オフホワイトの世界

キズキ七星

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第三章

九.月の下弦から少しずつ、ほろほろと零れていく

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 その夜、僕らは互いを求め合った。活動を止めた世界の片隅で僕らは交じり、愛し合った。でもそこに本当の愛は存在しない。僕らは罪を犯しているのだから。前戯から性交までを終わらせたが、それはやはり気持ちの良いものでは無かった。しかし僕らは夢中だった。夢中でどうでも良くなっていたのだ。これは夢なのだと思いたかった。長い長い夢を見ているのだと。
 性交を終わらせた僕らは、ベッドに横たわりぼんやりしていた。窓の外の月は、罪を犯した僕らを慰めているかのように輝いていた。僕は月なのだ。自分一人で輝くことは出来ない。他人の力を借り、それを糧に自分を輝かせることが出来る。しかし僕らが見えていない月は、また違うどこかで輝いている。それを僕らは知っていて、月はいつも僕らの中にある。僕は月であり、光を与えてくれる太陽が必要である。その太陽を探し出すことが出来た時、僕は輝くことが出来る。いつかの炎のように、残酷な光が照らす世界に生きることが出来るのである。



 遥香は大学に行かないようだった。用があるので昼まで寝かせてくれと言った。僕は、君にと合鍵を残し大学へ向かった。その日は特別日差しが強く、風が心地良かった。天気は良いはずなのに空には鉛色が広がっており、僕は鳥肌が立った。なぜかは分からないが、遥香の事が引っかかった。今朝、彼女の顔色は良かったのだから、心配は無い。僕の思い込みは彼女を心配していなかった。徐々にその黒さを増していく空の下で、僕は能天気に大学へと足を運んだのである。
 一限と二限の講義を終えた僕は、食堂へ向かいお盆を持った学生達の列に並んだ。食堂は混んでいて座る席を見つけるのに苦労した。ミシマが居なくなったことにより、僕は一人で昼食を取るはめになったが、それは平気だった。言ってしまえば、一人は気楽で心地良い時間を過ごすことが出来るのである。カウンターで丼を受け取り席に座ると、目の前を三人の女子学生が通り過ぎて行った。かと思いきや、その中の一人が戻ってきて僕の向かいの席に座った。
「君、ハシモトくん?」彼女は真っ直ぐ目を見て尋ねた。
「はい」
「やっぱそうかあ。いや、遥香って分かるでしょ?あの子から君の話を少し聞いてたんだ」
「何の話ですか」
「それは言えないなあ。あ、でもね、君の事を良く言ってたよ。少し羨ましくなっちゃったな」
「羨ましいですか。よく分かりませんが」
「なんか、ツンケンしてるなあ。私と話すの嫌?」
「いや、そういうわけでは無いですけど、何にせよ初対面なので」
僕がそう言うと彼女は、口元だけで微笑んでから席を立ち、友人の元へ帰っていった。嵐のような人だなと思ったが、それよりも大きな嵐のような女性を知っているのでたいして気にならなかった。その大きな嵐は今、そろそろ起きる頃かなと思った。

