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イナカマチ区画の来訪者 1

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 目に鮮やかな初夏の緑が彩る山の中腹。木々の葉の隙間から強い日差しが降り注ぐ中に、小さな社が経っている。いつの時代に建てられたものなのかは定かではない古びた社ほどに。だが社は何度か補修もされた跡があり、社の周囲も綺麗に手入れされていた。場所が場所だけに社の周囲に人気はないが、全く人が来ないというわけではないようだった。

「――――やあ、これはまいった」

 そんな社を見上げ、独楽は言葉とは裏腹に大して困った風でもなく、そう言った。
 歳は二十代くらいだろうか。頭と尻に犬のような獣の耳と尻尾が生えている。獣耳同様に、ふっさりとした柔らかい髪を頭の後ろで結っている。左目は前髪に隠れて見えないが、見えている右目は月のように澄んだ金色だ。
 メリハリのない慎ましやかな身体に纏っているのは、フードのついた羽織と、時代劇の侍が着ているような和服である。侍とは言え、持っているのは刀ではなく錫杖だ。金の輪と、黒色の硝子の玉が揺れる度に、シャン、と涼やかな音が鳴った。
 さて、そんな彼女の名前相良独楽(さがらこま)。頭と尻尾からお分かりの通り、獣人という種族であった。

「独楽さま、独楽さま、信太(しだ)はお腹がすきました」

 そんな独楽の足元で、白色の子ぎつねが独楽を見上げてそう言った。自分の事を信太と呼んだ子ぎつねは、独楽を見上げて、可愛らしい声で空腹を訴える。
「そうですね、わたしもお腹がすきました」
 独楽も腹に手を当てて、同意するように頷いた。
 ここ二日ほど、独楽も信太も食料が尽きて水ばかり飲んでいる。お腹が空いたなどというレベルは、今朝の時点ですでに通り過ぎているのだが、それでもついつい口から出てしまったようだ。
 お腹が空いた。だが、どれほどお腹が空こうとも食料はない。無い袖は触れない。ならばせめて早く人里に出たいと足を速めていたのだが、問題が一つ発生した。
 独楽は沈痛な面持ちで信太を見下ろす。

「ですが信太、残念なお話があります。心して聞いて下さい」
「ざんねん?」
「実は道に迷いました」
「人生に迷っていないだけ良いのでは?」

 幼い信太からなかなかに深い言葉が返ってきて、独楽は唸る。

「信太は深いのか口が悪いのか時々判断に迷いますね」
「深いと不快は親戚ですなー」
「不快ではありませんよ」

 独楽はひょいとしゃがむと、信太を抱き上げる。ふわふわとした信太の毛が素肌を撫で、心地よさに独楽は微笑んだ。
 信太を抱き上げたまま歩くと、独楽は神社の境内に腰を下ろす。そして信太を自分の膝の上に乗せて手を放した。信太は独楽の膝の上でくるり、と尻尾ごと丸まって座る。
 独楽は「ふう」とひと息つくと、懐に手を突っ込んで、何かを取り出した。出て来たのは金魚の形をした可愛らしいがま口である。これは昔、独楽がいた世界で通帳の口座を作る際に記念に貰ったもので、使い勝手が良い上に可愛いので、大事に使って愛用していた。

「…………」

 無言で独楽は、ぱちりとがま口を開ける。そうして中を観れば、入っているのは植物の葉の形をした硬貨が一枚と『相良』と掘られた印鑑が一つだけであった。
 何とも薄く、軽いがま口である。これが今の独楽の全財産だ。
 独楽はしばしの間、そのがまぐちの中を見つめた。満足いくまでじっと中身を見た後で、ふっと微笑みを浮かべた独楽は、がま口を閉めて懐に戻す。
 そして天を仰いだ。

「くうう、ニクイ! 缶ジュース一本すら買うお金がない、自分の財布の中身がニクイ……!」

 両手で香を多い、独楽は悲痛な叫びを上げる。そんな独楽を見上げ、信太はきょとんとした顔で、こてりと首を傾げた。

「信太は缶ジュースより油揚げが良いです」

 そして自分の欲求をしっかりと主張した。見た目の幼さより意外としっかりしているようだ。
 信太の言葉に独楽は顔から手を放し、頷く。

「そうですね、信太。油揚げも捨てがたいです。油揚げの乗ったうどんを、こう、心行くまですすりたい、切に。ですが、ですが今のわたしの財力では……油揚げを買うお金すら……!」
「世知辛いですなー」
「まったくです。信太は難しい言葉を知っていますね」

 叫んで少しスッキリしたのか、独楽は手を下ろし、信太を撫でる。信太は心地よさそうに尻尾を揺らした。
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