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上司がぐいぐいきます。

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 筋肉がねじれ関節がきしむ音がした。
 驚いた六華は一瞬声をあげそうになったが、すぐに奥歯をぐっとかむ。
 職場で悲鳴をあげてはいけないと理性が働いたのだ。
 その数秒後、玲は自分が六華の腕をひねり上げていることに気が付いたらしい。

「ごっ、ごめんっ……」

 彼は真っ青になりながら慌てて手を放し、それから隠すように手のひらを首筋に当てて、後ずさった。

「りっちゃん、本当に……ごめん……」
「いや……大丈夫です」

 確かに驚いたが折れるほどではない。
 だが玲は青を通り越して真っ白になっていた。よっぽどショックを受けたのだろう。

「――ちょっと……頭冷やしてくるね……本当にごめん……」

 玲は慌てたようにぼそぼそとつぶやくと、くるりと踵を返して足早に詰め所を出て行った。

(玲さん……)

 六華はつかまれた右腕をさすりながら、目を伏せる。

 なぜ、どうしてこんなことになった?
 午前中、六華がランチに行くまでは普通だったはずだ。
 いったい自分の何が玲を怯えさせたのだろう。

 六華が首をひねっていると、向かいの席の同僚がパソコンの隙間からひょいっと顔をのぞかせる。

「ほら。これやるよ」

 差し出されたのは湿布だった。どうやら今のやり取りを見ていたらしい。

「ありがとうございます」

 六華は素直に礼を言い、隊服の袖をめくって、つかまれた手首のあたりにペタリと貼りつける。ひんやりとして気持ちがいい。

(落ち着け私……)

 玲に腕をつかまれたあの一瞬、心臓までつかまれた気がした。
 六華は軽く息を吐き、呼吸を整える。

「あの……今の私、なにか変でした?」

 他人に聞くのもどうかと思うが、本当にわからない。
 すると同僚は、「うーん……」と首をひねりながらどこか困ったように苦笑する。

「まぁ、俺たちってつい間合いとか測っちゃうじゃん。普通に生活してても」
「はい」

 自分の身を護るため、そして敵を認識しやすくするため、六華たちは極力人と接触しないように徹底的に鍛えている。
 それはもう習慣のようなもので、なおかつ体に染みついているものだ。

「だからもしかしたら清川、緊張してたんじゃないか?」
「緊張?」
「気を張ってたから、首に手を伸ばされてとっさに制圧しようとしたんじゃないかと」
「――そう、ですか」

 玲はいつもニコニコと笑い、六華には軽口をたたき気安い態度を通している。
 だが本当は常に気を張っていたとしたら。
 本心では三番隊唯一の女である六華のことを、胡散臭い目で見ていたとしたら。

「もしかして私、本心では玲さんに嫌われて……?」

 だとしたらものすごく悲しいし、なぜ今の今まで気が付かなかったのかと自分が情けなくなる。
 しょぼんと打ちひしがれる六華を見て、同僚は慌てたように「いやだからってお前が悪いとは思わねえけど」とフォローを入れてきた。

「そもそもなんであいつに手を伸ばしたんだ?」
「首のあたりなんですけど、赤くなってて。汚れてるのかと思って……」
「あ、それだわ」
「え?」

 それとはなんだ。六華が首をかしげると同僚はにやにやと笑って声を潜める。

「あいつ、女官にキスマークでもつけられてたんじゃないか?」
「えっ!? きっ、キスマークッ!?」
「ばか、声がでけえ!」
「あっ、すみませんっ」

 六華は慌てて手のひらで口元を覆いながら、背中を丸めてひそひそとささやいた。

「でも、キスマークって……あんまりですよ」

 玲は『こんな仕事だからおいそれと女性と付き合えない』と言っていた。モテるが決してそんな遊び人ではないはずである。
 六華は頬を膨らませて抗議すると、同僚は「それはどうかな~」と首の後ろに両手をやって、椅子の上でのけぞり足を組んだ。

「あいつ、お前が来るまでは結構派手に遊んでたぞ。女はとっかえひっかえ。来るもの拒まず去る者追わずで。あいつに振られて竜宮を辞めていった女子は両手両足じゃ足らないって噂だ」
「ええっ……」

 意外過ぎる彼の過去に戸惑いしか感じない。

(玲さんが、とっかえひっかえ遊んでたって……)

 六華が知っている玲は今の玲だ。多少口説くようなセリフを吐くけれどそれはあくまでも冗談で。自分が来るまで遊んでいたと言われても信じられなかった。

「まぁ俺はわからないでもないぜ。こういう仕事してると、どうにもおさまらないときってのがある」
 と、同僚は訳知り顔で肩をすくめた。

「そんなものなんですかね……」

 武器を振るい、あやかしを切ると、確かに気が高ぶる。それは人としての本能のようなものなのかもしれない。
 だが六華には家に帰れば樹がいて、日常に戻るすべがある。

「そうそう、そんなものだって。だからあんまり気にするなよ」
「はい……」

 確かに自分が気にしていては玲が傷つくかもしれない。

 それからしばらくして戻ってきた玲は、首元にばんそうこうを張っていた。すぐさま向かいの同僚が口パクで『ほら見ろ』とささやくのが目に入る。
 キスマークを隠しているのだと言いたいのだろう。

「玲さん……」

 思わず声をかけると、
「さっきはごめんね。虫刺されだったよ」
 にっこりと笑う玲はいつもの玲だ。

「虫刺され……そうですか。早く治るといいですね」

 口ではそう言いながらも、正直玲の言葉を百パーセント信じる気にはなれなかった。

(虫刺され……キスマーク……?)

 すぐ隣でそれを見た六華は、どちらも違う気がした。
 じゃあそれがなにかと言われたら、やはりなにも思いつかないのだが――。

 この一件は、六華の胸に引っかき傷のようなささいな爪痕を残したのだった。
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