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フロー編③
40.もう二度と
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ホールから戻ってきたツェツィーリアが、フローリアンの部屋へと現れた。
「フロー様、少しだけお話をよろしいでしょうか」
そう言ったツェツィーリアの胸元には、アパタイトのペンダントが光っていた。
さっきまでは違うものをしていたから、きっとこれはイグナーツからの贈り物だろう。
しかしここにイグナーツの姿はない。
「ツェツィー……イグナーツは」
「帰っていただきましたわ。お話は私からで充分ですもの」
嫌な予感がしながらも中に招き入れて椅子を引くと、ツェツィーリアはいつも通りの優雅な仕草で座っている。
「話はできた?」
「ええ……もう二度とあのような時間を過ごせるとは思っておりませんでした。感謝いたしますわ」
嬉しそうに微笑むツェツィーリアだったが、どこか悲しげにも見えて。
フローリアンはごくんと緊張を飲み下して親友を見つめた。
「それで……心は決まったんだね」
「はい」
真っ直ぐに向けられる、ツェツィーリアの空色の瞳。
どういう答えに至ったのだろうか。
輝くペンダントトップとツェツィーリアの覚悟の表情を前に、フローリアンは背筋を伸ばした。
ツェツィーリアの愛らしい唇が、はっきりと言葉を紡ぐ。
「わたくしは、イグナーツ様と共には参りません。フロー様との結婚を望みます」
「……っ、ツェツィー……ッ」
その決断に、涙が溢れて来そうになる。
しかしなんとか耐えると、フローリアンは決意の表情を崩さない婚約者を見た。
揺るがない意志が感じられると同時に、悲壮を読み取ってしまった。
「そのペンダントを見ればわかる……イグナーツは、まだツェツィーリアのことが好きだったんだろう!?」
「……はい。わたくしを……愛していると、言ってくださいました……っ」
わずかに潤む、ツェツィーリアの瞳。
相思相愛だというのに、彼女が選んだのは愛する人ではなく、親友だった。
「イグナーツは駆け落ちだって辞さない男だ。そのつもりがあったはずだ……っ」
そのために、イグナーツは音楽家として頑張っていたのだから。
「私がお止めいたしましたわ」
「どうして……」
わかりきっている問いを愚かにも投げかけてしまう。
ツェツィーリアはそういう娘だと、フローリアンが誰よりよく知っているというのに。
「お父様の顔に泥を塗りたくはありませんもの。それに、泣き虫のフロー様には、わたくしが必要でしょう?」
「……ツェツィーッ」
我慢していた涙が、ぽろっと流れた。微笑みを見せるツェツィーリアの健気さが、フローリアンの心にひどく沁みて。
「イグナーツは……納得したの……?」
「わたくしに心を捧げるとおっしゃってくれました……そしてこのネックレスを……」
「ツェツィー……」
「わたくしも、心はイグナーツ様に捧げております。少なくともわたくしは、それで充分ですわ」
涙がどうしても止まらない。充分なはずはないというのに。
次々ととめどなく溢れる雫を見て、どうして自分はこんなにも涙脆いのかと嫌になる。
「これはわたくしが下した結論です。フロー様が気に病むことなど、ひとつとしてございませんことよ」
「……違う」
「え?」
フローリアンはテーブルを叩くようにして立ち上がり、平気なふりをしているツェツィーリアに声を向けた。
「僕は……ツェツィーにひどいことをしたんだ! 僕が積極的に婚約破棄すべきだった!」
驚くように見上げているツェツィーリアの顔。
テーブルの上に置かれた手を拳に変えて、フローリアンは懺悔する。
「僕はツェツィーの優しさに甘えて……二人が決める問題だからと、責任を回避しようとしてただけだ……! 親友が聞いて呆れるよ!!」
