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第四章
《 一 》
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華蝶国・紫州皇都中心部にある月下城は高い塀に囲まれている。塀の外と中には深い水路があり、侵入者を阻む作りになっている。開門の時間にならなければ中へ入るための橋が渡されず、入城することができない。
もちろん、正規の手順を踏んで入城するのではなく、堂々と花仙と蓮雨は空から塀の内側へと侵入した。
月下城全体に厄除の結界陣が張られているが、破るわけでも弾かれるわけでもなく、するりとふたりはすり抜けた。本当であれば、御神木・大花神樹まで直接行ければよかったのだが、そこまで行くためにはもうひとつの結界をすり抜けねばならず、城に張られている結界よりも強固なそれをすり抜けることは不可能だったのだ。
「月下城には四つの陣が展開されている。城全体、外朝、内朝、そして御神木を護る陣だ」
「場所はわかりますが……陣を破れば、すぐに宮廷道士が気付くでしょう」
「陣を破らなきゃいいんだ。――だが、おそらく皇宮周辺の陣は破られているはずだ。じゃなきゃ、あの邪教道士はどうやって侵入すると思う?」
玉砂利を踏みながら、潜めた声で言葉を交わす。
大花神樹があるのは皇宮――皇帝の寝所の中だ。外朝と内朝のちょうど境目に位置している皇宮だが、外朝側の出入り口は固く閉ざされている。そのため、内朝側の入り口から入らなければいけなかった。
正門の正面に朝礼や式典・儀式が執り行われる鳳華殿があり、右手に文官たちの詰め所である永華殿、左手に武官たちの詰め所である光華殿がある。鳳華殿の奥に皇宮があり、さらにその奥の塀の向こう側が妃たちの住まう花園だった。出入り口の至る所に見張りの兵がおり、見回りが来るたびに物陰に隠れてやり過ごしていた。
「内朝の出入り口にも見張りがいますが、どうなさるんです?」
「こうするのさ」
この状況を楽しんでいるような表情で、手頃の木から葉を取ると、フッと吐息を吹きかける。花仙の手元を離れ、見張りの兵たちに見える位置までふよふよ飛んでいくとそれは突然青い火の玉となって燃え上がった。
兵たちは驚きの声を上げ、途端に騒がしくなる。火の玉を確認しに行く者、宮廷道士を呼びに行く者、上司を呼びにく者。それぞれがそれぞれの役割を果たした結果、出入り口から見張りはいなくなってしまった。そのすきに内朝内へと駆け込んだ。
雰囲気が切り替わる。内朝内は、外朝よりもより一層静けさをまとっており、濃い花の香りが漂っていた。
「息苦しい場所だな」
「……えぇ、まったく、本当にそうですね」
どこか投げやりな返事に花仙は片眉を跳ねさせた。
「……ついでに、母親の顔でも見に行くか?」
「いえ、結構です。何も成し遂げていないのに、母に合わす顔なんてありません。今は、まだ結構です」
とても意外だった。自棄になったわけでも、意地を張っているわけでもなく、蓮雨はただただ冷静な面立ちだった。以前なら、月下城内に足を踏み入れた途端に母のもとへ駆け出していたことだろう。
にこにこと、ご機嫌に笑みを深めた花仙は「うん」と短く返事をして後宮へ向かうべく向けていた足先の方向を変えた。
蓮雨が大花神樹を訪れた回数は皇族の中でもうんと少ない。片手で数えられるほどだ。否、記憶にないだけで物心つく前はもっと訪れていたのかもしれないが、記憶になければ行ったことがないのと同義だった。
