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盛夏の夜の魂祭り(第四話)草迷宮の開く宵
1 恋ゆえのあやまち
しおりを挟む古今東西、恋のパワーとは恐ろしい。
初恋の僧に会うために八百八町を炎に染める、それだけの危うい熱意に満ちている。
恐ろしい術師が渚村を襲った悪夢から数日後。夏目雅は幽明の境を漂っていた。
幼い夜空は泣きじゃくり、夏目屋敷に泊まり込んで、実の息子の文香や、奥方と交代しつつ昼夜の看病に臨んだ。志弦は夜空の側仕えのような役割を内輪で与えられていたから、自然夜空とともに、夏目雅の看病にあたることになった。
鷲津への人質は清矢が御庭番衆の家柄のピアノの先生に付き添われて行った。
深夜未明、夜空と志弦は雅の布団の傍らにいた。雅がうなされ、夜空を呼んだ。
「夜空……! 夜空。大事ないか」
雅はそう言って身をよじりながら起きあがろうとした。志弦はあわててその広い背中を支えた。
夏目雅は狼のような厳めしい顔のつくりをした、優しい巨人であった。渚村の御庭番衆の子供たちに術や書道を教え、農作業や仕事のかたわらに預かりもしていたから、村でも感謝され、尊敬されていた。
中でも夜空については、次期祈月家当主だと見込んで、子供たちの中心において可愛がっていた。
粗末な野良着に身を包んだ夜空がぱっと顔を上げる。
「どうしたの、古狼! 痛いの? すぐに薬とってくるよ」
雅は息も絶え絶えに断った。
「いや……この心臓の痛みには、鎮痛剤が効かないんだ。全身が重い。もう魂がちぎれそうだ。三島の呪殺は恐ろしき術。鷲津はどうなった」
夜空は聡明な声ではきはきと答えた。
「清矢が代わりに人質に行ってくれたよ」
夏目雅は青い顔色でうなずいた。
「源蔵が国軍なんかに志願するからこうなる。国軍も常春殿も、結局は同じだ。最後にはこうして裏切ってくる。夜空……お前は、軍には行くなよ」
志弦も泣きそうだった。どうして鷲津は協力してくれると言ったのに、三島を差し向けてきたのだろう。その息子だという零時は、安部神社に泊まって、夏目の私塾に通ってきていた。みんな親切に面倒を見ていたが、それは偵察だったのだ。夏目雅は水を所望し、夜空が吸い飲みを使ってたどたどしい手つきで飲ませた。
夜空は大きな目に涙をいっぱいに溜めて、問いかけた。
「俺も結城博士みたいにロンシャンで勉強したら、戦なんてしなくても済むのかな」
雅の表情はその思い付きを聞くと少しやわらいだ。
「そうだな、ちょうど疾風が帰ってきたところだし、入れ替わるのもいいだろう。そうすれば耀さまのしたような行いに手を染めることもない」
大きな口にわずかな微笑が浮かんだ。雅はおもむろに夜空の頭をなでた。
「行け。ロンシャンに……祈月の次期当主として恥ずかしくないようにするんだぞ。『新月刀』は持っていけ。あちらでは辛いことも多いだろうが、古狼はいつも、応援してる。そのことを忘れるな」
雅はそう言って、今度は志弦を見た。
「志弦。文机まで行きたい。夜空も、力を貸してくれ」
大柄な老人が力を振り絞り、畳を四つん這いで動く姿を見て、志弦は絶望していた。胸の疼痛に耐える姿を見かねて、夜空は無理はよくないと言い聞かせた。だが、それは怒りを含んだ眼差しで叱咤された。夜空はときおりしゃくりあげながら、命じられるままに硯で墨をすりはじめた。
実際、雅の執筆は長時間に及んだ。痛みにうずくまりながらも、強い筆致で最後の言葉を書き残していく。夜空がどんなに手伝うと申し出ても、代わりに筆を執ることは許さなかった。
思えば、その時にすでに夜空と志弦のふたりは、厳しくも温かかった夏目雅の逝去を悟っていたのだった。
ハープやピアノや手習い、日本刀の扱い。夏目雅は泣きごとを許さず、責任感をもって夜空の教育に取り組んでいたから、ふたりともそんな師匠の姿を心に焼き付けようと真剣だった。
幾通もの遺言書を書き終えたあと、夏目雅はもう一度這って寝床まで戻ってみせた。
仰向けになってうつろな目で、最初に夜空へ封書を渡した。
「他の者には見せるな。掟が守れないなら、御庭番衆を率いていく資格はない」
夜空はうなずいた。
「志弦。お前はロンシャンには行けないかもしれない。だけど、いつでも夜空の味方でいるんだぞ」
志弦も深く頭を垂れた。やがて鶏が鳴きはじめ、交代の時間がきた。
文香と奥方が朝支度をはじめ、夜空たちは汁かけ飯をかきこんで、まだ生暖かい寝床に入った。
志弦は痛切な想いで切り出した。
「夜空、ロンシャンに行っちゃうの?」
「わからない。でも、それで祈月が戦をしなくなるなら……考えてみるべきだと思ってる」
「そうしたら……私と一緒には生きていけないね」
志弦は隣に敷かれた布団に横たわって、ぎゅっとシーツを握りしめた。
夜空は恋心を告げられたにもかかわらず、存外冷静に言った。
「そうかもしれないな。俺が武芸に励まないから、志弦のお父さんは不満あるみたいだし」
「寂しいよ。あたしも連れて行ってよ! 結城先生の留学には、天河さんの息子さんたちもついていったんでしょ!」
「ロンシャンで俺が志弦を守り切れるかわからないよ」
