上 下
2 / 32

第1話

しおりを挟む

 菊花ジュファは兄と弟の三人きょうだいだった。

 十八人のうち、十人の妃たちは戦にて武勲を上げた騎士に褒賞として下賜された。皇子たちは騎士隊に強制入隊をさせられ、皇女たちは母と引き離された者もいれば母と共に下賜された者もいた。
 幸いにも菊花は、母と共に公爵家へと下賜され、母と共にいられることに安堵を覚えた。――それが、間違いだったとも知らずに。

 最愛の息子と引き離された母は心が壊れてしまった。
 美しく可憐で穏やかだった母は、ただ言うことを聞くお人形になってしまい、公爵閣下にただ愛でられている。

「ジュファ。アフタヌーンティーにしましょう?」

 にっこりと、若々しい美貌に笑みを浮かべる公爵夫人。室内用のドレスに身を包んだ彼女は、菊花の手を引いてガーデンテラスへと向かう。

「あ、あの、奥、様……わたくしは、」
「お母様と呼んでと言っているでしょう?」
「ッ……申し訳、ございません、おかあさま」

 菊花にとっての母は『母様』ただひとりなのに、公爵夫人は菊花を実の娘のように扱い、愛で、着飾り、お茶会を開くのだ。

『母様』は公爵閣下のお人形で、『菊花』は公爵夫人のお人形だった。

「うふふ、まるで夢のようだわ。あたくしね、ずっと娘が欲しかったの」

 ご機嫌にお喋りをする夫人には一人息子がいる。
 成人して自立しており、帝都のハウスで暮らしているとか。会ったことはないけれど、この夫妻の子供であればさぞかし整ったかんばせをしているのだろう。

「息子も可愛いけれど、もうずいぶん男の子になってしまったから素直に愛でさせてくれなくてね。ほら、どうせなら女の子に可愛らしいいろんな格好をさせたいじゃない。ジュファがあたくしの娘になってくれてとっても嬉しいのよ」

 帝国では見ない射干玉ぬばたまの髪に、黄金に輝く瞳。すらりと細くしなやかな肢体。美しく凛とした立ち姿はまさに皇女殿下の名が相応しい。
 異国情緒溢れる美しい皇女を実の娘として扱えるだなんてまるで夢のようなおままごとであった。
 夫は夫でこの娘の母親に執心しているが好きにすれば良い。愛が冷めているとは言わないが、お互いに達観しており、何よりも美しい娘を連れて来てくれたことに感謝こそすれど不満などなかった。
 ほっそりとした薄い手のひらを握る。指先を絡めて、決して離れないように繋ぎ止める。そうしないと、するりと風に攫われてしまいそうだった。

 菊花には、成長途中独特のアンバランスな美しさがあった。まろい頬に、小さな唇。アーモンド型のまん丸い瞳はけぶる睫毛に縁取られ、十五歳のわりに小柄なのはお国柄らしい。たしかに、夫のお人形さんも若々しい美貌に細く小柄な体型だった。
 小さいのは良いことだ。愛らしくて、守ってあげたくなる。庇護欲をそそり、大切にしまって囲いたくなる。

 他の皇女や妃たちも下見はしたが、この子ジュファが一番美しく、可愛らしかった。だから、欲しいと思った。

 フリルやレースがふんだんにあしらわれたドレスは、夫人が選んで仕立てさせた。
 フロントは膝が隠れる丈で、バックが長くなったテールスカートのAラインドレス。足首から膝下までリボンを編み上げた靴はヒールが高くてとても歩きにくい。
 祖国では、女性は肌をみだりに出してはいけない風潮だったために、足も腕も首元もさらけ出している今の服装がとても恥ずかしかった。

 ガーデンテラスにはすでにお茶会の用意がされていていた。公爵夫人専属のメイドたちもおり、機械的で感情を見せない彼女たちが菊花は苦手だった。

 椅子を引かれて座り、紅茶が淹れられるのをただ待つ。
 卵白を泡立てた「くりぃむ」とやらを盛りつけた「けぇき」に、煎餅とは違う焼き菓子だという「くっきぃ」。甘い物をあまり好まない菊花にとって、このお茶会はただただ苦痛でしかなかった。

