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数センチのズレ
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でき過ぎた偶然に、久遠は本当に物語の中にいるような感覚を抱く。
「優子ちゃん……」
綾乃が呼び掛けると、窓辺に立っていた優子はゆっくりとこちらを振り返った。転校初日から久遠に優しく接してくれた彼女。その時と同じ優しい雰囲気を纏った優子が、そこにいた。
「三崎さん」
優子は綾乃の元へ歩み寄ろうとする。だが――。
「来ないで!」
綾乃は声を張り上げて優子を制止した。
優子は少し面食らった様子で足を止める。
「ど、どうしたの、三崎さん?」
「それ以上私に近づかないで」
「な、なんで? 私、ずっとあなたのことが心配で……」
「玲菜から話を聞いたの」
その瞬間、ほんの僅かだが、優子の表情に動揺の色が浮かんだ。
「き、聞いたって何を?」
「イジメの真相……真実」
「し、真実?」
「玲菜は言ってた。最初に私のことをいじめようって言い出したのは、優子ちゃんだって」
今度ははっきりと、優子の顔色が変わった。
久遠は、玲菜の話を思い出す。
『――――私があんたをいじめてたのは、優子に頼まれたからだよ。私だけじゃない。一弥もそう。全部、優子の指示でやってたことなの。
まあ、私はさっきも言った通り、自分の楽しみのためにやってた部分も大きいんだけどね。あんたのことは昔から気に食わなかったし。そこそこ可愛いのに、いつも俯いてうじうじうじうじ。ずっと相手の出方待ちをしているみたいで大嫌いだった。だから、優子にあんたをいじめて欲しいって頼まれた時はすぐにオーケーしたよ。
一弥は……あいつは、最初かなり渋ってた。『女をいじめるのは性に合わねえ』って。でも、ある日ころっと態度を変えてイジメに加担するようになったんだよ。ふふ、一弥は昔から優子に気があったからね。これは私の勘だけど、優子も一弥の気持ちに気づいていたんだと思う。そして、優子はその気持ちを利用した。まあ、その辺りのことは、私がいくら問いただしても二人は教えてくれなかったんだけどね。二人の間に何があったのか……あんたらも大体想像がつくでしょ? ふふふ……。
理由? 優子の? そんなこと私は知らないよ。知りたきゃ本人の口から直接聞けばいい。あんたにそれを聞く勇気があればの話だけど。
でも、一つだけ私が優子について知ってることを教えておいてあげる。私も大概性悪だけど、優子は私の比じゃないよ。綾乃は私のことを悪魔だって言ったけど、私から見れば優子の方がよっぽど悪魔だ。あの女は恐ろしいよ。まあ、でも、そんな化け物を従えている綾乃も似たようなもんか。悪魔と化け物で案外仲良くできるんじゃねえの? 私にしてみれば、お互い潰し合ってくれたら大助かりなんだけどさ。ははははははははは』
久遠の脳裏に、玲菜の笑い声が響く。
クラスで唯一綾乃の味方でいてくれた優子。彼女がイジメの黒幕だとは、久遠も俄かには信じられなかった。話を聞いた時は「狂言だろう」と思ったくらいだ。
正直、今の今まで、心のどこかで嘘だと思っていた。
いや、嘘だと期待していた。
けれど、優子の顔を見る限り、その期待は裏切られたようだ。
しばしの沈黙。
それから、優子は表情を緩めて「ふう」と小さく息を吐いた。
「なんだ、バレちゃってるんだ。じゃあ、もう気を遣う必要なんてないわね」
そう言って、優子は眼鏡を外した。健人が言っていた通り、眼鏡を外すと優子は別人――相当な美人に変貌する。だが、その美しさの奥には底知れぬ憎悪が潜んでいるよう気がして、久遠は背筋が冷たくなった。
