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イジメの片鱗
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健人は「久遠の転校があったせいでイジメも今は影を潜めている」と言っていた。
だが、皮肉にも、この言葉を聞いたすぐ後に久遠は三年二組で行われているイジメの片鱗を目撃することになる。
放課後。
「ごめんね、皆月君。付き合わせちゃって」
久遠は優子と共にゴミ捨て場へ来ていた。
「気にしないで。どうせ暇だったし」
「まったく……受験生だから早く帰って勉強したいのは分かるけど、自分たちの仕事くらいはちゃんと最後までやっていってほしいわよね」
優子は文句を言いながら、次々とゴミ袋を放り投げていく。
久遠も優子も、今日は掃除当番ではない。
しかし、この日の当番が掃き掃除だけをして帰ってしまったため、それに気付いた優子と、たまたまそんな彼女と目が合ってしまった久遠が、代わりにゴミの始末を行っているというわけである。
「ふう、これでおしまいっと。ありがとう、皆月君。おかげで助かったわ」
「お礼なんていいよ。この一週間は僕の方が助けてもらってばかりだったし」
「そういえば、皆月君が転校してきてもう一週間が経つのね。どう? クラスには馴染めてきた?」
「うん。おかげさまで」
ゴミ捨てを終えた久遠たちは、他愛のない話をしながら教室へ戻る。
何の変哲もない放課後の一幕。
けれど、その途中で久遠はふと足を止める。
ちょうど正面玄関まで戻ってきたところで、三崎綾乃の姿を見つけたからだ。
相変わらず下を向き、暗いオーラを漂わせている彼女。
重い足取りで、一人とぼとぼと校門の方へ歩いていくところだった。
それだけならば、久遠も大して気に留めなかっただろう。これから帰宅するのだろう、と思うだけだったはずだ。
だが、彼女のすぐ後に、クラスメイトたちの集団が玄関から出てきたことで事情が変わる。彼らは教室でもよく騒いでいるグループだった。
その中の一人の女子生徒が、前を歩いている綾乃に気付き、隣にいる男子生徒に何事かを耳打ちした。
次の瞬間、男子生徒の顔に悪意に満ちた笑みが浮かぶ。
久遠は何か嫌な予感がした。
彼らは前を歩いている綾乃に追いつくと、先ほど耳打ちされた男子が追い抜きざまに彼女とぶつかった。
いや、ぶつかったという表現は正しくない。
明らかにわざと綾乃を突き飛ばしたのだ。
不意に背後からタックルを受けた綾乃は、小さな悲鳴をあげて地面に倒れ込む。
手に持っていた鞄も放り出され、中に入っていた教科書やノートが辺りに散らばった。
「あっれ~、変だな~」
綾乃を突き飛ばした男子生徒は、ニヤニヤ笑いながら左右を見渡す。
「なになに、どうしたの?」
そう尋ねる女子生徒の顔にも、意地の悪い笑みが張り付いている。
周りにいる他のクラスメイトたちも同様だ。
「今さ、何かにぶつかった気がしたんだよな」
「え~、なにそれ~。何もないのにおかしくない? ちょっと怖いんですけど~」
「なんか人間っぽかった気もしたんだけど気のせいかな~」
「気のせいに決まってんだろ。ここには俺たち以外に誰もいねえんだから」
「それもそうだよな。ハハハハハ」
彼らは倒れたままの綾乃を見下ろしながら笑い合う。典型的なイジメのワンシーン。だが、彼らの綾乃に対する加虐は、これで終わらなかった。
「でもさ、言われてみれば、なんかこの辺ちょっと臭くね?」
「あ~、私も思った。なんか生ゴミ臭いよね~。あ、そうだ! 私、いいもの持ってるよ。ジャーン! 匂い対策は女子のたしなみだよね!」
