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第三章 親分の長い非番日 ※【地雷:男女恋愛】
親分、小雪の素描(デッサン)モデルになる(中編)
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「へえ。ちょっと描いただけでも、案外かわるもんなんだな」
小雪がバッグから取りだした手鏡に顔を映しながら、健悟は云った。感心したように云ってはみるものの、正直、何処がどうかわったのかは、わからない。ただ手鏡に向って、あれこれと顔を作ってみるだけだ。
「少し彫りが深くなったと思うんですけど、どうですか?」小雪が訊いた。どう応えるのが正解なのか、予め教えてくれているような口ぶりだ。
「なるほど。眼力が強くなったようだ」眉間に皴を寄せながら云う。
「正解!」小雪が嬉しそうに云って、ふんわりとした笑みを泛べる。
まったく……好い女だ。健悟は、頭を撫でてやりたくなった。ふと周囲を見まわす。イートインコーナーはふたりだけだった。パテーションで遮られているので、イートインコーナーの入口からこのカウンターは見えないが、ほかに利用客がいてもふしぎではない時間帯だ。それなのに今日に限って、人の気配がまったくしない。くそっ。キスぐらいしておくんだった。健悟は後悔した。
「あっ」
そのとき小雪が小声で叫んだ。
「どうした?」
「ほら。あそこ……」
健悟が新人時代を過ごした部屋のベランダで、女が洗濯物を干していた。今の部屋の主は、昨夜、浴室で消防体操をやらされたと愚痴っていた新人だ。もう何度も見ている光景だが、健悟は本人には何も云わず見戍っている。
「親分さんの部屋って、あそこでしたよね?」小雪が、いたずらっぽく笑った。
「表向きは部外者立入り禁止なんだが、もうそんな時代じゃない」健悟は、温かみのある声で云った。
「見て見ぬふりをしているんですね」
「ああ――」
そこへ新人隊員がベランダに出てきた。
「口出しするのは野暮だからな」
健悟と小雪は、ベランダを眺めつづけた。そこでは若い恋人たちが、ベランダの欄干に凭れて顔を寄せあい、何やら会話していた。遠くから見ても仲睦まじいのが、わかるほどだった。
あんなこともあったな……。健悟は新人の頃を思い出した。今、隣りにいる小雪が、あのとき隣りにいたら、どうなっていただろう。健悟は、横目で小雪を見た。小雪は、ベランダの恋人たちを、凝っと見つめていた。
やがてベランダのふたりが部屋にあがり、カーテンが閉じられた。しばらくすると、赤いキャップを被った若い男がアパートのしたに出てきて、周囲をきょろきょろと確認し、うしろに向って手招きをした。すると物陰から若い女が現れて駆け寄った。彼らはもう一度左右を確認して、足早に何処かへ疾っていった。
小雪が、ぽつりと呟いた。
「親分さんも、あんな感じだったんですね」
「あん?」健悟は小雪の顔を見た。「俺の時代は、あんなことできなかったぞ」誰もいなくなった部屋に、もう一度、目を向けた。
「だって懐かしそうに見ていたじゃないですか」
しまった。健悟は口をつぐんだ。もう何も云わないほうが好いようだ。
小雪が続けた。
「だから見て見ぬふりをしてあげているんですよね」もう一度、念を押すように云った。
まいった。
女の勘はとても鋭い。それもナイフのように。突きつけられた男の選択肢は、ふたつにひとつだ。グサリと刺されるまえに逃げる。もしくは白旗をあげて降参する。
「さてと」健悟は、のっそりと立上った。「今からこの顔、見せてくるとするか。どんな反応がかえってくるか楽しみだ」
「ちょっと、親分さん」小雪が引きとめた。「さっき『口出しするのは野暮だ』って」
「したのバイトの兄ちゃんにだよ」健悟は屈託なく笑った。「それとアイスでも喰わないか? 男をあげてくれたお礼だ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
