再び大地(フィールド)に立つために 〜中学二年、病との闘いを〜

長岡更紗

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08.妹

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 翌日、俺は歴史の教科書を持って院内学級に向かった。
 前にオバちゃんに連れてきておいてもらって良かった。いきなり一人で来たら尻込みしてたかもしれない。

「失礼しまーす」
「お、ハヤト! 来たなぁ、待ってたぞ!」

 やっぱり体育会系のノリの山チョー先生が迎えてくれた。他に中学生が三人いて、小さな仕切りの向こうでは違う先生が小学生の相手をしている。

「何の教科書持って来たんだ? お、歴史か! 歴史は先生得意だぞ!」
「本当かよ……って、山チョー先生の担当教科って何なんだよ?」
「主に地理だなっ。でも社会科関連は全部好きだぞ! 任せろっ」
「山チョー先生って数学とか苦手そうだよな」
「英語よりは得意だ、それも任せろ!」
「英語ダメなのかよっ」
「自慢じゃないが発音は酷いな。俺の真似はするなよ。りぴーと・あふたー・みー、はろー!!」
「ハローかよ!!」

 山チョー先生はワハハハと笑って俺の机の前に椅子を置き、どかっと座った。
 どうやら山チョー先生は人気のようで、他の中学生からも隣の小学生からもよく絡まれている。
 まぁ俺もこういうタイプは嫌いじゃない。院内学級は先生のおかげか、暗い雰囲気はひとつもなかった。

 次の日もその次の日も、俺は院内学級に通った。
 今のところ抗がん剤の副作用に酷いものはなく、むしろステロイド効果で食欲が増進されている。
 抗がん剤や大量の飲み薬のおかげか、俺の白血球はとんでもない数値から少し落ち着いてきた。もっともっと下がって行くと、小児病棟から出られなくなってしまうらしい。
 電話、小児病棟の外にあるんだよな。今のうち、香苗の声を聞いておこう。
 俺は点滴スタンドをガラガラと押しながら、小児病棟を出た。今の時間、香苗は鈴木のばあちゃんのところにいるはずだ。俺はばあちゃんの携帯電話に掛けてみた。トゥルルと音がしてすぐにばあちゃんが出る。

『もしもし?』
「あ、ばあちゃん? 颯斗だけど」
『颯斗ちゃん!?』

 ばあちゃんの驚く声が聞こえる。そう言えば、こっちに来てからばあちゃんに電話するのは初めてだ。

『颯斗ちゃん、大変だったねぇ……大丈夫なの?』
「うん、抗がん剤も始まったけど、そんなに気分悪くなったりしてないよ。大丈夫」
『そう……おばあちゃんもお見舞いに行きたいんだけどねぇ……』
「ばあちゃんは香苗の面倒頼むよ。ねぇ、今そこに香苗いる?」
『庭で遊んでるよ、ちょっと待ってね』

 そう言うとばあちゃんの『香苗ちゃん、お兄ちゃんだよ』という声が遠くから聞こえ、ザザザザッと慌てた香苗の足音が近づいて来る。

『お兄ちゃん!?』
「おう、香苗。元気か?」
『お兄ちゃん……お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん~~っ』

 香苗が電話の向こうで『お兄ちゃん』と連呼してくる。その声は、香苗の頬に涙が伝う様子を俺の脳裏に浮かばせる。

「ごめんな、香苗」
『お、おに、ちゃ………頑張ってね……っ! 私、応援してるから……待ってるる、る……から、ねっ』

 グシグシと音を立てて言われると、何だか俺も涙が出て来た。
 鬱陶しかったり面倒だったりするけど、でもやっぱり香苗は赤ちゃんの頃から知ってる俺の大事な妹だ。生意気ですぐに怒ってすぐに泣く、誰よりも可愛い俺の妹なんだ。
 兄ちゃんが病気になったせいで、香苗にまで辛い思いさせて、ごめんな。

「兄ちゃん、頑張るからな。香苗もじいちゃんやばあちゃんや、皆の言う事よく聞いて頑張るんだぞ」
『うん、うん……っ! 良い子にしてたら、また電話くれる?』
「もちろん、また電話掛けるよ」
『待ってるからね、約束っ!』
「分かった、約束!」

 香苗が鼻をすすって『へへ』と笑う声がした。俺は「じゃあな」と最後に声を掛けて受話器を置く。
 そして次に真奈美に電話を掛けようとして……やめた。
 もう夏休みには入ってるけど、部活でまだ家には帰ってないかもしれない。俺も真奈美もスマホ持ってないのが痛いよな。声が聞けなくても、メッセージのやりとりくらいしたいなぁ……。

 次の日は土曜で、院内学級は休みだった。
 今日は父さんか母さん、来てくれるかな。
 暇なのでプレイルームに行くと、リナやさくら達がいた。保育士の志保美先生と沙知先生はお休みみたいだ。

