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第二章
《 六 》
しおりを挟む火のない所に煙は立たぬ。情報が入ってくるのは、人の出入りが多い場所と相場が決まっている。
黒州には、隣の藍州との間に大きな河がある。河は美しい湖へと繋がり、花の甘い実で作られた果実酒が名産の港町がある。美味しい酒に、美味しい料理。宿屋も多く、黒州では人の出入りが最も多い町と言えよう。
「旅の人! ぜひうちの宿で休んでいきなよ! 可愛い子がたくさんいるよぅ!」
「オヤジさーん! いつものお酒ちょうだいな!」
「愛しい人への贈り物に、櫛はいかがかしらぁ」
「美味しい美味しい花の蜜煮だよ~!」
あまりの人の多さに、蓮雨はげんなりして口をへの字に曲げた。
川沿いに店が立ち並び、舟で果物や酒を売る商人たちが行き交っている。
「そこの美人さん! 良ければどーぞ!」
行き交う人々をうんざりしながら眺めていると、舟の上から声をかけられる。返事をするよりも早く、「はいっ」と軽く放り投げられた甕にぎょっと慌てて手を伸ばした。
「この星河でいっちゃん美味しい蜜月酒だよ!」
「え、あの、」
とっさに受け取ってしまったものの、どうしたものかと眉を下げていれば、後ろからひょいと甕を奪われた。
「ほんとだ、そこらへんの酒とは違う、甘くて濃厚な香りだな」
「花せ、………………哥哥、どこへ行っていたんですか」
「今夜泊まる宿を探しにね。可愛いお前を、野宿させるわけにいかないだろ? それより、これ、どうしたんだ? 貰ったのか?」
何かあったときのために、金子は持たせたがわざわざ酒を買うような性格じゃないのをきちんと理解している花仙は上機嫌に舟上の商人に声をかける。
哥哥、と呼ぶように提案したのは花仙からだった。こんな人だかりで「花仙!」なんて呼びかけたら変な目で見られるに決まっていた。わざわざ尊い花神仙様と同じように呼ぶなんて、下手をしたら「罰当たりめ!」と石を投げられる可能性も否めないのだとか。
蓮雨もわざわざ目立ちたくなかったので、花仙の提案に賛成したのだが……哥哥と呼ぶたびに花仙の機嫌は上を向いて行き、蓮雨はどんどん居心地が悪くなっていく。
「おんやまぁ! これまた偉い別嬪なお兄さん! なぁんだ、あなた、ちゃんと素敵な夫君がいるんじゃぁないの! それならそんな憂鬱な顔してちゃあ駄目じゃない! お兄さん! 蜜月酒が気に入ったなら是非うちで買っとくれよ」
お、夫!?
目を剥いて商人を見る。目が腐ってるんじゃないのか! もしくは、邪気に侵されて曇っているとか!