美しく着飾った母に手を引かれて、薄暗い皇宮の中を歩いていく。有名な陶芸家が作った花瓶や壺が並べられていたり、画が飾られている廊下は蓮雨の趣味ではなかった。母も、目は肥えているがそういった類いへの興味は薄く、歩く速度を緩めることなく奥へ奥へと進んでいく。
長い廊下の先には扉がひとつあり、壮年の男が控えていた。
「お待ちしておりました。薔香第二側妃様、第三皇子様。中で皇帝陛下がお待ちです」
恭しく拝をした官吏を一瞥して鼻を鳴らした母は、きゅっと蒼霖の手を握り直して開かれた扉の向こう側へと足を踏み入れる。
「わ、ぁ……!」
扉の向こうは吹抜になっており、天高くどっしりと聳える大樹が枝を広げ、白花を咲かせていた。ひらり、はらり、と風も吹いていないのに花びらが舞い、まるで蒼霖たちの訪れを喜んでいるようだった。
つい、降ってくる花びらに手を伸ばそうとすると、繋いだ方の手を母に引き寄せられてしまう。不満げに、幾分か上にある母の顔を見上げると、常日頃甘い言葉を囁く唇は固く引き結ばれ、眉根には深いシワが刻まれていた。鼻の頭にシワを寄せ、見るからに不機嫌を体現している。
見たことない表情に、恐怖を抱いた蒼霖はそっと顔を俯かせて、母の青い衣の袖を握った。
「二娘。来てくれて嬉しいよ」
朗らかに、困った笑みを浮かべる皇帝は母に向かって手を差し伸べる。けれど母は一瞥だけして手を取ることはなかった。
「……阿霖も、久しぶりだね。元気だったかい?」
この頃の蒼霖は母以外の全員に人見知りをしていた。実の父であろうと、毎日顔を合わせていなければ子供はすこんと忘れてしまうものだ。母の影に隠れてしまった息子に苦笑いをして、皇帝は距離を置いた。
母は、父のことが嫌いだった。大好きな家から、無理やり連れてこられたのだと語ったことがある。
皇帝を誑かした遊女上がりの側妃。それが蒼薔香に押された烙印だった。実際は、お忍びで遊郭にやってきた皇帝を遊女としてもてなした薔香に皇帝がハマってしまい、当時身請け先が決まっていたにも関わらず強引に事を進めて後宮へと召し上げさせたのだ。
後宮に入るためには氏が無ければ入れない。そのためだけに一介の遊女に『蒼氏』と言う色に連なる氏を与え、熱烈な情を皇帝は薔香へと注いだ。
後宮に召し上げられ、側妃となった薔香の元へ三日と開けずに通い、ほどなくして、子を授かった。その時の母は荒れに荒れて、手が付けられなかったほどだという。宮廷道士の催眠で無理やり寝かせて、意識がぼんやりしているうちに食事を取らせる。いくら遊女上がりで冷遇されている側妃だったとしても、身ごもったのなら話は別だった。次代を担う皇族のひとりになるのだから、警備も身の回りの世話も厳重になり、これ幸いにと皇帝は薔香の元を毎日訪れた。
――だが、子が生まれて、状況は一変した。二月も早く産まれた子は体が弱く、一年、二年が過ぎてようやくお披露目となった。雨が長く続いた、寒い時期に生まれた子は、蒼霖と名付けられた。
子が生まれて落ち着いた様子を見せるようになった薔香は、宮に籠って胎を痛めて産んだ子を目いっぱいに愛で、慈しんだ。なぜなら、蒼霖は母譲りの黒髪に、深い蒼色の瞳をしていたのだ。
自分にそっくりの目元に、白い肌、黒い髪に蒼い瞳。嗚呼、この子はわたくしの子だ。ちゃんと、わたくしの子供なのだ。そう実感すると、一気に愛情が湧いてきた。
「何用でございましょうか、皇帝陛下」
「阿霖も七歳になるだろう。字を決めなくてはならない。そこで、神祇長官と仙宮長官に来てもらったんだ。阿霖に一番ぴったりの字を、」
「阿霖の字は、もう決めました」
ぐ、と息の詰まった声だった。
