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第九章 帆舟を出す夜
4 主のいない館
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海鳴りが聞こえたのは、離れがすっかり焼け落ちたのとほぼ同時だった。その轟という大きな響きに、ローエたちの歓声はかき消されてしまった。それでも暗がりに泛びあがる彼らの身振りから、何か偉業を成しとげたような興奮に包まれているのが、イェロードにも感じられた。
「そろそろだな」愉快そうな声でシュードが呟いた。そして窓の外を眺めているイェロードの肩に手を置いて、
「よく見ておくがいい」
「あっ!」
イェロードは思わず声をあげ、そして固まってしまった。
シュードが続けた。「あれが神をも畏れぬ愚かな民の末路だ」
離れがあったところが、音もなくゆっくりと沈んでゆく。それはちょうど崖が崩れているかのようだった。慌てふためくローエたちが館に戻ろうとする。しかし時すでに遅し。館への渡り廊下にたどり着くまえに、彼らもろともすべて海へと落ちていった。
「イェロード、館に戻るぞ」
「……」
シュードに促されたが、イェロードは目の前の出来事に驚くばかりで動けなかった。
——もしギーフと入れかわっていなかったら……。
考えただけでも怖ろしい。
「イェロード、行くぞ。館にいる者たちに岬の聖堂へ行くように伝えなければな」
半ば抱えられるようにしてイェロードは小屋を出た。脚がふらついて上手く歩けない。前を進むシュードの腰に両腕を巻きつけ、しっかりと抱きつきながらようよう館のなかへと這入った。
——回廊には誰もいなかった。
「ねえ、シュード。みんな逃げたのかな?」イェロードは恐る恐るこう口にしたが、すぐにそうではないことに気づいた。「でもあのとき、何の音もしなかったよね?」
離れが崩れおちたとき、海鳴りが大きく響いただけだった。それにあの場にいた者たちはみんな海の藻屑と消えてしまった。誰一人助けを求めに館に戻るものはいなかったのだ。だから、まさかあんな惨事があったとは、館のなかにいる者たちが知るよしもなかった。
シュードが立止った。そして顔だけをイェロードに向けて、
「耳を澄ませてみろ。聞こえないか?」
行く手の少し先に、回廊を挟むようにして、左右に扉が三つずつ並んでいる。この館に来たとき、家政婦長から「この先は女の使用人たちの部屋でございます。殿下はくれぐれもお近づきになりませぬよう」と云われていたのをイェロードは思い出した。
「聞こえぬのなら、扉を開けてみてもいいぞ」
シュードはこう云ったが、イェロードはかぶりを振り、そして耳を澄ませた。微かに何かが聞こえる。それは女の笑い声だった。さらに耳を澄ませる。女の声に混じって、こんどは男の声も聞こえてきた。それは、騎士たちが剣を揮うときの勇ましい掛け声のようだった。
シュードが、くくっ、と笑った。何か含みのある調子だ。そしてすぐ手前にある左の扉に近づくと、
「なかを見るがいい」
と云って扉を軽く押した。鍵が掛かっていなかったらしく、ギィ、と軋む音を立てて扉が開いた。そしてなかを覗きこんで、「やはり思った通りだ。よほど薬が効いているらしい」
男と女の声が部屋から飛びだして回廊に流れた。
——薬だって? それにこの声は……。
イェロードは思わずシュードのもとへ駆けより、そして部屋のなかを見た。
「あっ……!」イェロードは目を疑った。
淡々とした調子でシュードが云った。「おまえの聖水は実に効き目がよい」
そこには全裸の男と女たちがいた。四人の女たちが笑いながら部屋じゅうをあちらこちらへと駈けまわっている。そのあとを男たちが——女たちよりもその数は多かった——追いまわしている。女たちが本気で逃げているのではないのは明らかだった。ただ戯れているのだ。その証拠に女たちは捕まったかと思うと男たちの屹立したペニスを手で愛撫し、男が気を許したすきに離れてまた疾りまわっている。
——薬……ぼくの聖水……? そういえば!
イェロードは、食事を了えたギーフたちが淫蕩の限りを尽くしていたこと、そして部屋を訪れた騎士たちが男同士で快楽を貪りあいはじめたのを思い出した。
「毒見部屋の女たちだ」シュードが云った。イェロードの狼狽など気にしていないようだった。「あの金いろの長い髪の女がエレインだ」
「エレイン?」
「覚えているだろう? おまえの道具に興味津々だった女だ」シュードが愉快気に云う。「おまえも仲間に加わらないか? 俺が手ほどきをしてやってもいいぞ」
手ほどき!
