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第九章 帆舟を出す夜
10 わたしたちは『海の民』
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——さっきの階段が、ここに繋がっていたなんて……。
イェロードは、シュードと一緒に入った奴隷たちの待機部屋にたどり着いたことに驚いた。床の一部に隠し階段があったとは、このときまでは知らなかった。イェロードは徐々に、あのとき離れの部屋が燃やされていたこと、そのなかにギーフ、ナコシュ、そしてエークの三人がいたこと、そしてローエともども海の底へと崩れ落ちていったことを思い出した。
落ち着いて周囲を見回すと、天窓から差しこむ光の先に何かが落ちていた。近づくと、それは男奴隷たちの腰布だった。それも二枚。
するとそこへ、
「坊っちゃん」
と床の下からアイラムの声がした。彼女は、安全かどうかを確かめると云って先に上がったイェロードを待っていたのだった。
「アイラム、ちょっと待ってね」イェロードは、腰布を二枚とも拾い上げて袖のなかに隠し入れた。「大丈夫だよ。誰もいないから」
ゆっくりと階段を上がってきたアイラムが云った。「おやまあ。こんなところに繋がっていたなんて」
「ここは奴隷たちの待機部屋なんだよ」
「エジーランの話では……」アイラムは窓のほうを見やった。「あそこから海が見えるはずです」
「うん。そうだよ」
イェロードはアイラムを窓のそばに案内した。
アイラムは窓の外をしばらく眺めて、
「エジーランの話では、あのあたりに離れの部屋があったはずですが……」
と指を差したあと、イェロードの顔を見つめた。「そういうことでしたか。ご無事で何よりでした」
「ねえ、アイラム」イェロードはふしぎに思って訊いた。「エジーランにどこまで聞いているの?」
「話せば長くなります。どこからお伝えしましょうか……」
アイラムは考え事をするようにしばらく目を閉じて、それからゆっくりと目を見開いた。「わたしたち三人がどうしてこちらに来たのかも、坊っちゃんに説明しなければなりませんね」
イェロードは部屋の隅に長椅子があったのを思い出し、それを窓のそばに持ってきた。「アイラム、坐って。ゆっくり話を聞かせてくれない?」
アイラムは椅子に腰かけて、もう一度、窓の外に目を向けた。
「坊っちゃん。この地オシヤクは、もともとヴォワーダ王国の領地だったのです」
「ヴォワーダ王国?」イェロードは目を丸くした。「十年前に滅んだっていう、あの……」
「そうです。アラディーム王国の人々が死の舟と呼んでいる……」アイラムが窓の外を指さした。海の向うに黒い影のように見える島がある。「あの島です」
「続けて、アイラム」イェロードは島に目を向けたまま云った。
「いまでは島と呼ばれていますが、遥か昔にはオシヤクと陸続きだったのです」
「じゃあ、広い土地が海に沈んで孤立したってことなの?」
「そうです」アイラムは窓枠の下のほうを指先で、すうっ、となぞった。「古からの言い伝えでは、千年に一度、海が割れて陸続きになるのです。ほら、」アイラムは離れの部屋のあった場所に指先を向けた。「あそこが崩れ落ちているでしょう? あれはその兆候です。海が割れる日が近づいているのです」
イェロードは身じろぎもせず、ただアイラムの話を全身で聞いている。
アイラムが続ける。
「この地は温泉が湧きますからね。いつ海底の熱が噴き上げてもおかしくはありません」
「ねえ、アイラム」イェロードは怖くなって云った。ここは保養地などではない。「それならここは危険だよ。早く逃げなくちゃ!」
「大丈夫ですよ、坊っちゃん」アイラムはそっとイェロードの手を取った。皴の深く刻まれた老いた手だが、その温かさがイェロードの手をなだめる。そしてアイラムが云った。「エボーイ・オワノニーカム」
「シュード……」
無意識のうちにイェロードはこう応えた。
「それでいいのです。坊っちゃんはノクナードの神のご加護があるのです」
イェロードはアイラムの言葉に驚いた。
——ノクナード! ノクナードの神!