皇族に名を連ねる皇子にとって、字を決める儀式はとても重要な儀式のひとつだ。神事を司る神祇庁の長に良き日取りを選んでもらい、宮廷道士たちを総括する長に場を清め払ってもらってようやく決めることができる。母であろうと、勝手に決めることはできない。
控えていた神祇長官と仙宮長官が喚き立てている。知らない大人が大きな声で怒鳴っているのが恐ろしくて、蒼霖は母にしがみついた。
「……静かに。阿霖が怯えている」
「しかし、陛下! 字決めは皇族としての立派な責務の一つでございます! それを勝手に決められては、我々の立つ瀬もないというところ!」
「しきたりを理解せぬ無作法ものを入れるなんて、やはり間違っておられるのですよ。丹田もろくに練れない、褥事しかできぬ女人など――」
「黙れ」
低く、地面に響く声音だった。
「蒼薔香は、皇族に名を連ねる者だ。お主ら、首を刎ねられたいか?」
蒼霖がたとえ色変わりだとしても、皇帝はふたりを愛している。慌てふためく官吏たちを尻目に、薔香は皇帝だけを見つめていた。蒼い瞳に強い意思を滲ませて、男がどう出るのかを注意深く観察した。
首を刎ねられてもおかしくないと、薔香は考えていた。もしその時は、愛する息子も道連れにしようと、決して繋いだ手を離すまいと心に決めていた。
「……阿霖の字は、何というのだ?」
嗚呼、やはり。この男は自分のすべての行いを許容してくれるのだ。勝ち誇った笑みを浮かべた。
大花神樹を初めて訪れたのはこのときだった。母に手を引かれて、長く暗い廊下を突き進んだ先に、美しい幻想的な白花を咲かせる大樹があった。見上げるほどに大きく、それは蒼霖が小さいのではなく、大花神樹が建物よりもずっとずっと大きかったのだ。
母にしがみつきながら大樹を見上げる。皇族だけがこの大きな、生命力に満ち溢れる大樹に触れることを許される。しかし、蒼霖は触れたことがなかった。母がそれを許さなかったのだ。
母は、蒼霖が皇族として育てられるのを至極嫌がった。この子はわたくしの子。わたくしだけの子。苦しい思いも悲しい思いもさせたくないの。ぎゅっと蒼霖を抱きしめて離さない薔香に、何人もの教育係たちが頭を抱えて匙を投げた。他の皇子や皇女よりも自由に、けれど不自由に育った蒼霖は人と関わるのが苦手な子供へと成長してしまう。
ただの人見知りだったのが、他の皇子たちからの虐めや、大人たちからの口さがない言葉を受けて、いつしか人嫌いになってしまった。
ふと、花仙も人であるのを思い出す。限りなく神や人ならざる者に近い位置にいる人間だ。その身に纏う仙気は気持ちや心を落ち着かせてくれて、母とは違う慈しむ柔らかで優しい感情はここに居てもいいのだと安心させてくれる。
「――随分と衰えているな」
見上げた大樹は随分と小さくなっていた。大きく広げられた枝についているはずの葉も花も、最後に見た時よりも随分と少なくなっている。
「呪符の影響でしょうか」
「だろうな。樹に呪符が仕掛けられている様子は見受けられないが……五州の神木に施されていた呪符の影響だろう」
花木を愛する花仙は痛ましげに大樹を見上げ、そして空を見上げた。月は姿を隠し、宵闇に包まれている。灯篭がなければ一寸先も闇だっただろう。
「おいで、樹の上に身を隠そう」
「えっ!? 大、大花神樹は皇族しか触れられません。過去に、触れようとした者が炎に焼かれたとか、雷に打たれたとか」
自分の心配をしているんじゃない。花仙の心配をしているのだ。
色違いとはいえ、蓮雨は皇族に根を連ねている。系譜にも載っているが、花仙はそうじゃない。もし、もしもだ。もしも、この人に何かあったら。
「――大丈夫。おいで、蒼霖」