「ほ、本当なの……? 優子ちゃん」
綾乃はまだ信じられないらしく、すがるような目で優子に問いかける。
しかし、優子は綾乃を無視して、
「ねえ、一つ訊きたいんだけど、ひょっとして、相馬さんは自分が助かりたくて、あなたたちにイジメの真相を話したのかしら?」
と、久遠に尋ねてきた。
「違うよ。相馬さんがイジメの真相を話したのは、三崎さんに復讐された後だ。まあ、半ば自棄になって話したって感じだったけど」
久遠が説明すると、優子は「そう」と小さく頷いた。イジメの真相がバレ、目の前に綾乃のエヴィルがいるというのに、彼女に慌てた素振りを一切ない。それだけでも、彼女が常人とは全く異なる精神を持っていることが窺い知れた。
「自棄になってか……。相馬さんらしいと言えば相馬さんらしいわね。でも、それは言い換えると、『彼女が自暴自棄になってしまうようなことをあなたたちがした』ってことなのよね。ふふ、真相を知って、今度は私にも相馬さんと同じことをしようというわけなのかしら? ねえ、三崎さん」
優子は綾乃に妖しく微笑みかける。
不思議な感覚だった。
イジメの真相を知った。エヴィルという武力もある。故に、主導権は久遠たちにある……はずなのに、ちっともそんな気がしないのだ。
これが、カースト最上位の一弥や玲菜のような生徒を影で操っていた支配力、というものなのだろうか。玲菜の言っていた「恐ろしい女」という言葉。その意味が少し分かった気がした。
だが、優子の真の恐ろしさを知るのは、これからだった。
「どうして……ずっと優子ちゃんだけは私の味方……友達だと思っていたのに……」
「味方? 友達? 笑わせないでほしいわ。でも、三崎さんが私のことをそう思ってくれていたなら、私の計画はちゃんと上手くいっていたってことなのよね。誤算は……やっぱりあなただったみたいね、皆月君」
優子は爪を噛み、苛立った目で久遠を睨んできた。
「初めてあなたを見た時から、私は胸騒ぎがしていたの。私の勘が『こいつは危険だ』って囁いていたわ。だから、ずっとあなたのことをマークしていたはずなんだけど……。まさかこんな非現実的な力を持っていたなんてね。さすがに反則だわ」
「いや、僕は完全に騙されていたよ。井上さんは三崎さんの味方だって信じ込んでた。相馬さんが井上さんを敵視しているような発言をしていたのも大きかったね。あれのせいで、僕は井上さんと相馬さんの間に繋がりがあるなんて全く考えなかったら。今考えると、あれも井上さんがわざと相馬さんに言わせていたんだよね? 僕に『井上さんは三崎さんサイドの人間だ』って信じ込ませるために」
今になって思い返してみると、いくつか不自然なところはある。
久遠が最初にイジメを目撃したのは、優子とゴミ捨てに行った帰り。
階段下で玲菜に脅迫された時も、タイミングよく割って入ってきたのは彼女。
綾乃が復讐を誓った雨の日も、彼女は学校に残っていた。
不自然というわけでもないが、久遠がイジメに接触する際は、近くに優子の影がある場合が多かった気がする。
「皆月君の目を欺くために、色々と手の込んだ工作をしたのよ。それだけ皆月君は私の中で油断ならない存在だったから」
「転校生の僕にあれこれ詮索されたくない。だから、三崎さんに関わらないようにアドバイスしたり、瀬戸君や相馬さんを使って僕に脅しをかけたりした。これは分かるんだ。だけど、そもそもどうして井上さんは三崎さんへのイジメを始めたの?」
優子はすぐに答えず、静かに目を閉じて天を仰ぐ。
「……最初はね、まあ許せたの」
誰に語りかけるわけでもなく、優子は虚空に向けて言葉を紡ぎ始めた。
