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10 神の花
しおりを挟む氷月に抱きかかえられて向かった先は、屋敷からそこそこ離れた場所にある藤棚だった。
淡い紫色の花が咲き誇る藤棚は、この世のものとは思えないほど美しい。
思わず雪花は目を見開いて「わあ……!」と感嘆の声を漏らした。
「どうだ、綺麗だろう?」
「は、はい! すごく綺麗です、すごい……!」
「お前は本当に、反応が素直で可愛いなぁ」
氷月はくつくつ笑いながら藤棚の中を見回す。それから「ん~」と小さく呟いた。
「ここは兎の妖に世話を任せてある藤棚なんだが……今はちょうどいないな」
そしてそう言った。どうやらその妖にも会わせてくれようと考えていたらしい。
「氷月様の神域には、色々な妖の方がいらっしゃるのですね」
自分に懐いてくれている三匹の子ぎつねの妖達を思い出しながら雪花は言った。すると氷月は「そうだなぁ」と笑う。
「うちは他の神と違って比較的緩いから、居心地が良いんだと」
「神様によって神域に特徴があるのですね」
「ああ。ここから一番近いと八咫烏の神域があるな。あいつは真面目過ぎるから、住んでいる奴もそういうのが多いぞ」
「なるほど……。ここの皆様が穏やかなのは、氷月様だからなのですね」
「ははは。そう言ってもらえると嬉しいね。ま、立待からは、もう少し威厳を持て、なんて言われるけどな」
「ふふふ」
氷月の言い方が立待そっくりで、雪花は思わず笑ってしまう。やはり付き合いが長いからだろう。
氷月と立待は上司と部下という立場の違いはあっても、お互いに気安いやり取りをしている。それを見るのが雪花は好きだった。信頼を積み重ねて来た結果が今の二人なのだろう。それが雪花にはとても眩しく見えて、いつか自分もそうなれるように頑張ろうと憧れている。
(そのために、まずは立待様に一人前と認めてもらえるように頑張らなくては)
雪花のスタートラインはそこからである。何も出来ない役立たずのままでは信頼関係を築く以前の問題だ。とにかく知識を増やして行こう、そう雪花が考えながら藤の花を見上げた。この花だって世話をする妖がいるだけでは育たない。自ら成長する意志も必要なのだ。その二つが合わさってこうして大きく育った。
(氷月様や立待様に様々な事を教えていただいている私も同じ)
こういう風に自分もならねば。そう心に誓っていると、
「藤の花、気に入ったか?」
と氷月から問いかけられた。
「はい! 本当にお美しいです」
「そうか、そうか。良かった。ここを世話する兎の妖は花好きでな。そいつのおかげでずっと綺麗に咲いているんだ」
「ずっとですか?」
「ああ。ここの藤は特殊でな」
そう言いながら氷月も藤の花を見上げる。
「元々藤の花には魔除けの効果があるんだよ」
「魔除け……ですか?」
「ああ。神にも妖にも悪い事を企む輩がいてなぁ。そう言うのは魂が汚れて邪気を放つようになるんだが、藤の花はそれを寄せ付けないんだよ。特にここの藤棚は、俺の力に影響を受けているから、より安全だ」
そう言いながら氷月は雪花を片腕に抱え直し、藤の花に手を伸ばす。そして花弁を指先でそっと撫でた。その時緩く風が吹いて、氷月の白い髪がさらさらと揺れた。
――ああ、この方は何て美しいのだろう。
藤の花もそうだが、それとはまた違う神々しさが氷月にある。
龍の姿でもそう思ったが、人の姿でも氷月は美しい。思わず見惚れていると氷月の顔がこちらを向いた。
「だから何か怖ろしい奴に襲われそうになったら、ここへ逃げて来い。良いな?」
氷月の言葉に雪花は目を瞬いた。襲われそうになったらとは、また物騒な話である。
「そういう方がいらっしゃるのですね」
「ああ。……ああ、違う。ちょっと説明が足りなかったな」
氷月はそう呟くと、藤の花に触れていた手で、今度は雪花の前髪をさらりと持ち上げた。
すると髪で隠していた雪花の左側の頬が――忌み子の痣が現れる。花の形と良く似た痣が。
「…………」
神を持ち上げられた時、一瞬、雪花は肩をびくりと跳ねさせた。この痣を誰かに見られるのには、まだ抵抗感と恐怖心があるのだ。
不安な気持ちが胸に広がる。そのまま氷月を見上げると、彼は柔らかな表情で雪花の痣に触れて、すり、と指先で軽く撫でた。
「……忌み子の証とお前達がそう呼んでいる、これだがな。実際はお前達が考えているような悪いものじゃない。俺達の間では“神の花”と呼ばれているものだ」
「神の花……ですか?」
「ああ。これは俺達にとっては加護のようなものさ。傍にいれば傷や疲労が癒される。心が安らぐ。力が増す。そんな体質の人間に現れるものだ」
「ですが、これがあるから妖を集めてしまうと……」
父から聞いた話で実際に雪花はそれを見た事はない。なので困惑しながら聞いてみると、
「まぁ、そうだな。勝手に集まって来るってのは本当だ。俺達からすれば、神の花は喉から手が出るくらい欲しいからな」
と言った。
「だけどな、懐かれるとか崇められるとか、そんな感じなんだよ。だからそいつが傍にいれば、大体の妖は気を遣って暴れないんだ。神の花持ちに気に入られたいからな。……だから手放すなんてありえない話なんだよなぁ。何でそうなったんだか」
ハァ、と氷月はため息を吐く。はっきりと言葉にはしなかったが、雪割村の事を言っているのは雪花にも分かる。彼は雪花の境遇に怒ってくれているのだ。
「氷月様が私を拾ってくださったのも、この痣を見たからでしたよね」
「そうだな。さっきも言ったが、大体の妖は気を遣って暴れない。だがたまに……特に力を重視する妖は、それこそ力尽くで神の花持ちの人間を奪いに来る事があるんだよ。特にお前の神の花は濃い」
「濃い?」
「影響を与える力が強いって事だな。俺の神域で保護した方が安全だと考えた」
氷月はそこまで言って「だが」といったん言葉を区切る。
それからゆっくり顔を近づけて来た。あれ、と思っている間に、ちゅ、と雪花の額に柔らかなぬくもりを感じた。
「……今は神の花持ちじゃなくて、お前だからいて欲しい」
そして至近距離で氷月は微笑んだ。耳の奥が溶けそうなくらい甘い声だ。その言葉と笑顔に雪花の顔が一機に赤くなる。
「え、え、あ……」
「…………ふくく」
氷月はそれを見て、にんまりと口の端を上げた。
これはからかっている時の氷月の笑い方である。
「なーんてな!」
「ひ、氷月様、からかわないでください!」
「ははは、すまんすまん。お前の反応が可愛いくて、ついな。だけど本心でもあるぞ」
氷月は楽しそうにそう言うと、一度そこで言葉を区切り。
「お前が来てくれて、うちの空気が明るくなった。立待も良く笑うようになった。あいつは生真面目で、自分の感情を抑え込んで、なかなか外へ出さない奴だからさ。その事に俺はとても感謝しているよ。――ありがとう、雪花」
そして先ほどと同じ、優しい笑顔を浮かべてそう言ったのだった。
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