 四限を終えた僕は、遥香が帰ってくる前に夕飯を作っておいてやろうと思い、直帰した。部屋に戻ると、部屋着に着替え、早速夕飯の支度を始めた。簡単なものしか作れないので、二種類のパスタを作ることにした。既に外は薄暗くなっており、街頭の光が仕事を始めていた。作り終えても帰って来ないので、先に食べることにした。テレビの電源をつけ、適当な番組のチャンネルにして麺を啜った。明太子パスタとカルボナーラだ。遥香の分は別の皿に分けて置いておいた。外はすっかり夜になった。やがて自動車の数も減ってきて、人々は眠りにつく時間になったが、彼女は未だ帰ってきていない。そろそろ日付も変わるのでさすがに心配になったが、大学生なので放っておこうと思った。
 いつの間にか眠ってしまっていた。気がついた時には深夜二時を過ぎていたが、遥香の姿は無かった。まだ帰らないのかとメールを送ってみたが、返事は無い。やがて三時になろうとしていた時、玄関の鍵が開いた。ただいまーという声が聞こえてきたのでほっとして玄関へ向かった。そこには後ろ姿の彼女がいた。
「ごめんね、遅くなって」声が笑っていた。
「いいよ、でも心配した」
「心配してくれるんだ。優しいね。でも何でもないよ。お風呂入って寝るね」
「君の分の夕飯あるよ」僕は指でパスタを指しながら言った。
「ありがとう。でも食欲無いや。明日食べることにするよ」
「全然良いんだけど、ところでなぜこっちを見ないの」僕は彼女の後頭部を見ながら尋ねた。
「ごめん、何でもないから」彼女はそう言ってからも、こっちを見ようとしなかった。
僕は気になって顔を覗こうとした。すると、やめてと彼女が叫んだものだから、僕は驚いてしまった。
「どうしたんだ。何かあったの」
彼女は答えようとしない。苛立ちと心配から僕は彼女の肩を掴んで無理矢理振り向かせた。すると彼女の顔にはいくつかの痣があった。右目の目尻と左の頬が青紫色に変色していた。
「何でもなくないじゃないか」
彼女は、ごめんなさい、ごめんなさいと言った。
「恋人か。また殴られたのか」
彼女は黙って頷いた。
「何で会いに行った?奴から距離を置くために僕の家にいるんだろ。この数ヶ月を何で無駄にした」僕には彼女の行動の意味が分からず、苛立っていた。
「ごめんなさい」彼女は俯いたまま、ただそれだけを言っていた。
「僕には君の行動の意味が理解できない。自分から傷つきに行ってどうするんだ。彼に会ったらこうなることくらい分かっていただろう」僕は間を空けてから続けた。
「申し訳ないけれど、僕には君が分からない」僕はそう言うと、ベッドに入り、目を閉じた。
 彼女は風呂に入り、髪を乾かし、布団に入った。その音だけが僕に届いていた。僕は彼女の顔を思い出して眠れなかった。また、もう少し優しい言葉をかけられなかったのかと悔やんだ。明日は土曜で何も予定がないので、起きれるところまで起きてやろうと思った。一時間ほど経った頃、遥香がトイレへ行った。帰ってくると、自分の布団に入らず、僕のベッドの中に潜り込んできた。僕は何も言わずに寝ているふりをしたが、遥香は僕を抱きしめるように手を僕の腰に回した。どうしたと声をかけると、こうしていたいと彼女は言った。それから、ごめんねとも言った。
 午後に目が覚めると、彼女の姿は無かった。彼女の全ての荷物が無くなっていて、僕の部屋は半年前の姿に逆戻りしていた。焦っても仕方が無いので、とりあえずメールを送ってから昼食を済ませた。夜になっても返事は来なかった。電話もしてみたが、彼女は出なかった。発信履歴は遥香の名前でいっぱいになったが、着信履歴には一つも無かった。
 僕はベランダに出て、点々と星が光る夜空を見上げる。この空を彼女も見ていると良いなと思う。彼女は太陽だった。この数ヶ月、太陽を見つけることが出来た気がしていた。脆く輝く彼女の光は、僕の想像を遥かに超えて脆かった。息継ぎが出来ないのだ。底深くに溺れてしまえば彼女は楽になれるのだろうか。何もせず何も考えず、ただひたすらに漂うだけの世界。そんな世界に僕は憧れを持った。今、おそらく、彼女は藻掻いている。でもそれは不確かなことであって、想像に過ぎない。
「脆い。脆く儚く散っていく。月の下弦から少しずつ、ほろほろと零れていくのか」僕は夜の街に向かって呟いた。
 夏空に浮かんだ僕の涙はキラキラと光を放ち、この乾いた世界に無力な潤いを染み込ませていた。
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