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フローリアン編①

28.大好きな兄の選択

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「フロー、少しいいか?」

 ある日、大好きな兄が部屋へとやってきて、外に出ようと誘ってくれた。
 庭園に出ると、色とりどりの花が咲き誇っていて、その中のガゼボに茶菓子が用意されてある。
 明らかな機嫌取りだなと思いつつも、フローリアンは椅子に座り、ディートフリートも向かい側に座った。
 ディートフリートの後ろには護衛騎士のルーゼンが、フローリアンの後ろにはラルスが控えている。

「こうしてゆっくりする機会も、このところなかったからね」
「兄さまがいつも忙しくしていたからです。僕は……こんな時間が欲しかったのに」
「そうか、すまなかった」

 困ったように眉を下げるディートフリート。
 忙しかったのはフローリアンも同じなのに、兄は決して弟のせいにすることはない。

 フローリアンが改めて目を向けると、テーブルいっぱいに美味しそうな茶菓子が並べられていた。
 色鮮やかな果物のタルトが輝き、ふんわりとした生クリームが上品に盛り付けられている。シュガーフレークがきらきらと輝くキャンディードフルーツもあり、その甘い香りが鼻をくすぐった。
 さらに大きなお皿にはさまざまなクッキーが置かれて、バターの香りが漂っている。
 シナモンの香りが漂うクグロフやキャラメルソースでコーティングされたアマレット。さらにフローリアンの好物であるりんごの渦巻きパイも目を引いた。

(僕の好きなものばかりだ!)

 思わず顔を輝かせてしまい、その手に乗ってはダメだと、慌てて上がった口角を戻す。

「うわ、すごい! 王子の好きなお菓子ばかりですよ! よかったですね、王子!」
「ラルスはちょっと黙ってて」
「あ、すみません」

 フローリアンが嗜めると、それを見たディートフリートは穏やかな笑みを見せ、ルーゼンは後ろでクックと笑っている。

「こんな、食べ物で釣ろうだなんて、そうはいきませんからねっ」
「私が大事な弟の喜んだ顔を見たかっただけだよ。せっかく作ったから、食べてもらえると嬉しい」
「作ったって……誰が」
「もちろん私だが」
「ええっ!!?」
「すべてではないけどね」

 目の前に広がる見目鮮やかな菓子を、王であるディートフリートが。
 あり得ない事実に、目玉が転がり落ちそうなほど目を剥いた。

「兄さま、王族が菓子作りなど……」
「実は料理も得意なんだ。楽しいよ」

 毒気を抜かれる笑顔で答えられると、なにも言えなくなってしまった。
 フローリアンなど、生まれてこの方料理をしたことがない。ナイフすらも持ったことがないのだ。
 バラの花を思わせるローズクッキーに手を伸ばすと、目の前でじっと見つめた。

「これは、本職の者が作ったんだよね?」
「いいや、それも私が作ったよ」

 本職が作ったものと見分けがつかないほど、綺麗に作られたクッキーだった。
 しかし重要なのは味だと一口齧ってみる。
 サクッと軽い音がして、バターの風味とローズの花の優しい香りが調和した、豊かな味わいが口の中に広がった。

(わぁ、食感がサクサクしていい! ほんのりした甘味と、ローズの風味がすごく美味しい!)

 フローリアンは思わずふたつ目を手に取り、またサクサクと食べてしまった。
 みっつ目に手を伸ばそうとした時、ディートフリートの嬉しそうな顔が目に入って、思わず手を引っ込める。

「遠慮しなくていい。味はどうかな?」
「……おいしいです。最高に」
「なら良かった」

 目の前にこれだけあると我慢できず、結局フローリアンはあれこれと口の中に入れて堪能した。
 ディートフリートは、それは自分が作った、それは料理人の誰それに教えてもらった、それはどこどこから仕入れたものだと、楽しそうに説明してくれる。

 兄は、昔から穏やかな人だった。

 十八歳も年が離れていることもあって、フローリアンが物心ついた時、すでに兄はしっかりした大人だったのだ。
 フローリアンが抱っことせがむと、嫌な顔もせず……いや、むしろ嬉しそうに抱き上げてくれた。
 遊んでほしくて仕事の邪魔をしてしまった時も、『一冊だけ本を読んであげるよ』と膝の上で絵本を読んでくれた。
 公務で王都を出た時は、必ず地方のお土産を買って来てくれて。

『フローは優しい子だね』
『その人格と誠実さは、私たちの家族の誇りだ』
『民に王子と呼ばれ親しまれていることを、心から嬉しく思っているよ』
『フローの勤勉さと謙虚さを、私も見習わなくてはいけないな』
『私に希望を与えてくれる存在だよ』

 ことあるごとに、たとえ小さなことでもたくさん褒めてくれる兄がだいすきだった。
 ディートフリートには婚約者もいなかったし、すべての愛情は自分に注がれているものと思って育ってきたのだ。

 自身も茶菓子を食べながら、穏やかに笑っているディートフリート。
 今注がれている目が、いつも見守ってくれていた兄が、王族を離脱するといなくなってしまう。フローリアンの前から消えてしまうのだ。
 それを思うと黒い感情がまとわりついて離れない。
 美味しい茶菓子を食べれば食べるほど、自分から離れていく兄が許せなくなってしまう。

「……どうして兄さまは、お菓子や料理を作ろうを思ったんですか」

 先ほどから浮かんでいた疑問を口にすると、やはり兄は柔らかく微笑んだまま答えてくれた。

「最初はただの興味だったんだが、一般人となるなら手に職をつけておかないといけないと思ってね」

 見た目も美しく、どれを食べても最上級の味。これだけの腕前になるには、一朝一夕にはできないはずだ。

(やっぱり、ずっと前から兄さまは王族離脱を考えてたんだ……!!)

