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上司の秘密が知りたいです。

彼の一面

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 視界が遮られて思わずぎゅっと目をつぶる。

「六華」

 大河の指先が六華の額に触れる感触がした。
 冷たい風と熱い指先が六華の心をかき乱す。
 ゆっくりと髪をかきわけて顔を覗き込むようにして近づく気配に、体がかすかにこわばった。

「返事は?」

 返事とはいったいなんだろうと一瞬、迷って。
 そういえば玲のことが好きなのかと、頓珍漢(とんちんかん)なことを聞かれたことを思い出した。

(なぜそんな発想になるんだろう)

 玲は女性全般に優しい紳士だ。確かに六華を口説いているようなそぶりを見せるが、あれは彼にとって習慣のようなものである。
 そして何より、これが一番大事なのだけれど――六華が大河を好きで、決して無視できないことを、大河は本能でわかっているはずだった。

(もしかして、彼も不安になったりするの?)

 きれいで、強くて、けれどどこか陰のある大河も、自分と同じような気持ちになったりするというのだろうか。

「玲さんは頼りになる先輩です。それ以上でも以下でもなく」
「――」

 大河は無言で六華の髪を指先でくるくると回し始める。あまり信じていない雰囲気だ。
 だが六華にはそれ以上言えることなどない。
 彼のことを心から思っているけれど、燃えるような恋心を胸の奥に秘めてはいるけれど、決して口にすることはできないと思っているから。
 だがいい加減、無言はきつい。

 なにか言ってくれたらいいのにと思った次の瞬間、
「だったら俺を見ろよ」
 心臓がどくりと跳ねた。

 目を開けると、至近距離で六華を見つめる大河がいた。
 吐息がふれるような距離で大河が熱っぽい瞳で自分を見つめている。

「俺もお前に見つめられたい」

 大河が、切れ長の目を細めてほんの少しだけ微笑む。
 どこか子供のようにも聞こえる素直なお願いに、六華の胸の奥が、ぎゅつとつかまれたように痛くなった。

 冗談に見せかけて本気なのだ。
 また彼は見つめあたいと言っている。そんなことをしたらまた――。
 唇に彼のぬくもりを思い出した。

「もうっ!」

 六華は両腕を伸ばし大河の胸を突いて距離をとるしかない。
 このままでは心臓が破裂してしまう。

「私、仕事の途中なので、行きますねっ! 失礼します!」

 六華は大河の返事を待たないまま、駆け出していた。



 だが大河の足は速かった。数秒で追いつかれて隣に並ぶ。

「巡回なら俺も付き合おう」
「けっ、結構です!」

 ふたり一組が原則だとわかっているが、大河にこれ以上ちょっかいを出されては自分が保てない。
 六華は慌てて加速したが、大河は六華の横にぴったりとついてくる始末。

(どういうことー!)

 仕方なく六華はさらに術式の段階を引き上げるしかない。
 全身の血がごうごうと流れていく音が耳の奥で響いた。
 一方、全速力の六華に比べて彼の表情は涼しかった。体の後ろに両手を組んでまるで滑るように走っている。まるでアイススケートを楽しんでいるような足さばきと優雅さだ。

 しかも、
「足さばきに無駄が多いぞ」
「呼吸を意識しろ」
「風の向き、太陽の向き、影の行方を見ろ。どんな異変も見逃すな」
 と、六華に指導までしてくる。

 結局、北桔橋門(きたはねばしもん)から平川門(ひらかわもん)、大手門(おおてもん)まで走ったところで、六華は力尽きた。
 術式を急展開したせいか、めまいがする。

「も、もう、む、り……っ……」

 足がもつれてふらついた瞬間、大河の腕が体の前に回って、抱き留められた。

「はっ……はぁっ……」

 脈拍が早い。呼吸が苦しい。
 情けないが大河の腕にしがみついて、二の足で立っているのがやっとだ。

「息を整えろ、六華」

 一方大河は息一つ乱さず余裕の表情だ。
 六華をまっすぐに立たせると、後ろから腕を回し、下腹部に手のひらを乗せた。

「呼吸だ。呼吸で体の中のエネルギーを循環させるんだ。さぁ、集中しろ」

 背中にたくましい大河の体を感じる。
 近いと思うが、そこにはまったく色気のようなものはなかった。
 彼が息をするたびに厚い胸板が六華の背中にふれて、隊服を着こんでいるはずなのに、彼の手のひらからエネルギーが伝わってくる気がした。

(あったかい……懐かしい……)

 じんわりと体が熱くなる。
 六華はふと唐突に、樹のことを思い出していた。

 出産時は大変な難産だったが、妊娠中、六華は何度も不思議な体験をしている。

 たとえば妊娠がわかる前――。
 道を歩いているだけで、犬やら猫やらが集まってきて、やたらなつかれた。
 庭には季節外れの花が咲き、どこからともなく鶯がやってきてよく鳴いた。
 その後妊娠したことが判明してからは、外出しなければいけないときは、六華が建物から顔をのぞかせただけで雨は止み、暴風雨も進路を変えた。
 自宅の階段で足を滑らせた時も、客間に仕舞っているはずの布団が廊下に敷かれていて、その上に転がって怪我一つしなかった。
 おなかの子を護るのは母である自分の役割であるはずなのに、むしろ護られているのは自分のほうだった。

(久我大河の手、樹と同じ感じがする……)

 大地と繋がり天の導きで力を与えられているような、そんな不思議な力が大河から流れ込んでくる。

「――そうだ。それでいい」

 大河が耳元でささやく。
 気が付けば六華の呼吸は整い、あれほど体の中で暴れまわっていた心臓も、一定のリズムを刻んで落ち着いていたのだった。

「――ふう……」

 六華は深く息を吐いて、肩越しに振り返る。

「今の呼吸を忘れるな。常に意識しておけ」
「……はい」

 うなずきながら、大河の耳の下にほくろを発見してたまらない気持ちになる。
 彼が樹と同じ感じがするのも当然だ。ふたりは正真正銘、親子なのだから。

(どうしていいかわからないな、本当に……)

 上司としての一面、初恋の男としての一面、そして息子の父の一面。
 すべて彼、久我大河だ。
 簡単には割り切れない。

 六華はぎゅっとこぶしを握ったり、また開いたりしながら、自分の感情をコントロールすることに勤める。
 それを大河は不安ととったのか、六華の両手を正面からつかみ引き寄せた。

「そんな顔をするな」
「え?」
「お前はもっと強くなれる。だから変わることに怯えるな。俺がそばにいて、見ていてやるから」

 見てほしいと言ったり、見ていてやると言ったり。忙しいことこの上ない。
 だが久我大河の言葉は素直に六華の心に入っていく。
 今はただ、ひとりの尊敬する上司としての一面に、六華の胸は熱くなった。
 ありがとうございますと言いかけたところで、

「――ついでに俺を好きになってくれたらいいんだが」

 大河がいたずらっ子のように笑って目を細める。

「もうっ! まだそんなこと言って!」

 六華はぷいっと横を向いて、また歩き始める。
 大河が楽しげに笑いながら後ろをついてくるが、隣に来るのはもう少し後にしてほしかった。

 耳まで赤く染まってしまったことをまだ知られたくない。
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