第九皇女は氷華の騎士伯爵に囲われる

白霧雪。

文字の大きさ
上 下
13 / 32

第12話

しおりを挟む

 定時で隊舎を出たヴィンセントは屋敷に帰るのが楽しみでならなかった。
 アリア――サピロス公爵夫人を説得するのに骨が折れたが、おかげで菊花を伯爵邸に連れてくることができたのだ。帰れば菊花が出迎えてくれる。それだけで一日の疲れが吹き飛んでしまう。

「おかえりなさいませ」
「菊花は?」
「若旦那様の私室にいらっしゃいます」

 セバスチャンに剣を預け、その足で私室へと向かう。

 エントランスの階段を上がり、右手の廊下を奥に真っすぐ行った突き当りの部屋がヴィンセントの私室だ。
 手前に執務室があり、菊花のために用意された部屋もその並びにあるが、一日のほとんどを菊花はヴィンセントの私室で過ごしている。

 部屋の前には、静かに佇んで待機する藤乃がいた。

「おかえりなさいませご主人様」
「あぁ。菊花は?」
「午前中はテラスでお茶を楽しみ、ランチの後は若旦那様のお部屋でお休みになられていました」
「そうか。アンジー公爵から試作品の茶葉を頂いた。明日でも、菊花に振舞ってやってくれ」
「かしこまりました。お食事の時間になりましたらお呼びに参ります」

 ひらり、と手を振って下がらせる。

 部屋の中に入るが、いつもの場所に菊花の姿が見えなかった。

 ローテーブルと二人掛けのソファ、窓際に天井まで本が詰まった棚がある。
 常であればソファに座っているのだが、部屋の中には誰もいなかった。藤乃の様子から部屋の外に出たわけではなさそうだが、いったいどこへ行ったのか。
 眉間にしわを刻んで室内を見渡す。
 テーブルには飲みかけの紅茶があり、冷えてしまっている。読書の途中だったのだろう。栞を挟んだ小説と辞書がソファに置かれていた。

 プライベートルームは右てに本棚があり、左手側には寝室に続く扉がある。まさか、とは思いつつもゆっくり寝室へと足を向けた。



「……はぁ」

 ベッドの手前で立ち止まり、深く深く息を吐き出す。呆れればいいのか喜べばいいのか、複雑な感情だ。

 大人が三人は余裕で寝そべれる大きなベッドの真ん中で、小さく丸まって寝息を立てる美しい少女。黒髪が白いシーツに散らばって、乱れた襟から白く細い鎖骨が覗いている。
 このまま襲ってやろうか、と劣情を焚きつけられる。

 もし、もしだ。脱走していたら、どんな手段を使ってでも見つけて捕まえ、屋敷の奥深くに繋いで隠してしまっていた。

 気が抜けて、ぼすんっとベッドの縁に腰を下ろした。

 こっちの気も知らないで、すやすやと眠る菊花の頬を手の甲で撫でる。
 柔らかいマシュマロほっぺだ。むにゃむにゃと口元が動いているけれど、何か食べる夢でも見ているのかもしれない。
 呑気だなぁ。ほかのきょうだいたちが辛い思いをしているかもしれないのに。
 十三番目と十四番目の皇女が、下賜された先で死んだと知れば、この子は泣くのだろうか。

「……ぁ、ま……」
「……?」
「ユ……ェンあにさま」

 カッと、頭の奥が沸騰した。
 今もなお、菊花の心に巣食う『兄』に醜い嫉妬が燃え盛る。
 小さな頭の両脇に手をついて囲い込む。影を帯びたヴィンセントがどんな表情をしているのかわからない。

「君が好きなのは、俺だよ。菊花を護れなかった薄情な兄のことなんか忘れてしまえ。俺だけに縋って、俺だけを見つめて。菊花、愛してる。愛してるんだ……」

 神に懺悔をする子羊のように、震えた声で祈りを囁く。
 薄く開いた小さな果実に、唇を落とす。柔らかくて、温かい。血の通った熱を感じる。ちゅ、ちゅ、と触れるだけのバードキスを繰り返して、細い首筋に顔を埋めた。

「……んっ、」

 甘い鼻から抜ける音にびくりと肩を震わせる。ぢう、と強く吸い付いて、鎖骨の上に赤い痕を残した。

「びぃ、さま……?」
「……ただいま、菊花。あまり寝すぎると、夜眠れなくなってしまうぞ」
「おかえり、なさいませ、びぃさま」

 寝起きの少し掠れた声。普段の鈴が転がる軽やかな声音とは違い、どこか艶めいていて背筋がゾクリと肌が粟立つ。
 頬を撫でる手に、もっと撫でてと頭を押し付ける子猫みたいにすり寄ってくる。

