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第七章 海嘯
5 ギーフの部屋
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イェロードとソルブは、修道士エークにつき従ってギーフの部屋へと続く廊下を進んだ。
後ろに転ばないよう気をつけながら、イェロードがカードワゴンを引いていると、突然背後でエークが、
「あらまあ……」
と云って、立止まる気配がした。「あなたたち、そこで止まりなさい」
イェロードは言葉がわからないことになっている。そこでソルブが異国の言葉で何かを云って、カートワゴンを自分のほうに引き寄せた。
どうしたのだろう、とイェロードは気になったが、カートワゴンの向うでソルブがさっと腰をおろしたので、慌てて同じようにした。頭巾の隙間からそっと覗こうにも、それが見つかったらエークに何を云われるかわからない。イェロードはこうべを垂れて凝っとした。
エークがイェロードの横に立った。ゆっくりと屈みこむ。イェロードは、益々身を固めた。
「奴隷の心得を教えてあげる」エークがイェロードに囁いた。「お客様の行動は、見て見ぬ振りよ。口外してはなりません。どんなに面白いものを目にしたとしてもね」
カートワゴンの向うでソルブがすらすらと異国の言葉に云いかえてゆく。「修道士様、続きをどうぞ」
「あら、気が利くのね。あなたが役に立つのは、寝台の上だけじゃなかったのね」
エークは、ついでイェロードの顔を両手で挟んで右に向けた。
頭巾の隙間から、男と女がギーフの部屋に向って歩く後ろ姿が見えた。男はナコシュで、非番の日用の平服を身にまとっていた。女は、その非番の騎士にエスコートされているらしい。大きなつばのある羽根帽子を被り、いろ鮮やかなドレスを身にまとっている。思いのほか長身なのは、おそらくドレスのスカートの下にヒールの高い靴を履いているからだろう。その証拠に女は、そろりそろりと危なっかしく歩いている。
——ギーフに高級娼婦をあてがおうとしているのかな?
——それともナコシュが女と交わるのを観ながら食事を?
——そういえば地下の拷問部屋で女奴隷たちと……こんどは部屋で?
様々な考えがイェロードの頭のなかで渦巻いた。
ナコシュと女がギーフの部屋に這入るのを見届けて、エークがイェロードの顔から手を放した。「さあ、ギーフ様のお部屋に行きましょう」
イェロードとソルブは立上がった。ギーフの部屋の前に着いた。エークが扉を三度ノックすると、ややあって扉が開き、それから男の声がした。
「おや、エーク殿」
声の主はナコシュだった。
「ナコシュ殿。奴隷たちがお食事をお持ちしていますが、お邪魔でしたでしょうか?」
ナコシュが意味ありげに、ははは、と笑って、
「冷めては勿体ない。それにしてもエーク殿は、お人が悪いですな」
「ナコシュ殿ほどでは……」エークも意味ありげに返した。「それでは運ばせましょう」
イェロードたちはギーフの部屋に這入った。ギーフは、その姿もいる気配もなかった。イェロードはカートワゴンを引きながら、寝室の隅にある扉を盗み見た。あの奥は湯屋だ。ギーフは恐らくあそこで身を清めているのだろう。さっきの着飾った女が、寝台の上で腹這いになって寛いでいるのが、天蓋越しに薄っすらと見えた。
「ナコシュ様、お食事はどちらに?」ソルブが訊いた。
「うむ……」窓辺にいたナコシュは、しばらく考えてから応えた。「寝台の近くにテーブルを移動させろ。脚側のほうが好い。画を鑑賞しながら食事をしよう」
「かしこまりました」
ソルブに促されてイェロードは、食事用のテーブルと椅子をちょうどフットベンチの手前に移動させ、それから手分けして料理を並べはじめた。
