上 下
42 / 125
エターナルヴァンパイア ー悠久の時を生きてー

前編

しおりを挟む
 私の住む家の通りは、通称ヴァンパイア通りと呼ばれてる。
 外に出れば、そこは一見普通の街だ。でも、日差しの強い日は、かなりの者が傘をさして歩いているのが特徴といえば特徴。

「ジーナ、ちょっと店番していてくれる? 仕入れしてくるから」
「はぁい、ママ」

 私はそう言われてエプロンをつけると、店へと出た。
 ここは、ヴァンパイア専用の喫茶店。提供するのは赤い飲み物だけ。

 ママとは言ったけど、実際に血のつながりなんかはない。ママはヴァンパイアで、私は人間だから。
 ここは人間とヴァンパイアが共存する街、アルカード。
 違う種族同士だけど、許可なく人間の血を飲んではいけない、ヴァンパイアを差別しないという街のルールがある。そのおかげで二種族間は、大きな事件もなく平和に暮らしてる。

「おはよう、ジーナ」
「おはよう、アストリー」

 もう夕方だけど、ここでの挨拶はみんな『おはよう』だ。
 仕事によっては朝に活動するヴァンパイアもいるけど、多くのヴァンパイアは夕方から夜にかけて活動してる。だからアルカードは、夜の街とも言われたりする。

「昼間の仕事を終えてからここで働くのは、大変だろ? 大丈夫か?」

 アストリーはそう言いながら、私の頭を撫でてくれた。微笑むと、二本のきれいな牙が見える。

「大丈夫、ママが帰ってくるまでだから」
「そうか。俺は仕事休みだから、待っていてもいいか?」
「うん。久しぶりにアストリーとデートできるね!」

 えへへと笑うと、アストリーも目を細めてくれる。
 私とアストリーは、種族が違うけど恋人同士だ。
 夜空を思わせる紺青こんじょう色の髪に、ヴァンパイア特有の金色の瞳。千年以上前にヴァンパイアになったというアストリーは、生えてきた牙と金色に変わった瞳以外、人間の頃と変わらない姿らしい。
 恋人の欲目かもしれないけど、アストリーは美形だ。
 アルカード以外に住むヴァンパイアは、人間を襲ったりして危険な存在らしいけど、ここではそんな凶暴なヴァンパイアはいない。
 私は赤ちゃんの頃にヴァンパイア通りに捨てられていたのを、ママが拾って育ててくれた。だから、この近所のヴァンパイアたちとは、みんな顔見知りだ。十八年間ずっと、この通りのヴァンパイアたちの世話になってる。その中でも、特にアストリーとは交流が深くて、今の関係になるのも必然だったと思う。
 お店はまだ開店したばかりだったのでアストリーと話していると、またお客が入ってきた。

「おはよう、ジーナ。今日もかわいいね」
「あ、いらっしゃい、エイミスさん」

 この店の常連のエイミスさんも、二十歳くらいの見た目をした金髪のヴァンパイア。きれいな男の人だ。

「いつものでよろしいですか?」
「昨日はちょっと儲けたんだ。だから、ヒューマンブレンドブラッドね」
「わかりました」

 ヴァンパイアにとって、人の血は格別に美味しいらしい。
 血は高価なので、血を売るだけで生活している人間も、この街にはたくさんいる。
 私はグラスを取り出すと、人の血をベースに動物の血をいくらか混ぜたものをエイミスさんに差し出した。

「どうぞ、ヒューマンブレンドブラッドです」
「ありがとう。ねぇジーナ、今度は君の血を飲ませて欲しいな」
「またそんなこと言って。だめですよ、エイミスさん。血を売る気のない人から無理にもらうのは」

 そうやって私はたしなめたけど、エイミスさんはどこ吹く風でブレンドブラッドを飲んでいる。良い人ではあるんだけど、ちょっと掴みどころのない人だ。しょっちゅう私に絡んでくるけど、どういう理由があるのかはよくわからない。
 そういう意味で気になる人には違いないけど、私はアストリーの方が……断然好き。
 チラリと店の端を見ると、アストリーが私に気づいて手をそっと振ってくれる。そんなスマートなアストリーの姿を見ると、口角が上がってしまう。
 そうしてしばらく店番をしていると、ガランと扉が開いてママが戻ってきた。