何を根拠に大丈夫だなんて言うのだろう。それでも不思議と、この人がいうのなら大丈夫なのだと想えてしまう。
こくり、と唾を呑みこんで視線をうろつかせて、そっと持ち上げた手は重なるのを待つことなく掬われて体を引き寄せられた。
もちろん、正規の手順を踏んで入城するのではなく、堂々と花仙と蓮雨は空から塀の内側へと侵入した。
月下城全体に厄除の結界陣が張られているが、破るわけでも弾かれるわけでもなく、するりとふたりはすり抜けた。本当であれば、御神木・大花神樹まで直接行ければよかったのだが、そこまで行くためにはもうひとつの結界をすり抜けねばならず、城に張られている結界よりも強固なそれをすり抜けることは不可能だったのだ。
「月下城には四つの陣が展開されている。城全体、外朝、内朝、そして御神木を護る陣だ」
「場所はわかりますが……陣を破れば、すぐに宮廷道士が気付くでしょう」
「陣を破らなきゃいいんだ。――だが、おそらく皇宮周辺の陣は破られているはずだ。じゃなきゃ、あの邪教道士はどうやって侵入すると思う?」
玉砂利を踏みながら、潜めた声で言葉を交わす。
大花神樹があるのは皇宮――皇帝の寝所の中だ。外朝と内朝のちょうど境目に位置している皇宮だが、外朝側の出入り口は固く閉ざされている。そのため、内朝側の入り口から入らなければいけなかった。
正門の正面に朝礼や式典・儀式が執り行われる鳳華殿があり、右手に文官たちの詰め所である永華殿、左手に武官たちの詰め所である光華殿がある。鳳華殿の奥に皇宮があり、さらにその奥の塀の向こう側が妃たちの住まう花園だった。出入り口の至る所に見張りの兵がおり、見回りが来るたびに物陰に隠れてやり過ごしていた。
「内朝の出入り口にも見張りがいますが、どうなさるんです?」
「こうするのさ」
この状況を楽しんでいるような表情で、手頃の木から葉を取ると、フッと吐息を吹きかける。花仙の手元を離れ、見張りの兵たちに見える位置までふよふよ飛んでいくとそれは突然青い火の玉となって燃え上がった。
兵たちは驚きの声を上げ、途端に騒がしくなる。火の玉を確認しに行く者、宮廷道士を呼びに行く者、上司を呼びにく者。それぞれがそれぞれの役割を果たした結果、出入り口から見張りはいなくなってしまった。そのすきに内朝内へと駆け込んだ。
雰囲気が切り替わる。内朝内は、外朝よりもより一層静けさをまとっており、濃い花の香りが漂っていた。
「息苦しい場所だな」
「……えぇ、まったく、本当にそうですね」
どこか投げやりな返事に花仙は片眉を跳ねさせた。
「……ついでに、母親の顔でも見に行くか?」
「いえ、結構です。何も成し遂げていないのに、母に合わす顔なんてありません。今は、まだ結構です」
とても意外だった。自棄になったわけでも、意地を張っているわけでもなく、蓮雨はただただ冷静な面立ちだった。以前なら、月下城内に足を踏み入れた途端に母のもとへ駆け出していたことだろう。
にこにこと、ご機嫌に笑みを深めた花仙は「うん」と短く返事をして後宮へ向かうべく向けていた足先の方向を変えた。
蓮雨が大花神樹を訪れた回数は皇族の中でもうんと少ない。片手で数えられるほどだ。否、記憶にないだけで物心つく前はもっと訪れていたのかもしれないが、記憶になければ行ったことがないのと同義だった。
美しく着飾った母に手を引かれて、薄暗い皇宮の中を歩いていく。有名な陶芸家が作った花瓶や壺が並べられていたり、画が飾られている廊下は蓮雨の趣味ではなかった。母も、目は肥えているがそういった類いへの興味は薄く、歩く速度を緩めることなく奥へ奥へと進んでいく。
