40 / 137
アリシア編
19.確かに、不思議な子ね
しおりを挟む
アンナが十五歳になる年にオルト軍学校に入ると、アリシアは王宮に一室をもらい受けることにした。
本来なら将になった時に一室が与えられるのだが、雷神と過ごしたかったアリシアは家に帰ることを選び、彼が出て行った後はアンナと過ごすために家に帰っていた。しかしそれも、アンナが軍学校に入り隊舎暮らしをするようになってはあまり意味をなさない。
仕事は以前よりずっと忙しくなっていて、家に帰る時間さえも惜しくなっていた。そんな事情もあって、アリシアは王宮に住まうことに決めたのである。
「ああ、いいな。王宮に筆頭の部屋があるっていうのは。わざわざ行く手間が省ける」
「ちょっとジャン、あなた当然のように居着かないでくれる?」
「だめかな」
「だめ、というほどでもないけど……」
アリシアの仕事が終わるとジャンは部屋を訪ねてきて、ミルクティーを飲んで帰っていく。ジャンが諜報活動に出ていない時の日常となっていた。
「ジャンは宿舎暮らしだったわね」
「ああ。トイレはあれだけの人数がいるのに共同で一箇所しかない。風呂も共同、しかも離れにあって面倒臭い。夏は暑くて冬は凍えるほど寒い。もちろん暖炉なんてないし、俺の部屋の日当たりは最悪。部屋は狭すぎ、壁も薄くて女も呼べない」
「あら、じゃあいつもどこで女の子としているの?」
「相手の部屋かホテルで……って、なに言わすんだ……」
さらりと素直に答えるジャンがおかしくて、アリシアは笑った。
「私は宿舎に住んだことがないからわからないけど、不便そうね。どこかに家を借りたら? あなたのお給金なら、それなりのところを借りられるでしょう」
「月の半分は仕事で帰らないからな……いいところを借りても住まわなきゃ、意味がない」
「まぁ、そうねぇ……」
「いいよ、俺は。こうして筆頭の広い部屋で寛げるから」
「こらこら!」
アリシアが苦笑いを向けると、ジャンはいつものように妖しげな瞳で笑っている。
現在アリシアは三十九歳、ジャン二十七歳である。
「もう、あなたたちは一向に身を固めようとしないんだから、心配になっちゃうわ」
「そんなの、アリシア筆頭だって同じだろ。いい加減ロクロウのことは忘れてもいいんじゃない」
「忘れる、ねぇ……それが中々忘れさせてくれないのよね!」
「ふぅん……まぁ別にいいけどね……」
「ジャンはどうなの?」
「まぁ俺も……中々忘れさせてはくれない」
「あら、そんな子がジャンにもいるのね!」
アリシアは嬉しくなって、ミルクティーのお代わりを注いであげた。そんなアリシアを見て、ジャンは軽く息を吐き出している。
「どうしたの? ジャン」
「普段は察しがいいのに、どうしてこういう時だけ天然かな……それわざと?」
「なにが?」
「わざとではなさそうだ」
そう呟いて、ジャンは上着を片手に立ち上がる。
「あら、お代わり入れたわよ?」
「そうやって引き留めるのは、気のある男だけにしなよ」
「あ、そうよね。ごめんなさい」
「…………筆頭らしいよ」
ジャンは少しあきれたように笑い、最後に目を流して帰っていった。
アリシアは、ジャンが飲まなかったミルクティーに口を付けようとして、ほんの少し戸惑う。回し飲みなど軍でいくらでも慣れているはずなのに、アリシアはそのカップをじっと見つめた。そして己のカップに入れ替えてから、それをすべて飲み干したのだった。
***
オルト軍学校に入って一年と三ヶ月が経ったアンナは、十六歳になっていた。夏期休暇をアリシアの休みの日に合わせて帰ってきてくれる。
アリシアの休みは一日しかないので、二人で語り合う時間はとても貴重だ。
アンナはとても逞しくなり、そう高くはないが身長も伸びている。キラキラした笑顔は、若さの証だ。
アリシアはアンナの対面に座り、紅茶を飲みながらクッキーに手を伸ばす。
「この間の剣術大会はどうだったの?」
