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上司ではなく、今度は部下の私が頑張る番です。

いつき

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『ゆるすよ……』

 そして水色のパジャマを着た彼は、ゆっくりとうつむいた。
 尖らせた唇はひよこの嘴(くちばし)のように尖っていて、ふっくらした頬が印象的だった。
 朝日にはっきりと照らされた『幼いころの自分にうりふたつな存在』は、二十六の自分よりもずっと大人だった。

(俺はこの年になっても、他人はおろか、自分すら許すことができなかったのに……)

 茫然と幻を見ているような気持ちで彼を見ていた大河だが――。
 それはほんの数秒のことだった。

(いや、ちょっと待て)

 大河は瞬きを忘れて、目の前の、ごく普通の部屋の真ん中に敷いた布団の上に立っている子供を見つめる。

「――いつき……?」

 呼びかけると、彼は目線だけゆっくりと持ち上げる。

『なに、おとうさん』
「――」

 おとうさん。
 おとうさん?

 今確かに、『いつき』は自分に向かってそう言ったようだ。しかも唇も動かさないまま、直接大河の頭の中に語り掛けてきた。
 超感覚的知覚。いわゆるESPと呼ばれる能力は術式とはまた違う、いわば魔法の領域だ。かつて竜はその力を自由に使ったと聞く。ドアを内側から押さえていたのは、その能力の一端のように思えるが、彼は竜ではない。
 などと、あれこれ考えていた大河だが。

「いや……おと……え?」

 大河はじっと『いつき』を見おろした。

(今、彼はなんと?)

 人は理解が及ばない状況になると、目の前のことですら情報を処理できないらしい。
 大河は凍り付いたように、自分をじっと見つめる『いつき』を見下ろす。
 大きな目に、さらさらの黒髪。バランスのいい美しい顔だ。瞳は墨のような漆黒だが白目は青みがかって澄んでいる。
 今では眉間のしわが深い、愛想もなにもない男に育ってしまった大河だが、かつて山尾がたくさん残してくれて彼の家に秘蔵コレクションとして残っているアルバムの、幼いころの自分の写真と、彼はうりふたつだった。
 それこそ、血縁としか思えないレベルで――。

『しっかりしてよ、おとうさん。ぼーっとしてるばあいじゃないんだよ。ほんとうにもう……』

 そしていつきは、ふうっとため息をつき眉間にしわを寄せた。
 大河の様に――。

「樹っ!」

 突然ドアがバタンと勢いよく開いて、廊下から悟朗が飛び込んできた。

「樹ぃぃぃぃ~!!!!!」

 半泣きの悟朗は布団の上の樹をひょいと抱き上げた。

「いったいどうしたんだ~! なにもされなかったかぁぁ!!!! じぃじがよしよししてやるからなぁ!」
『いたいいたい……おじいちゃん、いたい……』

 樹は不服そうに小さな手のひらで、全力で頬擦りしてくる悟朗の頭をぺちぺちと叩く。

「そうかそうか、こわかったかぁ!」

 だが悟朗には樹の声は届かないようだ。樹は眉を八の字にして、ふうとため息をつきつつ、悟朗のされるがままになっている。

「じぃじ……おじい……ちゃん?」

 大河がぽつりと口を開くと、悟朗がはっとしたように目を見開いて、樹を腕の中にかくまうように抱きしめる。樹の姿がすっぽりと隠れて見えなくなってしまったが、悟朗は達磨に似たいかつい顔でさらに眉を吊り上げ叫んでいた。

「ああ、そうだよ。樹は俺の最愛の娘、六華が生んだ世界で、世界一かわいい孫だ! でもな、六華はシングルマザーだからって、仕事をおろそかにしたことは一度もねえからな! 自分を育ててくれた姉を守りたいって、その一念で危険な警備隊に入ったんだ! 樹だってこんなにちいせえのに、わがまま言わずに母親の帰りを待ってるんだ! それを母親だからって理由で辞めさせようってんなら、出るとこ出てやってもいいって思ってんだからなっ! いいか、わかったか隊長さんよ!」

 どうやら悟朗が必至になって樹の存在を隠そうとしていたのは、六華のためを思ってのことらしいが――。
 一方、大河の脳の処理能力は、限界を迎えようとしていた。神経がチリチリと音を立てている気がする。

(彼が言うように、俺がこの子のお父さんで、この子のお母さんが六華なら……)

「矢野目さん、樹くんの年は……?」

 大河の声はかすれていた。

「としぃ!? 五つだよ。かわいい盛りだろう! まぁ生まれてこの方、ずっと右肩上がりでかわいさマシマシ天井知らずだけどな!」

 よっぽど樹を溺愛しているのだろう。
 ふんふんと鼻息も荒く、悟朗は言い切って胸を張る。

「五歳……」

 自分は元服前後、本当にひどい生活を送っていて、自分に近づいてくる女たちをとっかえひっかえしては、自暴自棄な生活を送っていたのだ。身に覚えがないわけじゃない。

(もし、過去の俺が傷つけた女たちの中に、六華がいたとしたら――)

 大河の全身から血の気が引いた。
 大河はぎゅっとこぶしを握る。骨がみしりときしんだ音をたてた。

 ようやくいろんなことに合点がいった。

(六華は知って……いたんだろうな。当然……)

 脳内に、えへへと笑う六華の顔が浮かぶ。
 六華に惹かれ近づこうとする大河に、『恋なんかできない、するつもりもない』と言った六華。それでも自分がぐいぐいと近づけば、困ったようにしながらも拒むことは一度もなかった。

(それは俺が……樹の……父親で……)

 脳内に、過去の記憶が次々とフラッシュバックする。
 荒れていた自分。他人から最低だと罵られることにほっとしていた自分。
 アルコールに弱いくせに毎晩飲み歩き、愛されたいともがきながら、誰も心に入れようとしなかったあの頃――。
 白いTシャツとデニムという、飾り気のない向日葵のような少女が唐突に頭に浮かぶ。
 顔のあたりに靄がかかって、よく見えない。

(君は誰だ……もしかして……六華なのか……?)

 なんとか記憶を呼び戻そうとすると、
「っ……」
 突然、ズキッと差し込むような痛みがこめかみのあたりに走る。あまりの激痛に眩暈がした。指でこめかみを押さえながら呼吸を整える。

「隊長さん、頼むよ。六華を首になんかしないでくれ……」

 頭を抱える大河を、あきれていると思ったのだろうか。悟朗が心配そうに声をかけてきた。

「いや……そんなことは……決して……しない」

 後悔先に立たずとはよくいったものだ。今ほど過去の自分の行動を悔いたことはない。
 大河は首を横に振った。

「ならいいけどよぅ……」

 悟朗がほっとしたように笑みを浮かべるのと、階下から、「隊長!」と声が響いたのはほぼ同時だった。加地だ。

「加地、二階だ!」

 大河が叫ぶとダダッと階段を駆け上がる音がして、加地が部屋に飛び込んできた。

「矢野目の昨晩の足取りがつかめました! 至急、詰め所に戻ってください!」

 それを聞いて大河は切れ長の目を見開く。
 六華の足取りがわかった。

(今はうじうじと後悔などしている場合じゃない。そんなものはあとだ!)

「わかった。すぐに戻ろう」

 大河は悟朗にぺこりと会釈をして、部屋を飛び出す。
 振り返ると、悟朗に抱かれた樹と視線が重なる。

「必ず助ける」

 樹はこくりとうなずき、階段を駆け下りていく大河の足音に耳を傾けながら、唇の端にほんの少しだけ笑みを浮かべたのだった。
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