長い廊下の先には扉がひとつあり、壮年の男が控えていた。
「お待ちしておりました。薔香第二側妃様、第三皇子様。中で皇帝陛下がお待ちです」
恭しく拝をした官吏を一瞥して鼻を鳴らした母は、きゅっと蒼霖の手を握り直して開かれた扉の向こう側へと足を踏み入れる。
「わ、ぁ……!」
扉の向こうは吹抜になっており、天高くどっしりと聳える大樹が枝を広げ、白花を咲かせていた。ひらり、はらり、と風も吹いていないのに花びらが舞い、まるで蒼霖たちの訪れを喜んでいるようだった。
つい、降ってくる花びらに手を伸ばそうとすると、繋いだ方の手を母に引き寄せられてしまう。不満げに、幾分か上にある母の顔を見上げると、常日頃甘い言葉を囁く唇は固く引き結ばれ、眉根には深いシワが刻まれていた。鼻の頭にシワを寄せ、見るからに不機嫌を体現している。
見たことない表情に、恐怖を抱いた蒼霖はそっと顔を俯かせて、母の青い衣の袖を握った。
「二娘。来てくれて嬉しいよ」
朗らかに、困った笑みを浮かべる皇帝は母に向かって手を差し伸べる。けれど母は一瞥だけして手を取ることはなかった。
「……阿霖も、久しぶりだね。元気だったかい?」
この頃の蒼霖は母以外の全員に人見知りをしていた。実の父であろうと、毎日顔を合わせていなければ子供はすこんと忘れてしまうものだ。母の影に隠れてしまった息子に苦笑いをして、皇帝は距離を置いた。
母は、父のことが嫌いだった。大好きな家から、無理やり連れてこられたのだと語ったことがある。
皇帝を誑かした遊女上がりの側妃。それが蒼薔香に押された烙印だった。実際は、お忍びで遊郭にやってきた皇帝を遊女としてもてなした薔香に皇帝がハマってしまい、当時身請け先が決まっていたにも関わらず強引に事を進めて後宮へと召し上げさせたのだ。
後宮に入るためには氏が無ければ入れない。そのためだけに一介の遊女に『蒼氏』と言う色に連なる氏を与え、熱烈な情を皇帝は薔香へと注いだ。
後宮に召し上げられ、側妃となった薔香の元へ三日と開けずに通い、ほどなくして、子を授かった。その時の母は荒れに荒れて、手が付けられなかったほどだという。宮廷道士の催眠で無理やり寝かせて、意識がぼんやりしているうちに食事を取らせる。いくら遊女上がりで冷遇されている側妃だったとしても、身ごもったのなら話は別だった。次代を担う皇族のひとりになるのだから、警備も身の回りの世話も厳重になり、これ幸いにと皇帝は薔香の元を毎日訪れた。
――だが、子が生まれて、状況は一変した。二月も早く産まれた子は体が弱く、一年、二年が過ぎてようやくお披露目となった。雨が長く続いた、寒い時期に生まれた子は、蒼霖と名付けられた。
子が生まれて落ち着いた様子を見せるようになった薔香は、宮に籠って胎を痛めて産んだ子を目いっぱいに愛で、慈しんだ。なぜなら、蒼霖は母譲りの黒髪に、深い蒼色の瞳をしていたのだ。
自分にそっくりの目元に、白い肌、黒い髪に蒼い瞳。嗚呼、この子はわたくしの子だ。ちゃんと、わたくしの子供なのだ。そう実感すると、一気に愛情が湧いてきた。
「何用でございましょうか、皇帝陛下」
「阿霖も七歳になるだろう。字を決めなくてはならない。そこで、神祇長官と仙宮長官に来てもらったんだ。阿霖に一番ぴったりの字を、」
「阿霖の字は、もう決めました」
ぐ、と息の詰まった声だった。
皇族に名を連ねる皇子にとって、字を決める儀式はとても重要な儀式のひとつだ。神事を司る神祇庁の長に良き日取りを選んでもらい、宮廷道士たちを総括する長に場を清め払ってもらってようやく決めることができる。母であろうと、勝手に決めることはできない。