「……ぁら、びぃさま、おけがをされたのですか?」

 眠気眼で捉えたのは、エンフォンの剣を受け止めたときにできた傷。綺麗にすっぱりと切れていたので、逆に治療がしやすかった。

「訓練の時に、勢い余ってな。なに、すぐ治る」
「でも、包帯を巻くほどなのでしょう……?」

 眉を下げ、包帯を巻いた手のひらを労し気に両手で包み込む。寝起きだからだろうか、いつもよりも体温が高く感じた。
 長い睫毛を伏せ、口を噤んでしまった菊花に困り果てる。

「……――ビーさま、」
「なんだ?」
「ビー様が、騎士として戦に赴くことがあると、怪我の絶えない職務だというのは存じております。けれど、どうしても不安に思うのです。ビー様が帰って来なかったら、また独りぼっちになってしまったらどうしよう、と」

 きゅっと簡単に振りほどけてしまうだろう弱弱しい力で手を抱きしめられる。

「これは、わたくしの我が儘なんです。ビー様には、怪我をしてほしくない……」

 黄金の瞳が熱を持つ。
 キラキラと、妖精が翅を広げるたびに振りまかれる鱗粉のように星が広がっていく。

「な、にを、」
「内緒にしてくださいませ。母様に、を使ったことがバレたら叱られてしまいますから」

 悪戯っ子のように笑う黄金色の瞳は、どんどん色を失っていく。両手で握りしめられた手がほのかに熱を帯びていく。
 何か、常軌を逸したことが起こっている。それはものの数秒で、黄金に照らされた室内は元の薄暗さを取り戻していた。

 ふぅ、と息を吐いて、再びベッドに逆戻りする菊花は額にうっすらと汗をかいていた。

「久々でしたから、すこしだけ疲れてしまいました」
「……何を、した?」
「傷を癒したのです」
「は?」
「包帯を取ってみてください」

 理解が追い付かないまま、言う通りに包帯を解いていく。
 痛みに鈍いわけではないが、かすかに感じていた鈍痛がなくなっている。包帯を解いて、傷口にあてていたガーゼを剥いだ。

「――菊花は、魔法が使えるのか?」

 驚きをそのまま声音に乗せて問う。
 ぱっくりと切れていたはずの手のひらは、元から傷なんてなかったとでもいうかのようにきれいさっぱり傷口が無くなっていた。

「この国には、魔法使いがいるんでしたね。いいえ、わたくしはただ、傷を癒すことができるだけでございますので……魔法使いのように無から有を生み出すことはできません。それに、このチカラを使うとちょっとだけ疲れてしまいますから」

 眉を下げて力なく笑う菊花は確かに疲弊しているように見えた。何よりも、瞳の色が太陽の輝きを映した黄金から、水面に映る月の色へと変化していた。

 かつて帝国には魔法を使える者が大勢いた。しかし、時代の流れと共にその数は減っていき、現在は十にも満たない数だ。魔法が使えるというだけで、帝国の保護下に置かれ、王族に並ぶ警備と教養を身に着けさせられる。
 ――魔法とまでは言わずとも、他人の怪我を治癒できることが帝国に知られれば、菊花は飼い殺しにされるだろう。

「菊花、この治癒の力を知っている者は?」
「……母様と、兄様と、弟が知っています。あと、従兄弟の兄様が」
「いいか、この力はむやみやたらに使っては駄目だ。特に、帝国軍に属する者に知られれば、君はすぐに王族たちのペットになるだろう」

 真剣な声色に、怯えた表情で小さく頷く。

「……だが、ありがとう。心配してくれたんだね」
「ッ、だ、だって、ビー様が怪我をしてくるなんて初めてで……!」
「きっと、君は兄や弟が怪我をしたときもこんな風に治療してあげていたんだろうね。少し妬けてしまう」

 傷があったはずの手のひらに、そっと唇を当てる。色香を帯びたその動作に、菊花は頬を薄く赤らめて目を反らした。

「菊花、目を反らすな」
「ぁっ」

 顎を指先で持ち上げられる。

「俺の許可なく、力を使ってはいけないよ。約束できるね」
「は、い。わたくしは、ビー様の仰せのままに、いたします」
「うん。いい子だね」

 氷を溶かして微笑んで、色付いた頬に口付けをする。身じろいで驚く体を抱き込んで、一緒にベッドに転がった。

「きゃぁっ」
「はは、俺も、一休みしようかな」
「まぁ、そろそろお夕食なのでは?」
「一緒にセバスに怒られてくれるかい?」
「……わたくし、セバスよりも藤乃に怒られそうです」

 クスクスと、額を突き合わせて笑いあった。



しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

5年経っても軽率に故郷に戻っては駄目!

