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第23話

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 ふつふつと、ふつふつと心臓が沸き立つ音がする。それは耳のすぐそばで聞こえる時もあれば、遠いところから聴こえることもあった。

 すっかり慣れた様子でナイフとフォークを扱う菊花の姿を視界に納める。たどたどしく扱っていた頃が懐かしい。

 結ばれずに、しゃらりと背中を流れる黒髪が好きだ。
 ドレスアップした姿も好ましいが、祖国の装束に身を包んだ異国のドレス姿のほうが好きだった。ゆったりたっぷりと布を使った服は、動きに合わせて波立って揺れる。

 マリーベルとも、従妹の姫君とも違う嫋やかさ。儚く、綺麗で美しい。
 幼い少女めいた美貌に、成長途中の乙女の面影が重なり合って、アンバランスな色が香る。

 菊花を見ているだけで日ごろの疲れが癒されていく。もしかしたら、本当に癒してくれているのかもしれない。彼女にはそんな不思議な治癒能力があった。

 小さな口で食事を終え、手を合わせて食物への感謝を述べる。とても不思議な習慣だが、それを辞めさせるつもりもなかった。
 宗教観の違いは、争いの元だ。害がないのなら口を挟む必要もない。

「美味しかった?」
「はい。とっても」
「そう、コックが喜ぶだろう。……ふふ、口元にソースが付いているよ」

 食後の紅茶を飲んでいたヴィンセントは、ソースが付いているのとは反対側に指を伸ばす菊花に笑みをこぼした。

「こっち」
「ん、む」

 腕を伸ばして、親指でソースを拭う。ハンカチでもナプキンでも使えばいいのに、と思わずにはいられない使用人たち。

 子供みたいに口元を汚していたのが恥ずかしくて、頬を赤らめながら「ありがとうございます」と頬を緩めた。

「どういたしまして」

 親指についたそれを、何の感慨もなく舌先で舐め取った。

 可愛いなぁ。愛しいなぁ。
 ただ純粋な感情だけであればよかったのだが、そこには歪んだ独占欲や執着心も共に滲んでいる。

 菊花は、決して逃げ出すことのできない蜘蛛の糸に絡めとられてしまっている。それに少女は気づいていない。気づいた頃にはもう手遅れだ。

 延々と注がれる無償の愛に溺れてしまえばいい。俺だけを頼って、縋って、俺がいないと生きていけなくなればいい。

 細い肢体を見えない鎖で繋いで、逃げ道を失くしてしまう。
 絶望の淵から一度突き落せばもっと手軽に簡単だが、あえて遠回りをした。肉体だけじゃない、心も、感情も手に入れたいから。

 まろい頬に手を当てれば、自らすり寄ってくる菊花が愛おしい。――あと、もう少しだ。

 少女の、ヴィンセントに対する感情はまだ「親愛」だ。
 親切な恩人、と言ったところだろうか。

 恋だの愛だの、そういう感情じゃあ駄目だ。泣いて縋るくらいじゃないと物足りなかった。

「……菊花は、きょうだいに会いたいと思うか?」
「――え、?」

 だから時折、試すようなことを聞いてしまう。

「会える機会がある、と言ったらどうする?」

 小さな唇がきゅっと引き結ばれる。泣く寸前のような表情に言葉を飲み込んだ。

「そ、れは……わたくしが、望んではいけないことですわ」

 心では会いたいと思っているのだろう。顔を見ることすら敵わない兄に、弟に、会いたいと。嗚呼、心底腹立たしい。親兄弟は切っても切れない縁で繋がっている。宮廷魔法使いに頼み込んで、記憶を消してはくれないだろうか。