「フロー様……」
本当の本当にツェツィーリアのことを考えるのであれば、婚約破棄を進めるべきだったのだ。テーブルを己の涙で濡らしながら、フローリアンは激しく後悔した。
(ツェツィーは僕を優先してくれているのに、僕は……)
知らぬ間に親友に甘えていたのだと知り、フローリアンは自分を恥じた。
幸せになってほしいという気持ちは、決して嘘ではないというのに。
「婚約は破棄しよう、ツェツィー。ノイベルト卿には申し訳ないけど、その方がツェツィーは──」
「なりませんわ、フロー様」
凛としたツェツィーリアの声が自室に響く。
彼女はスラリと立ち上がると、フローリアンの目の前まで移動した。
「ツェツィー……?」
「フロー様は、わたくしにチャンスをくださいました。その上でこうすることを選んだのは、まぎれもなくわたくし自身なのです」
「そう、だけど……」
「そもそも、わたくしと婚約破棄をなさってどうなさるつもりですの? 次の候補者はおりませんわよね? 決まったとして、フロー様のすべてを理解して尽くす方はいらっしゃるとお思いですの? 相手を選び損なえば、国家は一大事となるんですのよ!」
ツェツィーリアの迫力にフローリアンは一歩たじろいだ。
しかし彼女の言う通りだ。ラルスが聞いているため、性別のことをうまく隠して話してはいるが、みんなツェツィーリアのように秘密を守れる者ばかりではない。
新たな婚約者にバラされれば、性別を偽った母やフローリアンはただでは済まないだろう。
現国王がいなくなれば、遠縁で継承争いが勃発するだろうし、反勢力による簒奪も誘発してしまう。
だからと言って、一生独身を突き通すのも無理な話だ。兄の一件で、周りは神経質になってしまっているのだから。
「フロー様ならわかっておりますでしょう? こうすることが一番だということが」
さっきまでの勢いを一転し、優しく声をかけてくれるツェツィーリア。
彼女が王妃となったなら、どれだけ心強いか。
「……いつもごめん……僕はまた、ツェツィーの優しさに甘えてしまう……」
「いいんですのよ。覚悟など、とうの昔にしていたことですもの。ただわたくしもひとつだけ、フロー様にお願いがありますの」
「なに? ツェツィーの頼みなら、なんだってきくよ!」
思わずツェツィーリアの腕を掴んで熱弁すると、彼女は視線を自分の胸元に落とした。
「では……このネックレスを一生身につけることをお許しくださいませ。わたくしは、もう二度と……っ」
震える唇は先を紡げず、噛むようにして閉じてしまった。
きっとツェツィーリアは後悔していたのだ。あの日、ブレスレットの糸を切ってしまったことを。
もう二度とあんなことはしたくないと。そんな訴えが胸に飛び込んできた気がした。
「もちろんだよ、ツェツィー……! もう二度と……そんな大事な物を手放しちゃ、ダメだ!」
「フロー様……ありがとうございます」
さっきまでの表情を一転させて、柔らかに微笑むツェツィーリア。
親友の強さを目の当たりにして、フローリアンの方が込み上げてくる。どうして泣かないのだと聞いても、きっと困らせるだけだ。
(ツェツィーは……僕のせいで幸せになれないのに、僕に罪悪感を抱かせないように平気なふりをしてくれているんだ……っ)
大事な親友の心遣いが嬉しくて、悲しくて、また涙が溢れ落ちる。
「ごめん……だいすきだよ、ツェツィー……」
フローリアンは耐えきれず、ぎゅっとツェツィーリアを抱きしめた。
するとツェツィーリアも、優しく手を回してフローリアンの背中をぽんぽんと撫でてくれる。
「ふふっ。本当に泣き虫さんですわね、フロー様は」
慰めなければいけない相手に慰められて、顔がどうしようもなく熱くなった。
「わたくしもフロー様がだいすきですわ。ずーっとおそばにおりましてよ」
さらに泣いてしまったフローリアンをツェツィーリアはいつまでも抱きしめてくれる。
