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第六章 破戒
6 連れモク
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「さあ、連れモクだ。康太、ついてこい」
と勝利が云った。
「ここでですか?」康太が真顔で訊いた。この部屋にはベランダがない。ソファに目をやって、
「直に坐るのもあれだし……」
「上に行くんだよ。ベランダよりももっと広いぞ」
と云って勝利が顔を右に向けた。大型テレビから右に少し離れたところにドアがある。
「この部屋って二階もあるんですか?」康太は目を丸くした。
「ここは五階だから、正確には六階だな」
勝利がドアを開けた。と同時にドアの向うで照明が点いた。康太は勝利に尻をペチンと叩かれて、先に入った。
目の前の壁には円形の照明が取り付けられている。月のように柔らかな光が招くように康太を照らしている。昇り階段は左手にあった。大人ふたり分ぐらいの広さで、康太はベランダ部分がそのまま階段になっているのだと思った。
ふと右に目を向けるとまたドアがある。三和土もあって、ちょうど自分が立っているところが小上がりになっていた。
「もうひとつドアがあるんですね」と康太が云った。
「このドアから直接上に行けるんだ」と云って背後から勝利が入ってきた。それもタックルされそうな勢いだ。さっと身構えた康太をよそに、「リビングまで移動しなくてもいいようにな。さ、上がった上がった」
階段をあがると広い部屋が現れた。照明が点いていないので薄暗かったが、康太には大樹と使っている401号室と同じ間取のように見えた。右手にはベランダがある。奥行も同じぐらいだろうか。
「上がった上がった」背後から勝利が云った。「照明を点けるぞ。腰を抜かすなよ」
室内が明るくなった。康太は奥に進み、周囲をゆっくりと見まわした。
「うわあ。こんなに広いんだ……」
大樹と一緒に使っている401号室と間取りは同じようだが、就寝スペースと団らんスペースを分ける仕切りがないので、広々としている。ここは普段使っていないらしく、置いてあるものと云えば、体操部が使うようなウレタンマットがひとつと、康太の背丈ほどの姿見がひとつ、そして大きな段ボール箱がひとつぐらいだ。
「どうだ、康太?」左隣りに勝利が立った。裸かの腰を康太の腰に一度ぶつけて、「奥にあるのはトイレと洗面所と浴室だ」
「あれってクローゼットじゃないんですか?」康太は勝利の顔を見た。
「特に浴室はおまえらの部屋より広いんだぞ」
と云って勝利は左側のカーテンのあるほうに向っていった。ここが401号室なら、カーテンの向こうは武志たちの使っている402号室ということになる。
「さあ、連れモクだ」勝利がカーテンを開いた。
「あっ!」康太は愕いた。
「このベランダは、猪小屋と同じ広さなんだ」
勝利はサッシを開け、ラグビーのピッチに向かうかのように颯爽と駈けだした。そして奥のほうまで行って、ふり返り、左肘を手すりに引っ掛けると、右手を掲げて康太を呼んだ。
「大野先輩、今行きます!」
康太も駈けた。柔らかい人工芝の感触が素足に心地いい。康太は盗塁のときよりもスピードが上がったような気がした。
「よおし。じゃあ連れモクだ」
勝利が巾着袋のなかからジッポと携帯灰皿を取りだして康太に手渡した。康太が携帯灰皿を足許に置き、いつでも火を点けられるようにジッポを構えると、勝利は巾着袋から煙草を取りだし、一本口に銜えた。そして両肘を手すりにかけ、康太に向かって軽く顎をしゃくった。
康太は手にしたジッポをカチリと鳴らした。風よけの左手で包むようにして勝利にゆっくりと近づける。「大野先輩、はいどうぞ」
勝利は煙草に火を灯すと大きく一度吸い、それから空に向かって悠々と煙を吐いた。
康太はその煙の行方を眺めていた。一条の煙が風に乗って広がりながら流れてゆく。煙は二度、三度と立ちのぼり、そして夜空に溶けていった。