 裏切られたような気持ちが、さらにフローリアンの中で膨らんでいく。

「なぁ、フロー」
「いやです」

 ディートフリートがなにかを言う前に、フローリアンは遮った。どうせ言うことはわかっているのだ。
 困った顔の兄を見ると、ほんの少し罪悪感が芽生えた。

「僕はまだ未熟者ですから」
「十分やっていけるところにいるよ」
「買い被りすぎです」
「私はそうは思わない」

 兄の言葉に喜んでしまっている自分がいて、照れ隠しにまた菓子に手を伸ばす。
 どれを食べても本当に美味しく、幸せな気持ちが出てきそうで困ってしまう。

「今まで私は、ずっと王としての責務を全うしてきた。と同時に、ずっと娶りたい女性がいたんだ」
「知っています。シャインに聞きましたから。ユリアーナという女性と、相思相愛だったということは」

 どうしてあの時、シャインがわざわざ説明をしたのかと不思議だったが、きっと今という時のためだったのだろう。
 兄には愛する人がいて添い遂げたいと思っていること。その人と結婚するために、おそらく王族離脱するであろうこと。要は兄離れを促されていたのだということに、フローリアンはようやく気づく。

(ちゃんと言ってくれなきゃわかんないよ。言ってくれても納得はしなかっただろうけど)

 紅茶を飲んで一息つくと、ディートフリートが申し訳なさそうな顔でフローリアンを見ていた。

「私は長い間、ユリアーナを待たせてしまっている。これ以上、彼女を待たせたくはないんだ。フロー、どうか王となってくれないか」

 そんな顔をするのはずるい、とフローリアンは唇を噛み締めた。
 兄の気持ちがわからないわけではない。本来なら、祝福してあげたい。
 だけどそうすれば、待っているのは王位継承である。

「……せめて、僕が王位を継承してもそばでいてくれるなら……王位を離脱しないなら、百歩譲って僕が王になってもいい!」
「フロー……」
「だから兄さま、王族離脱なんてやめてください!」
「すまない、フロー。私の王族離脱は必須なのだよ」

 これだけ必死に頼んでも、ディートフリートの意思を変えることはできない。
 その事実に、悔しさが滲んでくる。

「兄さまは僕のことなんてどうだっていいんでしょう」
「フローは私の大切な弟だよ」
「なら王族は離脱せず、僕の支えとなってください」
「しかし私は、ユリアーナと一緒になりたいんだ。わかってほしい」

 退位するのも、王族から抜けることも、すべてはユリアーナのためなのだ。
 彼女の父親のホルストの嫌疑が晴れなかった以上、そうするしか一緒になる術はないのだと、フローリアンもわかっている。
 だからこそ、悔しい。

「結局、弟の僕より、兄さまは元婚約者を選ばれるんですね」

 ぼろぼろと涙が溢れてくる。
 弟より、愛する元婚約者を。

(当然の話だ……僕は、このためだけに作られた・・・・だけの存在なんだから!)

 この時のためだけに生まれた存在なのだということを、兄に否定してほしかった。
 ユリアーナよりも、自分を選ぶことで。

「所詮、僕は兄さまの道具でしかなかったんだ!」
「フロー!」
「王子!!」

 フローリアンは耐えられなくなって、その場から駆け出していた。
 護衛のラルスがすぐに追いついてくる。
 それでもフローリアンは庭園の端まで走り続けた。

「はぁっ、はぁ……っ」
「大丈夫ですか、王子」

 何度も大きく空気を取り込んで、最後にごくりと飲み込んだ。
 泣きながら走ったので、まだ喉が苦しい。

「うう、ううーーッ!」
「フローリアン様……」

 まだまだ涙は止まらない。
 悔しさで拳を握りしめると、ふわりとなにかに包まれた。

「落ち着きましょう。大丈夫ですから」
「ラ……ルス……」

 いつか兄がしてくれたように、ラルスがフローリアンの体を抱きしめてくれている。
 ヒックと喉を鳴らしながら息を吸い込むと、なぜだかとても安心できて。

「陛下もフローリアン様の気持ちはわかってくれたはずです」
「ふえ、ふえぇええんっ」
「俺はずっと、王子のそばにいますよ」

 まだ涙が溢れるフローリアンを、ラルスは優しく抱きしめてくれて。
 うそつき、という言葉が漏れそうになる。
 きっとラルスもいつか、自分より愛する人を選ぶのだろう。
 そう思うとしばらく涙は止まらず、ぎゅうっとラルスを抱きしめていた。
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