いつもならば触れてはいけないと接触を禁止する護衛騎士は、なぜかなにも言わずに見守ってくれていたのだった。
「フロー様、少しだけお話をよろしいでしょうか」
そう言ったツェツィーリアの胸元には、アパタイトのペンダントが光っていた。
さっきまでは違うものをしていたから、きっとこれはイグナーツからの贈り物だろう。
しかしここにイグナーツの姿はない。
「ツェツィー……イグナーツは」
「帰っていただきましたわ。お話は私からで充分ですもの」
嫌な予感がしながらも中に招き入れて椅子を引くと、ツェツィーリアはいつも通りの優雅な仕草で座っている。
「話はできた?」
「ええ……もう二度とあのような時間を過ごせるとは思っておりませんでした。感謝いたしますわ」
嬉しそうに微笑むツェツィーリアだったが、どこか悲しげにも見えて。
フローリアンはごくんと緊張を飲み下して親友を見つめた。
「それで……心は決まったんだね」
「はい」
真っ直ぐに向けられる、ツェツィーリアの空色の瞳。
どういう答えに至ったのだろうか。
輝くペンダントトップとツェツィーリアの覚悟の表情を前に、フローリアンは背筋を伸ばした。
ツェツィーリアの愛らしい唇が、はっきりと言葉を紡ぐ。
「わたくしは、イグナーツ様と共には参りません。フロー様との結婚を望みます」
「……っ、ツェツィー……ッ」
その決断に、涙が溢れて来そうになる。
しかしなんとか耐えると、フローリアンは決意の表情を崩さない婚約者を見た。
揺るがない意志が感じられると同時に、悲壮を読み取ってしまった。
「そのペンダントを見ればわかる……イグナーツは、まだツェツィーリアのことが好きだったんだろう!?」
「……はい。わたくしを……愛していると、言ってくださいました……っ」
わずかに潤む、ツェツィーリアの瞳。
相思相愛だというのに、彼女が選んだのは愛する人ではなく、親友だった。
「イグナーツは駆け落ちだって辞さない男だ。そのつもりがあったはずだ……っ」
そのために、イグナーツは音楽家として頑張っていたのだから。
「私がお止めいたしましたわ」
「どうして……」
わかりきっている問いを愚かにも投げかけてしまう。
ツェツィーリアはそういう娘だと、フローリアンが誰よりよく知っているというのに。
「お父様の顔に泥を塗りたくはありませんもの。それに、泣き虫のフロー様には、わたくしが必要でしょう?」
「……ツェツィーッ」
我慢していた涙が、ぽろっと流れた。微笑みを見せるツェツィーリアの健気さが、フローリアンの心にひどく沁みて。
「イグナーツは……納得したの……?」
「わたくしに心を捧げるとおっしゃってくれました……そしてこのネックレスを……」
「ツェツィー……」
「わたくしも、心はイグナーツ様に捧げております。少なくともわたくしは、それで充分ですわ」
涙がどうしても止まらない。充分なはずはないというのに。
次々ととめどなく溢れる雫を見て、どうして自分はこんなにも涙脆いのかと嫌になる。
「これはわたくしが下した結論です。フロー様が気に病むことなど、ひとつとしてございませんことよ」
「……違う」
「え?」
フローリアンはテーブルを叩くようにして立ち上がり、平気なふりをしているツェツィーリアに声を向けた。
「僕は……ツェツィーにひどいことをしたんだ! 僕が積極的に婚約破棄すべきだった!」
驚くように見上げているツェツィーリアの顔。
テーブルの上に置かれた手を拳に変えて、フローリアンは懺悔する。
「僕はツェツィーの優しさに甘えて……二人が決める問題だからと、責任を回避しようとしてただけだ……! 親友が聞いて呆れるよ!!」
「フロー様……」
本当の本当にツェツィーリアのことを考えるのであれば、婚約破棄を進めるべきだったのだ。テーブルを己の涙で濡らしながら、フローリアンは激しく後悔した。
(ツェツィーは僕を優先してくれているのに、僕は……)
