺を試みるならばいざ知らず、白昼の都の二条城を囲み将軍を討ち取るなど、あまりに無法な振る舞いと口論になった。
群雄割拠する強者達に『将軍を弑したならず者』を討伐するという大義名分を与えてしまいかねない。
しかし将軍の替えなど立てようと思えばいくらでもいた。
殺害された義輝の弟で興福寺一乗院門跡であった覚慶こと義昭、義輝義昭兄弟の従兄弟に当たる義栄等。
覚慶こと義昭は兄の義輝が殺害された後、三好三人衆により幽閉されていたが幕臣等の手により救い出され、近江の矢島村で上洛の機会を狙っていたようだ。
それに対して三好三人衆は従兄弟の義栄を担ぎ上げた。
義輝を堂々と殺害しておきながら、尚もその従兄弟を擁立する三好三人衆の行動は全く身も蓋もない。
敵の敵と組む。
糸のように縺れた勢力争いも、その仕組みを解けば分かり易い。
松永と対立する三好三人衆と手を組む筒井順慶。
それに対抗して、足利義昭を警護するという名目を得て上洛を果たした信長に、松永は接近し成功した。
信長上洛の情報は伊賀に隣接する柳生谷からもたらされた。
軍事の中で最も大きな役割を占めるのは、鉄砲等の武器や兵の数よりも情報収集力である。
諜報活動で遅れを取れば、気付いた時には喉元に刃が当てられている。
松永は、三好三人衆と筒井順慶に抗すべく信長の軍事力を頼んだ。
柳生石舟斎宗厳《やぎゅうせきしゅうさいむねよし》。
徳川幕府の剣術指南役として名高い柳生一族の名は、この男から始まったと言えるだろう。
まだ、この頃は柳生の谷に邸を構え、力有る者達に蹂躙され従う事を余儀なくされていた。
筒井順慶の父、順昭に小柳生城を落とされ降伏した経緯から、松永が大和侵攻を始めた頃には筒井氏を見限り寝返った。
配下には伊賀者が多く、婚姻関係も結ばれていた為、権力の動きに関する情報を逸早く手に入れる事が出来たのだ。
柳生が松永に付いたのは、柳生宗厳の弟の柳生重厳(松吟庵)とは、茶の湯友達として非常に昵懇にしていたからというのもある。
敵地に潜入する忍びが敵方に取り込まれ逆利用されるのが反間だが、それ以外の四種類の忍び(内間、郷間、生間、死間)の内どれでも反間に成り得ると考えれば、全く寝ても覚めても人を信用するのが難しい時代である。
故に親しい柳生一族からもたらされた信長に関する情報は貴重だった。
信頼出来る筋からの情報を得て、九十九髪茄子の茶入れと足利幕府伝来の名刀不動国行を信長に献上し、筒井順慶を出し抜く事が出来たのだ。
同時に将軍足利義昭の幕臣となる事も許され、大和一国切り取り次第の御墨付きを得た松永と順慶の立場はここでまたもや逆転した。
信長は順慶の臣従を許さず、松永に積極的に軍勢を送り大和の支配を助けた。
結果、筒井氏の配下だった大和の国衆の多くが、松永側に次々と落ちていった。
だが、それも今や──
己の失策で再び順慶に逆転された今の現状を何とか覆す方法はないものか。
更なる臣従か──
思考を巡らすうちに、松永久秀は親指の爪を噛み切り指先から血が僅かに流れた。
または謀叛しか手はないのか──
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