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盛夏の夜の魂祭り(第四話)草迷宮の開く宵

9 草迷宮の開く宵

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 地下室への階段をひたひたと上がる。鎧のガチャつく音がいやに大きく響き、背中に冷や汗がにじむ。拝殿では鈴が鳴り、巫女が踊り狂って、大勢で祝詞があげられていた。かけまくもかしこきちょうきゅうのおおかみ、つきうらにかくれて、あしはらのなかつはらをつかさどりまつる。そうめいきゅうのひらくとき、すべてのにえがはらわれん。むじょうれいほうおんてんしゅじょう……神兵たちは、それぞれおごそかに持ち場を守っている。一度、声をかけられたが、詰所に用があるとごまかした。

 ようやく楼閣を出る。帝国ホテルの黒田の部屋を訪ねた。

 黒田は清矢を入れてくれ、シャワーに入るよう背を蹴とばした。急いで身体を洗い、ルームサービスで腹ごしらえをしてから、ふたりで祈月軍閥のビルに戻ることにした。

 ビルに戻ると、人質を回収できたと兵たちは歓喜した。詠が出てきて泣きながら清矢を抱きしめる。

「ばかやろう、ばかやろう、だから俺でよかったのに……!」

 清矢は詠の動揺を抑えるために短髪をがしがしと撫でまわしてやった。きつく抱き返してやってから、清涼殿での体験を伝える。零時、牡丹、そして坂井が生贄とされてしまうことを。

 緊急事態でビルに詰めていた北条が腕組みして振り返る。

「どうする。議会にかけるって正攻法じたいは取れますけど……」

 伊藤敬文は首を左右に振った。

「時間がない。それに、すでに強襲の計画はできてる」

 零時が事前に土御門家から資料を届けていたようだった。儀式のスケジュールや神殿内の地図、きわめつけには土御門家の井戸から内裏や各地の寺社につながる地下道の存在までが明らかになっていた。

 鎧の上に自らの戦衣を羽織った清矢は、自分も行くと言い張った。

「『永帝』とも対峙するかもしれない。魔法が使える人間が一人でも多く必要だ」

 黒田錦がポケットから白手袋を出して、きゅっと嵌める。

「しゃーない、お兄さんも付いていってあげましょう。そだ、これ付けといて」

 そして鎖を通して首に下げていたラピスラズリの指輪を清矢に渡した。清矢はうなずいて、それを人差し指にはめた。

 儀式は丑三つ時、清涼殿地下、草迷宮にて行われる予定であった。

 簡単にブリーフィングをした後に、清涼殿へと討ち入る。本隊が正面から陽動し、土御門家の資料にあった地下道から草迷宮に入り込む予定であった。清矢たちは救出隊で、敬文とともに十人ほどで忍び込むことになった。

 地下道は古都の主要な宗教施設を縦横に結んだ迷宮だった。土御門家の庭にある古井戸が、カモフラージュされた入口のひとつだ。蓋を開けると冷たい風が吹き上げてきて、清矢は身震いした。奥底からのぞく漆黒の闇が不気味に口を開いている。隊員が一人、また一人と闇の中に消えていく。清矢は深呼吸し、井戸の内壁に据えられたはしごに手をかけた。冷たい金属。湿った空気。生理的な恐怖を押し殺し、足場を確かめながら、ゆっくりと降りていく。

 地下道に足をつけた瞬間、懐中電灯の光が闇を切り裂いた。
 石壁に刻まれた不気味な紋様が、おぼろげに浮かび上がる。
「前へ進むぞ」。感情のない敬文の声に、隊は静かに動き出した。

 突如、地下の静寂を破って、巨大なゴキブリが猛スピードで飛び出してきた。黒い羽が不気味に震え、甲殻をてらてらと光らせながら、こちらに向かってくる。敬文は一瞬の迷いもなく手をかざし、鋭く「ライトニングボルト!」と叫んだ。閃光が暗闇を切り裂き、ゴキブリの甲殻に炸裂した。

 彼は出会ってからのごく短い期間で、その技を習得していた。清矢は内心で快哉を叫ぶ。

 ゴキブリは無様にひしゃげ、キイっと高い断末魔が響いた。道の先から生ぬるい風が吹いてくる。静寂が戻ったかと思いきや、再び異変が起こる。ゴキブリの声が眠りを呼び覚ましたのか、行く手の奥から目が血のように赤く光る女が現れた。