知らぬ間に親友に甘えていたのだと知り、フローリアンは自分を恥じた。
幸せになってほしいという気持ちは、決して嘘ではないというのに。
「婚約は破棄しよう、ツェツィー。ノイベルト卿には申し訳ないけど、その方がツェツィーは──」
「なりませんわ、フロー様」
凛としたツェツィーリアの声が自室に響く。
彼女はスラリと立ち上がると、フローリアンの目の前まで移動した。
「ツェツィー……?」
「フロー様は、わたくしにチャンスをくださいました。その上でこうすることを選んだのは、まぎれもなくわたくし自身なのです」
「そう、だけど……」
「そもそも、わたくしと婚約破棄をなさってどうなさるつもりですの? 次の候補者はおりませんわよね? 決まったとして、フロー様のすべてを理解して尽くす方はいらっしゃるとお思いですの? 相手を選び損なえば、国家は一大事となるんですのよ!」
ツェツィーリアの迫力にフローリアンは一歩たじろいだ。
しかし彼女の言う通りだ。ラルスが聞いているため、性別のことをうまく隠して話してはいるが、みんなツェツィーリアのように秘密を守れる者ばかりではない。
新たな婚約者にバラされれば、性別を偽った母やフローリアンはただでは済まないだろう。
現国王がいなくなれば、遠縁で継承争いが勃発するだろうし、反勢力による簒奪も誘発してしまう。
だからと言って、一生独身を突き通すのも無理な話だ。兄の一件で、周りは神経質になってしまっているのだから。
「フロー様ならわかっておりますでしょう? こうすることが一番だということが」
さっきまでの勢いを一転し、優しく声をかけてくれるツェツィーリア。
彼女が王妃となったなら、どれだけ心強いか。
「……いつもごめん……僕はまた、ツェツィーの優しさに甘えてしまう……」
「いいんですのよ。覚悟など、とうの昔にしていたことですもの。ただわたくしもひとつだけ、フロー様にお願いがありますの」
「なに? ツェツィーの頼みなら、なんだってきくよ!」
思わずツェツィーリアの腕を掴んで熱弁すると、彼女は視線を自分の胸元に落とした。
「では……このネックレスを一生身につけることをお許しくださいませ。わたくしは、もう二度と……っ」
震える唇は先を紡げず、噛むようにして閉じてしまった。
きっとツェツィーリアは後悔していたのだ。あの日、ブレスレットの糸を切ってしまったことを。
もう二度とあんなことはしたくないと。そんな訴えが胸に飛び込んできた気がした。
「もちろんだよ、ツェツィー……! もう二度と……そんな大事な物を手放しちゃ、ダメだ!」
「フロー様……ありがとうございます」
さっきまでの表情を一転させて、柔らかに微笑むツェツィーリア。
親友の強さを目の当たりにして、フローリアンの方が込み上げてくる。どうして泣かないのだと聞いても、きっと困らせるだけだ。
(ツェツィーは……僕のせいで幸せになれないのに、僕に罪悪感を抱かせないように平気なふりをしてくれているんだ……っ)
大事な親友の心遣いが嬉しくて、悲しくて、また涙が溢れ落ちる。
「ごめん……だいすきだよ、ツェツィー……」
フローリアンは耐えきれず、ぎゅっとツェツィーリアを抱きしめた。
するとツェツィーリアも、優しく手を回してフローリアンの背中をぽんぽんと撫でてくれる。
「ふふっ。本当に泣き虫さんですわね、フロー様は」
慰めなければいけない相手に慰められて、顔がどうしようもなく熱くなった。
「わたくしもフロー様がだいすきですわ。ずーっとおそばにおりましてよ」
さらに泣いてしまったフローリアンをツェツィーリアはいつまでも抱きしめてくれる。
いつもならば触れてはいけないと接触を禁止する護衛騎士は、なぜかなにも言わずに見守ってくれていたのだった。
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