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01.婚約破棄
しおりを挟む〝あなたは将来、王妃になるのよ〟
幼き頃から、ずっとそう言われて過ごしてきたユリアーナ。
そして十歳になったときには、将来の相手が決められた。
ディートフリート・ヴェッツ・ラウツェニング。
ハウアドルという王国の第一王子……彼がユリアーナの婚約者だった。
ユリアーナはアンガーミュラー侯爵家の令嬢で、身分も高く、父親のホルストは王の側近でもあった。
どういう経緯があってディートフリートと婚約する運びになったのか、ユリアーナは知らない。しかし母親から第一王子の婚約者になったと告げられたとき、ユリアーナは素直に受け入れられた。
正式に婚約が決まる前から、こんこんと言い聞かされていたためだろう。
だから初めて会った時も、すんなりとディートフリートを受け入れられたのかもしれない。
ディートフリートは、ふんわりと笑う、ユリアーナと同じ年に生まれた男の子だった。
物語に出てくるような金髪碧眼ではなかったけど。ライトブラウンの髪と瞳の王子は、栗色の髪を持つユリアーナには親近感が湧いた。
優しくて、かっこよくて、それでいて威厳もあって。
人前ではわざと偉ぶる事もあったが、本来はそんな人ではない事を、ユリアーナは普段の彼を見て知っていた。
「ユリア」
「何でしょうか、ディートフリートさま」
「僕の事、ディーって呼んでよ」
そんな提案をされた時は恐れ多いと断ったのだが、結局は押し切られて『ディー』と親しみを込めて呼ぶ事となる。
『ディー』『ユリア』と呼び合う二人は、この時、まだお互いに十歳になったばかりだった。
「ユリア、だいすき」
にっこりと照れもせず気持ちを口にしてくれるディートフリートに、ユリアーナも同じ言葉で返す。
感覚的には友達と大差なかったかもしれない。
お互いに、王となるべく、妃となるべく、特別教育を施されていたのだ。同年代と関わる機会が極端に少なかった二人は、心を埋めるように互いを思い合った。
弱冠十歳にして、長年連れ添った夫婦のような貫禄がある、と王にからかわれるのが常で。
その度に、ディートフリートとユリアーナは顔を見合わせて微笑んだ。
ユリアーナ達が十五歳になっても、それは変わらず続いていて。
婚姻は十八になってからだが、もうすでに心は夫婦のようなものだった。
「ユリア、勉強は終わったかい?」
「ディー!」
王城に与えられた一角で勉強をしていると、いつもの柔らかい声がユリアーナの耳に届く。
お互いに望んで婚約者になったわけではないが、彼以上に愛おしいと感じる人は、他にいないだろうとユリアーナは思う。
「今日は頑張って早く終わらせました。ディーとの約束ですもの」
「無理言ってもぎ取ったデートの時間だからね。まぁ、護衛騎士はついて来ちゃうけど」
彼の後ろには、赤髪のルーゼンと金髪のシャインという護衛騎士が立っている。そんな二人に瞳を向けて、ディートフリートは息を吐いていた。残念だが、二人きりになど絶対にさせてもらえない。
「それは仕方ありませんわ。ディーは、王位継承権を持つ、第一王子なのですから」
「好きで第一王子に生まれたわけじゃないんだけどなぁ」
勉強に嫌気がさしたように息をはいたディートフリートは、ユリアーナの手を取り、今度はにっこり微笑んだ。
「でもユリアと結婚できるなら、第一王子に生まれて良かったと思ってるよ」
その言葉とともに、チュッと手の甲にキスをしてくれた。
それ以上は、結婚するまでしてはいけない、されてはいけないと、お互いの教育係に叩き込まれている。
ユリアーナからは愛情表現のお返しができなくて、もどかしい限りだ。だから、精一杯言葉で伝える。
「ありがとうございます。私も、ディーが婚約者である事をこの上ない僥倖と思っております」
そう言うと、ディートフリートの手がユリアーナの頬に伸びた。
スルッと彼の顔が近づいてきて、ユリアーナはドキリと肩を強張らせる。その直後。
「王子、いけませんよ、キスは」
護衛騎士のルーゼンにグイと引っ張られて、ディートフリートの動きが止まった。
「ちょっとくらい、良いだろう?」
「やめてください、俺たちの首が飛びます」
ルーゼンの言葉を聞いて、ディートフリートは残念そうに息を吐き、ユリアーナは少し笑ってしまう。
早く結婚したい。そう思っているのはユリアーナだけではないだろう。
この国では、男が結婚できるのは十八歳になってから。王族だからこそ、その決まりを破ってはならない。
残り三年、待ち遠しいねと二人はささやきあった。
ユリアーナが十七歳になった時、王の側近であった父親のホルストが、ある日いきなりぽっくりと逝ってしまった。
まだ四十八歳だったが、体の弱かったホルストの死を疑う者は誰もいなかった。
ユリアーナは悲しみに暮れたが、ディートフリートの支えで、なんとか立ち直ることができた。
しかしそれからというもの、ユリアーナの周りが歪められるように変化していく。
ユリアーナと仲の良かった使用人達が、次々に異動させられた。
ディートフリートは忙しいからと、中々会わせてもらえなくなった。