「ジュファがこのお屋敷にきて一週間が経つけれど、どうかしら。少しは慣れた?」
「は、い。とても、良くしていただいて、快適に過ごさせていただいております」
「うふふ、そうよね。そうよね。来月には夜会へ連れて行ってあげることもできるようになるわ。そのためにはドレスも必要よね、明日販売員を呼びましょう。アクセサリーもたくさん選びましょうね」

 少女のようにわくわくと表情を躍らせる夫人に対し、菊花の表情はどんどん暗くなっていく。
 夫人に娘として扱われるたび、心が悲鳴を上げる。『第九皇女の菊花』ではなく、『ただのジュファ』になってしまいそうになる。

 菊花は姉皇女たちのように気が強くも、苛烈な性格もしていない。
 陰謀渦巻く後宮にいた母が穏やかな気質であったからだろう。後宮での序列が四位でありながら、下位の妃に舐められがちだった母。ぽやぽやしてる菊花と、泣き虫な弟を兄はいつも守ってくれた。
 その兄は、ここにはいない。自分自身の身は自分で守るしかない。
 弟が、心配だった。泣き虫で、いつも母や菊花にくっついていた可愛い弟。皇子たちは騎士隊に入隊させられたと聞いた。

「……あの、おかあさま」

 太ももの上で手を握りしめる。口の中がカラカラに乾き、咽喉が張り付く。

「お、弟……弟に、会いたいのです」
「――弟?」

 美しい笑みに彩られていた表情が怪訝に歪む。頬に手を当てて、困ったように首を傾げた。

「二つ年下の、弟がいて、騎士隊に入隊させられたと、」
「何か勘違いしているようだけれど、ねぇ、ジュファ。貴女に弟なんていないわ」
「え、」
「兄ならいるけれど、ねぇ、弟とはいったい誰のことを言っているのかしら? お母様に教えてくださる?」

 ゾッとした。
 夫人は分かっていて、あえて問いかけているのだ。酷く恐ろしかった。

「わ、――わたくしの兄は、月燕ユェエン兄上だけでございます。弟は、リィエンで」

 兄も弟もいなかったことになんてできない。大切で愛おしくて、最愛の兄弟だもの。
 心臓が早鐘を打つ。言ってしまった。口に出してしまった。

「おだまりなさい」

 ピシャリ、と叱責の声が響く。決して荒げたわけでも、大きな声でもなかったのにやけにテラスに響き渡った。

「ジュファ。あたくしの可愛い可愛いジュファ。貴女の母はこのあたくしで、父は旦那様で、兄はヴィンスよ。どうしてそれがわかってくれないの?」

 悲哀に震える声。夫人は静かに立ちあがり、菊花の側へと足を進める。レースの手袋に包まれた手のひらが、白くまろい頬を包み込む。親指が頬の柔らかなところをなぞり、唇を辿って、瞼を撫でる。

「嗚呼、可愛い子。美しい子。貴女はあたくしの娘よね? ねぇ、ジュファ、そうだと言って?」

 お願いしているようで、それは強制だった。
 ぐ、と目の下のくぼみに親指が入り、抉り取られるんじゃないかと恐怖を抱く。

「さぁ、母と呼んで? 貴女の母は、だぁれ?」

 首が締まっていく。手足を視えない鎖で繋がれていく。
 菊花に拒否権など初めから存在しないのだ。敗戦国の皇女など奴隷以下の価値なのだ。

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ヤンデレ幼馴染が帰ってきたので大人しく溺愛されます

下菊みこと
恋愛
私はブーゼ・ターフェルルンデ。侯爵令嬢。公爵令息で幼馴染、婚約者のベゼッセンハイト・ザンクトゥアーリウムにうっとおしいほど溺愛されています。ここ数年はハイトが留学に行ってくれていたのでやっと離れられて落ち着いていたのですが、とうとうハイトが帰ってきてしまいました。まあ、仕方がないので大人しく溺愛されておきます。

ヒロインではないので婚約解消を求めたら、逆に追われ監禁されました。

曼珠沙華
恋愛
「運命の人?そんなの君以外に誰がいるというの?」 きっかけは幼い頃の出来事だった。 ある豪雨の夜、窓の外を眺めていると目の前に雷が落ちた。 その光と音の刺激のせいなのか、ふと前世の記憶が蘇った。 あ、ここは前世の私がはまっていた乙女ゲームの世界。 そしてローズという自分の名前。 よりにもよって悪役令嬢に転生していた。 攻略対象たちと恋をできないのは残念だけど仕方がない。 婚約者であるウィリアムに婚約破棄される前に、自ら婚約解消を願い出た。 するとウィリアムだけでなく、護衛騎士ライリー、義弟ニコルまで様子がおかしくなり……?

