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第22話
しおりを挟む本格的な夏が始まると、貴族たちは避暑地の別荘へ赴き一か月ほど滞在する。
しかし、ヴィンセントは王宮勤めの騎士であるので帝都を長く離れることはできない。それに半月後には狩猟会も迫っており、警備体制などの調整をするので大忙しだ。
「ビー様、お疲れですか?」
いつも通りソファで読書をしていた菊花は、隣に倒れるように腰かけたヴィンセントを心配げに見やる。
早上がりをしてきたヴィンセントは、ジャケットを適当に放って襟元を寛げ、珍しく草臥れた様子だ。
菊花の前では格好つけようとしても、ここ最近の激務で取り繕うのも億劫なほど疲労していた。
「……つかれた。俺はもうダメかもしれない」
「えっ、わ、わたくしになにかできることはございますか? ビー様のためなら、何でもいたしますよ」
覇気のないヴィンセントに、本を閉じて体温の低い手をすくい上げる。
菊花の言葉を聞いて、閉じていた目を輝かせた。
「…………なんでも?」
「えぇ。わたくしにできることでしたら」
こくん、と頷いた菊花は知らないのだろう。ガワの良いこの男の中身が歪みまくった願望だらけなのを。
少しずつ、菊花が許容してくれる範囲を広げていき、今ではベッドも共にしている。
朝は健やかな菊花の寝顔を見つめ、寝ぼけ眼で「おはようございます」と言われる至福。夜は小さく華奢な体を抱きしめて眠り、劣情を耐えるのは精神を鍛えるのにぴったりだった。
「キスをしてほしいな」
いつもだったら、ハグをしてとかに留まるところを、つい疲れているせいで欲望のままに言葉が飛び出してしまった。
「キス、ですか」
目元をかすかに赤らめた菊花も、随分と横文字に慣れてきた。
「鱚《きす》ですか?」と言わないあたり、正しく意味を理解しているのだろう。
「わたくしが、キスをしたらビー様は元気になられるんですか?」
「疲れが癒されるだろうな。あと、単純に嬉しい」
うろ、と黄金を彷徨わせて、細い指先がヴィンセントの肩にかかる。
しゃらり、と頬をくすぐる毛先を耳にかけて、体を近づけた。ちゅ、とリップ恩がして、頬に柔らかな感触がする。
「……口にはしてくれないんだ」
「は、恥ずかしい……!」
「俺からなら、してもいいか?」
瞳を潤ませながら、こくん、と小さく首肯する。薄く細い腰を抱いて膝の上に乗せ、本が床に落ちる音がした。
柔らかな頬を指先でくすぐって、細い顎先を持ち上げると喉が小さく唾を呑みこんだ。ぷるんと果実のように赤い唇に吸い付くと、肩が跳ねる。思った通り、甘くて美味しい。
キスは目を閉じてするものだそうだけど、頬を赤らめ一生懸命口吸いをする菊花の愛らしい表情を目に焼き付けないなんてもったいない。
触れるだけ。啄むだけ。
本能の赴くままに貪り尽くせば、菊花はヴィンセントのことを恐れてしまう。まだ、耐える時だ。
「ん、ぁ、……んっ」
名残惜し気に唇を離すと、透明な糸が二人を繋いでぷつりと途切れた。
とろけた表情で惚ける菊花の口元から溢れた唾液を舌先で舐め取った。嗚呼、どこもかしこも甘くて美味だ。花の蜜に集まる虫の気持ちがわかってしまう。
そこに立つだけで虫が寄ってくる、まるで誘蛾灯だ。
「なんだか、ぽやぽやします」
「……もっと、気持ち良いことをしようか」
こてん、と小首を傾げた。さらりと流れる黒髪を耳にかけてやる。柔い耳たぶを指先で解すと、甘い吐息を漏らした。
「もっと、気持ち良いこと……?」
菊花は十五年生きてきて、三度繰り返してきているが性の知識がいまいち薄かった。ある程度の授業は侍女たちから受けているが、母がそういった知識を菊花に与えることを嫌ったのだ。どこか菊花のことを神聖視していたきらいもある。
真っ白なこの子を、自分好みに染め上げて、教え込んでいく。これ以上ない男の喜びだ。
「ご主人様! お嬢様! お夕食の準備ができましたー!」
濡れた空気は、底抜けに明るい声によって霧散した。
「……」
「……アレ、もしかしてアタシ、お邪魔でした?」
引き攣らせた頬を指先で掻いたハウスメイドは、そろっと目を彷徨わせてから一礼をする。
「しっつれいしましたー! またもうちょっとしたらお呼びに参りますぅ!」
慌ただしく踵を返して出ていったメイドに溜め息を吐く。
きょとんと眼を丸くする菊花も可愛らしいが、それっぽい雰囲気じゃなくなってしまった。
「……下に行こうか」
「ふふ、そうですわね」
膝の上から降りようとする菊花をそのまま抱き上げて、ふわりとソファに押し倒す。
甘さを含んだ瞳はどろりと色彩を濃くして、溢れ出そうな感情に蓋をしていた。
「菊花」
「……はい。なんでございましょうか」
「俺だけの、菊花」
「はい。貴方様だけの――ヴィンセント様だけの花でございます」
え、と少女を見返した。
「がんばって、練習したんです。ビー様と呼ぶのも好きでしたが、やっぱり、お名前で呼びたいと思って」
気恥しそうに睫毛を伏せる菊花に、愛おしさが溢れた。
確かに、ここ最近は横文字も流暢に話せるようになってきていたのを知っているが、まさかこんなプレゼントがあるだなんて
「っ嬉しいよ、菊花」
「ちょっとは、元気になりましたか……?」
「あぁ、明日も頑張れそうだ」
「よかった……! わたくしにできることがございましたら、なんでも仰ってくださいませ。ヴィンセント様のためなら、なんでもいたしますわ」
――嗚呼、もう絶対に手放す事なんてできない。
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