アリシアがそう切り出すと、アンナは少し眉を下げて笑った。
「負けちゃったわ。二位だった。完敗よ」
そう言いつつも、後悔はない顔をしている。実際には見られなかったが、いい試合だったのだろう。
「そう。でも去年は三位だったんだから、順位は上がっているじゃない。一位はまたトラヴァス君?」
アンナの口からは、よくトラヴァスという少年とカールという少年の名前が出てきていた。この二人と仲が良いようだ。
トラヴァスという少年はアンナの二つ年上ではあるが、剣術だけではなく頭脳も抜きん出ている秀才なのだとか。
逆にカールという少年はアンナの一つ年下で、前回の話の際には、身体能力は高いが実力はまだまだだと言っていた。
事実、去年の大会では初戦でアンナと当たり、カールは負けたと聞いている。
もしまたアンナが負けたというなら、去年の優勝者のトラヴァスだと思ったのだが。
「いいえ、私が負けたのは……グレイよ」
グレイ、と聞いて耳がピクリと動いてしまった。
その昔、殺されそうになっていたところを助けた少年だ。彼に剣の手ほどきをしたのは、なにを隠そうアリシアである。
ある時期から距離を置いてはいたが、その後もグレイは独自に腕を磨いていたのだろう。
「そ、そう……どんな子なの?」
「それが、変な人なのよ。彼が外を歩くと、野良犬や野良猫がぞろぞろとついてくるの。本人もどうしてだかわからないんだって」
「それは確かに、不思議な子ね」
そういえば、グレイが孤児院にいた頃、なぜか野良犬もウロウロしていた。動物に好かれる者に、そう悪い者はいない。
しばらく会ってはいないが、きっといい青年になっているのだろう。アンナと同い年なので、まだ十五歳ではあるが。
(そういえば、昔グレイに頼んだことがあったわね。私の仕事が忙しいせいで娘のアンナは一人でいることが多いから、会った時には仲良くしてあげてって。そうしたら、その時グレイは……)
そこまで思い返して、アリシアはプッと吹き出した。
そう、その時グレイはこう言ったのだ。
『じゃあ、俺、アンナと結婚してあげる! 俺も一人だし、そうしたら二人とも、ずっと寂しくないもんね!!』
「どうしたの? 母さん」
アリシアがいきなり吹き出したので、アンナは訝しげにこちらを見ている。
「いいえぇ、なんでも! それで、あなたたちはいつ結婚するの?」
「は、はぁぁああ!? なに言ってるの! 私たち、付き合ってもないわよ!!」
「またまたー、照れなくてもいいじゃないの!」
「母さん、勘違いにもほどがあるわよ!!」
そう言ってぷりぷりと怒っていたのは、アンナの夏期休暇の時だった。
本来なら将になった時に一室が与えられるのだが、雷神と過ごしたかったアリシアは家に帰ることを選び、彼が出て行った後はアンナと過ごすために家に帰っていた。しかしそれも、アンナが軍学校に入り隊舎暮らしをするようになってはあまり意味をなさない。
仕事は以前よりずっと忙しくなっていて、家に帰る時間さえも惜しくなっていた。そんな事情もあって、アリシアは王宮に住まうことに決めたのである。
「ああ、いいな。王宮に筆頭の部屋があるっていうのは。わざわざ行く手間が省ける」
「ちょっとジャン、あなた当然のように居着かないでくれる?」
「だめかな」
「だめ、というほどでもないけど……」
アリシアの仕事が終わるとジャンは部屋を訪ねてきて、ミルクティーを飲んで帰っていく。ジャンが諜報活動に出ていない時の日常となっていた。
「ジャンは宿舎暮らしだったわね」
「ああ。トイレはあれだけの人数がいるのに共同で一箇所しかない。風呂も共同、しかも離れにあって面倒臭い。夏は暑くて冬は凍えるほど寒い。もちろん暖炉なんてないし、俺の部屋の日当たりは最悪。部屋は狭すぎ、壁も薄くて女も呼べない」
「あら、じゃあいつもどこで女の子としているの?」
「相手の部屋かホテルで……って、なに言わすんだ……」
