上 下
112 / 137
アリシア編

91.どうしてそれをっ

しおりを挟む
 カチコチと時計の音が流れている。アリシアが時間を確認すると、ちょうど五時になっていた。とりあえずは終業の時間である。
 今日もよく働いたが、アリシアにはまだ仕事が残っていた。しかしルティーに残業などさせるわけにいかない。まだ彼女は十歳なのだから。
 アリシアは席を立ち、机に向かって真面目に勉強しているルティーを見た。

「ご苦労様、ルティー。宿舎まで送るわ」
「はい、ありがとうございます」

 ルティーは素早く机の上を片付け、嬉しそうに微笑んだ。
 あの日から、アリシアは毎日ルティーを宿舎まで送っている。すぐに戻って仕事ということも多かったが、アリシアも定時で終われた時には一緒に食事をとることもあった。
 この日はまだ仕事が残っているので、ルティーを送った後は、また戻るのである。こうやってルティーを送ることで気分転換にもなり、後の仕事がはかどるということで、ルーシエにも好評であった。

「うーんっ! 今日は一日中座り仕事でうんざりだわ。こうして外に出ないと窒息しちゃう」
「ふふっ。でもルーシエさんはアリシア様が順調に仕事をこなされているので、ホッとしてましたよ」
「あらルティー。私とルーシエ、どっちの味方?」
「もちろん、アリシア様に決まってます」

 顔を見合わせてにっこり微笑み合う。そうしているとすぐに宿舎の前に着いた。

「じゃあ私は仕事に戻るわね」
「はい、頑張ってください」
「ちょっとドーナツでも買ってから戻ろうかしら」
「……あ、アリシア様!」

 踵を返した途端に呼び止められたアリシアは、その場に立ち止まり、首だけで振り向く。

「今日でちょうど二ヶ月ですね」

 一瞬なんのことかわからず、「え?」と思わず聞き返してしまう。するとルティーは目だけでアリシアを見上げた。

「今日のジャンさんは、ちょっとそわそわしていました。今頃、執務室で待っているのではないでしょうか」
「そ……そうね」

 忘れていたわけでは、断じてない。けれど、まだアリシアはアンナにジャンのことを言い出せずにいる。
 グレイが死んで、まだ半年足らず。このまま一年、二年と待っていても、アンナに新しい恋人でも出来ない限り、言い出しにくいのは変わりないだろう。
 ルティーにまで心配させているということは、当のジャンはどれだけ不安に駆られているだろうか。
 そんなことを考えながら執務室に戻ると、そこにはルティーの言った通り、ジャンの姿があった。特にそわそわしているようには見えないが、なんらかの反応を期待しているのは確かのはずだ。

「おかえり、筆頭」
「え、ええ……ジャンは仕事終わったの?」
「今日の分はもう終わらせた」

 やはり、アリシアの言葉を待っている。まだアンナに伝えていないとは言いにくいが、嘘をついても仕方がない。

「アリシア様、各将に書類を配布して参ります。十分ほどで戻りますので」

 伝えるのを躊躇していると、ルーシエがそう言って部屋を出ていってくれた。つまり今のうちに話をしておけということだろう。
 パタンと扉の閉まる音がすると、ジャンはいつも以上に妖しげな視線を向けてくる。アリシアは罪悪感から少し目を逸らした。

「筆頭……言ってないね」
「っう! どうしてそれをっ」
「わかりやす過ぎるよ。もうちょっと期待持たせてくれてもいいんじゃない」
「……ごめんなさい」
「まぁ、言い出しにくいのはわかるけど」

 ジャンはハァッと息を吐いている。また落胆させてしまっただろう。

「今日言うわ」
「え?」

 アリシアは、それ以上ジャンの顔が暗くなる前に言い放った。

「今日アンナに、付き合いたい人がいることを伝えるわ。だからあなたへの返事は、明日でもいいかしら?」
「明日?」

 ジャンは予想外だとでも言うように復唱した。またしばらく待たされることを覚悟していたのかもしれない。

「ええ。明日、必ず。アンナの反応を見てどうするか決めるわ」
「それってアンナが難色を示したら、俺とは付き合えないってことだよね……」
「まぁそういうことね」
「あっさり言うよ、筆頭は……」

