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やっぱり嘘!
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その日はアーモンドの花が満開だった。
窓の外ではちょうど篝火が焚かれだし、淡い紅色に光っている。この城は果樹が多くて、もう少し経てば李の花も開くだろう。
皇宮とはまた異なる趣で、先帝が拡げた領土の西、多数の属国と異国に睨みをきかせる要所に位置する。厨房だけでも五百人を超える人員がいた皇宮に比べれば小規模だけれど、明るく華やかな城塞都市だ。
ルルアは淡く輝く中庭を眺めながら長いため息をついた。春めいた夜なのに指先が冷たくて。
きっとひどい緊張のせいだろう。
準備は万端。この日のために全身を磨き上げ、髪と肌にはしっかりと香油を塗り込んだ。衣装も髪型も、出来ることはし尽くしたはずだ。
生命の木を意味する糸杉やアネモネなど婚礼用の刺繍が施された寝具を整え、あとは彼が宴席から戻るのを待つばかり。
ぽん、とクッションを叩くと、じわじわと実感が湧いてくる。
今更だけど寝台に突っ伏してしまいそうだ。
いい歳して、情けない。せめて余裕を持って落ち着いてお迎えしなくては。
なんて。そわそわと髪を彩るベールや薄物の長衣に手をやった。
今日はルルアの初夜なのだ。
いやもちろん、初めてではないのだけれど。
それでも前回は薄暗い部屋でお互いに怒ったり泣いたりで興奮していたし、とにかく勢いに任せた一夜だった。
さらには夜が明けてからも件の如き騒動続きだったわけで、境の間が見せた夢だったのではないかと思っても仕方があるまい。
ルルアとセファはあれからさらに二年ほど待ち、最後まで肌を合わせるのも二年ぶりだ。
皇太子への遠慮もあったし、そもそも軟禁が解かれたのはルルアに妊娠の兆候がなかったからなので。
長かったような気もするけれど、皇太子夫妻の御子が先日やっと一歳。きっと早いくらいなのだと思う。
ついに迎えたこの日をなんとか無事に過ごしたい気負いと肌を合わせることへの緊張で目まぐるしい。ルルアはとても黙っていられなくて、せわしなく動き回った。
そろそろ宴席も盛り上がっているだろう。時間はまだあるけれど少しの乱れも気になって寝台を整え、調度品を整え。
顔も知らぬ婚約者に嫁ぐ決心をした日が嘘のようだ。
かつての婚約はもちろん破談となり、結局元婚約者は皇室のお声がかりで養子を迎えたそうだ。
父オズデミル卿にどんな不利益があるのかと心配していたが、ルルアの軟禁中にセファが全てにカタをつけていた。
養子に入ったのはあの日境の間に現れた将軍で、彼との約束を守る意味もあったのだろう。
属国出身とはいえ一軍の将を務める彼が伝統あるチェリク卿の土地を引き継げば、象牙の扇の令嬢に求婚もたやすい。
とは言っても彼の恋が実るかどうかは彼女次第。
象牙の扇はまだ将軍の手の内で、彼女からは「皇太子殿下を酔い潰そうとしていたから制裁を与えたまで。求婚には応じない。あの男をなんとかして扇を取り返してくれ」とルルアに再三申し入れがあった。
大変心苦しいのだが、ルルアに出来ることは何もない。
あの頃意地悪された仕返しをしている……というワケでもなくて、あとは二人の問題だから放っておけ、との皇子のお言葉なのである。
「ふふ」
あの気の強い彼女が将軍の勢いに押されて逃げまわっているのを思い出して笑いをこぼす。
ほんの少し気が緩んだその時、前触れもなく閨の扉が開かれた。
驚いて、肩を跳ね上げ振りかえる。
「ルルア!」
「セファさまっ⁉︎」
こんなに早く?