そう言って女子生徒が鞄から取り出したのは、大きめの消臭スプレーだった。
「何が女子のたしなみだよ! 思いっきり『トイレ用』って書いてあるじゃねーか! どっから持ってきたんだよ、そんなもん」
「まあまあ、細かいことは気にしない、気にしない。で、どの辺から臭ってくるって?」
「あ~、やっぱりこの辺じゃね?」
そういって男子生徒が指差したのは、倒れた綾乃の頭だった。
「オッケー! あ~、確かにこれは臭うね。ゴミの臭いがぷんぷんするわ。じゃあ、早速消臭~っと」
女子生徒は満面の笑みで綾乃の頭に消臭スプレーを吹きかけた。
一方の綾乃は、そんなことをされても顔を下に向けたまま声一つ出さない。
抵抗するだけ無駄。あるいは、その抵抗が火に油を注ぐ結果にしかならないことを熟知している態度だ。彼女がこれまで如何に酷い仕打ちを受けてきたのかが窺い知れる。
「これでちょっとは臭いも取れたんじゃないかな? あ~、イイことした後は気持ちがいいわ。じゃあ、行こうか」
ひとしきり綾乃の顔にスプレーを吹きかけると、彼女らは騒ぎながら去っていった。ご丁寧に地面に散らばった教科書やノートを踏み躙りながら。
久遠が呆然とその様子を眺めていると、隣にいた優子が何も言わずに綾乃の元へ駆け寄った。
優子は無言のまま踏まれた教科書を拾い上げて付いた泥を払う。
そして、ハンカチと一緒に綾乃へ差し出した。
「……ありが、とう……」
ハンカチと教科書を受け取りながら、綾乃は小さな声で優子にお礼を述べる。初めて聞いた彼女の声は、とても弱々しく脆い枯れ枝のような印象を受けた。
「ごめんなさい、三崎さん。こんなことしかしてあげられなくて……。私に力が無いせいで……」
「ちがっ……優子ちゃんは悪く――――ッ!?」
(あ、やば――)
綾乃が顔を上げた瞬間、意図せず久遠と視線がかち合ってしまった。
彼女の顔が一瞬の硬直後、みるみるうちに羞恥と絶望の色に染まっていく。
「あっ――」
綾乃は急いで教科書を鞄に仕舞うと、優子の言葉も待たずに立ち去ってしまった。目にうっすらと涙を浮かべて。
久遠は心の中で「しまった……」と呟く。誰だって惨めな姿は見られたくない。異性に対しては特にそうだろう。ぼーっとその場に突っ立っていた浅慮な自分を、久遠は猛省した。
沈んだ気持ちでいる久遠の元に、優子が戻ってくる。
その表情は暗く困惑しているように見えた。
「……びっくりした? それとも、薄々勘付いていたかな?」
恐る恐るといった感じで優子が尋ねてくる。
「大森君から大体のことは聞いていたから」
久遠が答えると、優子は少しだけ驚いた表情を見せてから苦笑いを浮かべた。
「そっか……。はは、情けないよね。三崎さんがイジメを受けているのは分かっているのに、怖くてあんなことしかできないんだから。結局、私も見て見ぬ振りをしているのと同じ。委員長なのにね。笑っちゃうでしょ?」
「そんなことはないよ。僕は偉いと思う。きっと三崎さんも井上さんに救われている部分がたくさんあるんじゃないかな」
実は、健人からイジメの話を聞いた時、久遠の頭に一つの疑問が浮かんでいた。
『酷いイジメを受けているという綾乃が、なぜちゃんと学校に来ているのか?』
不登校や保健室登校になっていてもおかくしないのではないか、と思ったのだ。
だが、今、その答えが分かった。
理由はきっと優子にあるのだろう。
イジメを受けていると告白することは非常に難しい。いじめっ子からの復讐を考えてしまうから、というのは勿論ある。だが、最大の理由は『自分がイジメを受けるような人間だと認めたくない』からだ。他者から虐げられるような弱くて惨めで価値の無い人間だ、と。
