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盛夏の夜の魂祭り(第三話)嫉妬の業火は諸刃の剣
06 罰
しおりを挟む目覚めると、寝袋の中にいた。全身に食い込んだ荒縄がぎちりと鳴る。後ろ手に手首を縛られ、その余りを胸から肩へと回し、上半身全体が極められている。ウエストを締めた縄を起点に両足も棒のように縛り上げられ、さるぐつわを嚙まされていた。脳内の眠気など一気に醒めて、詠は喉だけでうめき、全身をもぞつかせた。油っぽい匂いのする縄は動けば動くほど食い込み、肌に細かく擦り傷を作った。
詠は芋虫のような恰好でぼろぼろのベッドマットに転がされていた。周囲には酒瓶のラックがあり、米俵や缶詰が大量に置かれていた。コンクリートブロックを積んで作った壁には窓もない。床は簡単に木の切れ端を道なりに敷いてあるだけだった。かろうじて、立って歩けるだけの広さがある。酒樽まであることを考えると、どうやら食料備蓄用の地下室のようだった。ベッドマットはしんなりと湿って土のにおいが染み込み、昨日今日敷いたものではなさそうだ。
清矢の警告を思い出した。同級生に薬を盛って縛り上げるなんてのは、十五歳の普通の女子がする行いではなかった。『みさき』の裏には誰かがいる。少なくとも常春殿や祈月に好意的でないのも確実だった。
寝袋のまま寝返りを打ち、うつぶせて戒めの中でも指だけを動かす。そのうち、ガシャンと鉄製の扉が開く音がした。はしごで何人かが連れ立って降りてくる。特徴のない顔つきなのに、いやに逞しい男たちだけだった。最後から二番目にやってきた男はやけに優男で、前髪を長めに残した猫亜種だった。ひとりだけよそ行きの和服の中に立て襟のシャツを着込んでいる。江戸紫に、灰縞のノーカラーシャツ。今から盛り場に繰り出すようなしゃれた格好だった。
「君が『櫻庭詠』くん?」
その男は明るく、気さくな態度で話しかけてきた。猿轡をされた詠は返事もできずじっと眼にその男の姿を焼き付けていた。黙っていると、手下が勢いよく詠の頬を蹴り上げた。歯を食いしばって衝撃には耐えたが、ひりひりと痛みが張り付いたように残る。
猫亜種の優男はいきなりの暴力に顔をしかめた。
「……おっと、初手から手荒なのはよくないな。君が『櫻庭詠』くんかな? 首を動かすぐらいはできるよね?」
詠がうなずくと、彼は詠の前にしゃがみこんでにこりと余裕たっぷりに笑った。
「やぁやぁ、時は早いね。あの時魔物に襲われて泣いてた男の子が今はもう戦に参加しようだなんて驚きだ」
うまく思い出せなかったが、詠はうーうーと喉から声を出した。強面たちはそれ以上手を出そうとはしてこない。優男がどうやらこの一味の親玉のようだ。優男は言った。
「君と祈月の若君はずいぶん仲がいいみたいだね」
詠は鼻息を荒くした。否定しようにも、『みさき』が知っている情報はすべて筒抜けだろう。優男が含みのある笑顔で言う。
「でも勝ち目のない逃亡戦に未来ある若者を連れ出すだなんて、源蔵は巷で言われているほどの善人ではないよね。君らはまだ学生だ。大人しく家で宿題をやっててほしいかな」
戒めのない尾をばたんばたんと振る。口ぶりからして鷲津の者だ。手足が自由だったら今この場で組み伏せてやりたかった。
「一応聞いておくけど、こちら側に裏切るっていう気はある? そうすれば常春殿にも手心を加えてあげるつもりだけど」
男が目配せして、周囲の手下が動く。寝袋をはがし、猿轡を外された。詠はらんらんと光る目で男をにらみ、啖呵を切った。
「裏切りなんてするわけねぇ!」
唾を吐きだしてそう告げると、男は目の奥の温度を急激に冷えさせた。
「じゃあここに三か月くらいはいてもらおう。そうすれば少年たちの義勇兵なんて夢も簡単に瓦解する……それでは、さよなら。もう会うことがないことを祈るよ」