大切な人がぽろぽろと抜け落ちるような感覚に襲われて、ユリアーナは震える。
勉強は一日では終わらないほどの無理難題を課せられて、それが終わらないと王妃になる資格はないと言われた。
王妃になる資格がないということは、ディートフリートと結婚できなくなるという事だ。ユリアーナは死に物狂いで勉強をした。
そんな日が続いたある晩の事。
王城に与えられている一室で眠ろうとしていたユリアーナは、控え目なノックの音に気付いた。
「どなた、ですの?」
「ユリアーナ、僕だ」
ディートフリートの声にユリアーナは急いで扉を開けた。
夜遅くに、婚約者と言えど男性を部屋にあげるなどご法度だ。分かってはいたが、それでも会えた喜びの方が大きく、彼を招き入れる。
「ディー……!」
「久しぶりだね、ユリアーナ。でも時間がない。よく聞いて」
いつも明るいディートフリートが、暗い影を背負っていた。
ユリアーナは不安で心を打ち鳴らしながら彼を見上げる。
「君の父親……ホルストは、不正を働いていた。機密情報を敵国に売り、国庫からは多額のお金を持ち出していたんだ」
唐突に言われた、あり得るわけがない話。ユリアーナの頭は一瞬真っ白になる。
「まさか……お父様がそんな事をするはずはありません!」
「分かってる。僕もそう思ってるよ。でも……証拠が次々に出てきてしまったんだ……覆しようが、ない」
「そんな……」
王のためにと身を粉にして働いていたホルストが、そんな事をするわけがないとわかっていた。
しかし証拠があると言われてしまうと、ユリアーナにはどうする事も出来ない。
「父上も、信じられない様子だった。だから、なんとかホルストの無実につながるものをと探したけど……」
そこまで言葉に出すと、ディートフリートは首を左右に振って黙ってしまった。ユリアーナは絶望の眼差しで彼を見上げる。
「うそ、ですわよ、ね?」
「本当、なんだ。明日、僕は君に婚約破棄を言い渡さなきゃいけない」
婚約破棄の言葉に、頭が霞で充満されたようにくらりとする。
十歳の頃から結婚すると思っていた人と……結婚、出来ない。
それもホルストが犯罪をしたというなら、当然だろう。
犯罪者の娘を、王族として迎え入れる事は出来ないのだから。
「私は……ディーと、一緒にはなれないのですか……?」
「ごめん……ごめん、ユリア……!」
「私は、どうなるのですか……」
ユリアーナの目から、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。
敵国に機密を漏らすというのは重罪だ。本人は死罪、その家族は投獄ということも珍しくない。
「僕も父上も、君と母君には出来るだけの配慮をと考えている。だから、逃げずに明日を迎えて欲しい。逃げられてしまうと……もう僕には手の施しようがなくなってしまうから」
ユリアーナは、ディートフリートの言葉を信じて、こくりと頷いた。
そして頭を上げた時には、目の前の美麗な王子も涙を流していた。
「ごめん……できるなら、ユリアと一緒に僕も……」
「ディー……」
そんな彼にユリアーナは首を横に振って応える。
それが出来ないのは、ユリアーナにはよく分かっていた。
彼はずっと、この国の王となるべき教育を受けている。
その職務を放棄するということは、この国を見捨てるのと同意義。ディートフリートにそれが出来ないことは、誰よりユリアーナがよく分かっていた。
「どうか私の事などお気になさらず、国民のためにその手腕をお振るいくださいませ。ディーは、この国に必要なお方ですもの」
「ユリアーナ!」
ぐんっ、と体が寄せられた。気付けば、すっぽりとディートフリートの手の中に収まっている。
身長を競い合っていた相手は、いつの間にか頭ひとつ分、ディートフリートの方が高くなっていた。
「ディー……」
「僕は、君以外の誰とも結婚しない!」
「……っ」
そんな事は不可能だ、という言葉は出てこなかった。
王は、その血を絶やす事は許されない。
ユリアーナと結婚出来なければ、他の誰かと結婚しなければいけない事くらい、ディートフリートにも分かっているはず。
なのに、その言葉を紡いでくれた事。それがたとえ、ひとときの約束であっても、ユリアーナは嬉しく思った。
「誰より愛してるよ。だから……待っていて欲しい」
叶えられない想いと願い。
夢など見られない状況だからこそ、夢を与えてくれた事が嬉しくて。
ユリアーナはこくりと力なく頷くと、ディートフリートはそっと唇を落としてくれた。
柔らかな感触がユリアーナの唇に初めて触れて。
そしてギュッと抱きしめあった。
***
「ユリアーナ・アンガーミュラー。僕は貴女との婚約を……破棄する」
翌日、公式の場でそう言ったディートフリートの言葉を、ユリアーナは受け入れた。
アンガーミュラーという家督を剥奪、財産も没収され、貴族ではなくなった。
通常なら、投獄もしくは国外追放となるところだ。しかし王都に住む事は許されなかったものの、この国にとどまる事は許された。
ユリアーナはディートフリートと王の温情に感謝をし、母と共にわずかなお金を持って王都を出た。
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