再び大地(フィールド)に立つために 〜中学二年、病との闘いを〜

長岡更紗

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28.母は強し

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 吐き気も吹っ飛ぶくらいの嬉しい情報を得て、三日目の事だった。
 小林先生が見知らぬ誰かを連れて、病室に入って来たのは。

「颯斗くん、こちら移植コーディネーターの赤井さんです」

 移植コーディネーター? と俺は首を捻らせた。
 父さんと母さんが説明に呼ばれたのは明後日だ。その時に話し合うんじゃなかったのか。
 赤井という少し年配の女の人は、何故か眉を下げながら「赤井です。よろしくね」と挨拶をしてくれる。

「島田颯斗です。よろしくお願いします……っ」

 なんだか怖かった。小林先生と赤井とさんの表情が、どう見ても強張っていて。

「颯斗くん、ドナーの件なんですが……」
「小林先生、私から」

 小林先生を制し、赤井さんは真っ直ぐこちらを向いて来る。その目が哀れみを含んでいる気がして、俺の不安は膨張し始めた。

「……何?」
「颯斗くん、ドナーさんの事なんだけどね」

 ああ、もうその出だしは嫌な予感しかしない。
 耳を塞ぎたくなった俺に、容赦のない赤井さんの声が響いて来る。

「あの話、先方の都合で駄目にしまったの」
「……」

 俺の頭は一瞬、真っ黒になった。
 息が止まって指先すら動かせない。

「本当にごめんなさい。でもドナー側にも事情があって、仕方なかったの」
「……事情って、なんだよ……」

 赤井さんの言い訳に、沸々と怒りが湧いて来る。
 嬉しかったんだ。感謝してたんだ、すっごく。
 それなのに。

「会社が休めないとかそういう言い訳? まさか家族旅行に行くからとかいう理由じゃないよな!! それともただ単にびびった!? 面倒臭くなったとか!? 」

 なんだよ、それ。
 急にキャンセルとかどういう事情だよ? 人の命を何だと思ってんだよ!!
 俺は奥歯を噛み締めながら赤井さんを睨む。この人が悪いんじゃないと分かっていても、他に怒りをぶつけようがなかった。

「ごめんなさい、相手方の事情は言えないようになってるの」
「ふざ、けんなよ……」

 握り拳を作って睨み続ける俺に向かって、小林先生は半歩前に出た。

「颯斗くん、ドナーというのは完全なボランティアだ。もちろん最終同意を交わして以降は断れない事になっている。今回は、止むに止まれぬ事情があったんでしょう」

 そんな事情なんて知らない。同意って、約束って事だろ? そんなに簡単に破っていいのかよっ!

「約束、交わしてたんだろ!? 無理矢理にでも骨髄貰えねぇの!?」
「颯斗くん……」
「骨髄提供は、ボランティアの善意で成り立っている事ですから、無理にという訳にはいかないんですよ。最終同意後の辞退は稀ですから、よほどの事があったんでしょう」

 坦々とした小林先生の説明に、やっぱり俺は怒りしか湧いてこなかった。
 ボランティアの善意? 一度オーケーしといて断るなんて、俺には悪意としか思えない。
 人を絶望に叩き落とすのが、ボランティアのやる事なのか!?

「颯斗くん、まだドナーの候補者はいるのよ。その人にお願いして来るから、もう少しだけ待ってて欲しいの」
「もう少しって……いつだよ? 移植すんの、もう次のクールだろ!?」
「ギリギリまで、出来ることをするから……」

 喉の奥から、嗚咽が漏れそうになる。
 他の候補者がいるからって、また断られるかもしれないんだ。ドナーが決まったとしても、移植までに怪我や病気を患ったりしたら、提供はして貰えなくなるんだろう。
そこまで考えて、ようやくドナーに何かあったのかなという所に思い至った。
 けど、それでも断られた事にショックを受けたんだ。今でもまだふざけんなって思ってる。ああ、喜んでくれてた父さんと母さんになんて言えばいいんだよ……。

「落ち込むなと言っても無理な話ですが、あまり気に病まないように。前にも言いましたが、もしもドナーが決まらなくても他に方法はありますから」

 小林先生の言いたい事は分かる。けどそれは『最善』じゃない、二番目の方法だ。
 俺は最善の治療を受けたかった。誰だって、自分の生死に関わる治療の妥協は、出来ないと思う。

 また、待つしかなくなった。
 次のドナー候補者が引き受けてくれると信じて。

 小林先生と赤井さんの説明が終わった後、病室を出て行くのを目の端で見送る。そしてようやくスマホを手に取ると、重い指を動かして通話先を選んだ。
 トゥルルル、と虚しい音が三回した後、その音が途切れる。

「母さん? ごめん……」
『颯斗? どうしたの?』

 いきなり謝った俺に、母さんは不思議そうに……でも優しく声を掛けてくれる。
 その声にたまらなくなって、俺は。

「ドナー……ダメだって……っ」

 ボロボロと勝手に涙が溢れ出る中、そう伝えてしまった。
 母さんは泣き虫だから、俺が涙を見せちゃダメなのに。そう思ってても、いつの間にかしゃくり上げるまで声が上擦っている。

「ちが、ドナー、探すって……ひっく。けど、う……見つからない、かも……ひいっく」

 しばらく俺の言葉を黙って聞いていた母さんから、ひとつ息を吸う音が聞こえてきた。

『だいじょうぶっ!!』

 思わず持っていた携帯を落としそうになるほど、大きな声が耳に飛び込んでくる。

『きっと、その人じゃないって神様が言ったのよ! もっとずっと良い人を颯斗のドナーにしてくれる! お母さんは、そう思うよ!』

 断言するように言った母さんの言葉に、俺は少し呆気にとられた。
 何だ、母さんって強いんだなって。俺、母さんの前で強がんなくて良かったのかなって。
 その瞬間、びっくりするくらい簡単に涙がピタッと止まっていた。

「うん……そうだな。きっと、その人じゃなかったんだな」

 母さんの言う事なら、何故だかスッと聞き入れられた。赤井さんや小林先生の言葉には、反発しか出て来なかったのに。
 俺のドス黒かった気持ちが嘘のように、明るい光が差して来る。

「母さん、たまには良い事言うなぁ」
『何ですってぇ?』

 俺が憎まれ口を叩くと、母さんはそう言いながらも楽しそうに笑っていた。
 今、先の事で悩んでも仕方ないか。ドナーが見つかるも見つからないも、神様思し召しってやつなのかもしれない。
 そう思うと少し楽になれた気がして、俺は母さんと一緒に笑っていた。
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