「ただいまぁ、ジーナ。店番ありがとね!」

 私はママとバトンタッチすると、アストリーのところへ行って一緒に外に出る。

「おいで」

 アストリーの言葉に、私はいつもするように手をアストリーの首に巻きつけた。アストリーは私の腰を抱いてくれて、バサリと黒いマントを翻すと空に舞い上がる。
 ストンと屋根に降りるときの浮遊感が、たまらなく好きだ。

「うちに来るか? それとも夜の散歩?」
「夜の散歩!」
「了解」

 そういうと、アストリーは屋根から屋根へ飛び移ってくれた。
 街で一番高い建物、時計塔の一番上までくると、足場のない私はアストリーに抱っこされる。
 そこから見える景色は何も遮るものがなくて、ただひたすらに気持ちいい。

「ああ……今日はいい散歩日和ね、アストリー」
「ジーナは昔から夜の散歩が好きだな」
「ふふふ」

 私がまだ小さかった時から、アストリーはこうして夜の散歩に連れて行ってくれた。
 ママは仕事があったし、夜に面倒を見てくれたり一緒に遊んでくれたのは、主にアストリーだった。
 私たちの間にそれ以外の特別なことはなく、ただずっと一緒に笑って過ごしてただけだけど。
 悲しい時はそばにいてくれて、泣いた時には抱きしめてくれる、そんな存在。
 いつしか私は、アストリーのことを半身のようにさえ感じて、この恋心を打ち明けた。
 するとアストリーは『俺もジーナを愛している』と言ってくれ、私たちはその日から恋人同士となった。

「風が強くなってきたな」

 時計塔の頂点に立つアストリーのマントがはためき、紺青の髪が夜空に溶ける。アストリーの端正な顔だけが、私の視界を支配する。

「寒くないか?」
「うん、平気……」

 アストリーは目を細めて笑うと、その唇を私の唇に寄せてくれた。
 少し、冷たい感触。ヴァンパイアの体温は、人間の私よりもはるかに低い。
 この冬、震えていた私に、『温めてやることもできない』と悲しそうな顔をしていたのを思い出した。
 優しいヴァンパイア。優しいアストリー。
 一生彼のそばにいたいのに、時間は私の体だけを老いさせる。

「アストリーは、二十歳の時にヴァンパイアになったんだよね」
「ああ。山を歩いているとき、崖から落ちてしまって瀕死状態になったんだ。ちょうどそこにいたヴァンパイアに二択を迫られた。このまま死ぬか、ヴァンパイアとして生きるか」

 この話は、幼い頃から何度も聞いてきたから知ってる。それでも私は、何度でもこの話を聞きたいと思う。
 アストリーは死にたくないと言って、ヴァンパイアとして生きる道を選んだ。
 ヴァンパイアは不老だ。傷の回復力も脅威で、滅多に死ぬことはない。
 その反面、ヴァンパイアには子どもが作れない。作る必要がないからだ。仲間は、人間と契約して血を吸うことで増やせるから。
 だから私とアストリーがいくら愛し合っても、私のお腹に子どもが宿ることはありえない。
 それを考えると少しさびしいけど、アストリーと一緒にいられるならいいって思ってる。
 でも、このままじゃ……私は、アストリーがヴァンパイアになった年齢を越してしまう。そしていつか、おばあちゃんになって死んでしまう。
 死ぬのが嫌なんじゃない。同じ時をアストリーと過ごせないことが、つらく悲しい。

「ねぇ、アストリー。私をヴァンパイアにして」
「ジーナ……」

 アストリーやママに聞いた話だと、ヴァンパイアが人間の血を吸う理由はみっつあるらしい。

 ひとつは、食のため。
 人間の血を直接吸うと、その美味しさにやめられず、吸い尽くして死なせてしまうことがよくあったらしい。
 アルカードでは、そんな事件を起こしたヴァンパイアは仲間によって処分されてきた歴史があるので、ここではまず起こらない話だけど。

