龍神様の神使

石動なつめ

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 氷月はふわりと床に降り立つと、直ぐに雪花達のところへ駆け寄って来てくれた。

「氷月様!」
「手間取った、悪い!」

 そう言う氷月の顔には疲れが見える。身に纏う着物にも汚れや破れが窺えた。

「神域内の妖共がおかしくなっちまってな。それを収めていて遅くなった。……立待、大丈夫か?」
「氷月様、申し訳、ありません……っ」
「いや、いい。お前は良くやった。良く守った。雪花もだ」

 氷月は褒めながら両手で雪花と立待の頭を撫でる。手の大きさと温かさに、二人は揃ってホッと息を漏らした。
 そうしていると、

「ああ……あああ、ようやく来てくれたのか、氷月!」

 吹き飛ばされた紫鬼が、歓喜の声を上げて起き上がる。ぶつかって壊れた壁の破片が、紫鬼の動きと共にパラパラと床に落ちた。
 紫鬼は爛々とした目を氷月に向けながら、上気した顔で両手を広げる。

「待っていたんだぜ、氷月! いつお前が来てくれるだろうかって待ち遠しくて、待ち遠しくて――――ちょっと遊ばせてもらっていたよ」
「お前……」

 その言葉に氷月は嫌悪感を露にする。紫鬼はくつくつ笑いながら

「そう怒るなよ。ちょっとからかっただけだろ。心配しなくても俺の本命はお前だけさ」

 なんてのたまった。氷月は不快そうに目を細め、

「うちの連中を暴走させたのはお前か」

 と聞く。今しがた彼が口にした、妖がおかしくなった件についてだろう。恐らく立待に掛けられた術を同じなのだろうなと雪花は思った。

「ああ、そうだ。ここの連中は皆、大人しいからなぁ。もうちょっと羽目を外した方が良いと思ったんだよ。どうだい、俺の贈り物は。なかなか良かっただろ?」

 悪戯がバレた時の幼子のようにはしゃぎながら紫鬼は言う。氷月は「ふざけるな」と声に怒りを滲ませた。しかし、それすらも紫鬼には喜びのようで、たまらないある。それを立待に飲ませてやれ」

 雪花に向かってそう指示を出した。場所は分かる。雪花は「分かりました!」と頷くと、立待の尻尾から抜け出して走る。
 氷月は紫鬼が手出しをしないように牽制しながら見送って、

「さて、紫鬼。――――よくも俺の身内に手を出してくれたな?」

 雪花が一度も見た事のない、氷のような眼差しで紫鬼を睨みつけた。



 ◇



 氷月の言った“特別な酒”の瓶は直ぐに見つける事が出来た。
 台所の棚の奥に大事にしまわれていたその瓶に入った酒は、その中にキラキラとした光の粒が揺れていて、どこか神聖な雰囲気が感じられた。
 念のため他の酒瓶も確認したが、違っているのはそれだけだ。なので恐らくこの酒だろうと雪花は思い、瓶とコップを腕に抱えて先ほどの部屋まで走る。
 部屋の中へ飛び込むと、そこにいたのは床に蹲る立待だけだった。屋敷の外から物騒な音や声が聞こえてくるので、氷月と紫鬼はそちらに移動したのだろう。

「立待様、お待たせしました」

 立待の傍に近寄ってしゃがんで視線を合わせる。相変わらず顔色が悪く、雪花の呼びかけに薄っすらと開けた目も虚ろだった。ただ雪花が近付いても先ほどのような反応はない。疲れ切った様子でぐったりとしている。
 術の効果が薄れたのか、それとも術に抵抗して限界が来ているのか。雪花には判断がつかないが、とにかく氷月に言われた通り、この酒を飲ませよう。
 瓶の蓋を開けて酒をコップに注ぐと、雪花は立待の背中に片手を当てる。そして彼の口へコップの縁を近づけた。

「ゆっくり飲んでください、立待様」

 そう声を掛けると立待の口が僅かに開く。雪花はそこへコップを近づけると、少しずつ酒を飲ませた。こくん、と立待の喉が動く。

「…………」

 こく、こく。コップに注いだ酒の量が減っていくにつれて、立待の顔色もだんだんと良くなって行く。
 けれども急がせてはいけない。意識が朦朧としている相手だ、慎重に飲ませなければ。立待が咽ないように注意しながら、雪花は時間をかけてコップ一杯分の酒を飲ませて行く。
 やがてコップが空になった頃には、立待の表情はすっかり元の様子に戻っていた。虚ろだった目にも意志の光が灯って、真っ直ぐに雪花に向けられる。