豪奢な長衣を纏うセファがあっという間に目の前にやってきて、声もなくルルアを抱きしめた。
余計なことばっかり考えて油断していた、ちゃんとお迎えしたかったのに。
ルルアが慌てて礼をとろうとしてもセファの腕が阻んで動けない。見上げると、セファは金色のまつ毛が縁取る瞼を閉じて何かに耐えるような表情をしていた。思い詰めたような雰囲気にルルアはぎょっと目を剥いた。
もしかして、またなにかあったのだろうか。
「セファ様? どうされたのです?」
「…………どうって?」
「あの、だって宴席は? またなにか……」
「…………………………はぁ」
「えっ」
セファはがっくりとうなだれてため息をついた。うろたえるルルアをじっとりと見下ろして、おでこを合わせて問いかける。
「……ルルア、俺が、どれだけ、この日を、待ったと思ってるんだ? …………もしかして待ってたのは俺だけ?」
恨みがましく言い募る。ルルアは青くなりつつ赤くなった。セファがぐっと手を引いて「違うんです、そんなつもりじゃ」と弁明する暇もない。
「俺はあいつらの顔なんかよりルルアを見ていたい。それに兄上みたいになりたくないし」
ルルアだって、皇太子夫妻の二の舞なんかなりたくない。だからこそしっかりもてなさなければと気負いが空回る。
初夜のために早く切り上げてきてくれたに決まっているのに、どうしてこう、可愛げのないことを。両手で頬を隠してうつむくと、セファがルルアをのぞきこみあやすようにひたいに口づけた。
「宴席なんてやってられるか。俺たちの居場所はここだ」
ふたりで寝台に腰掛けて、ぼんやりと言うか、うっとりと言うか。手を握り頬を寄せるセファに、なんと伝えたらいいのだろう。
余裕なんてやっぱりないし、気持ちを殺して強がって予期せぬ騒動を招くことも経験積み。
ーー気位ばっかり高くったってしょうがないのよ。
ルルアは彼女たちの言葉を思い出してしどろもどろにつぶやいた。
「……あの、久しぶり、なので。ええと、こっ……心の、準備が……緊張してしまっただけで、違うんです。あの、セファ様、わたくしも」
「ふぅん? 陛下の御前でもいつも平然としてるルルアが緊張か。悪い気はしないね」
支離滅裂なルルアに比べ、セファはあれからまた背も伸びて、もはや年下とは思えないこの余裕。
「……申し訳ございません」
「照れてるルルアも新鮮で可愛いからかまわない。けど、かたくなってるのは良くないと思う。もう痛い思いはさせたくないから、良いものをあげようか」
「いえ、そんな」
たぶんもう、痛くはないんじゃないかと思うんです。なんて、とてもじゃないけど言えなくて。
ルルアが少女のように恥じらうとセファが「はい、これ」と懐から小さな包みを取り出した。
ちらりと視線を移せば彼が持つには不釣り合いに愛らしい。
首を傾いでよく見ると、それはふんだくられたまま返っこなかったルルアのハンカチだった。
驚いたルルアにセファがいたずらっぽく笑って包みを開く。中には乳白色の小さな練り菓子がたくさん入っていて、セファは指先で一粒つまみ、懐かしい仕草でルルアの口元に差し出した。
「見て、今日のぼくの戦利品だよ。全部ルルアにあげる。あーんして」
「まあ」
思わず顔が綻んだ。
たくさんの思い出が浮かび上がり、懐かしくてくすぐったい。緊張が緩んだ隙に練り菓子が口の中へと押し込まれる。幼い頃何度も重ねたやりとりで、そのまま指先の粉砂糖を舐めとる彼だけが、昔と違って艶っぽい。
ドキドキしながら舌で転がした練り菓子の、なんと甘くて刺激的で官能的なことだろう。この香りにも覚えがある。ルルアは芳香ごと飲み込んだ。
「あの夜、セファ様が纏っていた香りですか?」
「うん」
セファはにこにこしながら練り菓子にまぎれた歪な色形の小塊を指差した。
「びっくりした? これの香りが移ったんだ。龍涎香の原石。ハンカチにも焚き染めてある。良い香りだろ?」
「龍涎香? これが? 初めて見ました」
