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第31話
しおりを挟むチク、タク、チク、タク、と針の進む音がやけに遅く聞こえた。
「はじめまして、と言えばいいかな。菊花第九皇女」
円卓の向こう側に、麗しい王太子が座っている。
ちらり、と横を見れば涼しい表情をしたヴィンセントがいる。
本来、菊花は王太子殿下と対面して話せる立場ではないのを、王太子の我が儘で席に着いているのだ。
彼の護衛騎士や使用人たちは随分と白い目で菊花のことを見たが、ヴィンセントが氷の眼差しを向けるや否や蜘蛛の子を散らしていなくなった。
「ご機嫌麗しゅう。王太子殿下」
「まさか菊花皇女も一緒に来るとは思わなかったよ。どうだい、ヴィンセントは優しい?」
「……はい。とても、優しくしてくださいます」
菊花の返事に満足げに頷いた王太子は、す、と視線を流してヴィンセントに微笑む。怖いくらい穏やかな笑みだ。
彼の人の本性を知っている分、ヴィンセントは気がどんどん張り詰めていく。
「うんうん。仲良きことは良いことだよ。それで、改まって一体何の用だい?」
「……こちらの手紙を、王太子殿下へ」
控えていた使用人に封書を渡す。トレイにそれを乗せ、ペーパーナイフと共に王太子の元へ運んでいく。
結局、手紙の中身は教えてもらえずにいるが、「すぐにわかる」とだけ短く言われた。
「どうしてもわたくしが届けたかったんです」と言えば、眉尻を下げて、仕方ないなぁとでもいうかのようにキスをされた。
――あの後、訓練場で何があったのかは聞けていない。聞いたら今度こそ、燕風が殺されてしまうと思ったから。
「ヴィンセントはつれないなぁ。ちょっとくらいお喋りに付き合ってくれたっていいじゃないか」
「わかり切っているのに、会話をして何になるんです。時間の無駄でしかありませんね」
「はぁ……みぃんな、私にそう冷たいんだから。ちょっとくらい優しくしてくれたっていいと思わないかい?」
ね、と王太子は尋ねてくるがなんと反応を返すべきかと思案して、曖昧に微笑んでおいた。
「殿下、いちいち菊花に絡まないでください」
ぴしゃり、とヴィンセントが王太子を嗜めることができるのは彼の母アリア・サピロスが現帝王の妹であり、従兄弟同士の仲だからだ。
ヴィンセントだから王太子殿下は軽口を許すし、信頼をして、菊花を共に席に着かせた。
ス――とペーパーナイフで封が斬られる。
中に入っていた紙に目を通した王太子は、瞳を眇め、口角を釣りあげた。あ、目を細めた感じがヴィンセント様に似ている。
「――つまり、菊花第九皇女を婚約者にしたいから、私に証人になれってことかい」
「かまわないでしょう?」
「かまわないけどさぁ……五月蠅いのが何匹かいるだろう。それ、どうするつもり?」
テーブルの上で指を組んだ王太子はどこか呆れた物言いだ。
なんとなしに話を聞いていた菊花は、聞き逃せない言葉に思考が停止してしまう。――婚約者? 誰と、誰が?
困惑している菊花を置いてけぼりに、ふたりはどんどん話を進めていってしまう。国の内情やらなんやら、わたくしがいるのにいいのだろうかと思うようなことも聞こえてくるが、菊花はそれどころじゃない。
――婚約者? わたくしと、ヴィンセント様が?
スカートにシワが寄ってしまうのも構わず、ギュッと拳を握りしめる。
この感情は、喜びなんだろうか。ぐつぐつと心臓が茹って、頭の奥でパチパチと火花が散る。
ヴィンセントのペットから、婚約者になる。
この関係に、明確な名前がついてしまうのが酷く恐ろしかった。ぺディート女公爵や、ルペウス女公爵の元にいる姉妹たちは幸せとは言わずとも満たされた生活を送れている。目の前の王太子の元にも誰かがいるようだけれど、どんな生活を送れているのかわからない。
仲が良かったとは言えないけれど、きょうだい皆で歪なところを補い、支え合ってきた。兄上が、蓮がいたから菊花は菊花でいられた。――けれど、ヴィンセントの婚約者となってしまえば、その関係は大きく変わってしまう。
次期公爵の婚約者と、敗戦国の皇子たち。胸が苦しかった。張り裂けそうな痛みに嗚咽が溢れそうになる。
ユハは、「心配しているふり」だと言う。菊花もそれを認めている。自分が本当にきょうだいのことを心配しているのかわからない。
――かえりたい。
温かな、母の胎の中に帰りたかった。
雨に濡れた花のにおい。湿った土の感触。皇女宮の中に漂うお茶の香り。華服の布の揺れ。きゃらきゃらと笑う妹弟たちの声。
「――わたくしの可愛い姫」柔らかな真綿のような子守唄。
「菊花、ようやく、お前と添い遂げることができるんだ」
美しく笑む、ヴィンセント。
その手が赤に濡れているのを知っている。帝国は、幾度となく戦争をしては勝ってきた。戦争がおこれば騎士たちは駆り出され、赤い血が大地に流れる。
嗚呼、気持ち悪い。生きるために、すべてを見て見ぬふりをして、心の奥底では安らかな『死』を渇望している自分が、酷く気持ち悪かった。
腐った花の臭いは、楽土に渡った死人の臭い。濡れた水のにおいは、三途の河のにおい。
わたくしは本当に生きているのだろうか。死して、夢を見ているのかもしれない。幾度となく死を繰り返す、悪趣味な夢。
独占欲に塗れていようが、執着していようが、ヴィンセントは愛してくれている。
多少歪な愛だけれど、菊花には真っ当な愛に感じられた。その感情を利用している自分が、醜くて、気持ち悪かった。
「ヴィンセント様、」と唇に笑みを乗せて、微笑んだ。
ぐちゃぐちゃな感情を泥団子のように丸めて、無理やり飲み込んでしまう。
苦くて、まずくて、汚泥のような感情だった。
「……わたくしも、嬉しゅうございます」
早く、十六歳の誕生日が過ぎてしまえばいいのに。
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菊花ちゃんいいキャラですね♪♪キャラ作りに参考になりますm(_ _)m
はじめまして。
コメントありがとうございます❀
菊花姫、とても好きを詰め込んでいるなでそう言っていただけるととても嬉しいです!
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コメントありがとうございます❁
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はじめまして❀
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