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第三章 親分の長い非番日 ※【地雷:男女恋愛】

親分、小雪の素描(デッサン)モデルになる(上編)

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「今からおまえは、くノ一小雪だ」
 小雪が頷くと、健悟は顔をほころばせた。
「もう帰っても好いんじゃないか? あの待機宿舎には柳川はいないんだし、俺の当番日にしか来ないんだから此処で待ってても成果はないぞ」いたわるように云った。
 小雪がかぶりをふった。
「正午に萬屋さんに電話することになっているんです。ビデオ通話で待機宿舎の映像を送って――」
「実況中継か」
「はい」
 ふたりは同時にため息を吐き、それから同時にコーヒーを口にした。しばらく沈黙が流れた。
「あっ、そうだ。親分さん。ひとつお願いが……」
 小雪が口を開いた。小雪のなら大歓迎だ。
素描デッサンのモデルになってもらえませんか?」
 小雪は壁側においていたバッグから、いそいそとスケッチブックとペンケースを取り出した。
 モデル? この俺が? それは面白い。どうせならベッドルームでヌードを描いてもらいたいが、小雪を独占できるのなら此処でモデルになるのも悪くはない。正午まで一緒にいる口実にもなる。
 健悟は目線で承諾して、それから小雪に訊いた。「そう云えば、おまえ、美大卒だったな」低くささやく。なるべくセクシーに響くように。「でもなんで消防職員に?」
「父が公務員なんですけれど、大学は好きなところに行かせてやるから就職は公務員にしろって」
「親父さん、厳しかったのか?」
「高校まで門限は六時半だったんです」小雪はスケッチブックをめくって、まっさらなページを開いた。洗いたてのベッドシーツのような真っ白ないろをしていた。「美大のときにやっと八時に延長されて……」
 小雪は、手をとめて、ため息を吐いた。
「大事に育てられたってわけだ」健悟は云った。
「そうですね。今思えば父の気持ちもわかります」
 小雪のような娘を持った父親なら、厳しくなるのもわかる気がする。変な虫がウヨウヨ寄ってくるのは火を見るより明らかだ。
「消防職員の試験を受けたのは、父の影響です。『国家公務員より地方公務員のほうが好いぞ』って」
「ほう。なるほど」
 小雪は、ペンケースのペンシルを一本一本取りだしては吟味しはじめた。ペンシルを選ぶ顔つきは真剣そのもので、小雪は健悟の目交まなかいに芸術家の卵の姿を現した。健悟は、小雪の新たな一面に、ただ見惚れるだけだった。
「これかな」小雪は数本あるペンシルのなかから一本取りだした。
「どれも同じに見えるけど、違うのか?」
「太さとか濃さとか、いろいろあるんです。親分さん用は、やっぱりこれ」
 見たところ、ほかのペンシルよりも短くて、使いこんでいるようだった。
「これ、眉ペンシルにもなるんですよ。わたしも眉のメイクはこれで。百円ちょっとなんで気兼ねなく使えるんです」小雪は、お気に入りの玩具を自慢する幼子のように、声を弾ませた。
「化粧品も高けりゃ好いってもんじゃないんだな」健悟は、しみじみと云った。「男にはわからない世界だ」
「最近は男性もメイクするんですよ」小雪は、ふふっ、と笑い、そして遠慮がちに云った。「親分さん、眉だけでも試してみませんか?」
 据え膳喰わぬは男の恥だ。「おう。じゃあ頼む。男っぷりをあげてくれ」健悟は、唇を奪おうとするかのように頸を傾げ、顔をぬっと押しだして、目を閉じた。
 さあ、小雪。どうする? 誘ったのは、おまえだぞ。
 ややあって、右の頬から顎にかけて、小雪の手が添えられた。柔らかくて温かい。無精ひげがこすられているのは、小雪の手がふるえているからだろう。
「こそばゆくても動かないでくださいね。眉頭にちょっと描き足すだけですから」
 左の眉頭にペンシルの先がそっとおかれた。心地よい圧が加えられながら、すっすっと線が一本一本疾るのが感じられる。ここで目を開けたら、小雪のやつ、どんな顔をするだろう。いや、驚かせてはいけない。このままっとしていて、危険な男じゃないってことをわかってもらうのが正解だ。唇を奪うのは別の機会にとっておこう。
「ちょっとぼかしますね」
 小雪の指の腹が眉頭に乗せられた。さらさらと優しくこすられる。疲れているせいか、マッサージを受けているようだ。いや、これは愛撫だ。
 ――健悟、脚を閉じろ。これ以上はマズい。
 そのとき相棒が訴えかけてきた。かなり焦っている。
 ――あん? 生理現象だ。気にすんな。
 ――小雪が俺に気づいたらどうする。
 ――そんときは、そんときだ。
 相棒は、我慢しつづけようとした。しかし無駄な抵抗だった。
 小雪は、描いてはこすり描いてはこすりを、くり返した。
「はい。じゃあ反対側も」
 小雪の手がはなれた。健悟は、坐りなおそうとして巨軀をゆらし、こんどは小雪のなかに深く潜りこむように、ぐっと顔を突きだした。
「親分さん、っとしていてくださいってば」小雪が戸惑い混じりの声で、そっとたしなめた。
「おう。わかった」息の混じった、かすれ声で応え、巨軀をゆっくり引きぬいた。
「はい。この位置」小雪の両手が健悟の頬を挟み、傾げた頸を真っ直ぐに固定した。
 そのままっとしていると、眉頭のうえにペンシルの先がおかれた。引っ掻く。撫でる。引っ掻く。撫でる。裸かの背中に爪を立てる小雪の姿が泛んでは消える……。
「なあ、小雪。その鉛筆で、俺の背中に龍とか観音様なんかも描けるのか?」
 健悟は、ふざけて訊いた。
 小雪の手がとまった。
 健悟は小雪の反応をしばらく楽しんでから、
「でも背中じゃ、俺から見えないか。ピカソみたいなの描かれても困るしな」
「ピカソだって、写実的な画を描いているんですよ」小雪は、さらに数度ペンシルを疾らせ、指の腹でこすった。「はい。できました」
 目を開けると、小雪が作品の出来に満足しているような顔をしていた。
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