そのときイェロードの脳裏に拷問部屋での記憶がよみがえった。
一糸まとわぬ姿で鎖に縛られ、鞭を打たれていたシュード……。
身動きの取れない状態でペニスを火で炙られていたシュード……。
その業火に包まれたペニスで経典を燃やされるのに耐えていたシュード……。
あのおぞましい辱めのなかで、
「ノクナードよ!」
シュードは祈るかのように神の名を呼び、そして耳をつんざくような叫びとともに精を放った。……
「どうされました、坊っちゃん?」
とアイラムが心配そうに云った。
「あ……。ううん。何でもない」イェロードは何故だかわからないが、あの拷問のことをアイラムに云ってはいけないような気がした。「でもぼくは……アラディーム王国の王家の血を引いているし、異教徒の神がぼくを護ってくださるのかなって」
「まあまあ。そんなことを」アイラムが微笑んだ。「幸い坊っちゃんは、王族の方々とは違うものを召し上がってこられました。離れでフーシェが作るものを食べ、わたしが薬草を飲ませ……ですからニナクを信仰する者たちの、あの忌まわしい穢れた血など一滴も坊っちゃんのなかには流れていないのですよ」
イェロードは首を傾げた。アイラムの話をつなげると、彼女はヴォワーダ王国の生き残りではないだろうか。彼女だけではない。フーシェもエジーランも、そして……シュードも!
「アイラム、あのね」
イェロードは、アイラムにそのことを尋ねようとした。と同時にイェロードの目に入ったものがあった。離れの部屋から少し離れた断崖だった。
「あ」
断崖の端に立たされているのは、衣服を剥ぎ取られ、後ろ手に縛られているふたりの男たち。そしてその後ろには修道士たちがいる。全裸の男たちは海に突き落とされようとしているのだった。イェロードは、袖のなかに隠し入れた腰布を思い出した。そして男たちの背格好……。
——ソルブと少年奴隷だ!
その光景にアイラムも気づいたようだった。声を押し殺すようにして、イェロードにこう云った。
「ご安心ください。彼らはわたしたちと同じ『海の民』……。海のなかにいれば、ノクナードの神が護ってくださいます」
イェロードは、シュードと一緒に入った奴隷たちの待機部屋にたどり着いたことに驚いた。床の一部に隠し階段があったとは、このときまでは知らなかった。イェロードは徐々に、あのとき離れの部屋が燃やされていたこと、そのなかにギーフ、ナコシュ、そしてエークの三人がいたこと、そしてローエともども海の底へと崩れ落ちていったことを思い出した。
落ち着いて周囲を見回すと、天窓から差しこむ光の先に何かが落ちていた。近づくと、それは男奴隷たちの腰布だった。それも二枚。
するとそこへ、
「坊っちゃん」
と床の下からアイラムの声がした。彼女は、安全かどうかを確かめると云って先に上がったイェロードを待っていたのだった。
「アイラム、ちょっと待ってね」イェロードは、腰布を二枚とも拾い上げて袖のなかに隠し入れた。「大丈夫だよ。誰もいないから」
ゆっくりと階段を上がってきたアイラムが云った。「おやまあ。こんなところに繋がっていたなんて」
「ここは奴隷たちの待機部屋なんだよ」
「エジーランの話では……」アイラムは窓のほうを見やった。「あそこから海が見えるはずです」
「うん。そうだよ」
イェロードはアイラムを窓のそばに案内した。
アイラムは窓の外をしばらく眺めて、
「エジーランの話では、あのあたりに離れの部屋があったはずですが……」
と指を差したあと、イェロードの顔を見つめた。「そういうことでしたか。ご無事で何よりでした」
「ねえ、アイラム」イェロードはふしぎに思って訊いた。「エジーランにどこまで聞いているの?」
「話せば長くなります。どこからお伝えしましょうか……」
アイラムは考え事をするようにしばらく目を閉じて、それからゆっくりと目を見開いた。「わたしたち三人がどうしてこちらに来たのかも、坊っちゃんに説明しなければなりませんね」
イェロードは部屋の隅に長椅子があったのを思い出し、それを窓のそばに持ってきた。「アイラム、坐って。ゆっくり話を聞かせてくれない?」