だから、親にも教師にも言えない。言いたくない。そうしてどんどん逃げ道を失い、自らを追い詰め、死を選んでしまう者もいる。
しかしながら、それは逆に言えば、自分を心配してくれる、気に掛けてくれる人間――居場所が一つでもあれば人は救われるということだ。綾乃の場合は、優子の存在が逃げ道であり唯一の居場所なのだろう。だから、優子のいる学校には毎日来る。例えそこに自分をいじめる人間がいたとしても、孤独を感じずに済むから。
「そう言ってもらえると、私も少し心が軽くなるわ。それに事情を知ってくれていてほっとした。どう説明したものかって困っていたから。大森君はちゃらちゃらしているようで、そういうところ抜け目ないのよね。本当は、委員長も彼の方が適任なのよ……」
最後の言葉を優子は自嘲気味に呟く。
「そうかな。僕は井上さんも十分に向いていると思うけど」
お世辞などではなく、久遠の素直な気持ち。
だが、優子は小さく頭を振る。
「ううん、私は全然ダメ。ただ真面目だけが取り柄で、人の中心になれるような人間じゃないもの。でも、彼は違うわ。皆に慕われて、そして皆を笑顔にできる力を持ってる。彼がクラスをまとめていたら、きっとイジメもなかったでしょうね。悔しいけど、私とはそもそもの器が違うのよ……。あっ、でも、彼には言わないでね。すぐ調子に乗っちゃうから!」
「なんか井上さんも大森君と似たようなことを言うんだね」
「え?」
言った後で、久遠は「あ、今の一言は失言だったかな」と思う。だが、よくよく考えてみれば、お互いがお互いに対して敬意を抱いているというポジティブな話だ。誰かを傷つけるような内容ではないので、言ってマイナスになることはないはずである。
故に、久遠は正直に話すことにした(照れ臭そうに「委員長には言うなよ」と言っていた健人には、多少罪悪感を抱く部分もあったけれど)。
「実はさ、僕、二人は恋人同士なんだと思ってて、それを大森君に言っちゃったんだ」
「えっ!? な、何を言っているの、皆月君!? ぜ、全然違うわよ! わ、私たちは全然そんな皆月君が思っているような関係じゃないから!」
真っ赤な顔をぶんぶんと振りながら、優子は必死に否定する。普段見られないあたふたした彼女は、とても可愛らしく思えた。
しかし、否定の仕方まで二人はよく似ている。「ここまで気が合うなら、付き合っちゃえばいいのに」と久遠は内心でこっそり思った。
「え、えっと……そ、それで大森君は何て言っていたのかしら」
「詳細は大森君の名誉のために避けるけど、さっき井上さんが言ったのと同じようなことを彼も言ってたよ。『委員長はたくさんイイものを持ってるから、何もない俺とは不釣り合いだ』って。乱暴に要約するとこんな感じ」
「そう……大森君がそんなことを……」
優子は歯切れの悪い言葉を呟く。てっきりまた可愛らしく照れるのかと思いきや、彼女は少しだけ悲しそうな顔を見せた。予想外の反応に、久遠は少々戸惑ってしまう。
「なにか気に障っちゃった?」
「あ、ううん! そんなことないよ。ふ、ふ~ん、そうなんだ。案外、殊勝なところもあるのね、彼。少し見直したわ」
「明日からは少し優しくできそう?」
「残念ながらそれはないわね。優しくすると、すぐつけ上がるから……って、なんだか話が違う方向に逸れちゃっているわね。話を戻すけど、皆月君は大森君から三崎さんの件について他に何か言われてる?」
真剣な顔に戻った優子が久遠に問いかける。
「首を突っ込まない方がいい、みたいなことは言われたよ」