商人はカラカラと笑って、何が何だか気を良くする花仙は調子に乗って蓮雨の細い腰に腕を回して抱き寄せると、「それじゃあ二甕いただこうかな」と呑気に買い物をしている。
バッカじゃないのかこの男は! 怒鳴り大声を出してしまいそうになるのを、人前だからとグッと堪える。蓮雨に忍耐強さと我慢強さが無ければ人前でもなんでもとっくに怒鳴り散らしていた。
酒甕を受け取ったのを見計らって、花仙の足を思いっきり踏みつける。
「い、ぎッ……!!」
「旦那様? どうなさったんです?」
「あ、あぁ、なんでもないさ。酒、ありがとう。ところで、酒のつまみになりそうなモノって、何かないかな?」
こういう時、外面がいいと非常に便利だ。足を踏まれてなお笑みを崩さずに商人と会話を続ける花仙に嘆息する。なんとも器用な男だった。
面倒くさくなってきて、腰に回された腕に体重を乗せて寄りかかってしまう。これが嫌なら離せばいい、と思っていたのに、蓮雨が寄りかかったくらいじゃビクとも揺らがない花仙は腕の位置を変えてぎゅっと力を入れた。なんでもそつなくこなす、こういうところが嫌になる。
旅の遊楽道士、と言う設定で、花仙も蓮雨も普段とはまた違う装いに身を包んでいた。深い群青の上衣に、黒の下衣、金糸で花が刺繍された黒い衣を羽織った蓮雨は、射干玉の髪をしゃらりと背中に流して笠をかぶっている。目元に紅い紅を差し、鼻から下は面布に覆われていた。かく言う花仙は、白い衣に紅の花が咲き乱れた大変雅やかな衣だ。剣・恋雨を手に持ち、同様に笠を被って適当な黒い羽織を肩に乗せていた。
蓮雨は女性物を着ているわけでもないし、万が一第三皇子とバレたらマズいので面布をしているがどこからどう見ても男だ。もちろん花仙は身長も高いし肩幅もあって、手だってごつごつした男の人の手をしている。花仙が女性に見えるわけがない。やっぱり、この商人の目が節穴なのだろう。
内心で失礼なことを散々グチグチ呟いていると、商人が「毎度アリ!」と笑顔で舟を進めて行った。
「雲霊山で鬼火が見れるんだとさ」
「……それが、つまみになりそうなモノ?」
「上出来だろう?」
「…………哥哥、やけに慣れているんですね。人は嫌いなんじゃなかったんですか」
「ながぁーく生きていると、人里に降りて生活するときもあるんだよ」
ふぅん、とカラ返事をして、未だに腰を抱く腕に手の甲を遠慮なく抓み上げた。
「い、ってぇ……!」
「話は、宿に戻ってからにしましょう。ほら、さっさと案内してください」
ふんっ、と鼻を鳴らして歩き出した蓮雨に、花仙は息を吐き出した。気紛れな黒猫だな、と声に出したら凍てついた視線で睨みつけられるのが分かっているので心の中に留めておいた。
「怒った顔も花のようだな」
結局、その一言で凍てつく視線を向けられることになってしまった。
星河一の高級宿、緑泉庵の一等室をぐるりと見渡す。
紗の垂れた奥に寝台が二つあり、天女の描かれた衝立で仕切られている。描かれた天女は今にも動き出しそうなほど生き生きとした表情をしていた。過度な装飾はなく、さっぱりとした内装だが要所要所に細やかな工夫が施されている。
円窓からは月明かりに輝く大河が見えた。ホゥホゥと鳥の鳴き声が響き、すっかり暗い室内に給仕が灯りをつけにきた。
「お食事もお持ちいたしました」
「ありがとうございます」
「こちらに置いておきますね! ところで、もう一人の若君はどちらへ?」
「……さぁ。私が知るところではありません」
「あ、お茶をお入れしましょうか?」
「いえ、結構です、」
しつこいな、と窓辺から振り向いた蓮雨は、給仕の男がやけに近い場所に立っていることに驚いて目を見張った。
「貴方も、とっても綺麗なお顔をしていらっしゃいますよね。その面布の下って、見せてもらうことはできないんでしょうか……?」
一級宿じゃなかったのか。無遠慮に客に触れようとする店員なんて聞いたことがない。接客も一流、みたいな謳い文句だったがこれのどこが一流なんだ。というか、花仙はどこに行っていつ帰ってくるんだ!