 ふたつめは、仲間を増やすため。
 契約をしてから血を吸うと、アストリーのようにヴァンパイアになれる。
 ううん、アストリーだけじゃなくって、ママもエイミスさんも、現存するヴァンパイアはみんなみんなこの方法でヴァンパイアになったってことだ。

 そしてみっつめは、使役のため。
 これは自由がないとだけ聞いていて、詳しいことは私にはよくわからない。このアルカードの街には、使役されたヴァンパイアはいない。この街で使役のためのヴァンパイア化は禁止されていて、規律を犯した者には厳しい処罰が下されるって聞いてる。

 私が希望するのは、もちろんふたつ目。食料として扱われるのでもなく、隷属させられるのでもなく、ヴァンパイアの仲間として……そしてなにより、アストリーのパートナーとして生きていきたい。
 私は現在十八歳。子どもの姿でヴァンパイアとして過ごすのはいやだったから、この年になるまでヴァンパイアになるのは待っていた。

「お願い、アストリー……」
「……だめだ」

 アストリーの首は横に振られて、私は絶望感を覚える。

「どうして……? アストリーは私とずっと一緒にいたくないの?」
「そうじゃない」

 そう言いながらアストリーはヒューンと時計塔から飛び降りて、ストンと石レンガの上に降り立った。
 私は抱かれていた腕からするりと降りると、改めてアストリーを見上げる。

「ジーナはまだ若い……ヴァンパイアになる決断をするには早すぎる」
「早すぎるなんてこと、ない! 私は、アストリーとずっと一緒にいたいから……だから」
「俺への気持ちが一生続くって約束できるか? 殺される以外には、悠久の時を生きる中で、ずっと」
「約束できるわ!! 一生と言ったら一生よ! 何百年でも何千年でも、ずっとアストリーだけを愛していくんだから……っ」

 私はアストリーを捕まえるように抱きしめた。
 千年以上生きてきたアストリーからすれば、私なんてきっと小娘で、一時的な感情だって思われているのかもしれない。
 それが悔しい。私は、アストリーがこんなにも大好きなのに。悠久の時をずっとアストリーと過ごしていきたいのに。

「一度ヴァンパイアになれば、もう二度と人間には戻れない。死にたくとも簡単には死ねない体になる。何より……子どもが産めなくなる」
「そんなこと!」
「そんなことじゃないよ。ジーナはいつか後悔するかもしれない。今なら人間と結婚して、普通の幸せを手に入れることも……」
「いや、やめて!!」

 私はドンっとアストリーの胸を叩いた。

「どうしてそんなことを言うの……! アストリーは、私のことなんて愛していないの?!」
「それだけは、絶対にない!!」

 アストリーの金色の目が私に突き刺さる。真剣な瞳だからこそ、伝わってくる。

「千年以上も、俺は死んだように生きてきた……この街に辿り着くまでに……ジーナに言えないようなことにも手を染めてきた……つらかった……死にたかった……死ねなかった……」

 アストリーの目から、ころりと真珠のような涙が流れ落ちた。
 ヴァンパイアの渇きを潤すためには、血を得なけれならないことは知っている。この街では飲み物として提供しているけど、アルカード以外の場所では自分で狩る必要があったはずだ。
 そのたびに優しいアストリーは、罪悪感に苛まれ続けていたのかもしれない。