「そう……。私も、皆月君は三崎さんには関わらない方がいいと思う。あ、違うのよ! 皆月君じゃ力にならないって言ってるわけじゃなくて、転校生のあなたが責任を感じる必要はないって意味。正直に言うと、私は皆月君に対してすごく申し訳なく思っているの。私たちが作った問題なのに、全く関係のない皆月君にも少なからず嫌な思いをさせてしまっているから。本当にごめんなさい」
優子は久遠に頭を下げる。
「あ、いや、井上さんが謝ることじゃないよ」
「クラスの問題だし、半分は委員長である私の責任みたいなものよ。それでね、多分この先、もっと嫌な思いをすることもあると思うの。その時は、遠慮なく私に相談して。さっき情けないところを見せたばかりだから頼りないかもしれないけど、きっと力になるから」
委員長としての責任感がそうさせるのだろうか。
優子は真っ直ぐな目で、久遠を見つめてきた。
「ありがとう。やっぱり井上さんは優しいね」
「そんなことないよ。さっきも言ったけど、真面目なだけ。それじゃあ、そろそろ私たちも戻りましょうか」
表情を緩めた優子が、久遠に背を向けて歩き出す。
彼女の背中を見ながら、久遠は「井上さんはできた人間だな」と感心する。彼女は「あんなことしかできない」と言っていたが、世の中「あんなこと」ができる人間はほんの一握りだけだ。そして、その「あんなこと」がイジメを受けている人間にとってどれだけの救いになるのか、久遠はよく知っている。
(大森君から「力になってやってくれ」って言われていたのに、僕の方が励まされちゃった感じだ。なんかちょっと不甲斐ない……)
そんなことを考えながら久遠は優子の後に続こうした。
だが、その時、不意に背後から視線を感じて久遠は振り返る。
すると、先ほど綾乃が倒された場所に凜音さんが立っていた。
唇の端を妖しく吊り上げながら。
久遠と目が合うと、彼女は小さく口を動かす。
ハ、ジ、マ、リ。
正確ではないかもしれないが、久遠にはそう読めた。
直後に、凜音さんは姿を消す。
ハジマリ――物語の始まり。
醜い人間たちが紡ぐ身勝手で愚かな物語が、今、始まろうとしていた。
だが、皮肉にも、この言葉を聞いたすぐ後に久遠は三年二組で行われているイジメの片鱗を目撃することになる。
放課後。
「ごめんね、皆月君。付き合わせちゃって」
久遠は優子と共にゴミ捨て場へ来ていた。
「気にしないで。どうせ暇だったし」
「まったく……受験生だから早く帰って勉強したいのは分かるけど、自分たちの仕事くらいはちゃんと最後までやっていってほしいわよね」
優子は文句を言いながら、次々とゴミ袋を放り投げていく。
久遠も優子も、今日は掃除当番ではない。
しかし、この日の当番が掃き掃除だけをして帰ってしまったため、それに気付いた優子と、たまたまそんな彼女と目が合ってしまった久遠が、代わりにゴミの始末を行っているというわけである。
「ふう、これでおしまいっと。ありがとう、皆月君。おかげで助かったわ」
「お礼なんていいよ。この一週間は僕の方が助けてもらってばかりだったし」
「そういえば、皆月君が転校してきてもう一週間が経つのね。どう? クラスには馴染めてきた?」
「うん。おかげさまで」
ゴミ捨てを終えた久遠たちは、他愛のない話をしながら教室へ戻る。
何の変哲もない放課後の一幕。
けれど、その途中で久遠はふと足を止める。
ちょうど正面玄関まで戻ってきたところで、三崎綾乃の姿を見つけたからだ。
相変わらず下を向き、暗いオーラを漂わせている彼女。
重い足取りで、一人とぼとぼと校門の方へ歩いていくところだった。
それだけならば、久遠も大して気に留めなかっただろう。これから帰宅するのだろう、と思うだけだったはずだ。
だが、彼女のすぐ後に、クラスメイトたちの集団が玄関から出てきたことで事情が変わる。彼らは教室でもよく騒いでいるグループだった。