「……雪花?」

 ――とは言え、まだ少しぼうっとしているようだ。彼は少し不思議そうに雪花の顔を見てから、周囲へ視線を動かした。ぐるりと部屋を一周させ、最後に雪花が脇に置いた酒の瓶に目を留める。立待の口から「ああ」と声が漏れた。

「氷月様のお作りになったお酒ですね……。そうか、有難い……」
 
 そして掠れる声でそう呟くと、ゆっくりと息を吐いた。

「氷月様は……ああ、紫鬼と戦ってらっしゃるのか」
「恐らく。……大丈夫でしょうか?」
「本気を出したあの方なら、負ける事はまずありません。それにあなたが藤の花を突き刺したのも良かったですね。紫鬼のような悪意の塊には、だいぶ効きますよ、アレは」

 話をしている内に、立待の声や話し方も雪花が良く知る調子に戻って来た。氷月の特別な酒がしっかりと聞いたのだろう。良かったと雪花がはにかんでいると、反対に立待は苦し気な表情になった。

「立待様、まだ具合が」

 心配になって声を掛けると、立待は力なく首を横に振る。それから彼は手を雪花の胸に当てると、そっと力を込めて自分から離すように押して来た。

「立待様?」
「…………雪花、私から離れて」

 辛そうな声と顔で立待は言う。

「……申し訳ありませんでした。私はあなたに酷い事をしました」
「あれは紫鬼の術を掛けられたからでしょう?」
「いいえ、術のせいでなんて言い訳は出来ません。あれは理性を弱め、内に秘めた欲を解放する、そういう術です。……私の中にああいう願望がなければ、何も起きなかったはずなのです。あなたに口付けたいと、触れたいと、そう思っていたから……だから私はあなたに無理矢理、あんな事を……」

 泣きそうな声で心情を吐露しながら立待は俯いた。肩が微かに震えている。彼の声には後悔の感情が強く込められていた。
 それを見て、どうして、と雪花は胸が苦しくなった。立待自身が確たる意志を持ってした事ではないのに、と。
 だってあの時立待は泣いていた。そして必死で雪花を守ってくれていたではないか。悲しい顔をさせたくないと思ったのに、今度は自分が立待にそういう顔をさせてしまっている。

(こんな顔をさせたくない)

 そう思ったら身体が動いた。
 立待へ手を伸ばして彼の頭を包み、そっと抱きしめる。
 触れた瞬間、立待の身体がびくりと跳ねた。

「私は嫌ではありませんでした」

 立待を抱きしめながら雪花はそう告げる。立待の身体が動揺したように僅かに揺れた。
 
「雪割村の男に押し倒された時も、紫鬼に顔を近づけられた時も、気持ちが悪くて怖かった。ですが立待様の時は、それを感じなかった」
「雪……花……」
「私を好きだと、愛していると言っていただけたのが生まれて初めてで――とても嬉しかったのです」

 立待の目からぽろりと涙の粒が零れた。ぽろぽろ、ぽろぽろと零れて、雪花の着物を濡らす。

「……私は、あなたに触れても、大丈夫なのですか?」
「はい」
「私の事が……怖くはありませんか?」

 前に立待は妖に怖がられると言っていた。真面目な性格だから、それが真っ直ぐに向かうからだろう。
 氷月も立待が冷たく感じられるかもしれないと言っていた。それを聞いた時は仕事上でギクシャクしないように考えてくれたのだろうと思っていた。しかし実際はもっと深い話だったのかもしれない。
 立待は他者から怖がられる事を恐れている。今の彼から雪花はそう感じた。
 怖くなんてあるわけがない。立待はいつだって雪花を真正面から見てくれていた。真っ直ぐに向き合ってくれた。親切にしてくれた。
 十七年間の人生で、こんなに優しくしてもらったのは、雪花は初めてだったのだ。

「ありません。立待様を怖いと思う事など、絶対に」
「――――っ」

 微笑んでそう返せば、立待の顔がくしゃりと歪んだ。
 立待の震える手が雪花の背中に回されて、ぎゅう、と強く抱き返される。

「…………あなたが、好きです、雪花。愛して、います」

 立待がそう言い終えた時、ずるり、と彼の身体の力が抜けた。
 雪花が顔を覗き込むと、彼はすうすう、と寝息を立てている。術で疲労していたところに酒が入った事で、眠気が押し寄せてきたのだろう。
 いつもより子供のような顔で眠る立待を見て雪花は微笑むと、その身体をそっと横に寝かせたのだった。
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