「賊狩りとかしてるとこういうものを手に入れることもある。これはひと抱えもあるようなでかいのがあったんだけど、このカケラだけ残してあとは兄上に贈ったんだ。ほんとは父上のご機嫌とりっていうか……交渉に使おうと思ってたんだけど」
「交渉?」
「ルルアを妻に迎える許可を。兄上のせいで交渉する必要もなくなったわけけど」
偶然に海辺に漂着する不可思議な香石で、漂う黄金とも評される貴重な品だ。もちろん交渉にも使えるだろう。価値をつけることすら出来ないこともある稀有な品だし、人々は香りを珍重する。
喜びで胸がはちきれそうだ。正式に手順を踏むつもりだったという気持ちだけでも嬉しいのに、本当にこんな物まで用意してくれていたのだ。
騒動のおかげで行先が変わり、皇太子夫妻のもとへ辿り着いた龍涎香。この芳香が妃殿下のお心を解きほぐしてくれたのかもしれない。
「妃殿下もお気に召されたことでしょう」
ルルアにとっても好ましい。
甘いお菓子に甘い香り、「かもね」とささやくセファの声。
冷たかった指先は大きな手に温められて、伝わる熱で心の中まで茹だったように熱かった。
「龍涎香は気の巡りを整えて心身を緩め、強く異性を惹きつけると言われてる。義姉上は知らないけど、ルルアには効いたかな」
トン、と鼻先をくっつけて優しくキスが落ちてくる。
「……効きすぎて……しまう、かもしれません……」
ルルアは万感の思いを込めて夜の海のような青い瞳を見つめた。
この二年、皇后は彼の資質や思想を時に理不尽なまでに試された。その重圧はセファの華やかさと賑やかさの陰で漠然と漂っていた軽薄さを削ぎ落とした。肉体と風格には年齢以上の厚みがでて、セファは今、高潔な貴公子と言っても差し支えないはずだ。知らない男性のように思える時もあったけれど、これは元から彼に備わっていたものだと思う。
ルルアにはわかる。
もしもあの日の騒動がなければ、今頃皇太子の時のように彼を巡って令嬢たちの熾烈な争いが繰り広げられたに決まっている。
だって、ルルアが尊く思ってきたところはなにひとつ変わらない。なすべきことをなす胆力、誠実で優しく、朗らかで、情熱的。六つも年下だなんて信じられないくらい、こんなに素敵なんだもの。
「セファ様。わたくし」
「うん」
「わ、わたくし、本当はずっと憧れていたのです」
「なにに?」
セファがルルアの髪を覆うベールを外して背後へと流し、頬を撫でて優しく問う。ルルアが自分の想いに気づいた少女の頃から伝えたくても伝えられないことがあった。
あの日の境の間、軟禁が解かれた日。
それ以外にも最後まで交わらなかっただけで皇后の監視の目を盗んで睦み合った日もあった。
機会はたくさんあったのに、なかなか口には出せなくて。結局今日まで先延ばしにしてしまった。
「わたくし……小さなセファ様が、ルルアを特別に思ってくださっているのを知っていました」
「別に小さな頃だけじゃないよ。ずっとルルアが好きだった。歳をとるごとに会うのが難しくなって、手に入れたものの使い道は先を考えて変わってきてたとは思うけど」
「えぅ……え、あの、は、はぃ」
真っ直ぐに返ってきた言葉に心臓が高鳴って口ごもる。そんなに熱っぽく出鼻を挫かないで欲しい。
わかっている、いつも気にかけてくれていた。
ただなんと言っても、毎日毎日その日の戦利品を一個ずつ自慢して、全部ルルアにあげるとおっしゃる姿がとても可愛かったので。
「……な、なのに、わたくし、このような幸運を授かる道があるとは思えませんでした。わたくしは六つも年上だし……皇后陛下は皇子たちの行く末を深く案じておられ、周囲も父も、幼なじみだからと図にのるな、身の程を弁え私心を捨ててお仕えしろと口うるさく……あのでも」
「……でも?」
セファがルルアの手のひらに口づけて、温かな吐息が続きをうながす。
「わたくし、いつの日かこうしてセファ様を閨でお迎えするだろう方が羨ましくて、妬ましくて……」
ーーあなたの一番でいられるのなら、ただ待つだけで、生涯独り身でもかまわなかった。
なんてやっぱり嘘。
今や雄々しい熱情を湛える瞳は幼い頃からルルアの心を掴んで離さない。相手は皇子様で、身分も年齢も、何もかも分不相応だってわかっていても、