その中の一人の女子生徒が、前を歩いている綾乃に気付き、隣にいる男子生徒に何事かを耳打ちした。
次の瞬間、男子生徒の顔に悪意に満ちた笑みが浮かぶ。
久遠は何か嫌な予感がした。
彼らは前を歩いている綾乃に追いつくと、先ほど耳打ちされた男子が追い抜きざまに彼女とぶつかった。
いや、ぶつかったという表現は正しくない。
明らかにわざと綾乃を突き飛ばしたのだ。
不意に背後からタックルを受けた綾乃は、小さな悲鳴をあげて地面に倒れ込む。
手に持っていた鞄も放り出され、中に入っていた教科書やノートが辺りに散らばった。
「あっれ~、変だな~」
綾乃を突き飛ばした男子生徒は、ニヤニヤ笑いながら左右を見渡す。
「なになに、どうしたの?」
そう尋ねる女子生徒の顔にも、意地の悪い笑みが張り付いている。
周りにいる他のクラスメイトたちも同様だ。
「今さ、何かにぶつかった気がしたんだよな」
「え~、なにそれ~。何もないのにおかしくない? ちょっと怖いんですけど~」
「なんか人間っぽかった気もしたんだけど気のせいかな~」
「気のせいに決まってんだろ。ここには俺たち以外に誰もいねえんだから」
「それもそうだよな。ハハハハハ」
彼らは倒れたままの綾乃を見下ろしながら笑い合う。典型的なイジメのワンシーン。だが、彼らの綾乃に対する加虐は、これで終わらなかった。
「でもさ、言われてみれば、なんかこの辺ちょっと臭くね?」
「あ~、私も思った。なんか生ゴミ臭いよね~。あ、そうだ! 私、いいもの持ってるよ。ジャーン! 匂い対策は女子のたしなみだよね!」
そう言って女子生徒が鞄から取り出したのは、大きめの消臭スプレーだった。
「何が女子のたしなみだよ! 思いっきり『トイレ用』って書いてあるじゃねーか! どっから持ってきたんだよ、そんなもん」
「まあまあ、細かいことは気にしない、気にしない。で、どの辺から臭ってくるって?」
「あ~、やっぱりこの辺じゃね?」
そういって男子生徒が指差したのは、倒れた綾乃の頭だった。
「オッケー! あ~、確かにこれは臭うね。ゴミの臭いがぷんぷんするわ。じゃあ、早速消臭~っと」
女子生徒は満面の笑みで綾乃の頭に消臭スプレーを吹きかけた。
一方の綾乃は、そんなことをされても顔を下に向けたまま声一つ出さない。
抵抗するだけ無駄。あるいは、その抵抗が火に油を注ぐ結果にしかならないことを熟知している態度だ。彼女がこれまで如何に酷い仕打ちを受けてきたのかが窺い知れる。
「これでちょっとは臭いも取れたんじゃないかな? あ~、イイことした後は気持ちがいいわ。じゃあ、行こうか」
ひとしきり綾乃の顔にスプレーを吹きかけると、彼女らは騒ぎながら去っていった。ご丁寧に地面に散らばった教科書やノートを踏み躙りながら。
久遠が呆然とその様子を眺めていると、隣にいた優子が何も言わずに綾乃の元へ駆け寄った。
優子は無言のまま踏まれた教科書を拾い上げて付いた泥を払う。
そして、ハンカチと一緒に綾乃へ差し出した。
「……ありが、とう……」
ハンカチと教科書を受け取りながら、綾乃は小さな声で優子にお礼を述べる。初めて聞いた彼女の声は、とても弱々しく脆い枯れ枝のような印象を受けた。
「ごめんなさい、三崎さん。こんなことしかしてあげられなくて……。私に力が無いせいで……」
「ちがっ……優子ちゃんは悪く――――ッ!?」
(あ、やば――)
綾乃が顔を上げた瞬間、意図せず久遠と視線がかち合ってしまった。
彼女の顔が一瞬の硬直後、みるみるうちに羞恥と絶望の色に染まっていく。
「あっ――」
綾乃は急いで教科書を鞄に仕舞うと、優子の言葉も待たずに立ち去ってしまった。目にうっすらと涙を浮かべて。