アイラムは椅子に腰かけて、もう一度、窓の外に目を向けた。
「坊っちゃん。この地オシヤクは、もともとヴォワーダ王国の領地だったのです」
「ヴォワーダ王国?」イェロードは目を丸くした。「十年前に滅んだっていう、あの……」
「そうです。アラディーム王国の人々が死の舟と呼んでいる……」アイラムが窓の外を指さした。海の向うに黒い影のように見える島がある。「あの島です」
「続けて、アイラム」イェロードは島に目を向けたまま云った。
「いまでは島と呼ばれていますが、遥か昔にはオシヤクと陸続きだったのです」
「じゃあ、広い土地が海に沈んで孤立したってことなの?」
「そうです」アイラムは窓枠の下のほうを指先で、すうっ、となぞった。「古からの言い伝えでは、千年に一度、海が割れて陸続きになるのです。ほら、」アイラムは離れの部屋のあった場所に指先を向けた。「あそこが崩れ落ちているでしょう? あれはその兆候です。海が割れる日が近づいているのです」
イェロードは身じろぎもせず、ただアイラムの話を全身で聞いている。
アイラムが続ける。
「この地は温泉が湧きますからね。いつ海底の熱が噴き上げてもおかしくはありません」
「ねえ、アイラム」イェロードは怖くなって云った。ここは保養地などではない。「それならここは危険だよ。早く逃げなくちゃ!」
「大丈夫ですよ、坊っちゃん」アイラムはそっとイェロードの手を取った。皴の深く刻まれた老いた手だが、その温かさがイェロードの手をなだめる。そしてアイラムが云った。「エボーイ・オワノニーカム」
「シュード……」
無意識のうちにイェロードはこう応えた。
「それでいいのです。坊っちゃんはノクナードの神のご加護があるのです」
イェロードはアイラムの言葉に驚いた。
——ノクナード! ノクナードの神!
そのときイェロードの脳裏に拷問部屋での記憶がよみがえった。
一糸まとわぬ姿で鎖に縛られ、鞭を打たれていたシュード……。
身動きの取れない状態でペニスを火で炙られていたシュード……。
その業火に包まれたペニスで経典を燃やされるのに耐えていたシュード……。
あのおぞましい辱めのなかで、
「ノクナードよ!」
シュードは祈るかのように神の名を呼び、そして耳をつんざくような叫びとともに精を放った。……
「どうされました、坊っちゃん?」
とアイラムが心配そうに云った。
「あ……。ううん。何でもない」イェロードは何故だかわからないが、あの拷問のことをアイラムに云ってはいけないような気がした。「でもぼくは……アラディーム王国の王家の血を引いているし、異教徒の神がぼくを護ってくださるのかなって」
「まあまあ。そんなことを」アイラムが微笑んだ。「幸い坊っちゃんは、王族の方々とは違うものを召し上がってこられました。離れでフーシェが作るものを食べ、わたしが薬草を飲ませ……ですからニナクを信仰する者たちの、あの忌まわしい穢れた血など一滴も坊っちゃんのなかには流れていないのですよ」
イェロードは首を傾げた。アイラムの話をつなげると、彼女はヴォワーダ王国の生き残りではないだろうか。彼女だけではない。フーシェもエジーランも、そして……シュードも!
「アイラム、あのね」
イェロードは、アイラムにそのことを尋ねようとした。と同時にイェロードの目に入ったものがあった。離れの部屋から少し離れた断崖だった。
「あ」
断崖の端に立たされているのは、衣服を剥ぎ取られ、後ろ手に縛られているふたりの男たち。そしてその後ろには修道士たちがいる。全裸の男たちは海に突き落とされようとしているのだった。イェロードは、袖のなかに隠し入れた腰布を思い出した。そして男たちの背格好……。
——ソルブと少年奴隷だ!
その光景にアイラムも気づいたようだった。声を押し殺すようにして、イェロードにこう云った。
「ご安心ください。彼らはわたしたちと同じ『海の民』……。海のなかにいれば、ノクナードの神が護ってくださいます」
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