「康太、灰皿」
「あ、はい」
康太が顔を下げると、勝利が右手をゆっくりと降ろしてゆくのが目に入った。すぐさま片膝立ちになって携帯灰皿を手に取る。煙草の先の赤い火の球を追って……。
「あ」
「どうした? オリエン合宿のとき見ただろ?」
赤い火の球がちょうど勝利のへその位置で止まっている。
「そ、そうでしたね」康太はドギマギしながら云った。「は……隼でしたっけ……」
「よく覚えているな。いいぞ、康太」勝利が快活に笑った。
康太は赤い球の近くまで携帯灰皿を持っていった。
——爽やかすぎるんだよな、大野先輩は……。
康太の視界のど真んなかで勝利の隼が優雅に羽根を広げている。オリエン合宿のときに見た隼と今目の前にしている隼が、康太の頭のなかで交互に入れ変わった。どちらの隼も、黒々とした艶のある翼を腰の位置まで広げ、大空から舞い降りようとしている。……
「もういいぞ、康太。おまえも立て」
「あ、はい」
康太が立上ると、勝利はくるりと回って康太に背を向け、
「灰皿」
と云って左手を差しだした。
康太は携帯灰皿を手渡し、ジッポは左手に握ったまま勝利の左脇に立って両肘を手すりに置いた。
勝利が一本目の煙草を吸いおえて、二本目を口に銜えた。「康太、火」
「はい」
康太は同じようにジッポの火を勝利の顔まで持っていった。勝利は少し顔を斜めに傾け、両目を閉じて火を灯した。その眉間に、ほんの少しだけ皴が寄る。
——これが男の色気ってやつかも……。
勝利はひと口吸って煙を夜空に放った。そして目線は夜空に向けたまま煙を薫らせ、低い声で、
「そう云えば、康太。おまえ……」
「何ンでしょうか」
「森とはうまくいっているか?」
「ええ、まあ」
康太はドキリとした。貫通式の話だろうか。
「おれが見た限りだと、まだまだだ。おまえのほうが、もう一皮剥けないとな」
「……」
「おまえ、森のこと何ンて呼んでる?」
「森先輩って呼んでます」
「だからか……」
勝利はひとり納得したかのように云うと、もうひと口吸って、長い煙を悠々と吐きだした。……
と勝利が云った。
「ここでですか?」康太が真顔で訊いた。この部屋にはベランダがない。ソファに目をやって、
「直に坐るのもあれだし……」
「上に行くんだよ。ベランダよりももっと広いぞ」
と云って勝利が顔を右に向けた。大型テレビから右に少し離れたところにドアがある。
「この部屋って二階もあるんですか?」康太は目を丸くした。
「ここは五階だから、正確には六階だな」
勝利がドアを開けた。と同時にドアの向うで照明が点いた。康太は勝利に尻をペチンと叩かれて、先に入った。
目の前の壁には円形の照明が取り付けられている。月のように柔らかな光が招くように康太を照らしている。昇り階段は左手にあった。大人ふたり分ぐらいの広さで、康太はベランダ部分がそのまま階段になっているのだと思った。
ふと右に目を向けるとまたドアがある。三和土もあって、ちょうど自分が立っているところが小上がりになっていた。
「もうひとつドアがあるんですね」と康太が云った。
「このドアから直接上に行けるんだ」と云って背後から勝利が入ってきた。それもタックルされそうな勢いだ。さっと身構えた康太をよそに、「リビングまで移動しなくてもいいようにな。さ、上がった上がった」
階段をあがると広い部屋が現れた。照明が点いていないので薄暗かったが、康太には大樹と使っている401号室と同じ間取のように見えた。右手にはベランダがある。奥行も同じぐらいだろうか。
「上がった上がった」背後から勝利が云った。「照明を点けるぞ。腰を抜かすなよ」
室内が明るくなった。康太は奥に進み、周囲をゆっくりと見まわした。
「うわあ。こんなに広いんだ……」
大樹と一緒に使っている401号室と間取りは同じようだが、就寝スペースと団らんスペースを分ける仕切りがないので、広々としている。ここは普段使っていないらしく、置いてあるものと云えば、体操部が使うようなウレタンマットがひとつと、康太の背丈ほどの姿見がひとつ、そして大きな段ボール箱がひとつぐらいだ。