久遠は心の中で「しまった……」と呟く。誰だって惨めな姿は見られたくない。異性に対しては特にそうだろう。ぼーっとその場に突っ立っていた浅慮な自分を、久遠は猛省した。
沈んだ気持ちでいる久遠の元に、優子が戻ってくる。
その表情は暗く困惑しているように見えた。
「……びっくりした? それとも、薄々勘付いていたかな?」
恐る恐るといった感じで優子が尋ねてくる。
「大森君から大体のことは聞いていたから」
久遠が答えると、優子は少しだけ驚いた表情を見せてから苦笑いを浮かべた。
「そっか……。はは、情けないよね。三崎さんがイジメを受けているのは分かっているのに、怖くてあんなことしかできないんだから。結局、私も見て見ぬ振りをしているのと同じ。委員長なのにね。笑っちゃうでしょ?」
「そんなことはないよ。僕は偉いと思う。きっと三崎さんも井上さんに救われている部分がたくさんあるんじゃないかな」
実は、健人からイジメの話を聞いた時、久遠の頭に一つの疑問が浮かんでいた。
『酷いイジメを受けているという綾乃が、なぜちゃんと学校に来ているのか?』
不登校や保健室登校になっていてもおかくしないのではないか、と思ったのだ。
だが、今、その答えが分かった。
理由はきっと優子にあるのだろう。
イジメを受けていると告白することは非常に難しい。いじめっ子からの復讐を考えてしまうから、というのは勿論ある。だが、最大の理由は『自分がイジメを受けるような人間だと認めたくない』からだ。他者から虐げられるような弱くて惨めで価値の無い人間だ、と。
だから、親にも教師にも言えない。言いたくない。そうしてどんどん逃げ道を失い、自らを追い詰め、死を選んでしまう者もいる。
しかしながら、それは逆に言えば、自分を心配してくれる、気に掛けてくれる人間――居場所が一つでもあれば人は救われるということだ。綾乃の場合は、優子の存在が逃げ道であり唯一の居場所なのだろう。だから、優子のいる学校には毎日来る。例えそこに自分をいじめる人間がいたとしても、孤独を感じずに済むから。
「そう言ってもらえると、私も少し心が軽くなるわ。それに事情を知ってくれていてほっとした。どう説明したものかって困っていたから。大森君はちゃらちゃらしているようで、そういうところ抜け目ないのよね。本当は、委員長も彼の方が適任なのよ……」
最後の言葉を優子は自嘲気味に呟く。
「そうかな。僕は井上さんも十分に向いていると思うけど」
お世辞などではなく、久遠の素直な気持ち。
だが、優子は小さく頭を振る。
「ううん、私は全然ダメ。ただ真面目だけが取り柄で、人の中心になれるような人間じゃないもの。でも、彼は違うわ。皆に慕われて、そして皆を笑顔にできる力を持ってる。彼がクラスをまとめていたら、きっとイジメもなかったでしょうね。悔しいけど、私とはそもそもの器が違うのよ……。あっ、でも、彼には言わないでね。すぐ調子に乗っちゃうから!」
「なんか井上さんも大森君と似たようなことを言うんだね」
「え?」
言った後で、久遠は「あ、今の一言は失言だったかな」と思う。だが、よくよく考えてみれば、お互いがお互いに対して敬意を抱いているというポジティブな話だ。誰かを傷つけるような内容ではないので、言ってマイナスになることはないはずである。
故に、久遠は正直に話すことにした(照れ臭そうに「委員長には言うなよ」と言っていた健人には、多少罪悪感を抱く部分もあったけれど)。
「実はさ、僕、二人は恋人同士なんだと思ってて、それを大森君に言っちゃったんだ」
「えっ!? な、何を言っているの、皆月君!? ぜ、全然違うわよ! わ、私たちは全然そんな皆月君が思っているような関係じゃないから!」
