28 / 92
28.母は強し
しおりを挟む
吐き気も吹っ飛ぶくらいの嬉しい情報を得て、三日目の事だった。
小林先生が見知らぬ誰かを連れて、病室に入って来たのは。
「颯斗くん、こちら移植コーディネーターの赤井さんです」
移植コーディネーター? と俺は首を捻らせた。
父さんと母さんが説明に呼ばれたのは明後日だ。その時に話し合うんじゃなかったのか。
赤井という少し年配の女の人は、何故か眉を下げながら「赤井です。よろしくね」と挨拶をしてくれる。
「島田颯斗です。よろしくお願いします……っ」
なんだか怖かった。小林先生と赤井とさんの表情が、どう見ても強張っていて。
「颯斗くん、ドナーの件なんですが……」
「小林先生、私から」
小林先生を制し、赤井さんは真っ直ぐこちらを向いて来る。その目が哀れみを含んでいる気がして、俺の不安は膨張し始めた。
「……何?」
「颯斗くん、ドナーさんの事なんだけどね」
ああ、もうその出だしは嫌な予感しかしない。
耳を塞ぎたくなった俺に、容赦のない赤井さんの声が響いて来る。
「あの話、先方の都合で駄目にしまったの」
「……」
俺の頭は一瞬、真っ黒になった。
息が止まって指先すら動かせない。
「本当にごめんなさい。でもドナー側にも事情があって、仕方なかったの」
「……事情って、なんだよ……」
赤井さんの言い訳に、沸々と怒りが湧いて来る。
嬉しかったんだ。感謝してたんだ、すっごく。
それなのに。
「会社が休めないとかそういう言い訳? まさか家族旅行に行くからとかいう理由じゃないよな!! それともただ単にびびった!? 面倒臭くなったとか!? 」
なんだよ、それ。
急にキャンセルとかどういう事情だよ? 人の命を何だと思ってんだよ!!
俺は奥歯を噛み締めながら赤井さんを睨む。この人が悪いんじゃないと分かっていても、他に怒りをぶつけようがなかった。
「ごめんなさい、相手方の事情は言えないようになってるの」
「ふざ、けんなよ……」
握り拳を作って睨み続ける俺に向かって、小林先生は半歩前に出た。
「颯斗くん、ドナーというのは完全なボランティアだ。もちろん最終同意を交わして以降は断れない事になっている。今回は、止むに止まれぬ事情があったんでしょう」
そんな事情なんて知らない。同意って、約束って事だろ? そんなに簡単に破っていいのかよっ!
「約束、交わしてたんだろ!? 無理矢理にでも骨髄貰えねぇの!?」
「颯斗くん……」
「骨髄提供は、ボランティアの善意で成り立っている事ですから、無理にという訳にはいかないんですよ。最終同意後の辞退は稀ですから、よほどの事があったんでしょう」
坦々とした小林先生の説明に、やっぱり俺は怒りしか湧いてこなかった。
ボランティアの善意? 一度オーケーしといて断るなんて、俺には悪意としか思えない。
人を絶望に叩き落とすのが、ボランティアのやる事なのか!?