「ただ黙って下を向いているだけで全てが上手く回っていく。欲しいものは何でも周りが与えてくれる。じっとしていれば誰かが手を引っ張ってくれる。ズルイけど、きっとそういう星の下に生まれているだろうなって」
それが誰のことを言っているのか、久遠はすぐに理解する。
そして、次の瞬間、優子は怒りを滲ませた瞳を綾乃へ向けた。
「でもね……私が本当に欲しかったものを、必死の思いで掴み取ろうとしていた彼の心を奪っていかれた時――私はあなたのことを初めて憎いと思った」
彼、という言葉に久遠は心当たりがあった。かつて一度だけ見た優子の悲しそうな顔。あれが叶わぬ恋の相手を想っていたのだとしたら――。
(そうか……井上さんは大森君のことが……。でも、彼はおそらく――)
久遠が複雑に絡み合った想いを紐解いていると、
「ちょ、ちょっと待って! 彼の心って一体何!? 優子ちゃんは何の話をしているの?」
あろうことか、綾乃は絶対に言ってはならないこと――爆弾を投下した。
久遠は思わず手で顔を覆う。
確かに、綾乃にしてみれば訳の分からない話だろう。
だが、久遠の想像通りならば、今の一言は優子の心にナイフを突き立てたに等しい。
久遠は優子の顔を盗み見る。
案の定、彼女は怒りで顔を引き攣らせていた。
「ふ、ふふ……そうだよね……分からないよね、三崎さんには……。だから、アンタはムカつくんだよ!!」
誰にでも優しく温和な優子からは想像もつかない怒声。
綾乃は言うまでもなく、久遠もその声に戦慄した。
「分からないなら教えてあげる。私ね、大森君のことが好きだったの」
何故過去形なのか、と久遠は疑問に思う。あの悲しそうな顔を見る限り、まだ未練を持っていそうなものなのに。
「私はずっと彼の気を引こうと頑張ってた。クジャクが羽を広げるみたいに精一杯自分を大きく見せて、時には道化を演じてでも、なんとか彼の目を私に向かせたかった。でもね、知ってた? 大森君は三崎さんが通り過ぎると、必ずあなたに視線を送るの。例え、隣に私がいたとしてもね……」
嫉妬と諦め、その両方が入り混じったような声で優子は話す。
「勿論、私だって子供じゃない。叶わない恋があることくらい分かってる。だから、私の想いが届かないことは別に構わない。でも……私が好きになった彼の、彼の想いが、黙殺されることだけは我慢できなかった!! 大森君はずっとあなたのことを見てたのよ。でも、あなたはそんな彼の想いに気付こうともしなかった。たった少し、ほんの数センチ、あなたが顔を上げるだけで彼の想いは届いたはずなのに。何にも気付かず俯きながら去って行くあなたを見て、彼はいつも困ったような悲しそうな顔をしていたわ。私はそんな彼の顔を見る度に胸が締め付けられた。だって、私じゃ彼の悲しみを癒すことは絶対にできないから。自分がすごく情けなくて惨めだった……。その時に思ったの。どうして私も彼もこんなに辛い思いをしなきゃいけないのか。何がいけないんだろうって。答えは決まってた」
優子は右手の人差指をすっと綾乃に向ける。
「三崎さん、あなたがいるからだよ。あなたは自分でも知らないうちに、他人から何かを奪って傷つける人間なの。あなたみたいな人間は存在するだけで害悪なんだ。だから私は決めたの。私は何があってもあなたのことを許さない。あなただけは、私の全てを賭けてでも否定してやるって。初恋も心も、そして……この身体も、全て賭けてね」
先ほど優子が健人への想いを過去形で語ったのか、その意味が理解できた。彼女は全てを捨て、己の信念に身も心も委ねたのだ。だからこそ、こんな状況でも心揺らぐことがない。まさに夜叉。なるほど、確かに「恐ろしい」。
全ての元凶は、『たった数センチのズレ』。