男はまともな会話をする気はないらしかった。詠は内心、冷や汗をかきながら黙っていた。「痛めつけますか?」と手下が聞いている。恐怖をあおるためか、手下は木のパドルを手のひらでパシパシと鳴らしていた。男は「私が見ている必要もないだろう」と冷たく言いすて、はしごに足をかけて地下室を後にした。誘いを断った詠のほうは一顧だにしなかった。三人ほどが男について出ていき、地下室にはパドルを持った坊主頭と猪首の男が残った。男はふたりとも革のパンツを履いていた。
「さて、可愛いお嬢ちゃんじゃないのが残念だが……手心はねぇぜ!」
うつぶせている詠の頭をまず猪首が強烈に踏みつける。こめかみが強く圧迫されて眼裏が真っ赤に染まった。坊主頭のほうはパドルを握りしめ、縄で戒められた下半身を狙った。一打目から何の容赦もなく、高々と振り上げて尻を叩く。ずぅん、と仙骨にまで響く痛みが重たく広い筋肉を痺れさせる。
「ひとまず三十までだ、頭は抑えておいてやるよ」
猪首が笑う。坊主頭は「二!」と軍隊式で数える。パドルが空を切ってひゅっと音をたてる。打撲は完全な力任せだ。尻は燃えるように熱を持ち、ビクンと痛みで背がのけぞる。詠がもがくたびに、猪首が頭をぐりぐりと踏みつぶす。かかとについた砂がきりきりと食い込んできた。
息がろくにできなかった。神兵隊に勤めたら拷問もするようになると聞くが、この程度でも確かに苦しい。生理的な涙がにじんでしまい、舌を噛まないようにするので精いっぱいだ。
――これは俺への罰だ。清矢くんの判断が正しかったんだから。
詠は思考を切り替えて耐えることにした。気が遠くなるほどの時間をかけて三十までの殴打が終わり、詠はぐったりと息をついた。じんじんと響く痛みがきつい。
すると最後に猪首が詠のズボンを下ろし、ひりつく尻を生で蹴り飛ばした。予見していなかった痛みをダメ押しで与えられて、思考がスパークして全身がのけぞる。
「はっ、カワイイまぁるい生っ尻だな。俺たちが男色でなくて良かったなあ?」
罵り笑いをして羞恥心まで煽りつつ、男たちは引き上げて行った。
あいつらは俺を殺すつもりだろうか。ぼんやりとそう思った。臀部に与えられたダメージは強烈で、今すぐ逃亡にかかれるとは思えなかった。だけどこの調子だと三か月無事でいられる可能性は限りなく低い。できるだけ早く逃げて、助けを求めないといけなかった。汚い手を使う鷲津軍閥に敵対心だけが育っていく。
ズボンも下ろされた屈辱的な姿のままで時が過ぎた。やがて、もう一度ガチャリと音がし、鉄製の扉から誰かが降りてくる。下っ端のひとりだった。唇の上に大きなほくろがある。帯剣していたが、詠のズボンを引き上げてくれ、暖かい粥も匙で手ずから与えてくれた。
「あの女、本物の中学生だと思ったか?」
藪から棒な発言に驚いたが、『みさき』のことだと合点し、詠はおずおずうなずいた。小男はくっくっと笑った。
「あいつ、もう二十も過ぎてるよ。年増の演技に騙されるたぁさすが童貞だな」
「『みさき』は鷲津で働いてんのか?」
「ん? まあ、教えらんねぇなぁ。泣いて頼めば一発ぐらいはヤラせてくれるかもしれねえがなぁ、坊主は見たところカネも持ってないだろ。あきらめな。どんな病気移されるかも知れねえぜ」
詠は複雑な顔をしてみせた。ほくろ野郎はさっきの奴らほど暴力的ではなさそうだった。卑しい笑いを引っ込めて、本音を語る。
「だけど戦に行ったって本当、ろくなことにならねぇぞ。さっきみたいにいじめられるし、死んじまったら元も子もねえ。ママに『嫌だ』って言うくらい何も恥じゃねぇしさ、勝ち馬に乗るのは大事だぜ」
「……そうかもしれねぇけど」
まったく本心ではないが、詠はうなずく演技をしてみせた。気が変わったように見せかけたほうが良さそうだからだ。粥を飲み込んでしまうと、男は用足しについて聞き、詠は下半身の縄を切られた。「我慢できなくなったらこの中にしろよ」と蓋つきの瀬戸物のポットを置いていく。