さらりと素直に答えるジャンがおかしくて、アリシアは笑った。
「私は宿舎に住んだことがないからわからないけど、不便そうね。どこかに家を借りたら? あなたのお給金なら、それなりのところを借りられるでしょう」
「月の半分は仕事で帰らないからな……いいところを借りても住まわなきゃ、意味がない」
「まぁ、そうねぇ……」
「いいよ、俺は。こうして筆頭の広い部屋で寛げるから」
「こらこら!」
アリシアが苦笑いを向けると、ジャンはいつものように妖しげな瞳で笑っている。
現在アリシアは三十九歳、ジャン二十七歳である。
「もう、あなたたちは一向に身を固めようとしないんだから、心配になっちゃうわ」
「そんなの、アリシア筆頭だって同じだろ。いい加減ロクロウのことは忘れてもいいんじゃない」
「忘れる、ねぇ……それが中々忘れさせてくれないのよね!」
「ふぅん……まぁ別にいいけどね……」
「ジャンはどうなの?」
「まぁ俺も……中々忘れさせてはくれない」
「あら、そんな子がジャンにもいるのね!」
アリシアは嬉しくなって、ミルクティーのお代わりを注いであげた。そんなアリシアを見て、ジャンは軽く息を吐き出している。
「どうしたの? ジャン」
「普段は察しがいいのに、どうしてこういう時だけ天然かな……それわざと?」
「なにが?」
「わざとではなさそうだ」
そう呟いて、ジャンは上着を片手に立ち上がる。
「あら、お代わり入れたわよ?」
「そうやって引き留めるのは、気のある男だけにしなよ」
「あ、そうよね。ごめんなさい」
「…………筆頭らしいよ」
ジャンは少しあきれたように笑い、最後に目を流して帰っていった。
アリシアは、ジャンが飲まなかったミルクティーに口を付けようとして、ほんの少し戸惑う。回し飲みなど軍でいくらでも慣れているはずなのに、アリシアはそのカップをじっと見つめた。そして己のカップに入れ替えてから、それをすべて飲み干したのだった。
***
オルト軍学校に入って一年と三ヶ月が経ったアンナは、十六歳になっていた。夏期休暇をアリシアの休みの日に合わせて帰ってきてくれる。
アリシアの休みは一日しかないので、二人で語り合う時間はとても貴重だ。
アンナはとても逞しくなり、そう高くはないが身長も伸びている。キラキラした笑顔は、若さの証だ。
アリシアはアンナの対面に座り、紅茶を飲みながらクッキーに手を伸ばす。
「この間の剣術大会はどうだったの?」
アリシアがそう切り出すと、アンナは少し眉を下げて笑った。
「負けちゃったわ。二位だった。完敗よ」
そう言いつつも、後悔はない顔をしている。実際には見られなかったが、いい試合だったのだろう。
「そう。でも去年は三位だったんだから、順位は上がっているじゃない。一位はまたトラヴァス君?」
アンナの口からは、よくトラヴァスという少年とカールという少年の名前が出てきていた。この二人と仲が良いようだ。
トラヴァスという少年はアンナの二つ年上ではあるが、剣術だけではなく頭脳も抜きん出ている秀才なのだとか。
逆にカールという少年はアンナの一つ年下で、前回の話の際には、身体能力は高いが実力はまだまだだと言っていた。
事実、去年の大会では初戦でアンナと当たり、カールは負けたと聞いている。
もしまたアンナが負けたというなら、去年の優勝者のトラヴァスだと思ったのだが。
「いいえ、私が負けたのは……グレイよ」
グレイ、と聞いて耳がピクリと動いてしまった。
その昔、殺されそうになっていたところを助けた少年だ。彼に剣の手ほどきをしたのは、なにを隠そうアリシアである。
ある時期から距離を置いてはいたが、その後もグレイは独自に腕を磨いていたのだろう。
「そ、そう……どんな子なの?」
「それが、変な人なのよ。彼が外を歩くと、野良犬や野良猫がぞろぞろとついてくるの。本人もどうしてだかわからないんだって」
「それは確かに、不思議な子ね」