 自分から聞いておきながら、怒りを抱いているのもおかしな話だ。

「……今週末、俺と一緒に出掛けよう。ぺディート女公爵から直々のお誘いだ」

 どことなく、今日のヴィンセントは調子が悪そうだった。表情はいつもと変わらず、甘い笑みを浮かべているが、心なしか顔色が蒼褪めて見える。

 頬を撫でる手のひらには剣の稽古でできたタコがある。そっと上から手を重ねると、疲れた表情を甘い笑みで上塗りをしたヴィンセントがこちらを見た。

 ぺディートの家名は菊花も知っていた。
 五大公爵家のひとつであり、王族の女性たちから最も信頼の厚い公爵家。当代公爵たちの中で最高齢の女性。――彼女のところにも、姉妹たちの誰かがいるのだろうか。
 慈悲深い女性である、と藤乃が言っていた。きっと、酷い目にはあっていないだろう。そう信じたかった。

「……ビー様、わたくしは貴方様のモノでございます。好きなように、思ったことをおっしゃってくださって構いませんのよ」

 まるで、聖女の微笑みだった。仕方のない子、と子供を慰める母のようで、柔らかく温かい、春風のような微笑み。

 ご主人様とお嬢様のやり取りに慣れた使用人たちだったから見て見ぬふりをできたが、きっと部下の騎士たちが見たなら砂糖を吐いていた。

「……――」
「ビー様?」
「……膝枕をしてほしい」
「え?」
「一緒にデートをしたいし、もっとお前のことを甘やかしたい。――兄弟が現れたら、俺を捨てて行ってしまうんじゃないかと、いつも不安なんだ」

 パチ、と黄金を瞬かせる。

 いつも格好つけて、余裕のあるヴィンセントがこうも内側を曝け出すなんて。行儀悪く、テーブルに頬杖をつく様子を見る限り、よほど疲れているのだろう。

「わたくしは、」

 はくり、と言葉が溢れ出る。

 ヴィンセントには感謝しているのだ。
『家具』としての日々を覚悟していたら、皇女宮で過ごしていた頃よりも過ごしやすい環境を用意してくれて、甘やかされている自覚もあるがそれを拒否することもできない。

 兄も、弟も大切だ。――けれど、簡単に切り捨てることができないくらいヴィンセントも『大切』の中に入ってしまっている。

「兄弟とヴィンセント、どちらを選ぶ?」と問われても、今の菊花は即答することができない。

 美しい氷蒼の瞳に滲む甘さと熱に侵されている。
 氷の中に閉じ込められてしまうと錯覚していながらも、それを望む自分がいるのだ。

 一度目の菊花であれば、この不自由な生活に憤り、退屈に殺されていた。
 二度目の菊花であれば、いつ殺されるともしれぬ恐怖に死んでいた。
 三度目の菊花であったから、諦念と生への渇望がある菊花であったからこそ、この状況を受け入れられたのだ。

「わたくしの居場所は、ヴィンセント様のおそばしか、もうございません。ヴィンセント様が、わたくしを要らないと仰るのであれば、それはもう、そこで終わりなのでございましょうね」

 儚く散る、花の笑みだった。

 諦めが滲んだ、疲れた笑み。

 今まで見たことのない菊花の微笑に、そこはかとない焦燥感を抱いた。

「俺が、菊花を捨てるわけがない。要らないなど、冗談でも言うわけがない。菊花だけだ。君だけにそばにいて欲しい。離れないで、ずっとそばにいてくれ」
「……ヴィンセント様がそう願うのであれば、わたくしはその願いを叶えましょう」

 言葉は言霊だ。祖国では、やたらめったらと安易に約束をしてはいけないと言われている。約束を破ると石になるとか、血を吐いて死んでしまうとか、様々な迷信があった。
 歳を重ねた人ほど、約束事に怯えていたが、菊花は不思議と怖くなかった。約束を破らなければいいだけだもの。それにヴィンセントとなら約束をしてもいいと思えた。

「……こほん。若旦那様、お嬢様。お食事がお済でございましたらお部屋にお戻りになられますか?」

 気まずい表情のセバスチャンは、存外に「ここは私室ではありませんよ」と告げる。

 慌ててヴィンセントに触れていた手を放すが、即座に捕まれて引き寄せられる。

「部屋に戻ったら膝枕をしてくれるんだろう?」
「まぁっ、ビー様ったら」

 いつもの調子を取り戻したのか、いたずらに笑むヴィンセントはほっそりと白い手の甲に口付けた。



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