「あ、ハヤトお兄ちゃーん!」
「おはよう、リナ、さくら。池畑さん、諏訪部さん、おはようございます」
「おはよう」
「おはよう、ハヤトくん。ちゃんと挨拶できて、偉いわねぇ」

 池畑さんは当然の事を褒めてくれる。ガキじゃないんだから、挨拶くらい出来るって。

「ハヤトお兄ちゃん、今日ね、リナのお兄ちゃんが来るんだよ! 見せてあげるね!」
「へえ、リナの兄ちゃん? そう言えば写真見せて貰ってなかったな。うん、会わせてもらうよ」
「ふふふ、リナのお兄ちゃん、かっこいいんだよ! ハヤトお兄ちゃんもかっこいいけど、もっともーーっとかっこいいんだから!」
「ちょっともう、リナったら……っ」

 池畑さんが困ったようにリナを窘《たしな》めていたけど、俺は逆に嬉しかった。
 もしかしたら香苗も、俺の知らないところでこんな風に言ってくれてるのかもしれない……そう思うのは、兄バカかな。

「リナ!」

 その瞬間、後ろから低い声が響いた。リナが脱兎の如く立ち上がり、その場でピョンピョンと飛び跳ねる。

「お兄ちゃん!!」
「ちょっと待ってろ、手ェ洗ったらすぐ行ってやるから」

 プレイルームでは点滴のスタンドは簡単には移動できないので、行動範囲が限られてる。リナは待てを言いつけられた犬のように、今か今かと手を洗うのを見ていた。

「早かったわね、拓真」
「いっちゃん早い電車で来た。おかげで学校行くより早く起きたよ」

 そう言いながら拓真と呼ばれたリナの兄ちゃんは、満面の笑みでやって来た。背が高くってごつくって、キリッとしてて確かにかっこいい。けど高校生には見えないな……二十代後半くらいに見える。
 知らない人が見たら、リナと親子に間違えられそうだ。

「じゃあ拓真、リナをお願い。私は荷物を片付けて、お風呂に入って来るわね」
「分かった」
「ママ、行ってらっしゃーい」

 リナは兄との再会を喜びながら、自身の母親を見送る。池畑さんは息子が持って来た荷物を抱えて、一旦リナの病室へと戻って行った。

「寂しくなかったか、リナ」
「うん! あのね、さくらちゃんとハヤトお兄ちゃんと友達になったんだよ!」
「そうか、良かったな! さくらにハヤト、か。リナと仲良くしてくれてありがとうな!」
「ハヤトお兄ちゃん、リナのお兄ちゃんかっこいいでしょー!」
「本当だな。なんか、逞しいっすね」

 座っているリナの兄ちゃんを見上げる。もこっと小山のように膨れ上がったガッチリ筋肉が羨ましい。俺もあんな風になりたい。老け顔は嫌だけど。

「ずっとバレーやってるからなぁ。もう引退したけど」
「引退って事は、三年?」
「そうそう。ハヤトは中学生か?」
「中二です」
「『です』はよせって! 気軽に喋ってくれていいから。あ、拓真兄ちゃんって呼んでくれていいぞ」

 おお、拓真兄ちゃん! 俺、実は兄貴が欲しかったからちょっと嬉しい。なんかあっちも嬉しそうだ。満面だった笑みが、さらに弾けている。

「じゃあ、拓真兄ちゃんで」
「おう!」

 俺がそう呼ぶ事にちょっと嫉妬したのか、リナが拓真兄ちゃんの胡座《あぐら》の上にちょこんと乗る。そのリナの頭をゴシゴシ撫でる様子はどこからどう見ても親子……いや、仲の良い兄妹だ。
 拓真兄ちゃんは本当に良い人で、俺もリナと同じ白血病だというと真剣に心配してくれた。心もデカくて、本当に『アニキ』って感じの清々しい男だ。

「なんか聞いて欲しい事あったら、いつでも電話してこい。番号教えろよ」

 そう言って拓真兄ちゃんはポケットからスマホを取り出している。

「いや、俺、携帯持ってなくて」
「マジで? 不便だろ」
「不便だけど、高校生になるまで駄目だって母さんが」
「もう一回頼んでみろ。白血病になると、部屋から一歩も出られなくなる時期が来るんだ。ハヤトの家族は泊まり込みじゃないんだろ? 連絡取りたくなった時、どうすんだよ。携帯なかったら困るだろ」
「え、病室から電話かけてもいいのか?」
「この病院は、個室なら良いんだってさ。うちの母ちゃん、いつも俺に電話掛けてくるよ」

 個室ならわざわざ携帯使用可能場所に行かなくても、病室からかけて良いのか。やっぱ、要るよな。電話は小児病棟の外にしかないし。

「何なら俺がハヤトの母ちゃんに頼んでやろうか?」
「ありがとう、だいじょぶ。自分で頼んでみる!」

 母さんは頑なだけど、病気した今なら頼めば買ってくれる気がする! そうすれば香苗に毎日電話してあげられるしな。よし、この線で行こう!
 ……と、俺は意気込んでいた。
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