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第四章
十.考えるまでもない
しおりを挟む目の前を白煙がゆらゆらと踊っている。鼻につく匂いが僕を苛立たせたが、僕はそれを顔には出さずに踊る白煙を見つめていた。加藤さんは煙草を咥えて深く息を吸ってから、僕を避けるように煙を吐いた。煙草の先の灰を落とし、それで、と言った。
「解決したのか」彼は僕を見ることなく言った。
「していません。いや、正確には出来なかったと言うべきでしょうか」
彼は煙を吐く。
「彼女が今どこにいるのかさえ分かりません。恋人の元へ帰ったのか、それとも僕のことが嫌になったのか」
「前者も無ければ、後者も無いだろうな」
「どういうことですか」
「お前の話を聞いた限り、暴力を振るう様な恋人の元へは帰らないだろうよ。いや、俺がその立場だったら帰らないってことからの憶測だが。それから、お前のことが嫌になって出ていったっていうのもよく分からない。彼女はお前を愛しているし、お前も彼女を愛しているんだろう。だったら、それは考えるまでもないんじゃないか」
「愛なんてものは分かりません」僕は、彼の首に付けられたネックレスを見ながら言った。
結局、彼女は恋人の元へ戻っていた。相手が浮気をしていようが、暴力を振るおうが、犯罪を犯していようが、愛はそれを超えるのだろうか。愛があれば何でも許せるのだろうか。僕にとって愛とは何なのだろうか。そんなことを考えても意味がないことには気付いていたが、僕は考えずにはいられなかった。僕の頭の中は「愛」についての情報が駆け巡っていた。光ファイバー。僕の脳内は愛の光ファイバーが螺旋状に走り回っていた。
加藤さんの言っていたことは間違いだったじゃないか。僕のことが嫌になったかどうかは分からないが、暴力を振るう恋人の元へ戻ったじゃないか。無責任なことを言うね。本当に。僕は腹が立って仕方がなかった。加藤さんに、遥香に、母に、父に、姉に、そして自分に。自分自身にも無責任な行動を取ったことに非常に腹が立っていた。こんなことをする人間は、僕が一番嫌いな人種であったが、自分がその行動をとったことに驚きはしなかった。自分に期待をしていなかったのか、元々自分はそういう人間だったのだと理解していたのか分からないが、青天の霹靂よりも驚きはしなかった。
自己啓発の本を購入してみる。ネットショッピングサイトで購入したのだが、九百円という高いのか安いのかよく分からない値段であった。届くのは三日後ということで、読む本は手元に無かった。三日もあれば単行本の一冊くらい読めてしまうものだから、本屋にでも出かけよう。アパートから徒歩五分ほどの距離に小さな古本屋があり、扉を開けるとレジで心優しそうな白髪の老婆が出迎えてくれる。何となく自身の祖母に似ている雰囲気があったが、祖母の顔は思い出せないので深く考えることをやめた。
四十分程経っただろうか。読みたいと思う本が一冊。僕は題名で読みたいかどうか決まるところであったが、その本の題名を見た瞬間ビビッと何かを感じた。グレートギャッツビー。意味はよく分からないが、裏の説明文は読むことなくレジへ持っていく。白髪の老婆は微笑み、僕から文庫本を受け取ってから、来てくれてありがとうね、と言った。
「このところ、本を読む人が減ってしまってね。もう店を閉めようかと思っているのよ。お兄さんは二ヶ月ぶりのお客さんでね」微笑む。
「そうですか。その二ヶ月前の客はおそらく僕だと思いますよ。その時も文庫本を買ったはずです」
「あら、そうだったの。髪型が前と違うから分からなかったわ。今の髪型の方がばあちゃん好きよ」
お礼を言って代金を支払い、また来ますと捨て台詞を言ってから店を後にした。
今日は非常に天気が良い日である。白雲一つ無い青白い海の下で僕は目を細めた。降り注ぐ白い光が視界を遮り、青信号を薄める。青い光の中で歩いていた全身が白い人の姿をしたモノが大地を踏み、僕に話しかける。
「君はいつまでもいつまでも悩むのかい」透き通った低い声だった。
「悩んでいるのかな。ストレスを感じてしまっているよ。なんだか僕には手に負えそうも無い物事が舞い降りてきたんだ」
「知ってるよ、何もかも。ワタシはずっとアナタを見ている。カノジョの名も顔も知らないが、ワタシは君のことを知っているよ」
ソレは世界の問題を全て把握しているかの様な口ぶりで語っているが、僕は何故だか心が晴れた気がした。
「君はナニモノなんだい」
「それは君がよく知っているはずだ。ワタシはアナタなのだから」
ソレが言ったことはよく分からなかったが、僕にはカレが少し笑っているように見えた。
僕は点滅する青信号を横目に横断歩道を渡りきった。車が一台も走っていないこの道はどこまで続いているのだろうか。この道をどこまで歩いて行けば終わりが来るのだろうか。何も障害物の無い道を歩きたいと言っているわけでは無いが、障害物が無ければ苦しむような事は起きないのだから、どうしてもそれを望んでしまうのは僕の罪なのだろう。ありのままの道筋を歩いて行きたいものなのだ。新品の雑巾より使い古した雑巾の方が乾きが遅いように、重荷を抱えた状態でさらに重荷がのしかかると追い込まれて精神は崩壊してしまい、回復が見込めなくなっていく。
ズボンの裾が黒ずんでいた。頬まで伸びた前髪は髪先に滴を引っ掛けたまま、ぐっしょりと濡れていた。深い青と黒のグラデーションを抱えた黒海から降り注ぐ涙に反射した青い光は、佇む僕にスポットライトを灯した。
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