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第三章 親分の長い非番日 ※【地雷:男女恋愛】

危険なハグ

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 素描の時間が了わった。
 小雪が御手洗いに行っているあいだに、健悟は『CLOSED』のスタンドを脇に避けて、カウンター席にもどった。
 カウンターのうえには閉じられたスケッチブックがおかれている。小雪は、まだ素描だから見ないでほしい、と云って席を立ったが、それならばバッグに入れてから御手洗いに行くのが筋ではないか? 健悟は、どうしたものかと頸を捻った。
 小雪から見た自分は、どんな姿をしているのだろう。イタリアで見たあのヘーラなんとかの頸のうえに自分の顔が乗っているのだろうか。だとすれば、その彫像の頸からしたはどうなっているのか。
 健悟はますます気になった。
 ちょっとだけなら……。いや、試されているのかもしれない。約束を破れば。好い感じですすんでいる今の状況が台無しになってしまうだろう。
 ――今日描いたのは、顔だけだったろ。
 相棒が呆れたように語りかける。
 ――そうだったな。俺と小雪のベッドシーンを描いたのは、俺の頭のなかだった。
 健悟は、小雪との約束を守ることにした。
 窓の外の待機住居に目を移す。あの若い恋人たちの部屋は、まだカーテンが閉まったままだ。他の部屋のベランダもひっそりとしている。
「よっぽど素敵な想い出が詰まっているんですね。親分さん」
 突然、小雪が背後から声をかけてきた。
「まあな」健悟は短く云った。そして小雪に助言をした。「それより、此処から電話したら、萬屋がこのコンビニに入り浸るかも知れない。したに降りてモーニングコールをしてやるんだ」
「そのつもりです。此処は、親分さんの指定席ですもんね」小雪は柔らかくて応えた。「わたし、先にしたに降りています」
「おう。じゃあ、トレーは俺が片付けておくからな」
「お願いしても好いですか? それじゃあ、またあとで」
 小雪は、スケッチブックをバッグに入れて階段を降りていった。
 またあとで……。
 健悟は、その言葉の意味を瞬時に理解した。

「もう。聞いてくださいよ、親分さん」
 ふくれっ面でも可愛い女は可愛い。健悟はなだめるように云った。
「云わなくてもわかるが、いちおう聞こう。どうした」
「萬屋さん、電話に出ないんです」
 図星だった。まったく迷惑な女だ。小雪に朝っぱらから見張りをさせておいて、自分はのうのうと昼過ぎまで寝ている。
「きっとまだ寝てるんだろうな。お肌のために」
 健悟がため息を吐いたのと、小雪が欠伸をしたのは、ほぼ同時だった。
「欠伸って伝染しないんですね。親分さん、しっかり起きてる」小雪は笑った。
「ところで小雪。おまえ、家近いのか? 俺ん家はすぐ其処だから、ちょっと立ち寄れば車で送ってやれるんだが」
「わたしもこの近くなんです。歩いて五分くらいかな」
「危ないから家まで送ってやるよ」
 健悟は、ごく自然に小雪を家まで送り届けることになった。右手で背広を肩にかけ、左手に革鞄を下げている。小雪は健悟の左にいて、半歩うしろをついてくる。普段、健悟は歩くペースよりもゆっくりとしているが、その分、小雪と一緒にいる時間が長くなる。
「親分さん、あの横断歩道を渡るんですけど、親分さんの家から遠くなりませんか?」
 小雪が数メートル先の横断歩道を指さした。
「いや、同じ方向だ」
 健悟は嘘をついた。此処で別れるわけにはいかない。とりあえず今日のところは、無事に家のまえまで送り届けてやろう。それにしても眠そうだ。健悟は、左手に下げた革鞄がじゃまだと気づいた。コイツを右手に持ちなおせば、フリーになった左腕に、小雪がつかまるかも知れない。
 健悟が信号機の柱の近くで右手に革鞄を移した瞬間、背後から自転車のベルの音が聞こえた。ふり向くと数台のママチャリが全速力でこちらに突進していた。
「小雪、危ない!」
 健悟はとっさの行動に出た。フリーになった左腕で小雪の腰を抱いて自分に引き寄せた。そのままひょいと持ちあげて回転し、小雪を柱を背に立たせる。同時に頭のうしろには革鞄をクッション代わりに挟みこんだ。小雪の頭上で柱についた右手の背広が、ふたりの上半身を覆ってカバーしている。肩幅より大きく開いた両脚が小雪を左右から包みこんでいる。健悟は、こうして全身で彼女を守る盾になったのだった。
 ちょっと待て。
 暗がりのなかで、健悟は気づいた。鳩尾あたりまで胸元がはだけていて、そこに小雪が頬を埋めている。健悟が抱きあげた瞬間、彼女はどうやら何かにつかまろうとして、シャツをつかんだようだ。その拍子にボタンが弾け飛んだらしい。自分は今、裸かの胸で小雪を抱きしめている。そう気づいたとき、全身の血液が、相棒に一気に流れこんだ。
 ――おい、健悟。小雪の腹にあたってるぞ。
 ――うるせえ。今はそれどころじゃない。
 ――変なこと考えるな。
 ――生理現象だ!
 健悟は、ママチャリのベルの音が通りすぎるのを待った。
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