花仙へ理不尽な怒りを抱きながら、鼻から下を覆い隠す面布へと伸ばされる指先から離れようと、後ろに引いた足が壁にぶつかる。そういえば、窓際で外を眺めていたんだった。眉根をキツく寄せ合わせて、男へ嫌悪を浮かべる。面布の内側で、誰にも聞こえないほど小さな声で言葉を囁き、重力に従って降ろしていた手のひらに霊力を集めた。
「全く、ひとりで留守番もできないのか?」
耳元で囁かれた艶やかな低い声に、ハッと後ろを見る。窓枠に体を半分乗り上げた花仙が、瞳を月色に輝かせて微笑んでいた。
「ぁ、哥、哥……」
「うん、ただいま。寂しくて外を見ていたのか?」
「は、い、いつから……!」
喉を転がして笑った花仙は、身軽に窓枠を飛び越えて室内に入ってくる。丁度、蓮雨と給仕の間に立つように降り立って、面布越しに頬を撫でられた。
「悪いね、旦那。これは俺だけの花なんだ。むやみに秘密を暴こうとしないでくれよ」
朗らかに笑って言うが、妖しく光る月色の瞳に男はゾッと背筋を粟立てて後ろに一歩足を退く。興奮気味に赤らんでいた顔は、サッと血の気が引いて青白くなっていた。
「い、いえ……その、失礼いたしますね、あ、食べ終わった食器は、廊下の棚に上げておいてくだされば時間を見て回収に来ますので、それでは、どうぞ、ごゆっくりとお過ごしください……」
酷く吃りながら足早に部屋から出て行った男に、無意識の内に強張っていた肩の力が抜けた。知らない他人と同じ空間にいるのはあまり得意ではない。良くも悪くも、自分の容姿が目立つのを知っているからなおさらだった。
「どこに行ってたんです?」
「星河と言えば、花の蜜煮だ」
「……は、それのために、わざわざ? てっきり、情報収集か何かかと」
「情報ならある程度集まっただろ。お前が、食べたいかと思って」
透明な瓶に詰められたそれは、灯色に照らされてキラキラツヤツヤしている。特に、今は花が咲いていないから蜜煮も数を少なくして販売をしており、手に入れるのに町の端まで行って来たらしい。
――確かに、昼間すれ違った蜜煮売りをチラと見たが、別に欲しかったわけじゃない。金も渡されているから、欲しければ自分で買った。ただ、なんとなく、後宮で一度だけ花の蜜煮を食べたことがあって、それがとても美味しかったからそれを思い出しただけだった。
「……仕方ないから、貰ってあげますよ。ほら、さっさと食事にしましょう」
仕方ないから、とかなんとか言っているが目元が柔らかく緩んでいることに気づいていないのだろう。声もかすかに上向きで、明らかに「嬉しい」と言う感情が溢れていた。
――しかし、油断も隙も無い。ちょっと目を離しただけで余計な虫が一匹二匹くっついているのだから。和やかに会話を続けながら、花仙は後ろ手に印を組むと、人除けの術を部屋の出入り口に展開した。
暴漢に襲われた時の対処法なんて、城で教えてくれないだろう。いざというときのために、武仙に教えを乞うてもらうべきか。けれど武仙の元へ送り出して帰ってきた蓮雨が筋肉隆々になっていたら悲しいので却下。俺が守ればいいだけか、と自らを納得させて卓子についた。
料理はできないがお茶くらいなら入れられる。母に美味しい茶を飲んでもらうために、侍女頭にお願いをして教えてもらったのだ。食事時、花仙と卓子を囲んだときは蓮雨がお茶を入れるのが習慣になっていた。いつものように、茶器に手を伸ばしたところ、町で買った酒龜を卓子に置いた花仙。
「せっかくなんだから、こっちを呑もう。呑めないわけじゃないんだろ?」
「嗜む程度になら呑めますけど、貴方こそ呑めるんですか? 呑んでるところ、見たことがないですけれど」
「はは、蜜月酒なら五龜は余裕で呑めるぞ」
口の端を持ち上げた花仙に肩を竦め、茶器ではなく酒盃をふたつ用意した。