控えていた神祇長官と仙宮長官が喚き立てている。知らない大人が大きな声で怒鳴っているのが恐ろしくて、蒼霖は母にしがみついた。
「……静かに。阿霖が怯えている」
「しかし、陛下! 字決めは皇族としての立派な責務の一つでございます! それを勝手に決められては、我々の立つ瀬もないというところ!」
「しきたりを理解せぬ無作法ものを入れるなんて、やはり間違っておられるのですよ。丹田もろくに練れない、褥事しかできぬ女人など――」
「黙れ」
低く、地面に響く声音だった。
「蒼薔香は、皇族に名を連ねる者だ。お主ら、首を刎ねられたいか?」
蒼霖がたとえ色変わりだとしても、皇帝はふたりを愛している。慌てふためく官吏たちを尻目に、薔香は皇帝だけを見つめていた。蒼い瞳に強い意思を滲ませて、男がどう出るのかを注意深く観察した。
首を刎ねられてもおかしくないと、薔香は考えていた。もしその時は、愛する息子も道連れにしようと、決して繋いだ手を離すまいと心に決めていた。
「……阿霖の字は、何というのだ?」
嗚呼、やはり。この男は自分のすべての行いを許容してくれるのだ。勝ち誇った笑みを浮かべた。
大花神樹を初めて訪れたのはこのときだった。母に手を引かれて、長く暗い廊下を突き進んだ先に、美しい幻想的な白花を咲かせる大樹があった。見上げるほどに大きく、それは蒼霖が小さいのではなく、大花神樹が建物よりもずっとずっと大きかったのだ。
母にしがみつきながら大樹を見上げる。皇族だけがこの大きな、生命力に満ち溢れる大樹に触れることを許される。しかし、蒼霖は触れたことがなかった。母がそれを許さなかったのだ。
母は、蒼霖が皇族として育てられるのを至極嫌がった。この子はわたくしの子。わたくしだけの子。苦しい思いも悲しい思いもさせたくないの。ぎゅっと蒼霖を抱きしめて離さない薔香に、何人もの教育係たちが頭を抱えて匙を投げた。他の皇子や皇女よりも自由に、けれど不自由に育った蒼霖は人と関わるのが苦手な子供へと成長してしまう。
ただの人見知りだったのが、他の皇子たちからの虐めや、大人たちからの口さがない言葉を受けて、いつしか人嫌いになってしまった。
ふと、花仙も人であるのを思い出す。限りなく神や人ならざる者に近い位置にいる人間だ。その身に纏う仙気は気持ちや心を落ち着かせてくれて、母とは違う慈しむ柔らかで優しい感情はここに居てもいいのだと安心させてくれる。
「――随分と衰えているな」
見上げた大樹は随分と小さくなっていた。大きく広げられた枝についているはずの葉も花も、最後に見た時よりも随分と少なくなっている。
「呪符の影響でしょうか」
「だろうな。樹に呪符が仕掛けられている様子は見受けられないが……五州の神木に施されていた呪符の影響だろう」
花木を愛する花仙は痛ましげに大樹を見上げ、そして空を見上げた。月は姿を隠し、宵闇に包まれている。灯篭がなければ一寸先も闇だっただろう。
「おいで、樹の上に身を隠そう」
「えっ!? 大、大花神樹は皇族しか触れられません。過去に、触れようとした者が炎に焼かれたとか、雷に打たれたとか」
自分の心配をしているんじゃない。花仙の心配をしているのだ。
色違いとはいえ、蓮雨は皇族に根を連ねている。系譜にも載っているが、花仙はそうじゃない。もし、もしもだ。もしも、この人に何かあったら。
「――大丈夫。おいで、蒼霖」
何を根拠に大丈夫だなんて言うのだろう。それでも不思議と、この人がいうのなら大丈夫なのだと想えてしまう。
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