「アストリー……」

 私がその涙に手を伸ばすと、ぎゅっと冷たい手で握られる。

「この街に来て、ジーナに会えて、俺の灰色だった世界は変わった。ジーナが笑ってくれるだけで、俺は救われて……」

 私の腰はぐいっと引き寄せられ、強い抱擁を受けた。

「愛してる……誰よりも……!」

 その言葉が苦しいくらいに嬉しい。

「じゃあ、私も一緒にアストリーと悠久の時を生きさせて……っ」
「愛しているからこそ、俺はジーナにこんな思いをさせたくはないんだ……」
「そん、な……」

 今度は私の目からも、熱いものが頬を伝って流れ落ちた。
 これだけ愛し合っているのに。お互いが、なくてはならない存在だって確信してるのに。

「私は、いつか私のいなくなった世界で、アストリーが一人苦しみ続けるなんてイヤ……!」
「ジーナ……」
「一緒なら、苦しみだってわかちあえるよ……だからお願い。私をヴァンパイアに……」
「ごめん……ごめん、ジーナ。やっぱり俺には無理なんだ……っ」

 優しすぎるアストリー。私のことなんて気にしなくていいのに。私は、アストリーといられるだけで幸せなのに。一人でつらい思いをさせたくないのに。
 どれだけ頼んでも、アストリーは私をヴァンパイアにはしてくれなかった。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄直前に倒れた悪役令嬢は、愛を抱いたまま退場したい

矢口愛留
恋愛
【全11話】 学園の卒業パーティーで、公爵令嬢クロエは、第一王子スティーブに婚約破棄をされそうになっていた。 しかし、婚約破棄を宣言される前に、クロエは倒れてしまう。 クロエの余命があと一年ということがわかり、スティーブは、自身の感じていた違和感の元を探り始める。 スティーブは真実にたどり着き、クロエに一つの約束を残して、ある選択をするのだった。 ※一話あたり短めです。 ※ベリーズカフェにも投稿しております。

溺愛されていると信じておりました──が。もう、どうでもいいです。

ふまさ
恋愛
 いつものように屋敷まで迎えにきてくれた、幼馴染みであり、婚約者でもある伯爵令息──ミックに、フィオナが微笑む。 「おはよう、ミック。毎朝迎えに来なくても、学園ですぐに会えるのに」 「駄目だよ。もし学園に向かう途中できみに何かあったら、ぼくは悔やんでも悔やみきれない。傍にいれば、いつでも守ってあげられるからね」  ミックがフィオナを抱き締める。それはそれは、愛おしそうに。その様子に、フィオナの両親が見守るように穏やかに笑う。  ──対して。  傍に控える使用人たちに、笑顔はなかった。

【完結】「お迎えに上がりました、お嬢様」

まほりろ
恋愛
私の名前はアリッサ・エーベルト、由緒ある侯爵家の長女で、第一王子の婚約者だ。 ……と言えば聞こえがいいが、家では継母と腹違いの妹にいじめられ、父にはいないものとして扱われ、婚約者には腹違いの妹と浮気された。 挙げ句の果てに妹を虐めていた濡れ衣を着せられ、婚約を破棄され、身分を剥奪され、塔に幽閉され、現在軟禁(なんきん)生活の真っ最中。 私はきっと明日処刑される……。 死を覚悟した私の脳裏に浮かんだのは、幼い頃私に仕えていた執事見習いの男の子の顔だった。 ※「幼馴染が王子様になって迎えに来てくれた」を推敲していたら、全く別の話になってしまいました。 勿体ないので、キャラクターの名前を変えて別作品として投稿します。 本作だけでもお楽しみいただけます。 ※他サイトにも投稿してます。 「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」 表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。

婚約者の断罪

玉響
恋愛
ミリアリア・ビバーナム伯爵令嬢には、最愛の人がいる。婚約者である、バイロン・ゼフィランサス侯爵令息だ。 見目麗しく、令嬢たちからの人気も高いバイロンはとても優しく、ミリアリアは幸せな日々を送っていた。 しかし、バイロンが別の令嬢と密会しているとの噂を耳にする。 親友のセシリア・モナルダ伯爵夫人に相談すると、気の強いセシリアは浮気現場を抑えて、懲らしめようと画策を始めるが………。

