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第15話
しおりを挟む月明かりの美しい夜だった。宵闇を照らす満月は煌々と輝いて、いつもよりもずっと近くに見えた。
「そろそろお休みになられますか?」
藤乃がいれてくれた紅茶を飲んで、一息つく。
ヴィンセントが近隣地への遠征にでかけており、屋敷を留守にしているここ数日、眠りの浅い菊花を心配して寝つきを良くする安眠効果のあるカモミールティーだ。
常に側に控えている藤乃は菊花の性格や好みを把握し始めており、物憂げに口を噤む姿に何か思案しているのだろうと思いを馳せる。来た頃よりは自己主張をしてくれるようになったが、それでもまだ口を噤んでしまうことが多い。
「――夜の散歩でもして、気分転換をいたしますか?」
柔らかい表情を心掛けて。声をかける。
パッと目を瞬かせて、菊花はこくんと小さく頷いた。
満月の夜は、気持ちがざわついて仕方ない。どうにもそわそわして、手足がムズムズするのだ。だから、満月の日は母様とくっついて眠ることが多かった。
しと、しと、と射干玉を揺らして歩く菊花の美貌は月光に照らされてより一層冴え渡り、このまま夜の闇に溶けて攫われてしまいそうだった。
「……ねぇ、藤乃」
「はい。なんでございましょう?」
「ビー様にお願いしたら、弟と会わせてくれるかしら」
弟を思うと、憂慮に堪えることができなかった。
夫人の元にいた頃は、異母きょうだいたちの情報がほんのちょっとでも耳に入ってくることがあった。けれど、伯爵邸に来てからは、それらの情報が一切聞こえなくなってしまった。
夫人は家族であることにこだわっていたが、ヴィンセントならもしかして、という想いがあるのだ。
「私には、わかりかねます。明日の昼にはお戻りになられる予定ですので、聞いてみてはいかがでしょうか?」
けれど、きっと、彼は困ったお顔で首を横に振るだろう。
菊花の耳に、血族の情報が入らないようにと厳命しているのはヴィンセント本人だ。
外の情報を一切与えず、屋敷で飼い殺しにされる可哀そうなお嬢様。けれど、それを救って差し上げることは一メイドには過ぎたる行為。
お嬢様には心安らかに屋敷で過ごしてもらいたいが、結局のところ、藤乃が仕えているのはヴィンセント・サピロスだった。
「わたくし、満月が嫌いなの」
「え、そう、なのですか? てっきり、お好きなのかと」
「うふふ、大っ嫌いよ。明るすぎて、綺麗で、すべてを照らしてしまうんですもの。嫌いなのに、焦がれてしまうの。つい手を伸ばして、わたくしを連れて行って、」
「っ、お嬢様っ!」
ほっそりとした指先が月へと伸ばされる。光の筋が少女を導くように輝きを増して、思わずその手を掴んで引き留めた。
「月には、何があると思う?」
「月、ですか……。月では兎が餅をついている、と幼い頃は信じていましたけれどそれは月の影が兎が餅つきをしているように見えるだけ、と知って残念に思った記憶があります」
「あら、兎は本当にいるかもしれないわ。だって、月には王国があるの」
突拍子もない話だ。
リアリストの藤乃は御伽噺の類か、と頭の中でひとり納得する。
口に出さなかったのは、あまりにも幸せそうに菊花が微笑っていたから。
「わたくしたちは、徳を積んで修行をしていれば月から使者がやってきて、迎えにきてくれると信じているのよ」
菊花の、黄金の瞳はこんなにも色濃かっただろうか。
くるり、くるり、と軽やかに跳ねて、舞って、距離が開く。
「お待ちくださいっ、いくら敷地内とは言え、あまり離れては」
「だいじょうぶよ、だって、夜は全てを包み込んでくれるのだから」
月が、雲隠れする。
影に表情が隠れて、黄金だけが不気味に輝いた。
月は嫌い。すべてを明るみに晒してしまうから。雲に隠れた空を見上げる。月にある王国も、天女も、なにもかもが夢物語だ。
「……せっかく、紅茶で体が温まったのに冷えてしまったわ。お部屋に戻りましょうか」
藤乃が困惑しているのが手に取るようにわかる。
ただ傷を癒すだけの異能なんて、なんの役にも立たない。だって、死んでしまった人を生き返らせることもできないのだから。
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