「颯斗くん、まだドナーの候補者はいるのよ。その人にお願いして来るから、もう少しだけ待ってて欲しいの」
「もう少しって……いつだよ? 移植すんの、もう次のクールだろ!?」
「ギリギリまで、出来ることをするから……」
喉の奥から、嗚咽が漏れそうになる。
他の候補者がいるからって、また断られるかもしれないんだ。ドナーが決まったとしても、移植までに怪我や病気を患ったりしたら、提供はして貰えなくなるんだろう。
そこまで考えて、ようやくドナーに何かあったのかなという所に思い至った。
けど、それでも断られた事にショックを受けたんだ。今でもまだふざけんなって思ってる。ああ、喜んでくれてた父さんと母さんになんて言えばいいんだよ……。
「落ち込むなと言っても無理な話ですが、あまり気に病まないように。前にも言いましたが、もしもドナーが決まらなくても他に方法はありますから」
小林先生の言いたい事は分かる。けどそれは『最善』じゃない、二番目の方法だ。
俺は最善の治療を受けたかった。誰だって、自分の生死に関わる治療の妥協は、出来ないと思う。
また、待つしかなくなった。
次のドナー候補者が引き受けてくれると信じて。
小林先生と赤井さんの説明が終わった後、病室を出て行くのを目の端で見送る。そしてようやくスマホを手に取ると、重い指を動かして通話先を選んだ。
トゥルルル、と虚しい音が三回した後、その音が途切れる。
「母さん? ごめん……」
『颯斗? どうしたの?』
いきなり謝った俺に、母さんは不思議そうに……でも優しく声を掛けてくれる。
その声にたまらなくなって、俺は。
「ドナー……ダメだって……っ」
ボロボロと勝手に涙が溢れ出る中、そう伝えてしまった。
母さんは泣き虫だから、俺が涙を見せちゃダメなのに。そう思ってても、いつの間にかしゃくり上げるまで声が上擦っている。
「ちが、ドナー、探すって……ひっく。けど、う……見つからない、かも……ひいっく」
しばらく俺の言葉を黙って聞いていた母さんから、ひとつ息を吸う音が聞こえてきた。
『だいじょうぶっ!!』
思わず持っていた携帯を落としそうになるほど、大きな声が耳に飛び込んでくる。
『きっと、その人じゃないって神様が言ったのよ! もっとずっと良い人を颯斗のドナーにしてくれる! お母さんは、そう思うよ!』
断言するように言った母さんの言葉に、俺は少し呆気にとられた。
何だ、母さんって強いんだなって。俺、母さんの前で強がんなくて良かったのかなって。
その瞬間、びっくりするくらい簡単に涙がピタッと止まっていた。
「うん……そうだな。きっと、その人じゃなかったんだな」
母さんの言う事なら、何故だかスッと聞き入れられた。赤井さんや小林先生の言葉には、反発しか出て来なかったのに。
俺のドス黒かった気持ちが嘘のように、明るい光が差して来る。
「母さん、たまには良い事言うなぁ」
『何ですってぇ?』
俺が憎まれ口を叩くと、母さんはそう言いながらも楽しそうに笑っていた。
今、先の事で悩んでも仕方ないか。ドナーが見つかるも見つからないも、神様思し召しってやつなのかもしれない。
そう思うと少し楽になれた気がして、俺は母さんと一緒に笑っていた。
小林先生が見知らぬ誰かを連れて、病室に入って来たのは。
「颯斗くん、こちら移植コーディネーターの赤井さんです」
移植コーディネーター? と俺は首を捻らせた。
父さんと母さんが説明に呼ばれたのは明後日だ。その時に話し合うんじゃなかったのか。
赤井という少し年配の女の人は、何故か眉を下げながら「赤井です。よろしくね」と挨拶をしてくれる。
「島田颯斗です。よろしくお願いします……っ」
なんだか怖かった。小林先生と赤井とさんの表情が、どう見ても強張っていて。
「颯斗くん、ドナーの件なんですが……」
「小林先生、私から」
小林先生を制し、赤井さんは真っ直ぐこちらを向いて来る。その目が哀れみを含んでいる気がして、俺の不安は膨張し始めた。
「……何?」
「颯斗くん、ドナーさんの事なんだけどね」
ああ、もうその出だしは嫌な予感しかしない。
耳を塞ぎたくなった俺に、容赦のない赤井さんの声が響いて来る。
「あの話、先方の都合で駄目にしまったの」
「……」
俺の頭は一瞬、真っ黒になった。
息が止まって指先すら動かせない。
「本当にごめんなさい。でもドナー側にも事情があって、仕方なかったの」
「……事情って、なんだよ……」
赤井さんの言い訳に、沸々と怒りが湧いて来る。
嬉しかったんだ。感謝してたんだ、すっごく。
それなのに。
「会社が休めないとかそういう言い訳? まさか家族旅行に行くからとかいう理由じゃないよな!! それともただ単にびびった!? 面倒臭くなったとか!? 」
なんだよ、それ。
急にキャンセルとかどういう事情だよ? 人の命を何だと思ってんだよ!!
俺は奥歯を噛み締めながら赤井さんを睨む。この人が悪いんじゃないと分かっていても、他に怒りをぶつけようがなかった。
「ごめんなさい、相手方の事情は言えないようになってるの」
「ふざ、けんなよ……」
握り拳を作って睨み続ける俺に向かって、小林先生は半歩前に出た。
「颯斗くん、ドナーというのは完全なボランティアだ。もちろん最終同意を交わして以降は断れない事になっている。今回は、止むに止まれぬ事情があったんでしょう」
そんな事情なんて知らない。同意って、約束って事だろ? そんなに簡単に破っていいのかよっ!