 別にあっさり言っているつもりはないのだが、もしもアンナの傷を抉るようなことになるのであれば仕方がない。もう少し時間を置くことになってしまうだろう。

「ごめんなさいね、ジャン」
「謝るのはそうなってからでいいよ。まだ希望は捨ててないから。それよりも、アンナの今日の予定は? 最近アンナも忙しそうにしてるけど」

 確かに、ここ最近のアンナの仕事っぷりは目覚ましいものがある。仕事中は雷神と同じ口調で話をするようになったせいか、オンとオフの使い分けが今まで以上にキッチリとしてきた。それに伴い、屈強な男たちを束ねるのに相応しい貫禄が出てきている。

「どうかしら。毎日遅くまで張り切ってるものね。後で適当なところで切り上げるよう言ってくるわ」
「筆頭の地位を狙ってるんじゃない」
「いい傾向よ。狙ってくれなきゃ、張り合いないわ。最近は野心を持たない若者が多過ぎるもの」

 自分が野心を剥き出しにし過ぎていたのかもしれないが。それでも、アンナが上を目指すことで闘争心を燃やす者はいるだろう。例えば、野性味溢れるカールや、いつも沈着冷静無表情のトラヴァスなんかが。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

ふたりは片想い 〜騎士団長と司書の恋のゆくえ〜

長岡更紗
恋愛
王立図書館の司書として働いているミシェルが好きになったのは、騎士団長のスタンリー。 幼い頃に助けてもらった時から、スタンリーはミシェルのヒーローだった。 そんなずっと憧れていた人と、18歳で再会し、恋心を募らせながらミシェルはスタンリーと仲良くなっていく。 けれどお互いにお互いの気持ちを勘違いしまくりで……?! 元気いっぱいミシェルと、大人な魅力のスタンリー。そんな二人の恋の行方は。 他サイトにも投稿しています。

【完結】婚約者が好きなのです

maruko
恋愛
リリーベルの婚約者は誰にでも優しいオーラン・ドートル侯爵令息様。 でもそんな優しい婚約者がたった一人に対してだけ何故か冷たい。 冷たくされてるのはアリー・メーキリー侯爵令嬢。 彼の幼馴染だ。 そんなある日。偶然アリー様がこらえきれない涙を流すのを見てしまった。見つめる先には婚約者の姿。 私はどうすればいいのだろうか。 全34話(番外編含む) ※他サイトにも投稿しております ※1話〜4話までは文字数多めです 注)感想欄は全話読んでから閲覧ください(汗)

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

伯爵は年下の妻に振り回される 記憶喪失の奥様は今日も元気に旦那様の心を抉る

新高
恋愛
※第15回恋愛小説大賞で奨励賞をいただきました!ありがとうございます! ※※2023/10/16書籍化しますーー!!!!!応援してくださったみなさま、ありがとうございます!! 契約結婚三年目の若き伯爵夫人であるフェリシアはある日記憶喪失となってしまう。失った記憶はちょうどこの三年分。記憶は失ったものの、性格は逆に明るく快活ーーぶっちゃけ大雑把になり、軽率に契約結婚相手の伯爵の心を抉りつつ、流石に申し訳ないとお詫びの品を探し出せばそれがとんだ騒ぎとなり、結果的に契約が取れて仲睦まじい夫婦となるまでの、そんな二人のドタバタ劇。 ※本編完結しました。コネタを随時更新していきます。 ※R要素の話には「※」マークを付けています。 ※勢いとテンション高めのコメディーなのでふわっとした感じで読んでいただけたら嬉しいです。 ※他サイト様でも公開しています

【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される

風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。 しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。 そんな時、隣国から王太子がやって来た。 王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。 すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。 アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。 そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。 アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。 そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

処理中です...