「本当は、誰にも奪われたくなかった、誰にもこの手を譲りたくありませんでした。いつまでもわたくしだけを見ていてくださればいいのにと」
繋いだ手にどちらともなく力がこもる。セファはルルアを見つめたまま夜を切り裂く雷のように鮮烈に笑った。
「ぼくと一緒だね」
「……はい、ルルアもこの日にずっと憧れて小さな頃から待ちわびておりました。セファ様は、わたくしの初恋の君ですから」
次の瞬間、ルルアの身体がふわりと浮いた。
龍涎香と練り菓子がころんころんと落ちていく。そのままくらりと傾いて、扇のように広がったのは女体を彩る閨の衣装。
この日の為にあつらえた寝具でぼふんと優しい音を立て、ふたりは寝台へと転がった。
窓の外ではちょうど篝火が焚かれだし、淡い紅色に光っている。この城は果樹が多くて、もう少し経てば李の花も開くだろう。
皇宮とはまた異なる趣で、先帝が拡げた領土の西、多数の属国と異国に睨みをきかせる要所に位置する。厨房だけでも五百人を超える人員がいた皇宮に比べれば小規模だけれど、明るく華やかな城塞都市だ。
ルルアは淡く輝く中庭を眺めながら長いため息をついた。春めいた夜なのに指先が冷たくて。
きっとひどい緊張のせいだろう。
準備は万端。この日のために全身を磨き上げ、髪と肌にはしっかりと香油を塗り込んだ。衣装も髪型も、出来ることはし尽くしたはずだ。
生命の木を意味する糸杉やアネモネなど婚礼用の刺繍が施された寝具を整え、あとは彼が宴席から戻るのを待つばかり。
ぽん、とクッションを叩くと、じわじわと実感が湧いてくる。
今更だけど寝台に突っ伏してしまいそうだ。
いい歳して、情けない。せめて余裕を持って落ち着いてお迎えしなくては。
なんて。そわそわと髪を彩るベールや薄物の長衣に手をやった。
今日はルルアの初夜なのだ。
いやもちろん、初めてではないのだけれど。
それでも前回は薄暗い部屋でお互いに怒ったり泣いたりで興奮していたし、とにかく勢いに任せた一夜だった。
さらには夜が明けてからも件の如き騒動続きだったわけで、境の間が見せた夢だったのではないかと思っても仕方があるまい。
ルルアとセファはあれからさらに二年ほど待ち、最後まで肌を合わせるのも二年ぶりだ。
皇太子への遠慮もあったし、そもそも軟禁が解かれたのはルルアに妊娠の兆候がなかったからなので。
長かったような気もするけれど、皇太子夫妻の御子が先日やっと一歳。きっと早いくらいなのだと思う。
ついに迎えたこの日をなんとか無事に過ごしたい気負いと肌を合わせることへの緊張で目まぐるしい。ルルアはとても黙っていられなくて、せわしなく動き回った。
そろそろ宴席も盛り上がっているだろう。時間はまだあるけれど少しの乱れも気になって寝台を整え、調度品を整え。
顔も知らぬ婚約者に嫁ぐ決心をした日が嘘のようだ。
かつての婚約はもちろん破談となり、結局元婚約者は皇室のお声がかりで養子を迎えたそうだ。
父オズデミル卿にどんな不利益があるのかと心配していたが、ルルアの軟禁中にセファが全てにカタをつけていた。
養子に入ったのはあの日境の間に現れた将軍で、彼との約束を守る意味もあったのだろう。
属国出身とはいえ一軍の将を務める彼が伝統あるチェリク卿の土地を引き継げば、象牙の扇の令嬢に求婚もたやすい。
とは言っても彼の恋が実るかどうかは彼女次第。
象牙の扇はまだ将軍の手の内で、彼女からは「皇太子殿下を酔い潰そうとしていたから制裁を与えたまで。求婚には応じない。あの男をなんとかして扇を取り返してくれ」とルルアに再三申し入れがあった。
大変心苦しいのだが、ルルアに出来ることは何もない。
あの頃意地悪された仕返しをしている……というワケでもなくて、あとは二人の問題だから放っておけ、との皇子のお言葉なのである。
「ふふ」
あの気の強い彼女が将軍の勢いに押されて逃げまわっているのを思い出して笑いをこぼす。
ほんの少し気が緩んだその時、前触れもなく閨の扉が開かれた。
驚いて、肩を跳ね上げ振りかえる。
「ルルア!」
「セファさまっ⁉︎」
こんなに早く?