158
恋愛
伯爵令嬢であるオリビアは、この世界が前世でやった乙女ゲームの世界であることに気づく。このまま学園に入学してしまうと、死亡エンドの可能性があるため学園に入学する前に家出することにした。婚約者もさらっとスルーして、早や5年。結局誰ルートを主人公は選んだのかしらと軽率にも故郷に舞い戻ってしまい・・・ 2話完結を目指してます!

心を病んだ魔術師さまに執着されてしまった

あーもんど
恋愛
“稀代の天才”と持て囃される魔術師さまの窮地を救ったことで、気に入られてしまった主人公グレイス。 本人は大して気にしていないものの、魔術師さまの言動は常軌を逸していて……? 例えば、子供のようにベッタリ後を付いてきたり…… 異性との距離感やボディタッチについて、制限してきたり…… 名前で呼んでほしい、と懇願してきたり…… とにかく、グレイスを独り占めしたくて堪らない様子。 さすがのグレイスも、仕事や生活に支障をきたすような要求は断ろうとするが…… 「僕のこと、嫌い……?」 「そいつらの方がいいの……?」 「僕は君が居ないと、もう生きていけないのに……」 と、泣き縋られて結局承諾してしまう。 まだ魔術師さまを窮地に追いやったあの事件から日も浅く、かなり情緒不安定だったため。 「────私が魔術師さまをお支えしなければ」 と、グレイスはかなり気負っていた。 ────これはメンタルよわよわなエリート魔術師さまを、主人公がひたすらヨシヨシするお話である。 *小説家になろう様にて、先行公開中*

アルファな俺が最推しを救う話〜どうして俺が受けなんだ?!〜

車不
BL
5歳の誕生日に階段から落ちて頭を打った主人公は、自身がオメガバースの世界を舞台にしたBLゲームに転生したことに気づく。「よりにもよってレオンハルトに転生なんて…悪役じゃねぇか!!待てよ、もしかしたらゲームで死んだ最推しの異母兄を助けられるかもしれない…」これは第2の性により人々の人生や生活が左右される世界に疑問を持った主人公が、最推しの死を阻止するために奮闘する物語である。

軽い気持ちで超絶美少年(ヤンデレ)に告白したら

夕立悠理
恋愛
容姿平凡、頭脳平凡、なリノアにはひとつだけ、普通とちがうところがある。  それは極度の面食いということ。  そんなリノアは冷徹と名高い公爵子息(イケメン)に嫁ぐことに。 「初夜放置? ぜーんぜん、問題ないわ! だって旦那さまってば顔がいいもの!!!」  朝食をたまに一緒にとるだけで、満足だ。寝室別でも、他の女の香水の香りがしてもぜーんぜん平気。……なーんて、思っていたら、旦那さまの様子がおかしい? 「他の誰でもない君が! 僕がいいっていったんだ。……そうでしょ?」  あれ、旦那さまってば、どうして手錠をお持ちなのでしょうか?  それをわたしにつける??  じょ、冗談ですよね──!?!?

執着系逆ハー乙女ゲームに転生したみたいだけど強ヒロインなら問題ない、よね?

陽海
恋愛
乙女ゲームのヒロインに転生したと気が付いたローズ・アメリア。 この乙女ゲームは攻略対象たちの執着がすごい逆ハーレムものの乙女ゲームだったはず。だけど肝心の執着の度合いが分からない。 執着逆ハーから身を守るために剣術や魔法を学ぶことにしたローズだったが、乙女ゲーム開始前からどんどん攻略対象たちに会ってしまう。最初こそ普通だけど少しずつ執着の兆しが見え始め...... 剣術や魔法も最強、筋トレもする、そんな強ヒロインなら逆ハーにはならないと思っているローズは自分の行動がシナリオを変えてますます執着の度合いを釣り上げていることに気がつかない。 本編完結。マルチエンディング、おまけ話更新中です。 小説家になろう様でも掲載中です。

転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~

恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん) は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。 しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!? (もしかして、私、転生してる!!?) そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!! そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?

処理中です...