悲劇の令嬢を救いたい、ですか。忠告はしましたので、あとはお好きにどうぞ。

ふまさ
恋愛
「──馬鹿馬鹿しい。何だ、この調査報告書は」  ぱさっ。  伯爵令息であるパーシーは、テーブルに三枚に束ねられた紙をほうった。向かい側に座る伯爵令嬢のカーラは、静かに口を開いた。 「きちんと目は通してもらえましたか?」 「むろんだ。そのうえで、もう一度言わせてもらうよ。馬鹿馬鹿しい、とね。そもそもどうして、きみは探偵なんか雇ってまで、こんなことをしたんだ?」  ざわざわ。ざわざわ。  王都内でも評判のカフェ。昼時のいまは、客で溢れかえっている。 「──女のカン、というやつでしょうか」 「何だ、それは。素直に言ったら少しは可愛げがあるのに」 「素直、とは」 「婚約者のぼくに、きみだけを見てほしいから、こんなことをしました、とかね」  カーラは一つため息をつき、確認するようにもう一度訊ねた。 「きちんとその調査報告書に目を通されたうえで、あなたはわたしの言っていることを馬鹿馬鹿しいと、信じないというのですね?」 「き、きみを馬鹿馬鹿しいとは言ってないし、きみを信じていないわけじゃない。でも、これは……」  カーラは「わかりました」と、調査報告書を手に取り、カバンにしまった。 「それではどうぞ、お好きになさいませ」

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

ハイパー王太子殿下の隣はツライよ! ~突然の婚約解消~

緑谷めい
恋愛
 私は公爵令嬢ナタリー・ランシス。17歳。  4歳年上の婚約者アルベルト王太子殿下は、超優秀で超絶イケメン!  一応美人の私だけれど、ハイパー王太子殿下の隣はツライものがある。  あれれ、おかしいぞ? ついに自分がゴミに思えてきましたわ!?  王太子殿下の弟、第2王子のロベルト殿下と私は、仲の良い幼馴染。  そのロベルト様の婚約者である隣国のエリーゼ王女と、私の婚約者のアルベルト王太子殿下が、結婚することになった!? よって、私と王太子殿下は、婚約解消してお別れ!? えっ!? 決定ですか? はっ? 一体どういうこと!?  * ハッピーエンドです。

わたしのことはお気になさらず、どうぞ、元の恋人とよりを戻してください。

ふまさ
恋愛
「あたし、気付いたの。やっぱりリッキーしかいないって。リッキーだけを愛しているって」  人気のない校舎裏。熱っぽい双眸で訴えかけたのは、子爵令嬢のパティだ。正面には、伯爵令息のリッキーがいる。 「学園に通いはじめてすぐに他の令息に熱をあげて、ぼくを捨てたのは、きみじゃないか」 「捨てたなんて……だって、子爵令嬢のあたしが、侯爵令息様に逆らえるはずないじゃない……だから、あたし」  一歩近付くパティに、リッキーが一歩、後退る。明らかな動揺が見えた。 「そ、そんな顔しても無駄だよ。きみから侯爵令息に言い寄っていたことも、その侯爵令息に最近婚約者ができたことも、ぼくだってちゃんと知ってるんだからな。あてがはずれて、仕方なくぼくのところに戻って来たんだろ?!」 「……そんな、ひどい」  しくしくと、パティは泣き出した。リッキーが、うっと怯む。 「ど、どちらにせよ、もう遅いよ。ぼくには婚約者がいる。きみだって知ってるだろ?」 「あたしが好きなら、そんなもの、解消すればいいじゃない!」  パティが叫ぶ。無茶苦茶だわ、と胸中で呟いたのは、二人からは死角になるところで聞き耳を立てていた伯爵令嬢のシャノン──リッキーの婚約者だった。  昔からパティが大好きだったリッキーもさすがに呆れているのでは、と考えていたシャノンだったが──。 「……そんなにぼくのこと、好きなの?」  予想もしないリッキーの質問に、シャノンは目を丸くした。対してパティは、目を輝かせた。 「好き! 大好き!」  リッキーは「そ、そっか……」と、満更でもない様子だ。それは、パティも感じたのだろう。 「リッキー。ねえ、どうなの? 返事は?」  パティが詰め寄る。悩んだすえのリッキーの答えは、 「……少し、考える時間がほしい」  だった。

処理中です...