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第一章
《 四 》
しおりを挟むとても穏やかな場所だった。人の気配はせず、ささやかな風と花のささめく音。透き通る水面に浮かぶ東屋で卓子を囲んでお茶をしていた。
「此処には、花神仙おひとりで住んでいらっしゃるんですか?」
「嗚呼、そうだ。静かで、長閑で、美しくて良い場所だろう」
頬杖を付き、茶を呷る花神仙。
手ずから入れてくれた花茶には、桜の花びらが揺蕩っている。
趣味の悪い純白の婚礼衣装はさっさと脱いで、花神仙が用意をしてくれた衣を身に着けている。普段、黒や青を着ることが多いからか、婚礼衣装もそうだが、花神仙が手渡してきた白を基調とした衣は着慣れなくて違和感があった。
「蒸し饅頭は好きか?」
「嫌いではありません」
そういえば、猫鈴が作ってくれた蒸し菓子、食べ損ねてしまったな。
「俺を前にして考え事とは、随分と余裕があるらしい」
「っ、」
物憂げに耽っていた思考に水を差される。
ぱちん、と長い指が額を弾いた。
「それで、お前はどういう名目で俺に捧げられたんだ?」
「うっ……それ、は……」
「どうした? なぜ言えない?」
「……その、華蝶国は、今現在花が咲いておりません。なので、花神仙様のお力で、国に祝いの花を咲かせてくださいませんでしょうか。そのために、私は、貴方様に……――婿入り、と称して捧げられました」
目頭に力が籠ってしまう。
「俺は、男だが」
「えぇ、えぇ、知っています。つい先ほど知りましたとも! 書物では、花神仙は女仙として描かれていました。だから、古狸共は私を生贄としたんです」
「……――なるほど。で、お前は、帰りたいのだね」
「そんなの、決まっています。私は、母上の下へ帰らなければならないのです」
母上。まさかの人物に蜂蜜を瞬かせる。愛しい恋人がいるのかとも思っていたのに、まさかの母。
「……貴方も、私のことを馬鹿にしますか。この歳にもなり、母が一番大切などとは」
「いいや、馬鹿になんてしない。家族の繋がりとは、どこまでも続く尊い縁だ」
「えぇ、そうです。私には母しかいない。母にも、私しかいない。あの寂しい薔薇の宮でひとりきりなんて、耐えられない。母は強い人だけれど、同時にとても弱く儚い人だ。――私が、私が、もっと、ちゃんとしていればよかったんです」
ぐしゃり、と前髪を掴んでかき乱す。半ば、堪えきれない胸中の独り言だった。
「本当に母猫と引き離された子猫だった……小猫って呼んでやろうか?」
「ともかく、私は母上の下に帰りたい。花神仙様も、突然見ず知らずの他人と共同生活など無理でしょう? 私は無理です」
「無視かよ……。ふぅん、まぁ、大体の話はわかったさ。だが、それをして、俺になんの得がある?」
真っすぐに、目を見つめられる。とろりと甘い蜂蜜の瞳なのに、何の感情も乗っていない。透明な、透き通る眼差しに体が震えた。立ち上る仙気に、息ができない。
「生贄として捧げられたというのに、帰りたいだなんて傲慢だな。だから人間は嫌になる。そもそも、俺はすでに祈りの陣を施している。半月も前の事だ。それで花が咲かないんなら、他に問題があるんだろう。俺に尽くせる手は尽くしている」
「そん、な……。なら、私が、」
「まだ何か?」
「私が、捧げられたのは、それじゃあ、無意味だったってことか……?」
なんだ、そんなこと。肩を竦めた花神仙は、是とも否とも答えなかった。それで、十分だった。
蓮雨がわざわざ人身御供となって梦見楼閣へ来なくとも、神仙はとっくに行動をしていた。
それじゃあ何のために、私は捧げられたんだ。宙ぶらりんになってしまった存在意義。はじめは、花神仙に花を咲かせてもらったら、説得をして母の下へ帰ろうと思っていた。けれど、花神仙はすでに花を咲かすための陣を施したと言った。それをしてもなお花は咲かず、花が咲かずして帰れば、竹打ちどころではないだろう。皇帝の勅命に背き、逃げ出してきたとして死刑に処される。
どうすれば、いいんだ。手詰まりだとしか、思えなかった。
「残念だったね。俺は花と美しい国を愛する花神仙だ。人助けをしてほしいんなら、俺じゃなく、人に慈しみ愛するお優しい癒神仙や秀神仙の下へ行くんだったな」
「……花が咲かないのだから、捧げられるのは花神仙しかいないでしょう」
声が震えているが、とても理性的な返答だった。