 彼女はブリッジをした姿勢を保ちながら、異様な速さで熱源に向かって迫ってくる。ヒタヒタと生々しい足音が地下道全体に響き渡り、不気味さに背筋がすくんだ。

「来るぞ!」

 清矢が叫び、すぐさま水魔法の「バブル」で女の足を止めた。全員が武器を構え、後方からの警戒を強めた。

 女の怪異は、足を硬い泡で包まれたにも関わらず、唸り声を上げながら飛び上がり、その距離を一瞬で詰めてきた。鋭いかぎ爪をもつ鳥に似た手足が、獲物を切り裂こうとバタつく。清矢は手持ちのマンゴーシュをかかげた。

「破邪の雷!」

 剣に刻まれた常春殿の術式が瞬く間に炸裂する。清めの雷が白銀の閃光となって闇を裂いた。怪異の身体は抵抗も虚しく二つに裂け、ケタケタと異様な笑い声と共に地下道がまばゆい光で一瞬白く染まる。

「まだ終わりじゃない……気を抜くな!」

 敬文が鋭い声で警告する。

 その直後、今度は蛇の目傘が四方八方から飛び出してきた。捨てられた傘に怨念が宿った付喪神。日ノ本で人が昔から恐れてきた唐傘お化けだ。隊員の一人が囲まれ、地下道に絶叫が響いた。清矢は慌てず、光属性の基本魔法を詠唱した。

「フラッシュ!」

 空気中の魔素が輝いて燃焼し、地下道がぱっと明るくなる。詠は清矢の光にタイミングを合わせ、即座に詠唱を始めた。

「灼熱の業火よ……我が手に集え、燃えさかる憎しみと共に敵を滅ぼせ、ファイアブラストっ!」

 傘の布に炎が燃え移り、個々の敵が見えやすくなった。みなが一斉に切りかかる。先ほどのブリッジ女もまた現れた。乱戦である。

 唐笠お化けはピョンピョンと高く飛び上がり、大きく開いて内側から黒い雨を降らす。それは肌を切り裂く呪いの雨で、浴びた肌はきしきしと痛み、身体に糸を埋め込まれたように動きが鈍った。

 とたんに澄んだグリッサンドが響き渡る。細く震えるトレモロの旋律を、左手が巧みに支える。吊りさげられた身体の動きが滑らかさを取り戻す。広大がハープで草笛氏に伝わる解呪曲を弾き、皆を癒したのだ。

 デバフを封じられた唐笠お化けは案外と物理攻撃に脆かった。隊は群れを壊滅させると、清涼殿への道をひた走った。清矢の心臓は早鐘のように鳴る。こんな雑魚に苦戦していては、儀式が始まってしまう……!

 もう少しで清涼殿の地下へ出る頃合いで、しゃんしゃんと鈴の音が聞こえてきた。闇の中にかすかなライムグリーンの蛍光がちらつく。神秘的で不吉さを帯びたその光が、地下道全体に冷たい緊張を走らせた。照らしてみると、それは清涼殿の神兵隊だった。異変を感じ、警護に来たのだ!

 当然ここでも戦闘になった。充希が前に出て果敢に斬り込んでいく。日本刀が振られるたびに、妖しい霧が斬撃の傷に染み込み、動きを鈍らせる。懐を狙われれば素早くバックステップして、剣を水平に振りぬき、剣気を飛ばす。飛ばした剣気を追いかけるように飛び掛かり、体重を乗せた袈裟切りにして返す刀を蹴り返す。縦横無尽な攻めで剣筋を読ませない。

 肉弾戦では不利と見たか、奥で様子を見ていた術兵は風の術を使ってきた。

 風圧が鎌のように唸り、敵を切り裂いて前進する。その後ろから、風の壁がごうごうと唸りをあげて、数メートルの空間を巻きあげる。術兵はその奥だ、とても迂闊には踏み込めない。前に出ていた神兵隊はさらに、持っていた十字戟をぐるりと回して放り投げた。車輪の刃が、つむじ風に運ばれて滅茶苦茶に飛び交った。皆の肉が断ちきられ、血しぶきが飛ぶ。

「ぐああっ!」
「い、痛った……!」

 多くの悲鳴が闇をつんざく。回復術で癒えるとはいえ、清矢は自分まで切り刻まれたように胸苦しくなる。

「だめだ、防御陣形で後退!」

 敬文は混乱を察し、即座に号令した。言われたとおりにピラミッド型に集合して後ろに下がる。神兵隊員はそれ以上近寄ってこなかった。狭い地下道では鉄壁の守りだろう。背後から魔物に襲われたら挟み撃ちだ。先頭の敬文が声を張り上げた。