豪奢な長衣を纏うセファがあっという間に目の前にやってきて、声もなくルルアを抱きしめた。
余計なことばっかり考えて油断していた、ちゃんとお迎えしたかったのに。
ルルアが慌てて礼をとろうとしてもセファの腕が阻んで動けない。見上げると、セファは金色のまつ毛が縁取る瞼を閉じて何かに耐えるような表情をしていた。思い詰めたような雰囲気にルルアはぎょっと目を剥いた。
もしかして、またなにかあったのだろうか。
「セファ様? どうされたのです?」
「…………どうって?」
「あの、だって宴席は? またなにか……」
「…………………………はぁ」
「えっ」
セファはがっくりとうなだれてため息をついた。うろたえるルルアをじっとりと見下ろして、おでこを合わせて問いかける。
「……ルルア、俺が、どれだけ、この日を、待ったと思ってるんだ? …………もしかして待ってたのは俺だけ?」
恨みがましく言い募る。ルルアは青くなりつつ赤くなった。セファがぐっと手を引いて「違うんです、そんなつもりじゃ」と弁明する暇もない。
「俺はあいつらの顔なんかよりルルアを見ていたい。それに兄上みたいになりたくないし」
ルルアだって、皇太子夫妻の二の舞なんかなりたくない。だからこそしっかりもてなさなければと気負いが空回る。
初夜のために早く切り上げてきてくれたに決まっているのに、どうしてこう、可愛げのないことを。両手で頬を隠してうつむくと、セファがルルアをのぞきこみあやすようにひたいに口づけた。
「宴席なんてやってられるか。俺たちの居場所はここだ」
ふたりで寝台に腰掛けて、ぼんやりと言うか、うっとりと言うか。手を握り頬を寄せるセファに、なんと伝えたらいいのだろう。
余裕なんてやっぱりないし、気持ちを殺して強がって予期せぬ騒動を招くことも経験積み。
ーー気位ばっかり高くったってしょうがないのよ。
ルルアは彼女たちの言葉を思い出してしどろもどろにつぶやいた。
「……あの、久しぶり、なので。ええと、こっ……心の、準備が……緊張してしまっただけで、違うんです。あの、セファ様、わたくしも」
「ふぅん? 陛下の御前でもいつも平然としてるルルアが緊張か。悪い気はしないね」
支離滅裂なルルアに比べ、セファはあれからまた背も伸びて、もはや年下とは思えないこの余裕。
「……申し訳ございません」
「照れてるルルアも新鮮で可愛いからかまわない。けど、かたくなってるのは良くないと思う。もう痛い思いはさせたくないから、良いものをあげようか」
「いえ、そんな」
たぶんもう、痛くはないんじゃないかと思うんです。なんて、とてもじゃないけど言えなくて。
ルルアが少女のように恥じらうとセファが「はい、これ」と懐から小さな包みを取り出した。
ちらりと視線を移せば彼が持つには不釣り合いに愛らしい。
首を傾いでよく見ると、それはふんだくられたまま返っこなかったルルアのハンカチだった。
驚いたルルアにセファがいたずらっぽく笑って包みを開く。中には乳白色の小さな練り菓子がたくさん入っていて、セファは指先で一粒つまみ、懐かしい仕草でルルアの口元に差し出した。
「見て、今日のぼくの戦利品だよ。全部ルルアにあげる。あーんして」
「まあ」
思わず顔が綻んだ。
たくさんの思い出が浮かび上がり、懐かしくてくすぐったい。緊張が緩んだ隙に練り菓子が口の中へと押し込まれる。幼い頃何度も重ねたやりとりで、そのまま指先の粉砂糖を舐めとる彼だけが、昔と違って艶っぽい。
ドキドキしながら舌で転がした練り菓子の、なんと甘くて刺激的で官能的なことだろう。この香りにも覚えがある。ルルアは芳香ごと飲み込んだ。
「あの夜、セファ様が纏っていた香りですか?」
「うん」
セファはにこにこしながら練り菓子にまぎれた歪な色形の小塊を指差した。
「びっくりした? これの香りが移ったんだ。龍涎香の原石。ハンカチにも焚き染めてある。良い香りだろ?」
「龍涎香? これが? 初めて見ました」
「賊狩りとかしてるとこういうものを手に入れることもある。これはひと抱えもあるようなでかいのがあったんだけど、このカケラだけ残してあとは兄上に贈ったんだ。ほんとは父上のご機嫌とりっていうか……交渉に使おうと思ってたんだけど」
「交渉?」
「ルルアを妻に迎える許可を。兄上のせいで交渉する必要もなくなったわけけど」
偶然に海辺に漂着する不可思議な香石で、漂う黄金とも評される貴重な品だ。もちろん交渉にも使えるだろう。価値をつけることすら出来ないこともある稀有な品だし、人々は香りを珍重する。
