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上司ではなく、今度は部下の私が頑張る番です。

最悪の状況

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「隊長、矢野目の携帯鳴らしてるんですが、やっぱり電源切れてますね」
「――そうか」

 助手席に座っている武骨な男――ちなみに矢野目家からの電話を取った隊士である加地(かじ)の返答に、大河はシンプルにうなずく。
 彼女が携帯に出てさえくれればと思ったが、さすがにそう簡単にはいかないらしい。
 六華の家は完全に頭に入っているがナビ通りに進んでも一向に近づけない、そんな気がした。ただ気持ちが焦っているだけだとわかっているが落ち着かなかった。
 なんとか目的地である彼女の家の前で車を停めて、ごく普通の一軒家を見上げる。

「ここが矢野目の家……ですか。普通ですね」

 加地が意外だという風に目を細める。
 ごく普通の、下町の住宅街だ。あちこちで換気扇が回っていて朝食を作っているらしい匂いがした。

「皇太子妃の家だから、豪邸にでも住んでいると思ったか?」
「ええ、まぁ……」

 加地が苦笑しながら頭の後ろをガシガシとかいた。
 彼は一般の出だが剣の腕に優れて、隊士歴道十年のベテランだ。竜宮に勤める人間の認識ですらそうなのだ。要するにこれが国民の一般的な感情なのだろう。

「矢野目家は援助のすべてを受け取ってはいない。当初は実家への援助は不要と断られたとか……。ただ竜宮にもメンツがあるから無理やり受け取らせたらしいが、あくまでも皇太子妃が受け取るものだということで、口座の金はまったく動いていないらしい」
「そうだったんですか。まぁ俺の家が瑞穂に選ばれたりなんかしたら、きっと豪邸を建ててしまうでしょうけどね」

 加地はあははと苦笑しながら、それでも物珍しそうに矢野目家を眺めていた。
 門の入り口には『セールスお断り』というステッカーが貼ってあった。
 確かにこのごく普通の一軒家から、皇太子妃が出たとは想像しづらかった。

 皇太子妃への援助は国家予算である。だが矢野目家は分不相応だと受け取らない。貴族出身ではない双葉の立場を悪くしないようにつつましやかに生きている。
 初めて竜宮で六華に会った時――塀を乗り越えた彼女に下敷きにされたあの時、六華姉妹を侮辱するという過ちをおかした大河だが、その後、山尾から矢野目家の懐事情を聞いてひどく落ち込んだのは記憶に新しい。

(あれからまだ二か月も過ぎてないのか……)

 大河は腰の高さほどの門を開けて中に入り、玄関の前に立つ。
 いい思い出のない竜宮であるはずなのにそれほど辛くないのは、六華がいるからだ。彼女と出会ってからずっと、自分の心は六華にとらわれている。それがいい意味なのか、悪い結果をもたらすものなのかは別にして――。

 人の心というのは不思議なものだ。
 いや、そもそも自分は人なのだろうか。
 無言電話を聞いてからずっと、おかしな感覚が体を包んで抜け出せない。
 自分の自意識を透明な膜が包み込んでいるような、感覚が鋭くなりすぎて、体がついてくるのが若干遅れているようなそんな気がするのだ。

(寝不足のせいかもしれないな)

 夜通しあった長い会議のせいで食事も睡眠もほぼとれていない。
 ツノナシである自分は人にはない力を持つが、だからこそ不安定でもある。常日心から心身ともに健康を保つべきなのだが――。

(いや、俺の体なんて今はどうでもいい……!)

 六華の無事が第一だ。
 一抹の不安を振り切るようにして、大河は玄関のチャイムを押した。
 腕時計に目を落とすと、六時前。そろそろ日が昇り始める。振り返るとちょうど、空の端がうっすらと明るくなっていた。職場の上司が押しかけるにはふさわしくない時間だが、事情が事情だ。

(六華が家から出て来てくれさえすればいい。なにかの間違いだったと言ってくれれば……)

 そうしてくれたら大河は部下の手前、目くじらを立てて怒った顔をしながらも、ほっと胸を撫で下ろすだろう。

「はーい!」

 ドアの向こうから、やたら大きな男の声が返ってきた。
 噂の父親だろうか。
 背筋を伸ばしてドアの前から一歩下がった瞬間、ガチャリとドアが開いた。

「誰だぁ、こんな朝早くに!」

 身長は百九十近くあるのではないだろうか。かなり長身である大河よりもさらに数センチ高い。筋骨隆々の体をエプロンで包んだ大男だが、ぱっちりとしたはしばみ色の目は大きくどこか愛嬌がある。目の色が六華と同じだ。その視線が、コートに身を包んだ大河と加地、それから玄関前に止められた車へと移動する。
 社用車で来ればよかったと思ったが、完全に頭から抜け落ちていた。

「初めまして。竜宮警備隊、三番隊隊長の久我大河と申します。こちらは私の部下の加地です」

 斜め後ろに立つ加地が、名前を呼ばれて黙って会釈する。

「三番隊の隊長さんと隊士さんかい。いつも六華が世話になってるな」

 そう言いながら、彼のはしばみ色の目に影が差した。

「――六華に何かあったのか」
「え?」

 加地が驚いたように目を見開く。

「そうじゃないのか? 六華はまだ仕事中だろう。本人がいねえのに上司がうちに来たんだ。てっきりそういうことかと……」

 悟朗の言葉に大河の全身から血の気が引いていく。
 それでも状況を整理するために大河は事実を口にした。

「矢野目さんは、昨晩いつも通り帰宅したはずなんですが」
「――はっ!? なんでだよ、どういうことだ……? あいつはまだ帰ってきてないぞ……!」

 悟朗は全身を大きく振るわせて、それから落ち着きをなくしたように視線をさまよわせた。
 悟朗の反応は、大河が想定していた中で一番よくない展開を意味している。

「忙しい時期ってのは聞いてたし、それでてっきり朝まで残業してるもんだと……」

 最悪だ。六華は昨晩から戻っていないらしい。
 大河の胸がヒュッと冷たくなる。
 それでもなんとか理性で感情を押し殺し尋ねる。

「私たちが来たのは、一時間ほど前、ご実家から三番隊の詰め所に不審な電話があったからです。お心当たりは?」
「うちから電話……? そんなはずは……」

 悟朗はそう言いながら大きな手を口元に運び、ごしごしとこする。

「どうやら立ち話できるような状況ではないようです。家の中に入れていただいてもいいでしょうか」

 いいかと尋ねながらも、大河に引く気はなかった。
 ずいっと一歩、体全体で悟朗を押すようにして玄関の三和土(たたき)に足を踏み入れた。
 視界の端に小さな靴が見えた。十七、八センチくらいの大きさで、マジックテープタイプの黒のスニーカーである。

(小さな子供がいるのか……)
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