「そうだ。エーク殿」ナコシュが思いついたように云った。「ご一緒に食事でもどうですかな? なあに。殿下のお食事をほんの少し分けてもらえば、三人分になるでしょうから」
エークがくすっと笑って云った。「そうおっしゃるだろうと思っていました」
イェロードはドキリとした。今、自分の部屋には、恐らくシュードと少年奴隷がいるはずだ。もしエークがあの部屋に行けば、自分がいなくなっていることがバレてしまう。どうしようと思う間に、しかし無情にも配膳が了ってしまった。イェロードとソルブは、ひとまず壁際に移り、そこに腰をおろして待機した。
焦るイェロードをよそに、話はどんどん進んでゆく。
エークがナコシュに訊いた。
「ところで画は?」
「フィオナ」ナコシュは寝台の上で寛いでいる女に声を掛けた。「好きなほうを選ぶと好い」
イェロードは頭巾の隙間から寝台のほうを見た。フィオナと呼ばれた女がゆっくりと佇まいをなおしているところだった。彼女は顔を羽根扇で隠したまま横坐りになると、羽根扇の隙間からイェロードたちを眺め、イェロードを指差した。
エークが、ほほ、と笑った。
「さすがお目が高いこと。今朝、ご領主様が奴隷市場から買いつけてきたばかりの奴隷ですの。言葉がわからないので、どれだけ罵っても問題なくってよ」ひと息おいて、「尤も奴隷の身分ですから、口答えなんかさせませんけど……。ソルブ、画の準備をなさい。ちゃんと説明するのよ、奴隷の心得をね」
「かしこまりました」ソルブが応えた。
上掛けの擦れる音がして、フィオナが寝台から降りた。羽根扇で顔を隠しながら、足早にイェロードたちの反対側の壁にある化粧台の椅子に腰掛けた。
ソルブに促されてイェロードは立上がった。
エークが天蓋を支柱に括りつけながら、
「どんなポーズが好いかしらねえ……」
ソルブがイェロードにそっと耳打ちした。「飾り棚のすぐ上に、画のない額縁がある。今からそこに立って、おまえが夕食の画になるんだ」
後ろに転ばないよう気をつけながら、イェロードがカードワゴンを引いていると、突然背後でエークが、
「あらまあ……」
と云って、立止まる気配がした。「あなたたち、そこで止まりなさい」
イェロードは言葉がわからないことになっている。そこでソルブが異国の言葉で何かを云って、カートワゴンを自分のほうに引き寄せた。
どうしたのだろう、とイェロードは気になったが、カートワゴンの向うでソルブがさっと腰をおろしたので、慌てて同じようにした。頭巾の隙間からそっと覗こうにも、それが見つかったらエークに何を云われるかわからない。イェロードはこうべを垂れて凝っとした。
エークがイェロードの横に立った。ゆっくりと屈みこむ。イェロードは、益々身を固めた。
「奴隷の心得を教えてあげる」エークがイェロードに囁いた。「お客様の行動は、見て見ぬ振りよ。口外してはなりません。どんなに面白いものを目にしたとしてもね」
カートワゴンの向うでソルブがすらすらと異国の言葉に云いかえてゆく。「修道士様、続きをどうぞ」
「あら、気が利くのね。あなたが役に立つのは、寝台の上だけじゃなかったのね」
エークは、ついでイェロードの顔を両手で挟んで右に向けた。
頭巾の隙間から、男と女がギーフの部屋に向って歩く後ろ姿が見えた。男はナコシュで、非番の日用の平服を身にまとっていた。女は、その非番の騎士にエスコートされているらしい。大きなつばのある羽根帽子を被り、いろ鮮やかなドレスを身にまとっている。思いのほか長身なのは、おそらくドレスのスカートの下にヒールの高い靴を履いているからだろう。その証拠に女は、そろりそろりと危なっかしく歩いている。
——ギーフに高級娼婦をあてがおうとしているのかな?
——それともナコシュが女と交わるのを観ながら食事を?