夜空は志弦の激昂に身体を起こして、人差し指を唇にあてた。震えて泣く志弦をなだめつつ、高い声で恨み言をつぶやく。
「どうして父上は戦ばかりするんだろう。どうして母さんが病気だっていうのにずっと家に帰ってこなかったんだろう。今の状態じゃあ、宮様なのは結城家だよ。おばあちゃんが言ってたけど、耀が死んじゃったから、春宮の経営まで弟の結城瑞樹さまが継いじゃったんだって。本家はすでに逆転しちゃってるんだ。森戸さんも諦めなって言ってる……俺、やっぱりロンシャンに留学する」
清矢は九歳という幼さだから分かっていなかったが、これが十一歳の夜空の本音であった。
実母の雫は二年前に他界していたし、姑のさくらとは折り合いが悪かったから、清矢を産んでからはほとんど実家に下がりきり。夜空は賢い少年だったから、ばらばらな家族にはずっと思うところがあったのだった。離縁したも同様の状況で、姑のさくらがそれでも夜空を預かり、手伝いをさせるかたわら、子供が知るべきではない事情まで愚痴りすぎていたのも良くはなかった。
夏目雅はその後、床から起きあがることはなかった。三日後に葬儀が行われた。葬式で失態を犯したとみられた夜空は反発していた結城家に預けられ、自分も留学したいとさんざんだだをこねた。
長い留学から戻ったばかりの疾風はちびっ子相手の塩梅が分かっていなかったのだろう。真に受けて、当時の学長に話を通し、ホームステイを決めてしまった。夜空は、祈月氏の証となる品を持っていきたいとねだった。それ自体は源蔵の叔父である結城瑞樹に認められた。
慌てたのは実母の生家、草笛家だ。夜空の愚痴にあったとおり、結城家は春宮の経営権を相続したから、ほとんど本家格だ。御庭番衆として、瑞樹の命令には従わなくてはいけない。
祈月家の蔵は、代々夏目氏が管理していたが、雅が亡くなってしまったために、祈月源蔵の舅・草笛宗旦が鍵を開けた。
宗旦は夜空と志弦を連れて、はじめて蔵に入った。そこにあったのは輝かしき宮家の歴史の集積だった。
草笛は呉服屋ではあったが、近年穀商の利根川家と張り合って舶来品や骨董も商っていたから、美術品の由来にも非常に詳しかった。美品で残っている花鳥図の屏風や、香池財閥から嫁入りがあったときの婚礼道具などをじかに見て興奮しきりである。
夜空はさりげなく聞いた。
「おじいちゃん、『新月刀』はどこ?」
「『新月刀』か。耀さま以降、源蔵が嫌って使っていないからここにあると思うが……おお、これが本刀だぞ!」
桐箱からその短刀を持ち出し、宗旦はほれぼれとうなずいている。そして夜空たちに効果を説明した。
「これが祈月の当主刀、『新月刀』だ。相手を切りつけて魔力を吸い取れる。悪しき魔術師を罰するのに使う刀なんだ。危ないから、決して刀身には触らないようにな。古狼から仕組みは聞いてるか? 外部の人間には話しちゃだめなんだぞ……」
宗旦は声をひそめて刀の秘密を教えた。歴代当主が継承してきた呪いの小刀。絶大な力を行使する代償として、襲名儀式で体の一部を捧げるのだ。
初代季徳公は左目を。その後に嘉徳親王がわきの下を。そして、耀が心臓を。息子に先立たれた正徳公が、はらわたを。源蔵は父と同じく心臓を捧げたという。
志弦は仲間に入れてもらえた喜びと、この後行う裏切りに引き裂かれそうになりながらじっくりと見入った。
志弦の父は、犬亜種で、源蔵とは高校時代に知り合った新参である。だから父も兄もまったくその刀のことを知らなかったのだ。
下緒は紅、白、藤紫の鮮やかな組紐。柄は赤く染めた鮫肌。黒くつややかな鞘に玉虫色の螺鈿が埋め込まれ、桜吹雪を表している。背後には、金の蒔絵で描かれた右弦の太い新月紋。伝説の武具は何とも典雅な佇まいだ。
「きれい……」
その美しさに、思わず感嘆がもれた。夜空も神妙な顔でその刀を眺めている。宗旦が注意をする。
「だけど、吸った魔力は神泉で洗うか、使い手の身体で再吸収するかだぞ。正徳公は最後の儀式に耐えられず、亡くなられたらしい。孫の源蔵に穢れを残したくなかったのだろうな……さ、刀についてはこの程度だ。次はハープを見せてやる」
宗旦は、子供たちの企みなど知らず、親王愛用のハープ、季徳公謹製の四面の扇、正徳公が嫡男・耀のために作ってやった新月紋の陣羽織二着などを取り出して見せ、志弦にも宮家の歴史がわかるように詳細な説明を加えた。
その時手はずどおりに店に勤める小者からの呼び出しが入り、宗旦は夜空たちを置きっぱなしにしたまま、蔵を後にした。
志弦は、説明を受けたものを探し出してすべて夜空のリュックに詰め込んだ。陣羽織だけはどうしようもなかったが、夜空がひそやかに耳打ちしてくる。
「俺、陣羽織を持っていくって言うよ。そうすればさっきの品の上に敷いて、全部隠せると思うから」
志弦はうなずいた。ばれたら自分が叱られるつもりでいた。お仕置きで忍びの透波衆まで落とされてもいいと思った。それが夜空への自分の想いを証明する行いなんだと、強く思い込んでいたのだ。
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