痛む尻に治癒魔法をかけようかとも思ったが、やめておくことにした。魔法が使えるということはぎりぎりまで隠すべきだ。魔術師に対する拷問は苛烈を極めるという。清矢ならこんな場合、一体どうするだろう? そう思うと取るべき態度が見えてきた。いったん折れたように見せかけておいて、逃げるチャンスをうかがう。自分にだって本心を見せないくらいの演技ができる男だ。親しい分焦れてしまっていたが、これからは見習わなくてはいけない。
救助に関しても望みがあった。最後に一緒にいたのが『みさき』だと、神兵隊の皆が知っている。遠波衆や、警察だって動いてくれるだろう。
生き延びなくては。そう誓い、詠はうつぶせになった。
ランプのか細い光のなかで、時間の切れ目は、ほくろ野郎の運ぶ食事だけになった。でも必ず温めた状態で運ばれてくるし、猪首や坊主頭がその役目を代わることはない。ほくろ野郎は何度も詠に裏切るよう言った。だが、詠はあいまいな態度を取りつづけた。鷲津への裏切りを了解して実際に事が運ばれてしまっては、清矢に会わす顔が本当になくなる。
どうやらこの地下室は、庭に掘られたものらしかった。天窓が開いてもそこから差してくる光はない。監禁場所に通じる部屋を暗がりにしておく道理はないし、雨の日などは水音まで聞こえた。ほくろ野郎は明かりをもって慎重に降りてきている。履いている靴はサンダルなどではない外履きだったし、実際土で汚れていた。
これはむしろ吉報だった。家の中に掘られた地下牢ならば、屋内を突破しなくてはならないからいきおい脱出は難しくなる。だけど外に面した庭ならば、追手さえ振り切れればすぐに自由の身になれるだろうと思った。
一日に一度、食事が与えられているとすれば今夜は五日目になる。地面にはこっそり指で正の字を書いていた。
「何かしたらもう一回お尻叩きだからな」
ほくろ野郎の警告に詠はおとなしくうなずいた。逃げるチャンスは食事時だけみたいだった。食事は満足に与えられていない。大人しく救助を待っていても、衰弱が続くばかりだ。
数えて六日目に、詠は決行することにした。
煉瓦のブロックに背をもたれて、沢渡マルコに教えられた基礎魔法の詠唱を行う。
「……四元素の原初たる炎の元素よ応じたまえ、我が爪先に焦熱し、燃焼系の燈あかりとなりて、人を導く一点の導しるべとならん。炎魔法・IGNIS」
こんな世界の隅でさえも、魔素は使い手の願いに応じてくれた。人差し指にまとった炎でじりじりと縄を焼き切る。両手が自由になるが、縛られた圧迫感はなかなか消えなかった。はしごを上って鉄製の天窓を押してみる。外側から鍵がかかっているようだ。詠は降りてベッドマットに座った。
武器になりそうなものを探す。麦酒の空き瓶などはよさそうに思えた。それを携えて寝袋の中に納まり、眠らないよう数をカウントしながらじっとその時を待つ。
ゴゥン、と重い音がして、今夜は坊主頭が降りてきた。詠は寝袋にくるまりながら、坊主頭を見た。ぴったりしたシャツにワーキングパンツ。よく鍛えられた逞しい肢体を見せつけるかのような薄い衣服だ。そしてあの木製パドルを腰にぶら下げていた。だけど武器を隠している今では、いかにも無防備に見える。
「顔を上げろ」
そう言われて、詠はうつぶせたまま顎をあげた。傾けられた椀から粥を飲み込む。給餌が終わると、坊主頭は腰からバラ鞭を外した。
「吐くなよ」
ほくろ野郎とは違ってこいつは詠をしっかりといたぶるつもりらしかった。詠は寝袋のジッパーを内側から開けはなち、坊主頭が反応する前にその頭に瓶を振り下ろした。
がしゃああん、と派手な音を立てて瓶が割れる。凶器となった瓶を真っ直ぐに突き出して、鋭利な断面で顔を突き刺した。坊主頭は攻撃にもひるまず、肘裏で受けて体を前のめりに折る。手首をもっていかれそうになり、詠はあわてて両腕を開いた。前屈した顔面に膝蹴りを見舞うが、坊主頭は後ろ受け身を取り、キックで股間を狙ってきた。腿でガードし、斬りつけるように再度瓶をふるう。
