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上司ではなく、今度は部下の私が頑張る番です。
許し
しおりを挟む男の子だろうか。それとも女の子だろうか。
とにかくとてもかわいらしい、子供の声だった。
そして問いかけは、大河の耳にとても愛おしい響きとして伝わってきて、
「いつき……?」
思わず手を伸ばしてしまっていた。唐突ではあるが、なぜか手を握りたくなった。自分に関心を持ってもらえたのが嬉しかったのかもしれない。
だが手のひらは変わらず宙をむなしく切るだけで、『いつき』に触れることはできなかった。まだそこまで許されていないらしい。
(でも、話は聞いてくれているんだな……)
むなしい独り言でなくてよかった。大河はほっとしつつ、両手を膝の上で祈るように絡ませ、話を続けることにした。
「俺は、ずっと自分がいらない子供だと思っていたんだ」
大河の唇に、かすかに笑みが浮かぶ。
それは六華がたまに見て悲しくなってしまうような、すべてを諦めている微笑みなのだが、本人は気が付いていない。暗闇の中で、大河以外の誰か――『いつき』がかすかにたじろぐ気配がしたが、大河には届かなかった。
「俺の名前……久我大河は、元服してこの国を出るときにもらった名前だ。それまでは周囲から『リン』と呼ばれていた。だから俺はこれが自分の名前だとずっと思っていたんだが……本当は違った」
大河は自嘲するように笑う。
「神祖の竜が持っていたという八十一枚の鱗(うろこ)のうち、あごの下に一枚だけ逆さに生えていた鱗。温厚な竜を怒らせる唯一の鱗……。人はそれを逆鱗(げきりん)と呼んだ。それが本来の俺の呼び名なんだ」
逆鱗のリン。忌まわしいツノナシ。
それはもはや名前ではない。
大河に与えられた『属性』だった。
「俺は竜の角を持たず生まれたツノナシのくせして、人にはない竜の力を持つ、いわばブレーキのない暴走機関車というわけだ。当然、大事にされるはずがないさ……」
大河は自分の心に向き合いながら、言葉を選び、いつきに伝える。
「リン。俺の呼び名……竜から生まれた忌まわしい存在。誰も俺の生を望んでなどいない。だからずっと自分を大事に思えなかった。愛してほしいと思いながら、本当はたくさんの人に支えられていたはずなのに……誰の善意も受け入れようとはしなかった。俺には優しくしてもらったり、気遣ったりしてもらえる価値はないからと……どこかで思っていた。矛盾しているよな」
大河はふうっと息をはき、うつむく。
「でも最近になってようやく、そうじゃないかもしれないと思えるようになった。それは六華のおかげだ」
その瞬間。
パシンッ……。
ラップ音、家鳴りとでもいうのだろうか。空中で手のひらを叩いたような音がした。
大河は一瞬顔を上げてあたりを見回したが、相変わらず部屋は漆黒の闇だ。
ほんの数秒、おかしな間が起きるが、いやな雰囲気は感じなかった。
そういえばフランスで暮らしていたころ、知り合いの家族の家でおしゃべりをして会話に間が開いた時に、子供たちが『天使が通り過ぎた!』と言っていたことをふと思い出した。
(まぁ、しゃべっているのは俺だけだけど……)
この不思議空間にも天使が通り過ぎたのだろうか。
大河はふっと笑って、言葉をつづける。
「六華は本能で俺の力の片鱗を感じ取っても、距離を置こうとはしなかった。なんでもないと強がる俺に大丈夫と言ってくれた。出会いはあまりいい形ではなかったし、ほかの女たちの様にお世辞にも俺を好いているという態度ではなかったが……見て見ぬふりはしなかった。俺がどんな態度をとっても……一度もだ」
無視されない。見捨てられない。
それは大河にとってどれほどの福音だろうか。おそらく六華本人ですら意図しないレベルで、大河は自分の存在を許されたと感じていたのだ。
神祖が竜の血を残すことを決意してから二千年。竜の魅了の力は自分が意図しなくても人の女を引き寄せる。子を成すためだ。
それでも皮肉なことに竜に子はなかなかできない。側室を三百人も持っていた父と呼ばれる人ですら、皇太子と自分しか子はできなかった。
そして竜でありながら竜ではない。ツノナシの自分にも女の体を開かせる才能があるのは、もはや呪いだろう。
だから異性に本気で愛された実感は一度もなかった。女たちは竜の血に惹かれているだけで、自分自身を愛しているわけではないのだと――。
女を嫌いながら女を抱いて、自暴自棄に遊びまわって。愛されないからと他人を傷つけていた。我ながら最低な青春時代だった。あの頃に戻れるなら自分をぶんなぐってやりたいが――。
ふと、大河の胸に暖かい風のようなものが吹きぬける。
後悔ばかりの日々の中ではあったが、ただそれだけではなかった。
ぽっかりと大きく開いた胸の穴を撫でるように、いたわるように。荒ぶる大河の魂に、大丈夫だと、心を温めてくれる手のひらの熱をかつて感じたような気がしたが。
いや、今はそれどころではない。
大河は自分の言葉を待っているはずの『いつき』に呼びかけるように言葉を続けた。
「六華に出会えたのは母のおかげだ。どんな事情があったにせよ、母が生んでくれなかったら、今俺はここに存在していないだろう。もしかしたら生きていていいのかもしれないと思えた今、じゃあお前を生まれなかったことにしてやろうと言われても、困ると思う」
大河はかすかに笑って、手をぎゅっと握りしめる。
「いつき。君からお母さんを失わせるわけにはいかない」
大河ははっきりと言い切って、それから床に置いたままの金剛の鞘(さや)を左手でつかんだ。
「いつき。君の知っていることを教えてほしい。絶対に、救ってみせるから……!」
その瞬間――。
突然差すような光が、大河の目をくらませた。
窓も開いていないのに風が吹いてカーテンを揺らし、朝日が部屋に差し込んできたのだ。
「……っ……」
大河はとっさに右手で目の上を覆うが、遅かった。暗闇から突然光の真ん中に放り出されて、視界が真っ白になった。開ききった瞳孔に大量の光が入ってきて目がくらむ。
窓から差し込む光が、ひとりの影を浮かび上がらせる。
一メートルちょっとの小さな影だ。
(あれは……子供の時の……俺?)
これは夢なのだろうか。
幼いころの自分が、自分をまっすぐに見つめている。
『ゆるすよ……ゆるせないけど……ゆるす……おかあさんのために……』
今にも泣きだしそうにきつく一文字に結んだ唇が、わなわなと震えている。
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