そういえば、グレイが孤児院にいた頃、なぜか野良犬もウロウロしていた。動物に好かれる者に、そう悪い者はいない。
しばらく会ってはいないが、きっといい青年になっているのだろう。アンナと同い年なので、まだ十五歳ではあるが。
(そういえば、昔グレイに頼んだことがあったわね。私の仕事が忙しいせいで娘のアンナは一人でいることが多いから、会った時には仲良くしてあげてって。そうしたら、その時グレイは……)
そこまで思い返して、アリシアはプッと吹き出した。
そう、その時グレイはこう言ったのだ。
『じゃあ、俺、アンナと結婚してあげる! 俺も一人だし、そうしたら二人とも、ずっと寂しくないもんね!!』
「どうしたの? 母さん」
アリシアがいきなり吹き出したので、アンナは訝しげにこちらを見ている。
「いいえぇ、なんでも! それで、あなたたちはいつ結婚するの?」
「は、はぁぁああ!? なに言ってるの! 私たち、付き合ってもないわよ!!」
「またまたー、照れなくてもいいじゃないの!」
「母さん、勘違いにもほどがあるわよ!!」
そう言ってぷりぷりと怒っていたのは、アンナの夏期休暇の時だった。
0
お気に入りに追加
78
あなたにおすすめの小説
陛下から一年以内に世継ぎが生まれなければ王子と離縁するように言い渡されました
夢見 歩
恋愛
「そなたが1年以内に懐妊しない場合、
そなたとサミュエルは離縁をし
サミュエルは新しい妃を迎えて
世継ぎを作ることとする。」
陛下が夫に出すという条件を
事前に聞かされた事により
わたくしの心は粉々に砕けました。
わたくしを愛していないあなたに対して
わたくしが出来ることは〇〇だけです…
あの日、さようならと言って微笑んだ彼女を僕は一生忘れることはないだろう
まるまる⭐️
恋愛
僕に向かって微笑みながら「さようなら」と告げた彼女は、そのままゆっくりと自身の体重を後ろへと移動し、バルコニーから落ちていった‥
*****
僕と彼女は幼い頃からの婚約者だった。
僕は彼女がずっと、僕を支えるために努力してくれていたのを知っていたのに‥
かわいそうな旦那様‥
みるみる
恋愛
侯爵令嬢リリアのもとに、公爵家の長男テオから婚約の申し込みがありました。ですが、テオはある未亡人に惚れ込んでいて、まだ若くて性的魅力のかけらもないリリアには、本当は全く異性として興味を持っていなかったのです。
そんなテオに、リリアはある提案をしました。
「‥白い結婚のまま、三年後に私と離縁して下さい。」
テオはその提案を承諾しました。
そんな二人の結婚生活は‥‥。
※題名の「かわいそうな旦那様」については、客観的に見ていると、この旦那のどこが?となると思いますが、主人公の旦那に対する皮肉的な意味も込めて、あえてこの題名にしました。
※小説家になろうにも投稿中
※本編完結しましたが、補足したい話がある為番外編を少しだけ投稿しますm(_ _)m
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
あなたへの想いを終わりにします
四折 柊
恋愛
シエナは王太子アドリアンの婚約者として体の弱い彼を支えてきた。だがある日彼は視察先で倒れそこで男爵令嬢に看病される。彼女の献身的な看病で医者に見放されていた病が治りアドリアンは健康を手に入れた。男爵令嬢は殿下を治癒した聖女と呼ばれ王城に招かれることになった。いつしかアドリアンは男爵令嬢に夢中になり彼女を正妃に迎えたいと言い出す。男爵令嬢では妃としての能力に問題がある。だからシエナには側室として彼女を支えてほしいと言われた。シエナは今までの献身と恋心を踏み躙られた絶望で彼らの目の前で自身の胸を短剣で刺した…………。(全13話)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる