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アリシア編
91.どうしてそれをっ
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カチコチと時計の音が流れている。アリシアが時間を確認すると、ちょうど五時になっていた。とりあえずは終業の時間である。
今日もよく働いたが、アリシアにはまだ仕事が残っていた。しかしルティーに残業などさせるわけにいかない。まだ彼女は十歳なのだから。
アリシアは席を立ち、机に向かって真面目に勉強しているルティーを見た。
「ご苦労様、ルティー。宿舎まで送るわ」
「はい、ありがとうございます」
ルティーは素早く机の上を片付け、嬉しそうに微笑んだ。
あの日から、アリシアは毎日ルティーを宿舎まで送っている。すぐに戻って仕事ということも多かったが、アリシアも定時で終われた時には一緒に食事をとることもあった。
この日はまだ仕事が残っているので、ルティーを送った後は、また戻るのである。こうやってルティーを送ることで気分転換にもなり、後の仕事がはかどるということで、ルーシエにも好評であった。
「うーんっ! 今日は一日中座り仕事でうんざりだわ。こうして外に出ないと窒息しちゃう」
「ふふっ。でもルーシエさんはアリシア様が順調に仕事をこなされているので、ホッとしてましたよ」
「あらルティー。私とルーシエ、どっちの味方?」
「もちろん、アリシア様に決まってます」
顔を見合わせてにっこり微笑み合う。そうしているとすぐに宿舎の前に着いた。
「じゃあ私は仕事に戻るわね」
「はい、頑張ってください」
「ちょっとドーナツでも買ってから戻ろうかしら」
「……あ、アリシア様!」
踵を返した途端に呼び止められたアリシアは、その場に立ち止まり、首だけで振り向く。
「今日でちょうど二ヶ月ですね」
一瞬なんのことかわからず、「え?」と思わず聞き返してしまう。するとルティーは目だけでアリシアを見上げた。
「今日のジャンさんは、ちょっとそわそわしていました。今頃、執務室で待っているのではないでしょうか」
「そ……そうね」
忘れていたわけでは、断じてない。けれど、まだアリシアはアンナにジャンのことを言い出せずにいる。
グレイが死んで、まだ半年足らず。このまま一年、二年と待っていても、アンナに新しい恋人でも出来ない限り、言い出しにくいのは変わりないだろう。
ルティーにまで心配させているということは、当のジャンはどれだけ不安に駆られているだろうか。
そんなことを考えながら執務室に戻ると、そこにはルティーの言った通り、ジャンの姿があった。特にそわそわしているようには見えないが、なんらかの反応を期待しているのは確かのはずだ。
「おかえり、筆頭」
「え、ええ……ジャンは仕事終わったの?」
「今日の分はもう終わらせた」
やはり、アリシアの言葉を待っている。まだアンナに伝えていないとは言いにくいが、嘘をついても仕方がない。
「アリシア様、各将に書類を配布して参ります。十分ほどで戻りますので」
伝えるのを躊躇していると、ルーシエがそう言って部屋を出ていってくれた。つまり今のうちに話をしておけということだろう。
パタンと扉の閉まる音がすると、ジャンはいつも以上に妖しげな視線を向けてくる。アリシアは罪悪感から少し目を逸らした。
「筆頭……言ってないね」
「っう! どうしてそれをっ」
「わかりやす過ぎるよ。もうちょっと期待持たせてくれてもいいんじゃない」
「……ごめんなさい」
「まぁ、言い出しにくいのはわかるけど」
ジャンはハァッと息を吐いている。また落胆させてしまっただろう。
「今日言うわ」
「え?」
アリシアは、それ以上ジャンの顔が暗くなる前に言い放った。
「今日アンナに、付き合いたい人がいることを伝えるわ。だからあなたへの返事は、明日でもいいかしら?」
「明日?」
ジャンは予想外だとでも言うように復唱した。またしばらく待たされることを覚悟していたのかもしれない。
「ええ。明日、必ず。アンナの反応を見てどうするか決めるわ」
「それってアンナが難色を示したら、俺とは付き合えないってことだよね……」
「まぁそういうことね」
「あっさり言うよ、筆頭は……」
別にあっさり言っているつもりはないのだが、もしもアンナの傷を抉るようなことになるのであれば仕方がない。もう少し時間を置くことになってしまうだろう。
「ごめんなさいね、ジャン」
「謝るのはそうなってからでいいよ。まだ希望は捨ててないから。それよりも、アンナの今日の予定は? 最近アンナも忙しそうにしてるけど」
確かに、ここ最近のアンナの仕事っぷりは目覚ましいものがある。仕事中は雷神と同じ口調で話をするようになったせいか、オンとオフの使い分けが今まで以上にキッチリとしてきた。それに伴い、屈強な男たちを束ねるのに相応しい貫禄が出てきている。
「どうかしら。毎日遅くまで張り切ってるものね。後で適当なところで切り上げるよう言ってくるわ」
「筆頭の地位を狙ってるんじゃない」
「いい傾向よ。狙ってくれなきゃ、張り合いないわ。最近は野心を持たない若者が多過ぎるもの」
自分が野心を剥き出しにし過ぎていたのかもしれないが。それでも、アンナが上を目指すことで闘争心を燃やす者はいるだろう。例えば、野性味溢れるカールや、いつも沈着冷静無表情のトラヴァスなんかが。
今日もよく働いたが、アリシアにはまだ仕事が残っていた。しかしルティーに残業などさせるわけにいかない。まだ彼女は十歳なのだから。
アリシアは席を立ち、机に向かって真面目に勉強しているルティーを見た。
「ご苦労様、ルティー。宿舎まで送るわ」
「はい、ありがとうございます」
ルティーは素早く机の上を片付け、嬉しそうに微笑んだ。
あの日から、アリシアは毎日ルティーを宿舎まで送っている。すぐに戻って仕事ということも多かったが、アリシアも定時で終われた時には一緒に食事をとることもあった。
この日はまだ仕事が残っているので、ルティーを送った後は、また戻るのである。こうやってルティーを送ることで気分転換にもなり、後の仕事がはかどるということで、ルーシエにも好評であった。
「うーんっ! 今日は一日中座り仕事でうんざりだわ。こうして外に出ないと窒息しちゃう」
「ふふっ。でもルーシエさんはアリシア様が順調に仕事をこなされているので、ホッとしてましたよ」
「あらルティー。私とルーシエ、どっちの味方?」
「もちろん、アリシア様に決まってます」
顔を見合わせてにっこり微笑み合う。そうしているとすぐに宿舎の前に着いた。
「じゃあ私は仕事に戻るわね」
「はい、頑張ってください」
「ちょっとドーナツでも買ってから戻ろうかしら」
「……あ、アリシア様!」
踵を返した途端に呼び止められたアリシアは、その場に立ち止まり、首だけで振り向く。
「今日でちょうど二ヶ月ですね」
一瞬なんのことかわからず、「え?」と思わず聞き返してしまう。するとルティーは目だけでアリシアを見上げた。
「今日のジャンさんは、ちょっとそわそわしていました。今頃、執務室で待っているのではないでしょうか」
「そ……そうね」
忘れていたわけでは、断じてない。けれど、まだアリシアはアンナにジャンのことを言い出せずにいる。
グレイが死んで、まだ半年足らず。このまま一年、二年と待っていても、アンナに新しい恋人でも出来ない限り、言い出しにくいのは変わりないだろう。
ルティーにまで心配させているということは、当のジャンはどれだけ不安に駆られているだろうか。
そんなことを考えながら執務室に戻ると、そこにはルティーの言った通り、ジャンの姿があった。特にそわそわしているようには見えないが、なんらかの反応を期待しているのは確かのはずだ。
「おかえり、筆頭」
「え、ええ……ジャンは仕事終わったの?」
「今日の分はもう終わらせた」
やはり、アリシアの言葉を待っている。まだアンナに伝えていないとは言いにくいが、嘘をついても仕方がない。
「アリシア様、各将に書類を配布して参ります。十分ほどで戻りますので」
伝えるのを躊躇していると、ルーシエがそう言って部屋を出ていってくれた。つまり今のうちに話をしておけということだろう。
パタンと扉の閉まる音がすると、ジャンはいつも以上に妖しげな視線を向けてくる。アリシアは罪悪感から少し目を逸らした。
「筆頭……言ってないね」
「っう! どうしてそれをっ」
「わかりやす過ぎるよ。もうちょっと期待持たせてくれてもいいんじゃない」
「……ごめんなさい」
「まぁ、言い出しにくいのはわかるけど」
ジャンはハァッと息を吐いている。また落胆させてしまっただろう。
「今日言うわ」
「え?」
アリシアは、それ以上ジャンの顔が暗くなる前に言い放った。
「今日アンナに、付き合いたい人がいることを伝えるわ。だからあなたへの返事は、明日でもいいかしら?」
「明日?」
ジャンは予想外だとでも言うように復唱した。またしばらく待たされることを覚悟していたのかもしれない。
「ええ。明日、必ず。アンナの反応を見てどうするか決めるわ」
「それってアンナが難色を示したら、俺とは付き合えないってことだよね……」
「まぁそういうことね」
「あっさり言うよ、筆頭は……」
別にあっさり言っているつもりはないのだが、もしもアンナの傷を抉るようなことになるのであれば仕方がない。もう少し時間を置くことになってしまうだろう。
「ごめんなさいね、ジャン」
「謝るのはそうなってからでいいよ。まだ希望は捨ててないから。それよりも、アンナの今日の予定は? 最近アンナも忙しそうにしてるけど」
確かに、ここ最近のアンナの仕事っぷりは目覚ましいものがある。仕事中は雷神と同じ口調で話をするようになったせいか、オンとオフの使い分けが今まで以上にキッチリとしてきた。それに伴い、屈強な男たちを束ねるのに相応しい貫禄が出てきている。
「どうかしら。毎日遅くまで張り切ってるものね。後で適当なところで切り上げるよう言ってくるわ」
「筆頭の地位を狙ってるんじゃない」
「いい傾向よ。狙ってくれなきゃ、張り合いないわ。最近は野心を持たない若者が多過ぎるもの」
自分が野心を剥き出しにし過ぎていたのかもしれないが。それでも、アンナが上を目指すことで闘争心を燃やす者はいるだろう。例えば、野性味溢れるカールや、いつも沈着冷静無表情のトラヴァスなんかが。
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