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上司がぐいぐいきます。

竜の血

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 人はどうしようもない状況の中で辛いことが起こると、精神の安定を保つために脳がドーパミンに似た物質を出して躁状態になる。
 こんなことは大したことではない、自分は大丈夫だと、そうやって誤魔化し自分を騙して正気を保とうとするらしい。
 六華の目に、大河はまさにその状態に見えた。

(きっとこの人は、小さいころからずっと……そうやって傷ついた自分を誤魔化して……)

 彼の幼いころなど知るはずもないが、きっと樹とよく似ていただろう。

(今までこの人を護る人はいなかったの……?)

 樹とよく似た小さな男の子が、自分を要らない子だと思いながら、大粒の涙を流しているところが目に浮かんで、胸が切り裂かれそうになった。

(だめだよ、そんなの……!)

 六華の喉の奥から、熱い塊のようなものがこみあげてくる。
 我慢して、我慢して、そしてすぐに耐えきれなくなった。

「……てっ……」

 六華の唇から悲鳴ににた言葉がこぼれた。

「え?」

 よく聞き取れなかったのか、大河が少し不思議そうに首を傾げた。
 長いまつ毛が不安定に揺れながら、六華の唇に視線が向けられる。

 自分を見つめる黒い目が、樹と重なる。
 愛している存在が傷ついているのに、守ることもできない。
 こぶしで胸の真ん中を力いっぱい殴られたような、やるせない気持ちになる。

「だから……そんなこと言わないでって、言ってるんですっ……!」

 六華は身を振り絞るようにして叫ぶと、椅子から立ち上がりそのままテーブルを回って体当たりをするように大河の胸に飛び込んでいた。

「自分のことを、出来損ないなんて、そんな悲しいことを言わないで……! あなたは出来損ないなんかじゃないっ! わたしの、私の、大事な――」

 樹の父親で。
 そして唯一愛した、大事な人だから……!

 六華は言葉を飲み込み、その代わりに精いっぱい腕を伸ばし、きつく大河を抱きしめていた。


 それはおそらくほんの数分の出来事で。傷ついた大河を癒すにはまったく十分でない時間だったが、大河は緊張したように体を硬直させたまま、黙って六華に抱きしめられていた。
 ぎゅうぎゅうと自分の胸におでこを押し付ける六華を見下ろして、大河はなにかを言おうと唇を開き、けれど言葉が見つからないまま唇を引き結ぶ。
 さらに何度か六華の背中に手のひらをのせようとして、結局それができず拳を握り、手を下ろしていた。
 今まで何度も六華をその手に抱き寄せ、口づけたり、からかったりしてきたはずなのに、今は指一本触れられない。
 普段は心の奥底に押し込めている劣等感が顔をのぞかせた結果、六華に触れていいものなのか、戸惑わせたのかもしれない。
 そんな大河の心のうちに吹き荒れていた嵐のような葛藤に、六華が気づくはずもない。
 ただ駄々っ子のように大河にしがみついて、辛い思いをしないでほしいと願うばかりだった。

「――六華」

 大河の呼びかけに、六華は顔を上げる。

 なにを言われるのだろうと緊張したが、
「ありがとう」
 と、感謝の言葉を口にする大河の目は穏やかだった。
 先ほどのような自嘲の気配もどこかに消えている。

「あ……」

 すると途端に、自分がしていることが恥ずかしくなった。

「いえ、あの……急に抱きついたりして、すみません……」

 変に思われなかっただろうか。我ながら大胆なことをしてしまった。
 六華はそっと腕を下ろして、視線をさまよわせたが、

「いや、嬉しかった」
「えっ」
「ここが俺の部屋ならな。間違いなく押し倒してるよ」

 大河がいたずらっ子のように唇の端を持ち上げてほほ笑む。

「ちょっとー!」

 六華は顔をトマトのように真っ赤にして、ざざざーっと後ずさり距離をとった。

「あはは! 素早いな」
「だって変なこと言うから! っていうか私は押し倒されたりなんかしませんからねっ!」
「わかってるよ」

 大河はふふっと笑いながら顎先に拳をあて、切れ長の目を細めゆったりとうなずいたのだった。




「じゃあまた明日な」
「はい、また明日」

 坂下門の手前でくるりと踵を返して立ち去る大河に手を振って、彼の背中を見つめる。
 歩いている後ろ姿も美しく、いつまでも見守っていたい、そんな気になる。

 出会った時から人とは違うと思っていた。十八歳の六華の目に、久我大河は輝いて見えた。
 唯一無二、自分はこの人に出会うために生まれてきたのだと本気で感じた。
 そんな六華の勘は間違っていなかった。
 竜は人を魅了せずにはいられない生き物なのだから。

(久我大河は竜の一族……。そして角を持たずに生まれてきた『ツノナシ』)

 六華の胸に不安がよぎる。

(ということは樹も……竜の血を引いているってことだ……)

 それは六華の肩に重くのしかかる真実だった。
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