坊主頭はしっかりと格闘訓練を受けている感じだ。ろくに食べてもいない詠がまともに争っても勝ち目は薄いと思った。だから後ずさって瓶を振り回しながら、簡単すぎる詠唱を叫んだ。
「夜を呼び出す魔法の呪文、NightyNightyNightly!」
「Night」という闇魔法の短縮形だと習っている。
坊主頭は児戯かこけおどしだと思ったろう。その瞬間、彼の目の前が真っ暗に眩んだ。濃い闇は上半身を包んで、引きはがそうとしても絶対に離れない。パニックに陥った坊主頭はやみくもにパンチを繰り出した。
盲目となった敵。完全に詠の手番だ。詠は腰を落として頭から突っ込んでいき、両脚をごぼう抜きにしてテイクダウンを狙った。押し倒してから、みぞおちの右に容赦なく幾度も肘鉄を見舞う。肝臓を撃たれてぐふっとうめき声が上がり、抵抗のなくなったところで離れて、一目散にはしごを上った。
坊主頭はまだ追ってはこれない。鉄製の扉を閉めて、外から錠前もかけて、夜の庭をひた走った。空は真っ暗で、月あかりしかなかった。母屋は地下室からそんなに離れてはいない。庭は25メートルプールが二つも入りそうな広々としたものだった。追っ手のかからないうちに木戸口を通って道路に飛び降り、マラソンの速度で走り続ける。靴を履いていないので足裏が痛かった。道路の横には山と、その裾野に田んぼが広がっていた。水路に落ちないよう気を付けて、あぜ道を行く。離れれば離れるほど有利になる。
ズボンのポケットから『神稲』を探し出し、ひと匙分くらいのそれも飲み込んで、かみ砕く。ただの硬いコメのはずなのにほのかな甘みがあった。噛むほどにひんやりとした涼味が口の中ではじけた。空腹は全く満たされないが、心地は健やかになった。
一本道をひたすら進む。空が白むころになると、そのうち街が見えてきた。詠は希望に向かってもう一度走り始めた。
派出所を見つけて、飛び込んだ。詰めていた憲兵たちに誘拐されたと訴えて、保護される。昼頃には母と清矢たちが迎えに来た。清矢は伊藤敬文を引き連れ、学校帰りの制服のまま隙のない表情だった。元気そうなその顔を見ると詠の胸には達成感があふれた。
「清矢くんごめん、俺……」
「今は何にも言うな、怪我はないか」
謝りながら駆け寄ると、清矢は心配そうにさえぎり、ぎゅっと真正面から抱きしめてくれた。ほのかな薄荷水の香りも、その重みも懐かしい。詠はすぐ甘えたくなる気持ちを抑えて、清矢の肩に触れていた。
引き渡し中、詠を落ち着かせるために清矢はぴったり隣について、いろいろ話してくれた。詠が帰ってこなかった翌日から捜索が始まったこと。「みさき」を追ったが彼女の家はもぬけの空だったこと。透波漣や天河楽器店、魔法大学や神兵隊の仲間たちも協力してくれたこと……。
詠は焦る気持ちで報告した。
「俺な、鷲津の人間と思しきやつに会った。俺たちのこと知ってた」
「澄名考かもな。大社基地跡の血戦のときに俺たちのことを嗅ぎまわってた」
すかさず清矢は答えた。聡明で、物覚えもよくそつがない。それに比べて、見え見えの美人局に引っかかった自分。詠の口ぶりは重くなった。
「清矢くん。俺足引っ張っちまった」
「いや、俺も悪かったよ。詠に上から命令したりして……俺たちそんな関係じゃないってのにな」
「うん。親友……だ」
心の支えにしていた存在が目の前にいるのに、いざ関係を言葉にしようとするとまた口ごもってしまった。清矢は詠をじっと見つめてくれた。詠は少し視線を反らしながら弱音を吐いた。
「でも、やっぱ充希のほうが頼りになるんだよな。格好いいし、腕だって立つし、頭も悪くねぇみたいだ」
……俺みたいに馬鹿じゃねぇんだ。
いつもは軽蔑している卑屈な物言いになった。
「詠、そんなこと言うな」
隣に座る清矢は、詠の肩をぎゅっと引き寄せた。母親たちも手続きが終わったのか戻ってくる。清矢は慰めてくれたけれど、詠の憂色を完全に払うには足りなかった。
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