「虎雄氏や県令は生贄をやめろと言ってるはずだ!」
「今生帝の聖餐は止められぬ!」
「何が今生帝だ……狂信者め!」

 政治交渉も通じないようだ。清矢は『リュミエール・ド・イリゼ』を詠唱するか迷った。あれは広範囲の攻撃魔法だ。術師まで届けば勝算はある。

 隣を見ると黒田錦も、細剣を構えてぶつぶつと詠唱していた。柄にはめられた紺色の宝球が明滅している。身体の周囲には漆黒の魔素圧が生まれ、髪は大きく浮いていた。

 視線に気づいたのか、こちらを見て自信に満ちた目顔でうなずく。意図に気が付き、清矢は高らかに叫んだ。

「前方散開! 魔法詠唱用意!」

 魔法軍にとってその号令は絶対だった。錦の口元に薄笑いが浮く。

「全ての端緒と終焉たる純なる闇よ応じたまえ。すべての魔を祓い尽くし、とこしえなる安寧を招じたまえ。闇の波動は果てなき暗渠、深淵の枷を刹那にほどきて、光を断ち切り、地をえぐり、風を吹き消し、炎を消し去り、水をこごらせ全てを虚無へと沈めよ! 汝は日ノ本の華族に連なる者、星帝の血を受け宙を操る、紫天宮の調律師、黒田錦。魔術師としての我に応じ、魔を還元しつくせ! 闇極大魔法・ノクターガ!」

 詠も大学で『ノクターン』や『ナイティ・ナイティ・ナイトリィ』を教えられていた。だから清矢もそれらの威力は想像がついた。だが系統最強の魔法は格が違った。紫がかった闇の波動が土石流のような規模で直進し、敵の神兵隊員を無慈悲に洗いつくしたのだ。二人はぼろきれのように赤黒く染まって地にあおのいた。

「先に進むぞ」

 錦は犠牲者など一顧だにしなかった。プレートに刻まれた『いー01』の表記を確かめ、はしごから上に上る。マンホールが開いており、薄緑の微光が漏れて、垂れ苔がぶら下がっている。地図どおりならここが清涼殿地下のはずだ。

 ……そこは地下だというのに緑なすドーム状の空間で、木々が異常成長して天井までをまがりくねって覆っていた。葛も旺盛に生い茂り、足元にはぜんまいや野菊がひょろひょろと伸びている。光が差さないはずなのに濃い魔素に満ちた小さな庭園ができていた。

 中央の噴水には立方体のような薄荷色の魔法石が埋まって、吹きあがる水流を爽やかな光できらめかしている。後部の壁には繭のような発光体が張り付き、人ひとり分の大きさのあるそれを根や枝が縦横に包んでいた。

 内部には十数人の神兵隊員――もちろん隊長の新発田と、術師長らしき老人もいた。噴水前で、零時と牡丹、それに捕まった坂井が死に装束で縛られて膝をついている。

 それはまさに処刑の瞬間だった。牡丹がおとなしく頭を垂れる。深緑のスカーフを巻いた黒装束の兵士によって、白刃がその首に振り下ろされる。

 ――間に合わなかった! 惨劇の予感に思わず目をつぶる。数秒の間、清矢の耳には何の音も届かず、悲鳴も詠唱も止まっていた。おそるおそる瞳を開けると、喜劇でも演じているかのように、処刑人がぴたりと静止していた。いぶかしく思っていると、地下抗から這い出てきた黒田錦が懐中時計のネジを押したままかかげる。今まで彼を捕えることができなかったのは、この時計の力のせいだったようだ。

「はやく! 動けるのは指輪をつけてるお前だけだ!」

 細かい仕組みはわからないが、指示に従って、急いで生贄の三人の縄を切った。

 六十秒後、時が動きだすと、儀式に参加していた新発田が清矢を指さし、「あれだ! 嘉徳親王の血筋の生贄!」と叫んだ。

 神官がかまいたちを起こし、新発田が切りかかってくる。清矢は剣技で応対するが、多勢に無勢で押されがちだった。最後尾からマンホールを上ってきた広大が新発田の姿を見るなりハープでスタッカートの特殊コードを弾く。すると、兎亜種の人間がみなウサギの姿に変わってしまった。新発田もウサギの姿に縮み、鎧を跳ねのけて後ろ足で立ち、なおも噛みつかんと襲いかかってくる。清矢はわずかな哀れみを感じながらそのウサギを蹴り飛ばした。獣亜種変化コードの強力さには改めて舌を巻く。