その言葉にイェロードはさっと身を引いた。シュードの背中に隠れ、そのたくましい腰に両腕を巻きつけて、これ以上何も見ないように顔を背中に着けた。
「主がいなければ、守衛の男たちもすることがなかろう」シュードがイェロードの腕を腰からさっと解いた。「ほかの部屋はどうかな」
そして残りの扉を、ひとつひとつ開けていった。
「そろそろだな」愉快そうな声でシュードが呟いた。そして窓の外を眺めているイェロードの肩に手を置いて、
「よく見ておくがいい」
「あっ!」
イェロードは思わず声をあげ、そして固まってしまった。
シュードが続けた。「あれが神をも畏れぬ愚かな民の末路だ」
離れがあったところが、音もなくゆっくりと沈んでゆく。それはちょうど崖が崩れているかのようだった。慌てふためくローエたちが館に戻ろうとする。しかし時すでに遅し。館への渡り廊下にたどり着くまえに、彼らもろともすべて海へと落ちていった。
「イェロード、館に戻るぞ」
「……」
シュードに促されたが、イェロードは目の前の出来事に驚くばかりで動けなかった。
——もしギーフと入れかわっていなかったら……。
考えただけでも怖ろしい。
「イェロード、行くぞ。館にいる者たちに岬の聖堂へ行くように伝えなければな」
半ば抱えられるようにしてイェロードは小屋を出た。脚がふらついて上手く歩けない。前を進むシュードの腰に両腕を巻きつけ、しっかりと抱きつきながらようよう館のなかへと這入った。
——回廊には誰もいなかった。
「ねえ、シュード。みんな逃げたのかな?」イェロードは恐る恐るこう口にしたが、すぐにそうではないことに気づいた。「でもあのとき、何の音もしなかったよね?」
離れが崩れおちたとき、海鳴りが大きく響いただけだった。それにあの場にいた者たちはみんな海の藻屑と消えてしまった。誰一人助けを求めに館に戻るものはいなかったのだ。だから、まさかあんな惨事があったとは、館のなかにいる者たちが知るよしもなかった。
シュードが立止った。そして顔だけをイェロードに向けて、
「耳を澄ませてみろ。聞こえないか?」
行く手の少し先に、回廊を挟むようにして、左右に扉が三つずつ並んでいる。この館に来たとき、家政婦長から「この先は女の使用人たちの部屋でございます。殿下はくれぐれもお近づきになりませぬよう」と云われていたのをイェロードは思い出した。
「聞こえぬのなら、扉を開けてみてもいいぞ」
シュードはこう云ったが、イェロードはかぶりを振り、そして耳を澄ませた。微かに何かが聞こえる。それは女の笑い声だった。さらに耳を澄ませる。女の声に混じって、こんどは男の声も聞こえてきた。それは、騎士たちが剣を揮うときの勇ましい掛け声のようだった。
シュードが、くくっ、と笑った。何か含みのある調子だ。そしてすぐ手前にある左の扉に近づくと、
「なかを見るがいい」
と云って扉を軽く押した。鍵が掛かっていなかったらしく、ギィ、と軋む音を立てて扉が開いた。そしてなかを覗きこんで、「やはり思った通りだ。よほど薬が効いているらしい」
男と女の声が部屋から飛びだして回廊に流れた。
——薬だって? それにこの声は……。
イェロードは思わずシュードのもとへ駆けより、そして部屋のなかを見た。
「あっ……!」イェロードは目を疑った。
淡々とした調子でシュードが云った。「おまえの聖水は実に効き目がよい」
そこには全裸の男と女たちがいた。四人の女たちが笑いながら部屋じゅうをあちらこちらへと駈けまわっている。そのあとを男たちが——女たちよりもその数は多かった——追いまわしている。女たちが本気で逃げているのではないのは明らかだった。ただ戯れているのだ。その証拠に女たちは捕まったかと思うと男たちの屹立したペニスを手で愛撫し、男が気を許したすきに離れてまた疾りまわっている。
——薬……ぼくの聖水……? そういえば!
イェロードは、食事を了えたギーフたちが淫蕩の限りを尽くしていたこと、そして部屋を訪れた騎士たちが男同士で快楽を貪りあいはじめたのを思い出した。
「毒見部屋の女たちだ」シュードが云った。イェロードの狼狽など気にしていないようだった。「あの金いろの長い髪の女がエレインだ」
「エレイン?」
「覚えているだろう? おまえの道具に興味津々だった女だ」シュードが愉快気に云う。「おまえも仲間に加わらないか? 俺が手ほどきをしてやってもいいぞ」
手ほどき!
その言葉にイェロードはさっと身を引いた。シュードの背中に隠れ、そのたくましい腰に両腕を巻きつけて、これ以上何も見ないように顔を背中に着けた。
「主がいなければ、守衛の男たちもすることがなかろう」シュードがイェロードの腕を腰からさっと解いた。「ほかの部屋はどうかな」
そして残りの扉を、ひとつひとつ開けていった。
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