小雪は、一度では覚えられないアイスクリームの名を告げた。
健悟は、とりあえず期間限定のバニラアイスだとだけ理解した。
小雪がバッグから取りだした手鏡に顔を映しながら、健悟は云った。感心したように云ってはみるものの、正直、何処がどうかわったのかは、わからない。ただ手鏡に向って、あれこれと顔を作ってみるだけだ。
「少し彫りが深くなったと思うんですけど、どうですか?」小雪が訊いた。どう応えるのが正解なのか、予め教えてくれているような口ぶりだ。
「なるほど。眼力が強くなったようだ」眉間に皴を寄せながら云う。
「正解!」小雪が嬉しそうに云って、ふんわりとした笑みを泛べる。
まったく……好い女だ。健悟は、頭を撫でてやりたくなった。ふと周囲を見まわす。イートインコーナーはふたりだけだった。パテーションで遮られているので、イートインコーナーの入口からこのカウンターは見えないが、ほかに利用客がいてもふしぎではない時間帯だ。それなのに今日に限って、人の気配がまったくしない。くそっ。キスぐらいしておくんだった。健悟は後悔した。
「あっ」
そのとき小雪が小声で叫んだ。
「どうした?」
「ほら。あそこ……」
健悟が新人時代を過ごした部屋のベランダで、女が洗濯物を干していた。今の部屋の主は、昨夜、浴室で消防体操をやらされたと愚痴っていた新人だ。もう何度も見ている光景だが、健悟は本人には何も云わず見戍っている。
「親分さんの部屋って、あそこでしたよね?」小雪が、いたずらっぽく笑った。
「表向きは部外者立入り禁止なんだが、もうそんな時代じゃない」健悟は、温かみのある声で云った。
「見て見ぬふりをしているんですね」
「ああ――」
そこへ新人隊員がベランダに出てきた。
「口出しするのは野暮だからな」
健悟と小雪は、ベランダを眺めつづけた。そこでは若い恋人たちが、ベランダの欄干に凭れて顔を寄せあい、何やら会話していた。遠くから見ても仲睦まじいのが、わかるほどだった。
あんなこともあったな……。健悟は新人の頃を思い出した。今、隣りにいる小雪が、あのとき隣りにいたら、どうなっていただろう。健悟は、横目で小雪を見た。小雪は、ベランダの恋人たちを、凝っと見つめていた。
やがてベランダのふたりが部屋にあがり、カーテンが閉じられた。しばらくすると、赤いキャップを被った若い男がアパートのしたに出てきて、周囲をきょろきょろと確認し、うしろに向って手招きをした。すると物陰から若い女が現れて駆け寄った。彼らはもう一度左右を確認して、足早に何処かへ疾っていった。
小雪が、ぽつりと呟いた。
「親分さんも、あんな感じだったんですね」
「あん?」健悟は小雪の顔を見た。「俺の時代は、あんなことできなかったぞ」誰もいなくなった部屋に、もう一度、目を向けた。
「だって懐かしそうに見ていたじゃないですか」
しまった。健悟は口をつぐんだ。もう何も云わないほうが好いようだ。
小雪が続けた。
「だから見て見ぬふりをしてあげているんですよね」もう一度、念を押すように云った。
まいった。
女の勘はとても鋭い。それもナイフのように。突きつけられた男の選択肢は、ふたつにひとつだ。グサリと刺されるまえに逃げる。もしくは白旗をあげて降参する。
「さてと」健悟は、のっそりと立上った。「今からこの顔、見せてくるとするか。どんな反応がかえってくるか楽しみだ」
「ちょっと、親分さん」小雪が引きとめた。「さっき『口出しするのは野暮だ』って」
「したのバイトの兄ちゃんにだよ」健悟は屈託なく笑った。「それとアイスでも喰わないか? 男をあげてくれたお礼だ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
小雪は、一度では覚えられないアイスクリームの名を告げた。
健悟は、とりあえず期間限定のバニラアイスだとだけ理解した。
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