婚約破棄目当てで行きずりの人と一晩過ごしたら、何故か隣で婚約者が眠ってた……

木野ダック
恋愛
メティシアは婚約者ーー第二王子・ユリウスの女たらし振りに頭を悩ませていた。舞踏会では自分を差し置いて他の令嬢とばかり踊っているし、彼の隣に女性がいなかったことがない。メティシアが話し掛けようとしたって、ユリウスは平等にとメティシアを後回しにするのである。メティシアは暫くの間、耐えていた。例え、他の男と関わるなと理不尽な言い付けをされたとしても我慢をしていた。けれど、ユリウスが楽しそうに踊り狂う中飛ばしてきたウインクにより、メティシアの堪忍袋の緒が切れた。もう無理!そうだ、婚約破棄しよう!とはいえ相手は王族だ。そう簡単には婚約破棄できまい。ならばーー貞操を捨ててやろう!そんなわけで、メティシアはユリウスとの婚約破棄目当てに仮面舞踏会へ、行きずりの相手と一晩を共にするのであった。けど、あれ?なんで貴方が隣にいるの⁉︎

婚約者から婚約破棄をされて喜んだのに、どうも様子がおかしい

恋愛
婚約者には初恋の人がいる。 王太子リエトの婚約者ベルティーナ=アンナローロ公爵令嬢は、呼び出された先で婚約破棄を告げられた。婚約者の隣には、家族や婚約者が常に可愛いと口にする従妹がいて。次の婚約者は従妹になると。 待ちに待った婚約破棄を喜んでいると思われる訳にもいかず、冷静に、でも笑顔は忘れずに二人の幸せを願ってあっさりと従者と部屋を出た。 婚約破棄をされた件で父に勘当されるか、何処かの貴族の後妻にされるか待っていても一向に婚約破棄の話をされない。また、婚約破棄をしたのに何故か王太子から呼び出しの声が掛かる。 従者を連れてさっさと家を出たいべルティーナと従者のせいで拗らせまくったリエトの話。 ※なろうさんにも公開しています。 ※短編→長編に変更しました(2023.7.19)

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました

Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。 順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。 特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。 そんなアメリアに対し、オスカーは… とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。

転生先が羞恥心的な意味で地獄なんだけどっ!!

高福あさひ
恋愛
とある日、自分が乙女ゲームの世界に転生したことを知ってしまったユーフェミア。そこは前世でハマっていたとはいえ、実際に生きるのにはとんでもなく痛々しい設定がモリモリな世界で羞恥心的な意味で地獄だった!!そんな世界で羞恥心さえ我慢すればモブとして平穏無事に生活できると思っていたのだけれど…?※カクヨム様、ムーンライトノベルズ様でも公開しています。不定期更新です。タイトル回収はだいぶ後半になると思います。前半はただのシリアスです。

【完結】帰れると聞いたのに……

ウミ
恋愛
 聖女の役割が終わり、いざ帰ろうとしていた主人公がまさかの聖獣にパクリと食べられて帰り損ねたお話し。 ※登場人物※ ・ゆかり:黒目黒髪の和風美人 ・ラグ:聖獣。ヒト化すると銀髪金眼の細マッチョ

婚姻初日、「好きになることはない」と宣言された公爵家の姫は、英雄騎士の夫を翻弄する~夫は家庭内で私を見つめていますが~

扇 レンナ
恋愛
公爵令嬢のローゼリーンは1年前の戦にて、英雄となった騎士バーグフリートの元に嫁ぐこととなる。それは、彼が褒賞としてローゼリーンを望んだからだ。 公爵令嬢である以上に国王の姪っ子という立場を持つローゼリーンは、母譲りの美貌から『宝石姫』と呼ばれている。 はっきりと言って、全く釣り合わない結婚だ。それでも、王家の血を引く者として、ローゼリーンはバーグフリートの元に嫁ぐことに。 しかし、婚姻初日。晩餐の際に彼が告げたのは、予想もしていない言葉だった。 拗らせストーカータイプの英雄騎士(26)×『宝石姫』と名高い公爵令嬢(21)のすれ違いラブコメ。 ▼掲載先→アルファポリス、小説家になろう、エブリスタ

処理中です...