「どうだ、康太?」左隣りに勝利が立った。裸かの腰を康太の腰に一度ぶつけて、「奥にあるのはトイレと洗面所と浴室だ」
「あれってクローゼットじゃないんですか?」康太は勝利の顔を見た。
「特に浴室はおまえらの部屋より広いんだぞ」
と云って勝利は左側のカーテンのあるほうに向っていった。ここが401号室なら、カーテンの向こうは武志たちの使っている402号室ということになる。
「さあ、連れモクだ」勝利がカーテンを開いた。
「あっ!」康太は愕いた。
「このベランダは、猪小屋と同じ広さなんだ」
勝利はサッシを開け、ラグビーのピッチに向かうかのように颯爽と駈けだした。そして奥のほうまで行って、ふり返り、左肘を手すりに引っ掛けると、右手を掲げて康太を呼んだ。
「大野先輩、今行きます!」
康太も駈けた。柔らかい人工芝の感触が素足に心地いい。康太は盗塁のときよりもスピードが上がったような気がした。
「よおし。じゃあ連れモクだ」
勝利が巾着袋のなかからジッポと携帯灰皿を取りだして康太に手渡した。康太が携帯灰皿を足許に置き、いつでも火を点けられるようにジッポを構えると、勝利は巾着袋から煙草を取りだし、一本口に銜えた。そして両肘を手すりにかけ、康太に向かって軽く顎をしゃくった。
康太は手にしたジッポをカチリと鳴らした。風よけの左手で包むようにして勝利にゆっくりと近づける。「大野先輩、はいどうぞ」
勝利は煙草に火を灯すと大きく一度吸い、それから空に向かって悠々と煙を吐いた。
康太はその煙の行方を眺めていた。一条の煙が風に乗って広がりながら流れてゆく。煙は二度、三度と立ちのぼり、そして夜空に溶けていった。
「康太、灰皿」
「あ、はい」
康太が顔を下げると、勝利が右手をゆっくりと降ろしてゆくのが目に入った。すぐさま片膝立ちになって携帯灰皿を手に取る。煙草の先の赤い火の球を追って……。
「あ」
「どうした? オリエン合宿のとき見ただろ?」
赤い火の球がちょうど勝利のへその位置で止まっている。
「そ、そうでしたね」康太はドギマギしながら云った。「は……隼でしたっけ……」
「よく覚えているな。いいぞ、康太」勝利が快活に笑った。
康太は赤い球の近くまで携帯灰皿を持っていった。
——爽やかすぎるんだよな、大野先輩は……。
康太の視界のど真んなかで勝利の隼が優雅に羽根を広げている。オリエン合宿のときに見た隼と今目の前にしている隼が、康太の頭のなかで交互に入れ変わった。どちらの隼も、黒々とした艶のある翼を腰の位置まで広げ、大空から舞い降りようとしている。……
「もういいぞ、康太。おまえも立て」
「あ、はい」
康太が立上ると、勝利はくるりと回って康太に背を向け、
「灰皿」
と云って左手を差しだした。
康太は携帯灰皿を手渡し、ジッポは左手に握ったまま勝利の左脇に立って両肘を手すりに置いた。
勝利が一本目の煙草を吸いおえて、二本目を口に銜えた。「康太、火」
「はい」
康太は同じようにジッポの火を勝利の顔まで持っていった。勝利は少し顔を斜めに傾け、両目を閉じて火を灯した。その眉間に、ほんの少しだけ皴が寄る。
——これが男の色気ってやつかも……。
勝利はひと口吸って煙を夜空に放った。そして目線は夜空に向けたまま煙を薫らせ、低い声で、
「そう云えば、康太。おまえ……」
「何ンでしょうか」
「森とはうまくいっているか?」
「ええ、まあ」
康太はドキリとした。貫通式の話だろうか。
「おれが見た限りだと、まだまだだ。おまえのほうが、もう一皮剥けないとな」
「……」
「おまえ、森のこと何ンて呼んでる?」
「森先輩って呼んでます」
「だからか……」
勝利はひとり納得したかのように云うと、もうひと口吸って、長い煙を悠々と吐きだした。……
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