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上司から誘惑されています。

戻ってきた日常

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 パジャマに着替えて寝室に入ると、いつものように寝相よく眠っている樹の姿が目に入った。

(よかった、寝てる……)

 起こさないようにそーっと隣のお布団に体を滑り込ませた瞬間、唐突に樹の目がぱちりと開いた。

「……」

 寝ぼけているのかと思ったがそうではないらしい。
 樹はゆっくりと体を横にして六華と向き合った。
 六華も、彼にいつもと違うところだがあるだろうかと、じっと見つめ返す。
 黒い目は澄んでいて泣いた気配はもう見えない。けれど寂しがらせたのは事実だ。

「――ただいま」

 こちらから声をかけると樹はむくっと上半身を起こし、そのままこちらの布団の中へともぐりこんできた。

(珍しい……)

 だが素直に甘えてくる樹の態度は正直嬉しい。
 ぜいたくかもしれないが、樹がいい子過ぎるのでもっとわがままになってほしいくらいだ。

「今日は遅くなってごめんね」

 ゆっくりと胸元に抱き寄せ、樹の丸い後頭部を優しくなでる。
 さらさらと指の間を零れ落ちていく黒髪は絹糸のようで、柔らかい。

(樹の髪って、久我大河と同じ手触りなんだ……)

 以前も思ったが、樹は完全に父親似なのだ。

(この子も大きくなったら、眉間にしわとかできちゃうのかしら……)

 久我大河の容姿は、惚れた弱みもあってどこからどう見てもパーフェクト美男子で非の打ちどころはないと思うのだが、ものすごく不機嫌そうな眉間のしわは、似ないほうがいいと思う六華である。
 そうやって、『いいこいいこ』と頭を撫でていたら、樹がふいに六華の胸元に顔をうずめてきた。

「ん?」

 それ自体は珍しいことではないのだが、なぜか違和感を覚える。
 しばらくして、スンスン……と、かすかに樹の鼻息がふれた。

(匂いをかがれてる……)

 シャワーはしっかりと浴びたので、汗も返り血も落ちているはずだ。
 六華は慌てて樹の顔を見下ろす。

「樹、いやな匂いがする?」

 すると彼はまじめな顔で、こくりとうなずいた。
 全身からサーッと血の気が引いた。

「ごっ……ごっ、ごめんね、もう一回シャワーを浴びてくるからね!」

 過去何度もあやかしを切ってきたが、こんなことは初めてだった。
 急いでお布団から抜け出して浴室へ飛び込び、熱いシャワーを頭から浴びる。

(もしかして、鵺(ぬえ)のせいだろうか)

 この仕事について半年、初めて鵺ぬえと呼ばれるあやかしに遭遇した。
 あれはいつも六華が切っている『陰の気』とはまったく違う存在だった。
 身の丈五メートルはあろうかという鵺を倒したのは大河だが、彼を抱きしめたせいであやかしの匂いがついたのだとしたら、うかつとしか言いようがない。
 念入りに体を洗った後は、いつも使っているボディークリームをすりこむ。
 そうして布団に戻ると、樹は安心したようにくっついてきて、今度は落ち着いた様子で目を閉じた。
 どうやら自分から漂っていたらしい、嫌な臭いは消えたらしい。

(よかった……)

 今度から気を付けようと思いつつ、

「おやすみ、樹」

 小さな背中を、優しくぽんぽんと叩きながら六華も目を閉じる。

(今日はあわただしい一日だったな……)

 まだ体の芯に熱がこもっている気がする。珊瑚をふるった日はそうなることが多い。きっと気分が高揚しているのだろう。

 仕事とはいえ、やはりこれは普通のことではないのだ。
 だが樹という守るべき存在が、六華を日常に戻してくれる。

(守られているのはきっと、私のほうだ……)


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