 丸っこいウサギたちは弾丸のように人間の足元を走り回る。攻めこんだ救出隊は勢いに乗じた。

「『満月刀』を!」

 敬文の鋭い声に、充希が機械のように動いて応じた。

 主任術師とおぼしき神官の顔を『満月刀』で切り裂く。血もぬぐわずに水平に構えなおして、「全魔力接収!」と叫んだ。

 すると繭が発光をやめ、するすると蔦や蔓、巻き付いた枝がほどけていった。

 打ち合わせは済んでいたのだろう、「逃げるぞ!」と敬文が叫び、全員で地下道を降りようとするが、牡丹がその場にうずくまってしまった。悲痛な叫びが戦場をつらぬく。

「いや! 帰りたくない! 私は『永帝』の御許でひろあきさんを待つの!」

 零時が舌打ちしながら腕を引くが、彼女は床を這う枝にしがみついて泣いている。

「贄になれば永遠に生きられるのに! ひろあきさんと一緒に、眷属になってずっと……!」

 彼女にとって現世は針の筵なのだ。

 あまりにも若すぎた密通。恋人との結婚は許されず、罪の結果の私生児の出産……細い神経は度重なる悲しみに耐えられなかった。彼女の側に立てばいくらでも甘い言葉をかけてやることができる。清涼殿がそうやって贄になるよう言い含めたのだろう。壊れた心の洗脳など赤子の手をひねるようなものだったに違いない。

 しかし清矢はかっとなって牡丹の頬を張った。そんな逃避の裏で、零時はどれだけ寂しい涙を流さねばならなかったと思う? 父にも、母にも甘えられずに、親戚の家でたった一人で。小さな零時の悲しさは清矢自身のものでもあった。同世代の若者としては、全面的に息子を擁護してやりたかった。

 険しい声で、一喝する。

「恋に逃げこむのもいい加減にしろ!」

 牡丹は信じられないという泣き顔で清矢を見上げている。

 清矢は零時を指さした。

「命がけであんたを救おうとしてる息子のほうを信じろよ!」

 それ自体は心を病んでいる病人相手に、飽きるほど繰り返された正論だった。

 だが今回に限っては……これまですべての運命を諦めていた零時自身も涙を流して頼み込んだのだ。

「母さん、お願い……僕と一緒に生きて!」

 息子の哀願に牡丹ははっとなったようだった。混乱に騒ぐ周囲を見回し、一心不乱に駆けだして、魔法石に触れてぶつぶつと祝詞を奏上する。薄荷色の魔法石が明滅し、ほどけかけていた木々が再び繭に巻き付いていった。

「主任術師の魔力は奪ってる。今のも多分気休めだ、すぐ離れるぞ!」

 敬文の言葉に従って、地下道へ戻り、撤収を図る。

 地下道の中は行きと同じく魔物があふれていた。パニックになって逃げてきた敵兵とも共闘しながら、命からがら走り抜けた。なんとか土御門家の井戸まで到着して全員が引き上げてくると、当主の土御門隆明が待ち受けており、井戸にふたをして『要石』を置き、しめ縄をかけて封印した。

 清涼殿の神兵隊が嘆く。

「『永帝』がお目覚めになったら一体どうなるのか……」

「他にも術師はいるだろ、制御できないんだったら廃棄の運命だよ。あれは単なる『D兵器』」

 黒田錦は冷ややかに突き放した。

 一晩あけて、被害の内訳が明らかになった。あの後結局『永帝』が暴走し、草迷宮にいた十三名は逃げた者を除きすべて殺されてしまった。清涼殿は『永帝』を再封印する必要に駆られ、祈月軍の陽動に対応できなくなって、やむをえず停戦となった。西行英明は県議会に向け生贄の非道さを訴えかけた。坂井のように、清涼殿内部で『永帝』の存在に疑問を抱いていた者も脅威を強調した。何でも、繭に封印された眷属の数がゆうに百を超えているらしい。県令や虎雄氏は高官を失った清涼殿よりは祈月軍閥との関係を重視し、『永帝』狂信派の意見を退けた。