おや、と片眉を上げて蓮雨を見る。泣くのかと思ったのに。残念。
「その猫被り、やめたらどうだ? たまに素が出ているぞ」
「知っています。猫被りだとか、素だとか、そんなのどうでもいいんです。目下の問題は、花が咲かない事」
「だから、それに関しては俺は手を尽くしたと、」
「――本当に?」
ゾッとする、冷ややかな声だった。
瞬間的に、蓮雨から感じる霊気が跳ね上がった。蒼い瞳の奥に、何かがちらついている。夢蝶が翅を広げて飛び交う。
「花神仙様が行ったのは花への祝いの陣だけですか? おそらく、都に護りと、祓えの陣も展開していらっしゃるんでしょうね」
「そうだが、それがなんだ?」
「梦見楼閣にて、襲ってきた獣に放ったのは祓えの陣でしたね」
祝福は花。花神仙は人のために祝福しない。花と美しい国を愛する花神仙が祝福するのは、花と国のためだけ。
「花に、祓えの陣は?」
「して、いない」
気付いた。気付いてしまった。
蜂蜜色の瞳は、光加減で濃淡が変わった。琥珀に煌めく瞳は、驚き蓮雨を映し出した。
母・薔香は秘術の使い手だったが、それを決して誰にも言わなかった。仙術と、秘術とは似て非なるモノ。秘術とは隠された御業。表に出るべきではない、邪道、鬼道へと通ずる物があるのだ。――邪道の使い手に待っているのは、死、ただそれだけだ。
「まさか、花に呪がかけられているとでも!? まさか、ありえない! 花は、この国そのものだぞ!」
「……母に、聞いたことがあります。花や動物に呪をかけて、邪鬼を呼び出し、瘴気をまき散らす邪仙の道士たちがいる、と」
正確には、母に聞いたんじゃない。蓮雨自身が、遭遇したことがあった。一哥(一番目の兄。第一皇子のこと)に無理やり連れて行かれた雉狩で、得体のしれない男に話しかけられた。「花に恨みはございませんか」と。怪しい以外の何物でもなかったので、その場をすぐに離れたが、後から思い返せば邪仙の者だったのだろうと、寒気がした。
「はぁ……それが本当なら、俺だけで留めておける話じゃなくなってくるぞ……」
頬の柔らかな内肉を歯で噛み締める。
――実を言うと、半分はでたらめだった。
あの獣が邪鬼に憑りつかれたのは偶然かもしれないし、花に呪がかけられているなんて、そんなことする者がいるのだろうか、と嘯いた自分ですら思う。だが、どうしても、なんとしても蓮雨は母の下へ帰りたかった。母と一緒に、いたいだけなんだ。
「……お願い、です。花神仙様」
「は、おい、何して、」
そのためなら、なんだってしよう。鬼に魂を売ることすら、躊躇わない。たとえこの先が蛇の道だとしても。
椅子から降り、冷たい石の床に膝をつく。動揺する花神仙をよそに、指を揃えて、頭を下げた。
「お願いです。花神仙様。この国に、花を、咲かせてください」
どうして、そこまでするのか花神仙には理解できなかった。
「お願いします」
顔の良い人間を、平伏させる趣味などない。こんなところを他の神仙に見られたら、怒髪冠を衝くだろう。
深く深く、溜め息を吐いた花神仙は立ち上がり、頭を垂れる蓮雨の肩に触れた。
「……頭を上げろ。皇子ともあろう者が、そう簡単に頭を下げるものじゃない。ここまでされて、断れるほど外道じゃない。他の神仙にも聞いてみよう。さぁ、立つんだ」
「花神仙様……」
「様は必用ない。花仙でも、花神でも、呼びやすいように呼んでくれ」
口ではなんと言おうと、やはりこの人は神仙なのだ。尊く、眩く、人々を導く救済者。
頬肉を強く噛み過ぎて、口内に鉄臭さが広がる。それを無理やり呑み込んで、不器用な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます……! 花仙……!」
「もちろん、お前にも手伝ってもらうからな」
「はい……! 私にできることがあれば、なんでも仰ってください……!」
「じゃあ、まずは手料理が食べたい」
「……炊事洗濯など以外のことでしたら、なんでも仰ってください」
そっと、目を反らした。なんでも、と言った手前都合が悪い。けれど、皇子なんだからできるわけないじゃないか。
国を創った神仙のひとり・花神仙――の三代目と、華蝶国の色変わりな第三皇子・蓮雨。
花咲く美しい国に花を咲かすため、問題の解決へと手を取り、身を乗り出した。
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