「約束、交わしてたんだろ!? 無理矢理にでも骨髄貰えねぇの!?」
「颯斗くん……」
「骨髄提供は、ボランティアの善意で成り立っている事ですから、無理にという訳にはいかないんですよ。最終同意後の辞退は稀ですから、よほどの事があったんでしょう」
坦々とした小林先生の説明に、やっぱり俺は怒りしか湧いてこなかった。
ボランティアの善意? 一度オーケーしといて断るなんて、俺には悪意としか思えない。
人を絶望に叩き落とすのが、ボランティアのやる事なのか!?
「颯斗くん、まだドナーの候補者はいるのよ。その人にお願いして来るから、もう少しだけ待ってて欲しいの」
「もう少しって……いつだよ? 移植すんの、もう次のクールだろ!?」
「ギリギリまで、出来ることをするから……」
喉の奥から、嗚咽が漏れそうになる。
他の候補者がいるからって、また断られるかもしれないんだ。ドナーが決まったとしても、移植までに怪我や病気を患ったりしたら、提供はして貰えなくなるんだろう。
そこまで考えて、ようやくドナーに何かあったのかなという所に思い至った。
けど、それでも断られた事にショックを受けたんだ。今でもまだふざけんなって思ってる。ああ、喜んでくれてた父さんと母さんになんて言えばいいんだよ……。
「落ち込むなと言っても無理な話ですが、あまり気に病まないように。前にも言いましたが、もしもドナーが決まらなくても他に方法はありますから」
小林先生の言いたい事は分かる。けどそれは『最善』じゃない、二番目の方法だ。
俺は最善の治療を受けたかった。誰だって、自分の生死に関わる治療の妥協は、出来ないと思う。
また、待つしかなくなった。
次のドナー候補者が引き受けてくれると信じて。
小林先生と赤井さんの説明が終わった後、病室を出て行くのを目の端で見送る。そしてようやくスマホを手に取ると、重い指を動かして通話先を選んだ。
トゥルルル、と虚しい音が三回した後、その音が途切れる。
「母さん? ごめん……」
『颯斗? どうしたの?』
いきなり謝った俺に、母さんは不思議そうに……でも優しく声を掛けてくれる。
その声にたまらなくなって、俺は。
「ドナー……ダメだって……っ」
ボロボロと勝手に涙が溢れ出る中、そう伝えてしまった。
母さんは泣き虫だから、俺が涙を見せちゃダメなのに。そう思ってても、いつの間にかしゃくり上げるまで声が上擦っている。
「ちが、ドナー、探すって……ひっく。けど、う……見つからない、かも……ひいっく」
しばらく俺の言葉を黙って聞いていた母さんから、ひとつ息を吸う音が聞こえてきた。
『だいじょうぶっ!!』
思わず持っていた携帯を落としそうになるほど、大きな声が耳に飛び込んでくる。
『きっと、その人じゃないって神様が言ったのよ! もっとずっと良い人を颯斗のドナーにしてくれる! お母さんは、そう思うよ!』
断言するように言った母さんの言葉に、俺は少し呆気にとられた。
何だ、母さんって強いんだなって。俺、母さんの前で強がんなくて良かったのかなって。
その瞬間、びっくりするくらい簡単に涙がピタッと止まっていた。
「うん……そうだな。きっと、その人じゃなかったんだな」
母さんの言う事なら、何故だかスッと聞き入れられた。赤井さんや小林先生の言葉には、反発しか出て来なかったのに。
俺のドス黒かった気持ちが嘘のように、明るい光が差して来る。
「母さん、たまには良い事言うなぁ」
『何ですってぇ?』
俺が憎まれ口を叩くと、母さんはそう言いながらも楽しそうに笑っていた。
今、先の事で悩んでも仕方ないか。ドナーが見つかるも見つからないも、神様思し召しってやつなのかもしれない。
そう思うと少し楽になれた気がして、俺は母さんと一緒に笑っていた。
0
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。



身体検査
RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、
選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。




ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる