上 下
5 / 7

第5話

しおりを挟む
 剣聖イーリスが少年アルトをなぜ抱き締めたのか、と問えば、「衝動的にやってしまった」としか答えようがない。

「これからパーティメンバーとしてよろしくね」ということを、できるだけ普通に、勘違いされないようにイーリスなりの言葉で伝えたら、なぜか目の前の少年は、顔を真っ赤にしてイーリスに謝罪してきたのだ。

 謝ってきた理由はまったく分からないが、一つだけ確実に言えることは、その少年の有様が可愛すぎたということだ。

 それでイーリスの母性本能に火がついてしまい、気が付いたら少年を抱き締めてしまっていた。

 完全に衝動的犯行である。
 ついキュンとなってやった、今は反省している。していない。

(ど、どどど、どうしよう……!? でもそれはそれとして、抱き心地が最高すぎる……! ふわぁあああああっ……!)

 イーリスは自分の腕の中に少年を抱き締めながら、見事に錯乱していた。

 やっていることは、完全に犯罪者のそれである。
 抱き締めたいと思ったから抱き締めた。
 そんなことが許されるのは本来、彼の母親や彼女として認められた女性だけだろう。

 だが、イーリスの理性が「今すぐ手放さなければ」と思っても、体が言うことを聞いてくれなかった。

 目の前の可愛い少年を、こうしていつまでも抱き締めていたい。
 なんなら頭なでなでもしたい。

 剣聖の体は今、目の前の少年を思うさま可愛がりたいという、お姉さんの欲望に支配されていた。

 しかも悪いことに、今いる場所は冒険者ギルドの酒場だ。
 すなわち、公衆の面前である。

 周囲で飲んでいた冒険者たちが、ざわざわとし始める。

 いたいけな少年を欲望のままに抱き締めるイーリスの姿は、今や酒場じゅうの──いや冒険者ギルドじゅうの注目の的だった。

 こうなってしまっては、イーリスとしてはもはや、後輩をかわいがって面倒を見るお姉さん冒険者像を押し通すしかない。

 今さら後戻りはできないのだ。

「……どうしたの、少年。何かイケナイことでもしたのかな? よかったら、お姉さんに話してごらん」

 イーリスの口から出たのは、そんな言葉だった。

 イケナイことを現在進行形でしているのはお前自身だろ、何がお姉さんに話してごらんだいい加減にしろ──そんな脳内セルフツッコミが入るが、そんなものは全部無視である。

 さらにイーリスは、眼前にある少年の艶のある銀髪を、よしよしとばかりに手でなでつける。
 毒を食らわば皿までよという心境であった。

(もういい……このまま私は死んでもいい……幸せな最期だった……)

 心の中で、感無量の涙を流すイーリス。

 思えば剣聖として、人々をモンスターから救い続けてきた冒険者人生だった。
 自分自身を救うことができたのかは、はなはだ怪しいけれど──

 ──と、そんなことを思っていたときだった。

 イーリスが抱き締めていた少年の口から、突然、こんな言葉が漏れたのだ。

「すみません、俺……イーリスさんとエレンさんを相手に、エッチな妄想をしていました……本当に、ごめんなさいっ!」

「──ふぁっ!?」

 思わず演技が抜けて、イーリスの口から素っ頓狂な声が漏れてしまった。

 イーリスは混乱する。
 この少年は今、なんと言った……?

 エッチな、妄想……?
 私とエレンを相手に……?

 だがそうしてイーリスが驚いている間にも、少年の懺悔のような告白は続いていく。

「俺……イーリスさんとエレンさんのおっぱいに挟まれて、二人からぎゅーっと抱きしめられたらどんなに幸せだろうなって、そんなことを思ってしまったんです。俺、最低です……本当に、本当にごめんなさい……!」

 そんな少年の告白を聞いたイーリスは、完全に頭が真っ白になっていた。

 脳の処理能力の限界を超えた情報が洪水のように襲い掛かってきて、イーリスの思考力を押し流してしまったのだ。

 あとに残ったのは、包容力のあるお姉さんを演じなければいけないという使命感だけ。

 思考を放棄した剣聖は、少年の髪をなでながら、彼の耳元でささやく。

「ふぅん、お姉さん、ちょっと驚いたな。……アルトくんってば、かわいい顔して結構エッチなんだ?」

「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ……! 今も俺……イーリスさんのいい匂いで、頭がくらくらして……」

「ふぅん、そっか。じゃあ……もっとぎゅーってしたら、どうなっちゃうのかな?」

「ふぇっ……!? ふわぁああああっ……」

 イーリスがさらにぎゅーっと少年を抱き締めると、アルト少年はもう、骨抜きになったような声をあげて、イーリスに自身の体重を預けてくる。

 そんな少年の反応を受け、少しだけ思考力が戻ってきたイーリスは、心の中でるーるーと涙を流す。

(ああ……本当に何をしてるんだろう、私……。こんなの、少年をかどわかす悪女以外の何ものでもないよ……。完全に終わった……私の人生、詰んだ……あとはもう豚箱に入って、臭いごはんを食べる余生なんだ……お父さん、お母さん、こんな不孝行な娘でごめんなさい……でも、幸せ……)

 剣聖イーリス、社会的享年二十七歳、ここに没す。

 剣聖の名誉と少年かどわかしの不名誉で相殺になりませんかね、なりませんね、無理ですね、はい終了、お疲れさまでした。

 などとイーリスの中で勝手に人生が終わっていると──

「はい、両者ストーップ! そこまで」

 レフェリーストップが入った。
 イーリスの唯一の親友、盗賊のエレンだ。

 いつの間にか二人の隣に来ていたエレンは、親指で冒険者ギルドの出口の方を指し、こんなことを言う。

「続きは宿を取ってやるよ、イーリス。アルトくんもいいね?」

「「……はい?」」

 剣聖と少年は、二人して仲良く首を傾げた。


 ***


 夕刻をとうに過ぎ、そろそろ夕食時という時刻。

 夜の帳がとっぷりと下りた中、稀にある街灯の光魔法の灯りと、住居から漏れ出る灯りばかりが頼りの、薄暗い夜道。

 少年アルトは今、二人のお姉さん冒険者に連れられて、街のひと気のない通りを歩いていた。

 イーリスとエレンは、そんなアルトの前を何やら内緒話をしながら歩いている。
 アルトには、その内容はよく聞こえなかったが──

(ど、どうしてこうなった……)

 手の汗で滑りそうになる魔術師の杖を、胸に抱くようにして確保しながら、少年は処刑場に向かうような心持ちでついていく。

 エレンは「宿に行く」と言った。
 それはいったい、どういう意味なのか。

 もちろんアルトには、断るという選択肢などない。
 どういうことになるのであれ、もはやなるようになるしかない。

 少年の頭の中で、さらなるピンク色の妄想がぐるぐると回り続ける。

 まさかとは思うが、妄想通りのことが起こるのではないか。
 二人のお姉さんに、そういう宿に連れ込まれて、そういうことになるのではないか。

 いやいや、ありえない。
 なんでそうなる。
 相手の一人は、あの剣聖イーリスだぞ。

 ──いや、でも。

 自分はあの剣聖のお姉さんの、人間としての本当の姿をまだ知らない。
 本当のイーリスはひょっとして、そういうことが大好きな──

 そこまで想像して、アルトはぶんぶんと首を振る。

 一体何を考えているんだ。
 自分の中でイーリスさんを貶めるのも大概にしろ。

 あの人はきっと、ただ底抜けに優しいだけなのだ。

 自分にエッチな目を向けられていたと知っても、子供のやることだからと大目に見て、それでもいいんだよと抱き締めてくれたのだ。

 そんな聖母のごときイーリスを、自分の妄想の中で貶めて興奮するなんて、罪深いにもほどがある。

 どんなに懺悔しても、足りるわけがない。
 自分は救いようのない大罪人だ。

 アルトがそんな自虐を続けながら、二人のお姉さん冒険者についていくことしばらく。

 やがて三人は、薄暗い路地裏にある、一軒の高級そうな宿に到着した。

「ここ、あたしの御用達の宿。隣の部屋に声が漏れないようになってるから、何かと都合がいいのよね」

 エレンがそう言って、宿の入り口をくぐっていく。
 そのあとを、イーリスがついていこうとして──

 そのときに、ちらとアルトのほうを見てきた。

 剣聖のお姉さんの頬が赤く染まったようにも見えたが、彼女はすぐに視線を外して、宿の中へと入っていく。

(な、なんだったんだろう、今のは……)

 少年の中で、妄想ばかりがむくむくと膨らんでいく。
 ぶんぶんと頭を振って、その妄想をどうにか霧散させる。

 それからアルトは、宿の前でごくりとつばを飲んだ。

 本当に、ついていっていいのだろうか。
 これはさすがに、美人局つつもたせか何かなのではないか。

 いや、少なくとも剣聖イーリスに限っては、そんなことはないと思うが──

 そもそもアルトには、ここで引き返す選択肢など、元よりありはしない。

 仮にこれが犯罪的な何かであったとしても、すでにアルトはその網に囚われた憐れな獲物であり、されるがままに毒牙にかかるよりほかにはないのだ。

 少年はふらふらと、宿に足を踏み入れていく──
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】俺のセフレが幼なじみなんですが?

おもち
恋愛
アプリで知り合った女の子。初対面の彼女は予想より断然可愛かった。事前に取り決めていたとおり、2人は恋愛NGの都合の良い関係(セフレ)になる。何回か関係を続け、ある日、彼女の家まで送ると……、その家は、見覚えのある家だった。 『え、ここ、幼馴染の家なんだけど……?』 ※他サイトでも投稿しています。2サイト計60万PV作品です。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

今日も殿下に貞操を狙われている【R18】

毛蟹葵葉
恋愛
私は『ぬるぬるイヤンえっちち学園』の世界に転生している事に気が付いた。 タイトルの通り18禁ゲームの世界だ。 私の役回りは悪役令嬢。 しかも、時々ハードプレイまでしちゃう令嬢なの! 絶対にそんな事嫌だ!真っ先にしようと思ったのはナルシストの殿下との婚約破棄。 だけど、あれ? なんでお前ナルシストとドMまで併発してるんだよ!

【R18】助けてもらった虎獣人にマーキングされちゃう話

象の居る
恋愛
異世界転移したとたん、魔獣に狙われたユキを助けてくれたムキムキ虎獣人のアラン。襲われた恐怖でアランに縋り、家においてもらったあともズルズル関係している。このまま一緒にいたいけどアランはどう思ってる? セフレなのか悩みつつも関係が壊れるのが怖くて聞けない。飽きられたときのために一人暮らしの住宅事情を調べてたらアランの様子がおかしくなって……。 ベッドの上ではちょっと意地悪なのに肝心なとこはヘタレな虎獣人と、普段はハッキリ言うのに怖がりな人間がお互いの気持ちを確かめ合って結ばれる話です。 ムーンライトノベルズさんにも掲載しています。

転生おばさんは有能な侍女

吉田ルネ
恋愛
五十四才の人生あきらめモードのおばさんが転生した先は、可憐なお嬢さまの侍女でした え? 婚約者が浮気? え? 国家転覆の陰謀? 転生おばさんは忙しい そして、新しい恋の予感…… てへ 豊富な(?)人生経験をもとに、お嬢さまをおたすけするぞ!

溺愛の始まりは魔眼でした。騎士団事務員の貧乏令嬢、片想いの騎士団長と婚約?!

恋愛
 男爵令嬢ミナは実家が貧乏で騎士団の事務員と騎士団寮の炊事洗濯を掛け持ちして働いていた。ミナは騎士団長オレンに片想いしている。バレないようにしつつ長年真面目に働きオレンの信頼も得、休憩のお茶まで一緒にするようになった。  ある日、謎の香料を口にしてミナは魔法が宿る眼、魔眼に目覚める。魔眼のスキルは、筋肉のステータスが見え、良い筋肉が目の前にあると相手の服が破けてしまうものだった。ミナは無類の筋肉好きで、筋肉が近くで見られる騎士団は彼女にとっては天職だ。魔眼のせいでクビにされるわけにはいかない。なのにオレンの服をびりびりに破いてしまい魔眼のスキルを話さなければいけない状況になった。  全てを話すと、オレンはミナと協力して魔眼を治そうと提案する。対処法で筋肉を見たり触ったりすることから始まった。ミナが長い間封印していた絵描きの趣味も魔眼対策で復活し、よりオレンとの時間が増えていく。片想いがバレないようにするも何故か魔眼がバレてからオレンが好意的で距離も近くなり甘やかされてばかりでミナは戸惑う。別の日には我慢しすぎて自分の服を魔眼で破り真っ裸になった所をオレンに見られ彼は責任を取るとまで言いだして?! ※結構ふざけたラブコメです。 恋愛が苦手な女性シリーズ、前作と同じ世界線で描かれた2作品目です(続きものではなく単品で読めます)。今回は無自覚系恋愛苦手女性。 ヒロインによる一人称視点。全56話、一話あたり概ね1000~2000字程度で公開。 前々作「訳あり女装夫は契約結婚した副業男装妻の推し」前作「身体強化魔法で拳交える外交令嬢の拗らせ恋愛~隣国の悪役令嬢を妻にと連れてきた王子に本来の婚約者がいないとでも?~」と同じ時代・世界です。 ※小説家になろう、ノベルアップ+にも投稿しています。※R15は保険です。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

大嫌いなアイツが媚薬を盛られたらしいので、不本意ながらカラダを張って救けてあげます

スケキヨ
恋愛
媚薬を盛られたミアを救けてくれたのは学生時代からのライバルで公爵家の次男坊・リアムだった。ほっとしたのも束の間、なんと今度はリアムのほうが異国の王女に媚薬を盛られて絶体絶命!? 「弟を救けてやってくれないか?」――リアムの兄の策略で、発情したリアムと同じ部屋に閉じ込められてしまったミア。気が付くと、頬を上気させ目元を潤ませたリアムの顔がすぐそばにあって……!! 『媚薬を盛られた私をいろんな意味で救けてくれたのは、大嫌いなアイツでした』という作品の続編になります。前作は読んでいなくてもそんなに支障ありませんので、気楽にご覧ください。 ・R18描写のある話には※を付けています。 ・別サイトにも掲載しています。

処理中です...