そして、この僅かなズレを許せないのが人間だ。
そんな人間の醜さこそが、本当に恐ろしい部分だと久遠は思う。
「優子ちゃん……」
綾乃が呼び掛けると、窓辺に立っていた優子はゆっくりとこちらを振り返った。転校初日から久遠に優しく接してくれた彼女。その時と同じ優しい雰囲気を纏った優子が、そこにいた。
「三崎さん」
優子は綾乃の元へ歩み寄ろうとする。だが――。
「来ないで!」
綾乃は声を張り上げて優子を制止した。
優子は少し面食らった様子で足を止める。
「ど、どうしたの、三崎さん?」
「それ以上私に近づかないで」
「な、なんで? 私、ずっとあなたのことが心配で……」
「玲菜から話を聞いたの」
その瞬間、ほんの僅かだが、優子の表情に動揺の色が浮かんだ。
「き、聞いたって何を?」
「イジメの真相……真実」
「し、真実?」
「玲菜は言ってた。最初に私のことをいじめようって言い出したのは、優子ちゃんだって」
今度ははっきりと、優子の顔色が変わった。
久遠は、玲菜の話を思い出す。
『――――私があんたをいじめてたのは、優子に頼まれたからだよ。私だけじゃない。一弥もそう。全部、優子の指示でやってたことなの。
まあ、私はさっきも言った通り、自分の楽しみのためにやってた部分も大きいんだけどね。あんたのことは昔から気に食わなかったし。そこそこ可愛いのに、いつも俯いてうじうじうじうじ。ずっと相手の出方待ちをしているみたいで大嫌いだった。だから、優子にあんたをいじめて欲しいって頼まれた時はすぐにオーケーしたよ。
一弥は……あいつは、最初かなり渋ってた。『女をいじめるのは性に合わねえ』って。でも、ある日ころっと態度を変えてイジメに加担するようになったんだよ。ふふ、一弥は昔から優子に気があったからね。これは私の勘だけど、優子も一弥の気持ちに気づいていたんだと思う。そして、優子はその気持ちを利用した。まあ、その辺りのことは、私がいくら問いただしても二人は教えてくれなかったんだけどね。二人の間に何があったのか……あんたらも大体想像がつくでしょ? ふふふ……。
理由? 優子の? そんなこと私は知らないよ。知りたきゃ本人の口から直接聞けばいい。あんたにそれを聞く勇気があればの話だけど。
でも、一つだけ私が優子について知ってることを教えておいてあげる。私も大概性悪だけど、優子は私の比じゃないよ。綾乃は私のことを悪魔だって言ったけど、私から見れば優子の方がよっぽど悪魔だ。あの女は恐ろしいよ。まあ、でも、そんな化け物を従えている綾乃も似たようなもんか。悪魔と化け物で案外仲良くできるんじゃねえの? 私にしてみれば、お互い潰し合ってくれたら大助かりなんだけどさ。ははははははははは』
久遠の脳裏に、玲菜の笑い声が響く。
クラスで唯一綾乃の味方でいてくれた優子。彼女がイジメの黒幕だとは、久遠も俄かには信じられなかった。話を聞いた時は「狂言だろう」と思ったくらいだ。
正直、今の今まで、心のどこかで嘘だと思っていた。
いや、嘘だと期待していた。
けれど、優子の顔を見る限り、その期待は裏切られたようだ。
しばしの沈黙。
それから、優子は表情を緩めて「ふう」と小さく息を吐いた。
「なんだ、バレちゃってるんだ。じゃあ、もう気を遣う必要なんてないわね」
そう言って、優子は眼鏡を外した。健人が言っていた通り、眼鏡を外すと優子は別人――相当な美人に変貌する。だが、その美しさの奥には底知れぬ憎悪が潜んでいるよう気がして、久遠は背筋が冷たくなった。
「ほ、本当なの……? 優子ちゃん」
綾乃はまだ信じられないらしく、すがるような目で優子に問いかける。
しかし、優子は綾乃を無視して、
「ねえ、一つ訊きたいんだけど、ひょっとして、相馬さんは自分が助かりたくて、あなたたちにイジメの真相を話したのかしら?」
と、久遠に尋ねてきた。
「違うよ。相馬さんがイジメの真相を話したのは、三崎さんに復讐された後だ。まあ、半ば自棄になって話したって感じだったけど」
久遠が説明すると、優子は「そう」と小さく頷いた。イジメの真相がバレ、目の前に綾乃のエヴィルがいるというのに、彼女に慌てた素振りを一切ない。それだけでも、彼女が常人とは全く異なる精神を持っていることが窺い知れた。
「自棄になってか……。相馬さんらしいと言えば相馬さんらしいわね。でも、それは言い換えると、『彼女が自暴自棄になってしまうようなことをあなたたちがした』ってことなのよね。ふふ、真相を知って、今度は私にも相馬さんと同じことをしようというわけなのかしら? ねえ、三崎さん」
優子は綾乃に妖しく微笑みかける。
不思議な感覚だった。
イジメの真相を知った。エヴィルという武力もある。故に、主導権は久遠たちにある……はずなのに、ちっともそんな気がしないのだ。
これが、カースト最上位の一弥や玲菜のような生徒を影で操っていた支配力、というものなのだろうか。玲菜の言っていた「恐ろしい女」という言葉。その意味が少し分かった気がした。
だが、優子の真の恐ろしさを知るのは、これからだった。
「どうして……ずっと優子ちゃんだけは私の味方……友達だと思っていたのに……」
「味方? 友達? 笑わせないでほしいわ。でも、三崎さんが私のことをそう思ってくれていたなら、私の計画はちゃんと上手くいっていたってことなのよね。誤算は……やっぱりあなただったみたいね、皆月君」
優子は爪を噛み、苛立った目で久遠を睨んできた。
「初めてあなたを見た時から、私は胸騒ぎがしていたの。私の勘が『こいつは危険だ』って囁いていたわ。だから、ずっとあなたのことをマークしていたはずなんだけど……。まさかこんな非現実的な力を持っていたなんてね。さすがに反則だわ」
「いや、僕は完全に騙されていたよ。井上さんは三崎さんの味方だって信じ込んでた。相馬さんが井上さんを敵視しているような発言をしていたのも大きかったね。あれのせいで、僕は井上さんと相馬さんの間に繋がりがあるなんて全く考えなかったら。今考えると、あれも井上さんがわざと相馬さんに言わせていたんだよね? 僕に『井上さんは三崎さんサイドの人間だ』って信じ込ませるために」
今になって思い返してみると、いくつか不自然なところはある。
久遠が最初にイジメを目撃したのは、優子とゴミ捨てに行った帰り。
階段下で玲菜に脅迫された時も、タイミングよく割って入ってきたのは彼女。
綾乃が復讐を誓った雨の日も、彼女は学校に残っていた。
不自然というわけでもないが、久遠がイジメに接触する際は、近くに優子の影がある場合が多かった気がする。
「皆月君の目を欺くために、色々と手の込んだ工作をしたのよ。それだけ皆月君は私の中で油断ならない存在だったから」
「転校生の僕にあれこれ詮索されたくない。だから、三崎さんに関わらないようにアドバイスしたり、瀬戸君や相馬さんを使って僕に脅しをかけたりした。これは分かるんだ。だけど、そもそもどうして井上さんは三崎さんへのイジメを始めたの?」
優子はすぐに答えず、静かに目を閉じて天を仰ぐ。
「……最初はね、まあ許せたの」
誰に語りかけるわけでもなく、優子は虚空に向けて言葉を紡ぎ始めた。
「ただ黙って下を向いているだけで全てが上手く回っていく。欲しいものは何でも周りが与えてくれる。じっとしていれば誰かが手を引っ張ってくれる。ズルイけど、きっとそういう星の下に生まれているだろうなって」
それが誰のことを言っているのか、久遠はすぐに理解する。
そして、次の瞬間、優子は怒りを滲ませた瞳を綾乃へ向けた。
「でもね……私が本当に欲しかったものを、必死の思いで掴み取ろうとしていた彼の心を奪っていかれた時――私はあなたのことを初めて憎いと思った」
彼、という言葉に久遠は心当たりがあった。かつて一度だけ見た優子の悲しそうな顔。あれが叶わぬ恋の相手を想っていたのだとしたら――。
(そうか……井上さんは大森君のことが……。でも、彼はおそらく――)
久遠が複雑に絡み合った想いを紐解いていると、
「ちょ、ちょっと待って! 彼の心って一体何!? 優子ちゃんは何の話をしているの?」
あろうことか、綾乃は絶対に言ってはならないこと――爆弾を投下した。
久遠は思わず手で顔を覆う。
確かに、綾乃にしてみれば訳の分からない話だろう。
だが、久遠の想像通りならば、今の一言は優子の心にナイフを突き立てたに等しい。
久遠は優子の顔を盗み見る。
案の定、彼女は怒りで顔を引き攣らせていた。
「ふ、ふふ……そうだよね……分からないよね、三崎さんには……。だから、アンタはムカつくんだよ!!」
誰にでも優しく温和な優子からは想像もつかない怒声。
綾乃は言うまでもなく、久遠もその声に戦慄した。
「分からないなら教えてあげる。私ね、大森君のことが好きだったの」
何故過去形なのか、と久遠は疑問に思う。あの悲しそうな顔を見る限り、まだ未練を持っていそうなものなのに。
「私はずっと彼の気を引こうと頑張ってた。クジャクが羽を広げるみたいに精一杯自分を大きく見せて、時には道化を演じてでも、なんとか彼の目を私に向かせたかった。でもね、知ってた? 大森君は三崎さんが通り過ぎると、必ずあなたに視線を送るの。例え、隣に私がいたとしてもね……」
嫉妬と諦め、その両方が入り混じったような声で優子は話す。
「勿論、私だって子供じゃない。叶わない恋があることくらい分かってる。だから、私の想いが届かないことは別に構わない。でも……私が好きになった彼の、彼の想いが、黙殺されることだけは我慢できなかった!! 大森君はずっとあなたのことを見てたのよ。でも、あなたはそんな彼の想いに気付こうともしなかった。たった少し、ほんの数センチ、あなたが顔を上げるだけで彼の想いは届いたはずなのに。何にも気付かず俯きながら去って行くあなたを見て、彼はいつも困ったような悲しそうな顔をしていたわ。私はそんな彼の顔を見る度に胸が締め付けられた。だって、私じゃ彼の悲しみを癒すことは絶対にできないから。自分がすごく情けなくて惨めだった……。その時に思ったの。どうして私も彼もこんなに辛い思いをしなきゃいけないのか。何がいけないんだろうって。答えは決まってた」
優子は右手の人差指をすっと綾乃に向ける。
「三崎さん、あなたがいるからだよ。あなたは自分でも知らないうちに、他人から何かを奪って傷つける人間なの。あなたみたいな人間は存在するだけで害悪なんだ。だから私は決めたの。私は何があってもあなたのことを許さない。あなただけは、私の全てを賭けてでも否定してやるって。初恋も心も、そして……この身体も、全て賭けてね」
先ほど優子が健人への想いを過去形で語ったのか、その意味が理解できた。彼女は全てを捨て、己の信念に身も心も委ねたのだ。だからこそ、こんな状況でも心揺らぐことがない。まさに夜叉。なるほど、確かに「恐ろしい」。
全ての元凶は、『たった数センチのズレ』。
そして、この僅かなズレを許せないのが人間だ。
そんな人間の醜さこそが、本当に恐ろしい部分だと久遠は思う。
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