めったに酒を呑むことはないが、食事をしながらゆっくりと呑むくらいなら花仙に付き合ってやってもいい。酒に強いのかと言われれば、どちらでもなかった。限界まで呑んだことがないのもある。ある程度調子を整えて、呑みすぎない加減を見極めるのが蓮雨はとても得意だった。
乾杯して、花仙が一気に呷ってしまうのを見てから、くん、と匂いを嗅いで一口嚥下する。
口内に花の濃厚な香りがぶわりと広がって、舌先にほのかな甘みが残る。のどごしはとろりとしていて、まさしく花の蜜だった。
「美味いだろ?」
「思ったよりも、ずっと呑みやすいですね」
「黒州自慢の地酒だからな。白州とか、そっちの酒は妙に塩辛くって口に合わないんだ。これが気に入ったなら、藍州の酒も口に合うだろうよ」
大河で採れる魚料理や、漬物に舌鼓を打ちながら集めた情報の整理を行う。と入ったものの、酒が入ってしまったので簡単な情報共有くらいだ。明日、行く場所はすでに決まっているも同然だった。
「――雲霊山、でしたっけ」
ほんのりと、頬をかすかに赤らめながらつまみの落花生を指で弾く。卓子から落ちる直前で手のひらで掬った落花生を花仙は口の中に放り込んだ。
まだたった四、五杯ほどしか呑んでいないのにほろ酔い状態の蓮雨は熱くなってきた体に襟元を緩めて寛げた。生白い首筋に灯りが浮かび、火照った体を影に浮かび上がらせる。
酔ってるな、と自覚したとたんに目が回り始めるのはどういう原理なんだろう。きっと、世界が回っているから回っているように見えるんだ、とか頭の中で考えていることと、口で喋っていることと、別々のことを考えながら蓮雨は落花生はひとつ弾いた。
ここしばらく、ウワバミ揃いの神仙としか酒飲みをしていなかった花仙は一甕をぺろっと飲み終わって、蓮雨が机に突っ伏してしまったのを見てから「蜜月酒ってそういえば大蛇ですら泥酔するくらい強い酒だったな」と呑気に思い出した。呑みやすい酒ほど酔いやすい、いい見本だ。
冷たい机に頬をくっつけて、蒼い目だけで花仙の動きを観察(しているように見えるが焦点は合っていない)蓮雨は、頬を擽る黒髪を何を思ったのか力いっぱいにぐい、と引っ張った。この黒髪が気に入らない。大好きな母上と同じなのは嬉しいけれど、この髪が黒いせいで母はそれ以上に苦労をしてきたんだ。兄皇子にはいじめられるし、皇女たちには虫けらを見る目で見られる。いくら気にしないとは言えど、傷つかないわけじゃなかった。
「……私も、花仙みたいな髪色がよかったです」
「えぇ……? 急にどうした? 酔ってるだろ?」
「酔ってないです。……花仙の目は、とっても美味しそうです」
酔ってるな、とは口に出さなかった。酔っ払いほど、酔ってないと言うものだ。
物欲しそうに伸ばしてきた細い指先を握った。酒が回って、随分と体温が高くなっている。蓮雨|が拒否しないのをいいことに、手を伸ばして赤く火照った頬をつついたり、引っ張って乱れた黒髪を手櫛で直してやったり、好き勝手に触れてみる。
出来物ひとつに頬は柔らかく、いつまでも触っていたいもっちり感。かじったら饅頭のように食べれてしまいそうだ。
蜂蜜色の瞳が美味しそうと言うけれど、蒼い花の瞳のほうがずっと美味しそうだった。遠い蒼穹のようにも、深い水底のようにも見える蒼い瞳。長い睫毛に縁取られて、目尻が少しだけ赤らんでいる。酔いも回って、とろんと眠気に支配された瞳は潤んでいて、飴玉のようだ。薄く開いた、濡れた唇はもっと美味しそうだった。
指先を、誘われるがままに伸ばしてぷるりと赤い唇に触れる。薄く開いた隙間に、ゆっくりと押し込むとコツ、と歯にぶつかった。
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