喜びで胸がはちきれそうだ。正式に手順を踏むつもりだったという気持ちだけでも嬉しいのに、本当にこんな物まで用意してくれていたのだ。
騒動のおかげで行先が変わり、皇太子夫妻のもとへ辿り着いた龍涎香。この芳香が妃殿下のお心を解きほぐしてくれたのかもしれない。
「妃殿下もお気に召されたことでしょう」
ルルアにとっても好ましい。
甘いお菓子に甘い香り、「かもね」とささやくセファの声。
冷たかった指先は大きな手に温められて、伝わる熱で心の中まで茹だったように熱かった。
「龍涎香は気の巡りを整えて心身を緩め、強く異性を惹きつけると言われてる。義姉上は知らないけど、ルルアには効いたかな」
トン、と鼻先をくっつけて優しくキスが落ちてくる。
「……効きすぎて……しまう、かもしれません……」
ルルアは万感の思いを込めて夜の海のような青い瞳を見つめた。
この二年、皇后は彼の資質や思想を時に理不尽なまでに試された。その重圧はセファの華やかさと賑やかさの陰で漠然と漂っていた軽薄さを削ぎ落とした。肉体と風格には年齢以上の厚みがでて、セファは今、高潔な貴公子と言っても差し支えないはずだ。知らない男性のように思える時もあったけれど、これは元から彼に備わっていたものだと思う。
ルルアにはわかる。
もしもあの日の騒動がなければ、今頃皇太子の時のように彼を巡って令嬢たちの熾烈な争いが繰り広げられたに決まっている。
だって、ルルアが尊く思ってきたところはなにひとつ変わらない。なすべきことをなす胆力、誠実で優しく、朗らかで、情熱的。六つも年下だなんて信じられないくらい、こんなに素敵なんだもの。
「セファ様。わたくし」
「うん」
「わ、わたくし、本当はずっと憧れていたのです」
「なにに?」
セファがルルアの髪を覆うベールを外して背後へと流し、頬を撫でて優しく問う。ルルアが自分の想いに気づいた少女の頃から伝えたくても伝えられないことがあった。
あの日の境の間、軟禁が解かれた日。
それ以外にも最後まで交わらなかっただけで皇后の監視の目を盗んで睦み合った日もあった。
機会はたくさんあったのに、なかなか口には出せなくて。結局今日まで先延ばしにしてしまった。
「わたくし……小さなセファ様が、ルルアを特別に思ってくださっているのを知っていました」
「別に小さな頃だけじゃないよ。ずっとルルアが好きだった。歳をとるごとに会うのが難しくなって、手に入れたものの使い道は先を考えて変わってきてたとは思うけど」
「えぅ……え、あの、は、はぃ」
真っ直ぐに返ってきた言葉に心臓が高鳴って口ごもる。そんなに熱っぽく出鼻を挫かないで欲しい。
わかっている、いつも気にかけてくれていた。
ただなんと言っても、毎日毎日その日の戦利品を一個ずつ自慢して、全部ルルアにあげるとおっしゃる姿がとても可愛かったので。
「……な、なのに、わたくし、このような幸運を授かる道があるとは思えませんでした。わたくしは六つも年上だし……皇后陛下は皇子たちの行く末を深く案じておられ、周囲も父も、幼なじみだからと図にのるな、身の程を弁え私心を捨ててお仕えしろと口うるさく……あのでも」
「……でも?」
セファがルルアの手のひらに口づけて、温かな吐息が続きをうながす。
「わたくし、いつの日かこうしてセファ様を閨でお迎えするだろう方が羨ましくて、妬ましくて……」
ーーあなたの一番でいられるのなら、ただ待つだけで、生涯独り身でもかまわなかった。
なんてやっぱり嘘。
今や雄々しい熱情を湛える瞳は幼い頃からルルアの心を掴んで離さない。相手は皇子様で、身分も年齢も、何もかも分不相応だってわかっていても、
「本当は、誰にも奪われたくなかった、誰にもこの手を譲りたくありませんでした。いつまでもわたくしだけを見ていてくださればいいのにと」
繋いだ手にどちらともなく力がこもる。セファはルルアを見つめたまま夜を切り裂く雷のように鮮烈に笑った。
「ぼくと一緒だね」
「……はい、ルルアもこの日にずっと憧れて小さな頃から待ちわびておりました。セファ様は、わたくしの初恋の君ですから」
次の瞬間、ルルアの身体がふわりと浮いた。
龍涎香と練り菓子がころんころんと落ちていく。そのままくらりと傾いて、扇のように広がったのは女体を彩る閨の衣装。
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