真っ赤な顔をぶんぶんと振りながら、優子は必死に否定する。普段見られないあたふたした彼女は、とても可愛らしく思えた。
しかし、否定の仕方まで二人はよく似ている。「ここまで気が合うなら、付き合っちゃえばいいのに」と久遠は内心でこっそり思った。
「え、えっと……そ、それで大森君は何て言っていたのかしら」
「詳細は大森君の名誉のために避けるけど、さっき井上さんが言ったのと同じようなことを彼も言ってたよ。『委員長はたくさんイイものを持ってるから、何もない俺とは不釣り合いだ』って。乱暴に要約するとこんな感じ」
「そう……大森君がそんなことを……」
優子は歯切れの悪い言葉を呟く。てっきりまた可愛らしく照れるのかと思いきや、彼女は少しだけ悲しそうな顔を見せた。予想外の反応に、久遠は少々戸惑ってしまう。
「なにか気に障っちゃった?」
「あ、ううん! そんなことないよ。ふ、ふ~ん、そうなんだ。案外、殊勝なところもあるのね、彼。少し見直したわ」
「明日からは少し優しくできそう?」
「残念ながらそれはないわね。優しくすると、すぐつけ上がるから……って、なんだか話が違う方向に逸れちゃっているわね。話を戻すけど、皆月君は大森君から三崎さんの件について他に何か言われてる?」
真剣な顔に戻った優子が久遠に問いかける。
「首を突っ込まない方がいい、みたいなことは言われたよ」
「そう……。私も、皆月君は三崎さんには関わらない方がいいと思う。あ、違うのよ! 皆月君じゃ力にならないって言ってるわけじゃなくて、転校生のあなたが責任を感じる必要はないって意味。正直に言うと、私は皆月君に対してすごく申し訳なく思っているの。私たちが作った問題なのに、全く関係のない皆月君にも少なからず嫌な思いをさせてしまっているから。本当にごめんなさい」
優子は久遠に頭を下げる。
「あ、いや、井上さんが謝ることじゃないよ」
「クラスの問題だし、半分は委員長である私の責任みたいなものよ。それでね、多分この先、もっと嫌な思いをすることもあると思うの。その時は、遠慮なく私に相談して。さっき情けないところを見せたばかりだから頼りないかもしれないけど、きっと力になるから」
委員長としての責任感がそうさせるのだろうか。
優子は真っ直ぐな目で、久遠を見つめてきた。
「ありがとう。やっぱり井上さんは優しいね」
「そんなことないよ。さっきも言ったけど、真面目なだけ。それじゃあ、そろそろ私たちも戻りましょうか」
表情を緩めた優子が、久遠に背を向けて歩き出す。
彼女の背中を見ながら、久遠は「井上さんはできた人間だな」と感心する。彼女は「あんなことしかできない」と言っていたが、世の中「あんなこと」ができる人間はほんの一握りだけだ。そして、その「あんなこと」がイジメを受けている人間にとってどれだけの救いになるのか、久遠はよく知っている。
(大森君から「力になってやってくれ」って言われていたのに、僕の方が励まされちゃった感じだ。なんかちょっと不甲斐ない……)
そんなことを考えながら久遠は優子の後に続こうした。
だが、その時、不意に背後から視線を感じて久遠は振り返る。
すると、先ほど綾乃が倒された場所に凜音さんが立っていた。
唇の端を妖しく吊り上げながら。
久遠と目が合うと、彼女は小さく口を動かす。
ハ、ジ、マ、リ。
正確ではないかもしれないが、久遠にはそう読めた。
直後に、凜音さんは姿を消す。
ハジマリ――物語の始まり。
醜い人間たちが紡ぐ身勝手で愚かな物語が、今、始まろうとしていた。
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