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上司ではなく、今度は部下の私が頑張る番です。
覚醒
しおりを挟む『……おきて、おきて……』
どこからか声がする。幼い子供の声だ。
(樹……?)
樹の声を自分は知らないはずのに、当然のようにその声を樹から自分に向けられる声だと、六華は認識していた。
(うーん……私、また寝坊してる……の?)
とにかく朝に弱い六華は、複数の目覚まし時計でなんとか毎朝起きているし、幼稚園のバスに乗り込む前の樹に起こされることもある。
(遅刻はまずい……遅刻だけはできない……)
寝坊で遅刻などあってはならないことだ。
六華はいつものようにゆっくりと体を起こそうとしたのだが、少し体を動かしただけで、強烈な頭痛が押し寄せてくる。
あまりの痛みに、一気に意識が覚醒した。
「……いった……い……っ……」
ずきずきとする頭を手のひらで押さえようとしたが腕が重い。動かない。
「うん……?」
なんとかまぶたを持ち上げると、そこは見知らぬ場所だった。
「どこだ、ここ……」
六華は寝転んだまま、ぼーっと目の前の景色を眺める。
薄いグリーンを基調にした小花柄の品のいい壁紙に、アンティークらしい調度品の数々。カーテンはえんじ色ということはわかるが、部屋の中は薄暗い。そして自分が寝ているのは大人が四人は眠れそうな大きな天蓋付きのベッドだ。
(ホテル……?)
六華の乏しい知識を総動員して、贅沢なつくりのこの部屋をホテルのスイートルームかなと考えたのだが、なぜ自分がここにいるか理解が追いつかない。
(私、どうして……)
何度か瞬きしたが、寝入っていた自分を起こしてくれたと思った声の主、樹はいない。
これは夢の続きなのだろうか。
もう一度寝て、目が覚めたら樹と同じお布団で眠っているのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたのだが――。
「――あっ!」
そこでようやく六華は覚醒した。
駐車場まで玲を追いかけたこと。追いついたと思ったら、キスをされてそのまま気を失ってしまったこと。
「私、なにか、飲まされて……」
小さなカプセルに入っていたのはいったいなんなのだろう。たった数ミリリットルで人ひとりの意識を一瞬で失わせるなど、まともな薬ではあるまい。
「くっ……」
六華は体に力を込めるが、やはり動かない。
それもそのはず、後ろに回された腕は手首を重ねるように締め上げられていて、両足も足首が固定されていたのである。
「――これ、なに……?」
六華は寝ころんだまま、自分の足を前へと伸ばす。
足首は細いリボンのようなもので結ばれていて、見たこともない紋章の札が一枚貼られていた。
「術式……っ……」
術式を展開しようとしたが、穴の開いたバケツに水を流し込むように、力が満ちる手応えがまるでない。
どうやら術式を封じる力が働いているようだ。おそらく後ろ手に回された手首にも同じ札が貼られているに違いない。
「もうっ……」
苛立ちと焦りが込み上げてくるが、深呼吸を繰り返して冷静になろうと努力する。とりあえず唯一自由になる首を動かし部屋の中を見回した。
「今、何時なの……?」
だがこの部屋には残念ながら時計がなかった。
ホテルならあるはずだが、冷静になって考えてみれば、意識を失った六華を抱えてホテルに入るのは目立って仕方ないはずだ。ということはここはホテルではない可能性が高い。
(玲さんの家……なんだろうか)
確か玲は、竜宮から車で二十分程度のマンションに住んでいると聞いたことがある。
貴族の次男坊の彼なら、ホテルかと思うようなこの部屋の主と聞いても納得できる。
(なんとかしてここから出なきゃ……)
六華は体全体を使って芋虫のようにベッドの上を移動し、頭を打ち付けないように床に転がり落ちる。ドスンと音がしたが、床には毛足の長い上等な絨毯が敷かれていて、それほど響きはしなかった。
耳を澄ましたが、誰の足音もしない。
(玲さん……いないのかも……)
だったら今がチャンスだ。
とりあえず六華はずりずりと這いながら窓へと向かい、えんじ色のカーテンの下から頭を突っ込んで外を覗いた。
「――なにも……見えない……」
ただ白い壁が見えるだけで、窓の外はバルコニーのようだ。
かろうじて見える空は濃紺である。せめてわかりやすい星でも見えたら方角の予想もつくのだが、あいにくの曇り空らしく星一つ見えない。
(でも……とりあえず夜だな……うん……夜だ)
夜明けを迎える雰囲気でもない。
六華はまたずりずりと体を動かして、窓を背にして上半身を起こす。
どうやら術式が封じられているだけでなく、六華が本来持っている身体能力も大幅に減少しているらしい。たったそれだけのことにかなりの時間がかかってしまったが、ハァハァと息を吐きながらも、なんとか体を起こすことができた。
「よし、次は……」
六華は震える足に力を込めて、じわじわと立ち上がる。
「くっ……」
全身ががくがくと震える。
五分、十分……どのくらい時間がかかっただろうか。
なんとか立ち上がったと思った次の瞬間、
「驚いたな」
と、柔らかい声がして。顔をあげると、開け放ったドアにもたれるように玲が立っていた。
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