 会議室で戦後報告が少数の重役の前で告げられたのち、源蔵はあらためて清矢を眺めてため息した。

「今回は英明が命じたことだから仕方がないが……」

 そう前置きし、負傷兵のリストに視線を巡らせながら諭した。

「お前は祈月の跡継ぎなのだから、もう少し危険を避ける行動をしたらどうなんだ?」

 清矢は苦い唾を飲み込む。自分が捕まらなければ、逃亡戦から引き続いての被害など出なかったのだ。

 だが、どうしても父親とすり合わせておきたい認識があった。

「だけど、魔物が権力を持ってる状況なんていいと思うのか?」

 源蔵は驚いたように語気を荒げた。

「それは許せん。それに今回の事後処理には、至極殿にもずいぶん世話になってしまった。退魔科へのコンバートは断り切れないかもしれん」

 西行英明本人は、少し居心地が悪いのか、何も言わず源蔵を見ていた。代わりに北条直正が場をまとめる。

「とりあえず、清矢さまはもう陶春に帰ってください。学校も始まるでしょ? 鷲津の調略には気を付けてくださいね」

 会議はそれで終わりとなり、人々が席を立って思い思いの話に耽る中、リュックを背負って旅支度した充希も清矢の頬をつついた。

「俺もずいぶん休んじゃったから、そろそろ故郷に戻ろうと思うよ」
「本当か? ……大丈夫かよ、道中」
「『満月刀』、魔力吸いすぎで満タンになっちゃってるからね」

 充希は何げなくそう言って、『満月刀』を取り出した。

 柄に打たれた目貫釘を外し、中にある隠し扉を開いて、清矢に見せる。そして逆手に構えて聞く。

「新月までは、後何夜?」

 周囲の野次馬が口々に答えたが、充希の懐っこい瞳はただ清矢だけを見ていた。

 うつむいていた清矢も視線を合わせる。『満月刀』の隠し扉の中では、中の青い満月紋が限界まで痩せて、祈月の新月紋と酷似したかたちになっていた。自信がなかったが、清矢は答える。

「多分新月だと思うけど……?」

 充希は組みひもで刀を首にさげ、ニッと笑った。

「満願成就! 感謝感激それでは失礼!」

 両手をパンと打ち合わせ、そしてフッと消え去った。集まっていた面子がどよめく。
 源蔵が説明をする。

「『新月刀』も同じ仕組みらしい。吸った魔力の総量で隠し窓の紋が変化し、満ちると今のように、ふるさとの神泉に還れるようだ」

 北条は感心して「ぜひ、ロンシャンの夜空から取り返したいですね」と唸った。

 軍閥は清矢を長らく山城県に置くのは危険と考えたのか、早々と故郷へ送り返すことにした。
 国鉄の故宮駅ホームには、吉田牡丹と零時が見送りにきてくれた。
 零時は折り目正しい学生服のまま、まばゆそうに清矢を眺めた。

「ありがとう。君が来なかったら……僕と母さんはいつまでも『親子』になれなかった」

 清矢はうなずき、牡丹に目を移した。彼女は年相応に落ち着いた藤色の着物を着ていた。これからは投薬で様子見をすることになったらしい。清矢も祈月軍が退魔科として国軍に復帰するかもしれないと世情を伝える。

 そしてきりりと表情を引き締め、零時を自らの道に誘った。

「いつかきっと一緒に、『永帝』を倒そうぜ」

 零時は眠りを覚まされたかのようにはっとして、やがて毅然とした表情で清矢を見返してきた。

「わかった……僕の力を正しく使って」

 清矢は黙って手を差し出した。零時がその手を取る。握り返したその手には、これまでにない力強さがあった。彼の中に生じた新たな希望を、清矢自身も感じ取ることができた。

 車掌に切符を切ってもらい、汽車に乗り込む。席は車両の一番奥だった。

 詠と隣り合い、背を落ち着けると、詠がよそ見をしながら手を握ってきた。

「どうしたんだ」
「俺も、片時でも離れねぇって思ってるから」

 詠はそう答えてくれた。その健気さに微笑が漏れる。

 自問してみれば、清矢だって詠がほしい。

 もう充分に独り占めしていると思っていた。恋にまで介入しては嫌われるとおびえていた。賢しらぶったそんな分別はかえって彼を傷つけただけだった。素直に心を眺めたら、取るべき行動は決まっていた。清矢は無邪気な気持ちで詠の頬にキスをした。

 詠は照れ笑いを含みつつも、やや残念そうにこぼした。

「でも、唇にはナシなんだよな……」

「俺も詠が好きだよ。どこにだってキスしてやりたい」

 清矢はふっと笑って、中腰になって唇に触れるだけのキスをした。驚く詠に、清矢は言った。

「このキスに誓いとか重い意味持たせんなよ。俺はお前にキスがしたかった。お前も俺にキスしたかった……だから唇を触れ合わせた」

 しみじみとした想いが心に広がる。自分たちの触れ合いには、これからは理由なんていらないのだ。

「そのほうが何倍も素敵だろ?」と胸を小突くと、単純な詠は毬が弾むように清矢に抱きつく。

 紆余曲折があったにせよ、清矢にとっては凱旋だった。戦勝のほうびは、一瞬のつたないキス。青春をひた走るふたりには、それ以上は必要なかった。

 ――以降、日ノ本の情勢は目まぐるしく動くことになる。

※「月華離宮のマスカレイド」(第五話) へつづく
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