——そういえば地下の拷問部屋で女奴隷たちと……こんどは部屋で?
様々な考えがイェロードの頭のなかで渦巻いた。
ナコシュと女がギーフの部屋に這入るのを見届けて、エークがイェロードの顔から手を放した。「さあ、ギーフ様のお部屋に行きましょう」
イェロードとソルブは立上がった。ギーフの部屋の前に着いた。エークが扉を三度ノックすると、ややあって扉が開き、それから男の声がした。
「おや、エーク殿」
声の主はナコシュだった。
「ナコシュ殿。奴隷たちがお食事をお持ちしていますが、お邪魔でしたでしょうか?」
ナコシュが意味ありげに、ははは、と笑って、
「冷めては勿体ない。それにしてもエーク殿は、お人が悪いですな」
「ナコシュ殿ほどでは……」エークも意味ありげに返した。「それでは運ばせましょう」
イェロードたちはギーフの部屋に這入った。ギーフは、その姿もいる気配もなかった。イェロードはカートワゴンを引きながら、寝室の隅にある扉を盗み見た。あの奥は湯屋だ。ギーフは恐らくあそこで身を清めているのだろう。さっきの着飾った女が、寝台の上で腹這いになって寛いでいるのが、天蓋越しに薄っすらと見えた。
「ナコシュ様、お食事はどちらに?」ソルブが訊いた。
「うむ……」窓辺にいたナコシュは、しばらく考えてから応えた。「寝台の近くにテーブルを移動させろ。脚側のほうが好い。画を鑑賞しながら食事をしよう」
「かしこまりました」
ソルブに促されてイェロードは、食事用のテーブルと椅子をちょうどフットベンチの手前に移動させ、それから手分けして料理を並べはじめた。
「そうだ。エーク殿」ナコシュが思いついたように云った。「ご一緒に食事でもどうですかな? なあに。殿下のお食事をほんの少し分けてもらえば、三人分になるでしょうから」
エークがくすっと笑って云った。「そうおっしゃるだろうと思っていました」
イェロードはドキリとした。今、自分の部屋には、恐らくシュードと少年奴隷がいるはずだ。もしエークがあの部屋に行けば、自分がいなくなっていることがバレてしまう。どうしようと思う間に、しかし無情にも配膳が了ってしまった。イェロードとソルブは、ひとまず壁際に移り、そこに腰をおろして待機した。
焦るイェロードをよそに、話はどんどん進んでゆく。
エークがナコシュに訊いた。
「ところで画は?」
「フィオナ」ナコシュは寝台の上で寛いでいる女に声を掛けた。「好きなほうを選ぶと好い」
イェロードは頭巾の隙間から寝台のほうを見た。フィオナと呼ばれた女がゆっくりと佇まいをなおしているところだった。彼女は顔を羽根扇で隠したまま横坐りになると、羽根扇の隙間からイェロードたちを眺め、イェロードを指差した。
エークが、ほほ、と笑った。
「さすがお目が高いこと。今朝、ご領主様が奴隷市場から買いつけてきたばかりの奴隷ですの。言葉がわからないので、どれだけ罵っても問題なくってよ」ひと息おいて、「尤も奴隷の身分ですから、口答えなんかさせませんけど……。ソルブ、画の準備をなさい。ちゃんと説明するのよ、奴隷の心得をね」
「かしこまりました」ソルブが応えた。
上掛けの擦れる音がして、フィオナが寝台から降りた。羽根扇で顔を隠しながら、足早にイェロードたちの反対側の壁にある化粧台の椅子に腰掛けた。
ソルブに促されてイェロードは立上がった。
エークが天蓋を支柱に括りつけながら、
「どんなポーズが好いかしらねえ……」
ソルブがイェロードにそっと耳打ちした。「飾り棚のすぐ上に、画のない額縁がある。今からそこに立って、おまえが夕食の画になるんだ」
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